『勤務地シンガポール』

残りの人生どう生きるか迷い続けてこのまま終わってしまいそうです

「スリランカ」がどんどん注目を浴び始めているみたいです

2013年09月19日 | スリランカのこと

昨年の11月にジェトロさん主宰の「スリランカ・ビジネスミッション」に参加して大変得るものがありました。

スリランカ投資庁を訪問したり、コロンボの港湾施設を見学したり、または既に進出している日系企業の皆さんや現地スリランカのビジネスマンの方々との交流会に参加できたりするのは、観光や個人の視察旅行では、まず難しいです。

また、現在JETROコロンボ事務所の崎重所長が素晴らしい方で、ミッション全体の「質」を高めていました。

そんなジェトロさん主催の「スリランカ・ビジネスミッション」ですが、今年も開催されるとのご連絡を頂きました。ご案内役は今年も崎重所長とのことで、私もまた参加したくなりました。

時期は「2013年10月14日(月曜)~10月17日(木曜)」とのことです。ご興味のある方は是非ジェトロさんのこのページで詳細を確認されたり、またはミッションの内容やスケジュールをダウンロードして下さい。→http://www.jetro.go.jp/world/asia/lk/events/20130823850-event

 

私の昨年11月の訪問は、約6年ぶりのスリランカでした。発展振りは目を見張るものがありました。また内戦が終結したお陰で、はじめて「平和なスリランカ」を見ることが出来ました(笑)。スリランカ、すでに観光目的での訪問はかなりその数が増えているということですが、ビジネスの場所としても、これから益々、ドンドン注目を浴びると思います。

そういった意味においては、上記の「スリランカ・ミッション」はとてもタイミングが良い企画だと思います。

実は今週土曜日からスリランカに行ってきます。1年経ってどう変わったかを見てきたいと思っています。今回は以前仕事で関わった「ゴール」、そして昔、まだ若かりし頃に住み暮らした「キャンディ」にも行ってこようと計画しています。今からとても楽しみです(笑)。

 

家庭で作れるスリランカのカレーとスパイス料理
香取 薫
河出書房新社

 

アーユルヴェーダの聖地 スリランカ癒しの旅
クリエーター情報なし
実業之日本社

 

Sri Lankan Modernism スリランカの現代住宅
ロバート・パウエル
グラフィック社

 


『スリ・ランカ』

2012年01月10日 | スリランカのこと

 「スリランカ」について書くのは久しぶりですが、昨年「シンガポール日本商工会議所」さんのメールマガジンに掲載させて頂いたエッセーを、下記に添付させて頂きます。

 ご興味ありましたらご覧になって下さい。

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 『スリ・ランカ』

 一般的には「スリランカ」として表記されるインド洋に浮かぶこの島国の、「スリ」と「ランカ」の間に点「・」を打ってみた。

 「スリ・ランカ」、現地のシンハラ語で表記される音を正しく拾うと「シュリー・ランカー」となる。サンスクリットから派生したこの言葉は、「シュリー=光が輝く」、「ランカー=島」の意味になる。20代の前半をこの国で過ごし、そしてこの国の人々と係わり合いを持った筆者にとって、まさに「スリ・ランカ」は「光り輝く島」であった。

 以後多くの人たちに、「なぜスリ・ランカに行ったのか?」と尋ねられることになるのだが、きっかけは単純で、それは「カレーライス」だった。当時銀座の博品館劇場の7階だったかに「アラリヤ」という名前のバーがあったのだが、昼はそこで「カレー」を出していた。

 はじめは上司に連れられて行ったお店だったのだが、そこで働いているスリ・ランカ人と「話をしてみたい」と思い立ち、それからほぼ毎日その店に通い、同じ場所に座り、そして「チキン・カレー」を注文し続けた。

 次第に仲良くなり、いろいろと話をするようになってから気づいたことは、彼らは日本語を勉強しに来ていたり、コンピューター(“IT”なる言葉は当時は無かった)を勉強しに来ていたり、そして何よりも日本のことを良く知っていた(ように当時感じた)。

 一方こちらはというと、スリ・ランカのことなど全く知らなかった。若く純粋だった当時の筆者はそのことを酷く恥じ、「今後この人たちと付き合って行く上で、自分がかの国のことを全く知らないというのはフェアじゃない。もっとスリ・ランカのことを勉強しなければなならない。」(今思えばとんでもなくナイーブ過ぎるが)と、考えたものだ。

 若さとは行動だ。筆者はスリ・ランカに行くことに決めた。当時はまだ「地球の歩き方」のスリ・ランカ版は発行されてもなく、当然インターネットなどなく、情報は本屋で購入した3冊の時代遅れ丸出しのガイドブック、そして「アラリヤ」で働いているスリ・ランカ人からの情報のみだった。

