『勤務地シンガポール』

残りの人生どう生きるか迷い続けてこのまま終わってしまいそうです

遠き雪嶺馬穴を叩く鯰の尾 秋澤猛

2017年10月18日 | 俳句

 

 

遠き雪嶺馬穴を叩く鯰の尾   秋澤猛(昭和35年作)

 上記の句は、前回の記事「秋澤猛先生の思い出」で紹介した句集「自註現代俳句シリーズ・V期1 秋澤 猛集」の初めの句だ。読み方は「遠き雪嶺(とおきせつれい)馬穴(ばけつ)を叩く(たたく)鯰の尾(なまずのお)」。脇に「昭和35年作」とある。自註に、

「秋元不死男先生を迎え、酒田市の街川で投網漁をした。獲物の鯰の尾が馬穴を叩く音が寒かった。川上に鳥海山の雪嶺が聳えていた。」

 まず「昭和35年」という年に思いは飛ぶ。筆者が生まれる8年も前だ。酒田市は日本三大急流の一つである最上川の河口の街だが、自註にある「街川」とは、最上川のことではなく、おそらく市内を流れる「新井田川」のことだろう。新井田川は筆者の小学校当時学区内を流れる川でもあり、筆者もその時分はよくこの川で友達と釣りをした経験がある。当時すでに新井田川はお世辞にもきれいな川とは言えなかったが、昭和35年当時の新井田川は「投網漁」が行われるほど澄んだ川だったのではと思われる。

 新井田川は北から流れてきて母校酒田商業高校の野球グラウンドのところで大きく右に折れ、酒田の観光名所のひとつである山居倉庫の前を流れて日本海に注ぐ。その流れが曲がる所は良い漁場だったのか、子供の頃そこでイトヨというトゲウオ科の小さな魚を専用の網で取った事がある。昭和35年(1960年)、その日の投網漁はその辺りで行われたのではないだろうか。

 さて自註に「秋元不死男先生を迎え」とある。略歴に戻ると秋澤猛は「復員後、昭和27年から秋元不死男の「氷海」に参加。」とあるので、昭和35年に師の秋元不死男を酒田に迎えて、「氷海」の俳人らと句会を催したものと思われる。酒田在住で「氷海」参加の俳人にはどのような方々がいらしたかは、簡単な検索だけでは分からなかった。わずかに、「秋澤(秋沢)猛」、「吉田木底」、「齋藤愼爾」らの名前を見るのみであった。また氷海同人の「上田五千石」がその時の吟行に同行していたかどうかは定かではない。

上五、「遠き雪嶺」とは疑いなく「鳥海山」のことだ。その日天気は快晴で、雪に覆われた鳥海山が、そしてそれに連なる山々、奥羽山脈が、一行が立っていた場所から遠くに、そしてはっきりと見渡せたのだろう。酒田の出身者にとってはこの風景はとても日常的なことで、遠く離れていても瞼を閉じればその光景がありありと浮かんでくる。「遠き雪嶺」は字余りだが、ここは一気に詠むのだろう。そして中七、下五の「馬穴を叩く鯰の尾」で調子を整えるという形になっている。

 呼吸をすれば身体の芯にまで冷気が入り込んでくるような晴れた冬のある日、足元の馬穴には、たった今投網で獲ったばかりの生きの良い鯰が入れられている。「馬穴」は現代のプラスチック製のものではなく、木製の桶に取っ手付いたようなものかもしれない。その馬穴の中の鯰が尾でビドビドバンバンと馬穴の内側を叩いている。その音が寒さをより寒くしているように作者には感じられた。見上げれば新井田川の向こうに雪に覆われた鳥海山の雄姿がドーンとそびえていた。昭和35年の冬の酒田。その一景が見事に切り取られている。

 

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秋澤猛先生の思い出

2017年09月03日 | 俳句

 手元に一冊の句集がある。タイトルには「自註現代俳句シリーズ・V期1 秋澤 猛集」。発行元は社団法人俳人協会で、昭和61年2月25日発行と巻末に書いてある。先日叔母の葬式のため地元に帰省した際、実家の自室の本棚から抜き出してシンガポールに持ち帰ってきたものだ。

 この句集は母が買ってくれたものだが、その時のことを今回母に聞いてみても覚えていないという返事であった。でも私は当時のことを鮮明に覚えている。

 高校一年の頃、毎週水曜日の夜、「高校の先生を退職された方が自宅で英語を教えている」という塾に友人と二人で通っていた。そしてその「英語の先生」が秋澤猛先生であった。その時はこの先生が著名な俳人であることなどまったく存じ上げなかった。今でこそ俳句に興味をもって下手な句を量産してはいるが、高校生の私は自分でも句作してみようなどとは考えてもいなかった。

