遠き雪嶺馬穴を叩く鯰の尾 秋澤猛(昭和35年作)
上記の句は、前回の記事「秋澤猛先生の思い出」で紹介した句集「自註現代俳句シリーズ・V期1 秋澤 猛集」の初めの句だ。読み方は「遠き雪嶺(とおきせつれい)馬穴(ばけつ)を叩く(たたく)鯰の尾(なまずのお)」。脇に「昭和35年作」とある。自註に、
「秋元不死男先生を迎え、酒田市の街川で投網漁をした。獲物の鯰の尾が馬穴を叩く音が寒かった。川上に鳥海山の雪嶺が聳えていた。」
まず「昭和35年」という年に思いは飛ぶ。筆者が生まれる8年も前だ。酒田市は日本三大急流の一つである最上川の河口の街だが、自註にある「街川」とは、最上川のことではなく、おそらく市内を流れる「新井田川」のことだろう。新井田川は筆者の小学校当時学区内を流れる川でもあり、筆者もその時分はよくこの川で友達と釣りをした経験がある。当時すでに新井田川はお世辞にもきれいな川とは言えなかったが、昭和35年当時の新井田川は「投網漁」が行われるほど澄んだ川だったのではと思われる。
新井田川は北から流れてきて母校酒田商業高校の野球グラウンドのところで大きく右に折れ、酒田の観光名所のひとつである山居倉庫の前を流れて日本海に注ぐ。その流れが曲がる所は良い漁場だったのか、子供の頃そこでイトヨというトゲウオ科の小さな魚を専用の網で取った事がある。昭和35年(1960年)、その日の投網漁はその辺りで行われたのではないだろうか。
さて自註に「秋元不死男先生を迎え」とある。略歴に戻ると秋澤猛は「復員後、昭和27年から秋元不死男の「氷海」に参加。」とあるので、昭和35年に師の秋元不死男を酒田に迎えて、「氷海」の俳人らと句会を催したものと思われる。酒田在住で「氷海」参加の俳人にはどのような方々がいらしたかは、簡単な検索だけでは分からなかった。わずかに、「秋澤(秋沢)猛」、「吉田木底」、「齋藤愼爾」らの名前を見るのみであった。また氷海同人の「上田五千石」がその時の吟行に同行していたかどうかは定かではない。
上五、「遠き雪嶺」とは疑いなく「鳥海山」のことだ。その日天気は快晴で、雪に覆われた鳥海山が、そしてそれに連なる山々、奥羽山脈が、一行が立っていた場所から遠くに、そしてはっきりと見渡せたのだろう。酒田の出身者にとってはこの風景はとても日常的なことで、遠く離れていても瞼を閉じればその光景がありありと浮かんでくる。「遠き雪嶺」は字余りだが、ここは一気に詠むのだろう。そして中七、下五の「馬穴を叩く鯰の尾」で調子を整えるという形になっている。
呼吸をすれば身体の芯にまで冷気が入り込んでくるような晴れた冬のある日、足元の馬穴には、たった今投網で獲ったばかりの生きの良い鯰が入れられている。「馬穴」は現代のプラスチック製のものではなく、木製の桶に取っ手付いたようなものかもしれない。その馬穴の中の鯰が尾でビドビドバンバンと馬穴の内側を叩いている。その音が寒さをより寒くしているように作者には感じられた。見上げれば新井田川の向こうに雪に覆われた鳥海山の雄姿がドーンとそびえていた。昭和35年の冬の酒田。その一景が見事に切り取られている。
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