 1989年7月、成田発のエアランカ(現在のスリランカ航空)で9時間かけて到着した筆者を出迎えてくれたのは、なんと軍隊だった。タラップを降りる際、目に飛び込んできたのは銃を持った兵士たちだった。当時政府軍は、北にLTTE(タミールイーラム解放の虎)そして南に同じシンハラ人内の武装共産主義者の二つの敵に対峙して、空港は政府軍によって制圧、いや守られていた。

 「もしかしたら俺、トンでもない所に来てしまったのでは?」という思いは、その後すぐに現実となり、空港から市内へ入る道々で何度か軍の検問を受け、その都度降ろされチェックを受けた。無知とは恐ろしい。なんと筆者は人生初の海外旅行先に、「内戦中の国」を選んでしまったのだった。あのオレンジ色の街頭に照らし出されたバリケードや装甲車、そして武装した若い兵士の緊張した顔は今でも鮮明に覚えている。

 到着した夜は、「アラリヤ」で知り合ってスリ・ランカに帰国していた当時の友人が、空港に出迎えに来てくれていて、彼の親戚の家に泊めて頂いたのだが、(今思えば中流の下といった感じのお宅だったのだが、)エアコンは無いので蒸し暑く、おまけに蚊も多い。裸電球に照らし出された壁は剥がれ落ち、シャワーを浴びようとして入った部屋の足元はぬるぬるしていて滑って頭を打ちそうなった。暖かいお湯を期待してひねったシャワーから出てきたのは水で、思わず心臓が止まりそうになった。おまけにトイレに行けば紙がないといった具合で散々だった。一昨日前までの暮らしとの、あまりの落差に不覚にも涙が出そうになり、わずか数時間でホームシックになってしまった。持っていたチケットはオープンだったので、「明日飛行機を予約して帰ろう」と思ったのだが、なんとその翌日から全土に「外出禁止令」が布告されてしまい、家から出られない状態となってしまった。

 このまま書き続けると話が恐ろしく長くなりそうなので、この続きはもしリクエストがあれば書かせて頂くということにして、15年住んでいるシンガポールと比べて、3、4年しか住んでいない、それももう20年以上も前のことになるスリ・ランカでの出来事を今でも鮮明に思い出せるのは、自分にとって人生で最初の外国だったからか、またはそこでの経験が余りも色濃いものだったからだと思う。

 スリ・ランカの国土はちょうど北海道の5分の4ほどで、その形はちょうど右の手の甲を真上から見たときの形に似ている。親指の付け根のところが政治と商業の中心地である「コロンボ」にあたる。そこから右方へ移動し、手の甲のちょうど真ん中くらいは古都の「キャンディ」、イギリスの東インド会社に組み込まれるまではここキャンディーに王国があった。

 スリ・ランカはポルトガル、オランダ、イギリスといった順番に植民地支配を受けるのだが、興味深いのは、その子孫たちで、ポルトガル人は現地の人たちと結婚した故にその子孫たちは見た目や肌の色はシンハラ人、タミール人と似ていて、目の色の違いで若干見分けがつくかどうかといったところだが、オランダ人たちは現地と交わらなかったようで、その子孫たちは見た目は白人だ。よく欧米系のホテルのフロントで見かける。もちろん彼らはスリ・ランカ人であるわけだからシンハラ語は流暢なのだが、初めてシンハラ語で会話したときには驚いたものだ。イギリス人の子孫というのも居るのだろうが、筆者は出会ったことはない。それよりもむしろイギリスは、鉄道などのインフラと「英語」を残した。また。宗教も多彩で、7割を占めるシンハラ人は仏教だが、キリスト教、イスラム教、そしてヒンドゥー教と四大宗教が出揃っている。

 スリ・ランカというと暑いイメージがあるのだが、それはコロンボやゴールなど西側と南側の低地のことで、キャンディなど中高地は意外と涼しい。そして紅茶の産地として名高い「ヌワラエリヤ」などは日中と夜の気温の差が大きく、時期によっては暖房が必要なくらい寒い。最もその寒暖の差が、生産量の少ない高地産の紅茶になんとも言えない芳香を付け加えるようだ。ちなみに世界三大紅茶のひとつ「ウバ」はこのヌワラエリヤの東側に位置する。高地産の紅茶は水色は薄めで香りが高く渋みがありストレートで頂くのに向いていて、主に日本等に輸出されていると聞く。一方低地産の紅茶は色も濃く出てボディーもしっかりしているため、ミルクや砂糖をたっぷり入れて頂くのに向いていて、主にそうした嗜好の中東等に出て行っているようだ。