 しばらくして、水曜日の塾も休みがちになり、その後辞めてしまった。そして最後の月謝を母から支払いに行ってもらった際に、秋澤先生の奥様からこの句集を分けて頂いたと、帰宅後私に手渡してくれた。

 へえ~、秋澤先生は俳人だったのかあ。えっ?お生まれは高知県?酒田の人ではなかったのか~というのが、その句集を最初にめくった時の私の素直な感想だった。パラパラとその句集の中の句を読んではみても、特段感じ入ることのできなかった当時の自分の感性が、今思うととても恥ずかしい。と同時に、その時何かしら感じ、俳句で秋澤先生に入門していたらと、そのすれ違いが今悔やまれる。

 以下に巻末にある秋澤先生の略歴を書き出してみる。

 「明治39年2月26日生まれ、高知市本宮町で生まれる。昭和2年3月に名古屋高商を卒業。その頃から俳句をはじめ、後ホトトギス、馬酔木等を経たが、応召中中断。復員後、昭和27年から秋元不死男の「氷海」に参加。昭和53年「狩」創刊と共に同誌同人となり現在に至っている。

 長らく高校の英語教師をしていたが、昭和41年山形県立酒田東高等学校を退職、引き続き勤務した酒田女子高校を昭和50年3月に退職。

 昭和39年句集「寒雀」、同53年「海猫」を出版。現在山形県俳人協会顧問、山形新聞俳壇選者、俳誌「氷壁」主宰。「狩」同人。俳人協会評議員。「斎藤茂吉賞」「高山樗牛賞」「山形県芸文会議賞」。現住所 酒田市亀ヶ崎。」

 

 また下記は「第26回(昭和55年度)齋藤茂吉文化賞受賞者」山形県のホームページから。

 「秋澤 猛(あきざわ・たけし)

 明治39年生まれ。昭和初期頃から俳句をはじめ「ホトトギス」「馬酔木」に投句し、昭和27年秋元不死男の「氷海」に入会、29年に同人となって活躍し、53年「氷海」廃刊とともに鷹羽狩行の「狩」幹部同人となって現在に至る。昭和39年句集「寒雀」、同じく53年「海猫」を出版し、俳壇の注目をあつめた。

 社団法人俳人協会の会員をへて現在評議員(本県では1人)として選任委嘱され全国俳壇に貢献し、本県においては、53年山形県俳人協会設立とともに会長に就任し、また山形新聞俳壇選者、句誌「氷壁」主宰(現在80号をかさねる)など、幅広い活動をし、俳句の普及に貢献した。
 「物につき物を離れる」を句作の目標にし、庄内を中心として県内広く句会の育成指導にあたっている。」

 

 その秋澤先生も昭和63年(1988年)に他界されていらした。手元のこの句集発行から約2年後のことである。

 私の中の先生はいつも穏やかなご老人といった印象だ。私が高校一年時といえば、西暦では1983年から84年あたり。先生の生年から計算すると当時先生は77歳から78歳のお歳でいらした。今でもよく覚えているのは「関係代名詞」について教えて下さる際、先生はよく「関係代名詞は“くっつき代名詞だ”。」と仰っていた。今思えばなるほどな、となるが、当時高校生の自分は「ヘンテコな表現だなあ」くらいしか思わなかった。が、現在日常的にそれを使っていることを思うと、先生の“くっつき代名詞”のお陰であると思う。

 あれから34年余り経った今、改めて秋澤猛先生のお名前とそのお句に接することができたことは大変感慨深く、また嬉しく思う。現在先生のご家族の皆様はどのようにしていらっしゃるかまったく分からないが、この私的なブログ上で先生のお句を紹介させて頂くことで、それが先生のご縁の方々のお目に触れ、または今の私のように俳句を学ぶ人たちのお役に立つことができたら幸いである。

 まだ初心者の私が言うのもおこがましいが、先生のお句は平易で分かりやすく、地元の町や生活を淡々と写生されていらっしゃるお句と思う。その数々から、当時の酒田の町の様子や人々の表情、そして先生のお暮らしが色彩を伴ってよみがえってくる。これから少しずつご紹介して行きたいと思っているが、まずはこの句集から5句を抜き出してこの項の終わりとしたい。

 

 秋澤猛

 夕立後さきさきさきと裁鋏(たちばざみ)(昭和38年作)

 銀賞の菊の緊張菊花展 (昭和47年作)

 鳥海山(ちょうかい)の噴煙眉に似て五月 (昭和49年作)

 白鳥の千羽の首へ初日の出 (昭和60年作)

 月光の揺ぐは鮭の遡る (昭和60年作) 

 

 

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