桜子でーす

日々の感想や思いついた事柄を写真や文章に表しました。ビジュアルに表現出来ると嬉しいな!

8月7日は…

2013年08月07日 | 日記・エッセイ・コラム
8月7日(水)

今日は弟の誕生日。忘れずに『ハッピーバースデー』とお祝いを渡す。
私達も、歳をとったものだ。でも、時には子供の頃を思い出す。
あの頃は彼は可愛かったね。写真も彼は沢山撮ってもらっていた。
我が家では兄達二人が内地の学校へ進学していたから、女の中の一人の男の子と見られていた。

昭和20年8月、彼が小学校6年生の時、終戦になった。学童疎開で、確か『開城』と言う所へ集団で行っていた。
終戦の情報を逸早くキャッチした父兄が、子供達を迎えに行く。帰りの汽車で、日の丸と違った旗を見て驚いたと弟は言った。
韓国の旗だった。何と、逸早く、その旗が彼方此方に現れたのだ。

最近、38度線にあるケソン工業地帯の話題が出た。その時『開城』と言う漢字が出て来た。
あ、あの時、もう少しで、子供達はソ連軍につかまり、孤児になる所だったのだねと話題にしたものだ。
その『開城』がケソンだなんて、今まで、私は気がつかなかった。

良かったね!運良く、保護者達が僅かの差で迎えに行く事が出来たなんて、良かった、良かった!
彼は何も言わないけれど、覚えているだろうな。


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今日も、クレージーな暑さだ。
桃の枝を集めて、ごみに出す。相変わらず、虫除けスプレーのお世話になる。この虫除け、他の物より100円高かったが、よく効く事!それに爽やかだ。
でも、外は暑かった!毎日、外で働く人は大変だろうなと気の毒に思う。

姉が扇風機の扱い方が良く分からないと言う。
私は説明書を殆ど読まないうちに眠ってしまった。 
この説明書と言うのは、よく分からない文面で何時も困ってしまう。
だから、日頃、私は読まない事にしているけれど… 

しかし、姉の為には仕方が無い。お陰で、これ何の事?と言うのが二つ三つ分かって来た。
その中に『ピコ』と言うのがある。
やっと、分かった!やはりインターネットは便利だな!










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書きたくないけれど、書く

2013年08月07日 | 日記・エッセイ・コラム
8月?日(火)

御茶ノ水の予約は11時。少し、早めに出ようと思ったが、結局、受付時刻が11時きっかりになった。

S先生のお話は分かり易く、患者に不安を与えない。そこが先生の大きな魅力である。今日も、安心感を持って帰る事が出来た。

今朝は強い雨が一時的に降った。陽の当たる場所は全く暑い。
暑いと言えば、御茶ノ水駅から僅か2~3分で行けた目的地も、今では遠~いと感じる始末。

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朝、8時15分、広島の原子爆弾投下による犠牲者の御霊に黙祷を捧げる祭典が始まった。私も黙祷をする。今年で、広島は28万6818人の原爆死没者になると言う。
原爆投下から68年経ってしまった。現在の平和な時代を長生きして謳歌したはずの権利を、むげに奪われた人々の無念を思うと辛く、大きな憤りを感じる。
しかも、私と同年代の人達が若い命を失ったと聞くと、尚の事だ。

広島市長の『平和宣言』は素晴らしく訴える力があった。安倍総理大臣も出席したが、この祭典を十分に活かして、今後の広島、長崎への支援や、原発事故に繋がる私達の暮らしと安全を守るエネルギー政策の確立を勧めて欲しい。

私は毎年、8月を迎えると、何となく心が暗くなる。
戦争に繋がる悲しい、辛い思い出、そして、その後の自分自身の生活の大転換に繋がるからだ。
当時を経験した者は、後の世代に過去の歴史を残すべきだと言われても、この過酷な思い出はそう簡単に話せるものでは無い。

最近のテレビの予告を見ると、戦争の悲惨さを映画やドラマにしたものが発表されると言う。
正直に言うと、その様な番組は、もう見たくない。いや、私は絶対に見ないだろう。

終戦当時は、ましてや引き揚げる者にとっては何の情報もなかった時代だった。そうした中での原爆投下や沖縄の話題は、想像するしかなかったのだ。

昭和?年秋、引き揚げ列車の途中で見た広島の光景は、一人、二人ホームにポツンと立つ広島駅と鉄骨のドーム、それ以外は見渡す限りの荒れ果てた市内らしきものが広がっているだけだった。
そして、線路脇の小さな川だけは水が流れていた。草一本生えないだろうと噂されれていたのに、秋草が土手に生えていたのを見て不思議に思った。
そして、大勢の人々があの水を求めて飲みに来たのかな?と、痛ましい姿を想像するぐらいが関の山だった。

その様な思い出が、毎年、夏になると思い出される。
そして、私は仁川高等女学校の校地で蛸壺掘りをしていた…
それも、8月の思い出。戦争は終わったけれど嬉しくない思い出。
 
やはり、8月は辛い!!侘しい。





 



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