 最後に、スリ・ランカにおいて、筆者は人に騙されてお金を取られたり、誘拐されそうになったり、高熱でうなされたりと、ネガティブなことも数多く体験したが、一方で、またそれよりも増して沢山の人たちから沢山の親切を受け、そして大切にして頂いた。その一つ一つの体験は紙面の制約上ここでは書き切れないが、それら甘いも辛いも全ての体験が自分にとって今は「光輝く島」となっている。

 北海道ほどの大きさの中に上述の紅茶畑や有名な宝石の産地、仏陀が時空を越えてやって来たと言う伝説の残る聖地、水田やココナツ林の緑の中に点在している「アヌラーダプラ」や「ポロンナルワ」、「シギリヤ」と言った世界遺産に登録されている遺跡群、そしてそこで暮らす人々がいる。そんな宝石箱のような島をまたいつか訪れてみたいと願っている。


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壺で冷やした水

2010年07月08日 | スリランカのこと

 久し振りにスリランカの話題です。

 コロンボからキャンディへ車で向かうとき上の写真のように道沿いで、一見土を焼いただけのような、素朴な壺を売っているお店を見かけます。

 スリランカ時代はこのような壺、ちょっと大き目の壺を買って、水を沸騰させてそのお湯をその壺の中へ入れて、飲み水を「貯蔵」しておりました(笑)。



 そのように壺で貯蔵した水は、飲むときは室温よりも冷たくてなっていてとても美味しかった記憶があります。よく時代劇などで、台所で大きな瓶に入った水を柄杓ですくって飲むシーンを見ますが、あの水もひんやりしていて夏などは美味しかったと思います。

 今のように「水」をお金を払って買うということは、あの当時ペットボトル入りのミネラルウォーターが無かったあの頃は想像できなかったです(笑)。水および水資源は大事です。

 ところで昔JRのプラットホームで缶に入った水(確か「大清水」という商品名でしたが)が自動販売機で売られていましたが、それ、まだあるのでしょうか(笑)。


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大統領から手紙を読んでもらった!

2010年03月24日 | スリランカのこと

さてもうこんな時間になりました。下記は昨日の続きです。ご笑納下さい。
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 お金がふんだんにあれば、一度出国して6ヵ月後にまた来ればいいや、ということになりますが、そんなお金はありません。さてどうしたものかと思いを巡らしていたある日、お世話になっていた家族の親戚のおじさんから「大統領は朝4時に起床して、まずは国民からの手紙を読むのが日課」という話を聞きました。

 私は「これだ!」と瞬間的に思いました(笑)。丁度日本から持ってきていた真っ白な封筒が残っていました。当時のスリランカの封筒は皆茶色、その中にあって真っ白な封筒はきっと目立つに違いないという思いから、私は覚えたてのシンハラ語で大統領に手紙を書いたのです!ビザの延長をお願いしたその手紙は、「私は日本からシンハラ語を学びに来た日本人です。もっと勉強を続けたいのですが、入管からもう帰れと言われました。どうかビザを下さい。」とまあ、こんな内容です(笑)。

 ところが、「意思あるところに道はある」もので、なんとある日、そのお世話になっていた家に「大統領府」から電話があったのです!家の人たちはもう大騒ぎでした(笑)。私も一躍有名人となって国営テレビに出演しなければならなくなるのでは、なんて思いましたね(笑)。冗談です。

 電話口でその担当の方が言うには、「大統領はあなたからの手紙を読みました。そして既に滞在延長許可の指示を出されたので入国管理局に行ってスタンプを押してもらって下さい。」とのこと。今改めて思い出すと結構信じられないような話でもありますが、本当のことです(笑)。

 そんな大統領からの「お墨付き」があったので、私は勇んで入管に行きました。そしてそれまで横柄な態度で対応してくれたお役人に「これが目に入らぬか!」と水戸黄門の印籠よろしく突き出したい衝動にかられました。

 入管に入っていくと、「ああ指示は来てるよ」とみな手のひらを返したようなニコニコ顔です。それ見たことか、どうだこれなら文句は言えまい!と私は内心ほくそえんだのですが、バーン!と私のパスポートに押されたスタンプを見て私は思わずぶっ倒れそうになりました。

 なんと大統領が許可してくれた延長期間って、たったの「3ヶ月」だけだったのです!たったの、というと失礼ですが(笑)。

 その後更に「他の手」を使って延長に成功するのですが、その話はまた今度機会があればということで(笑)。それでは!


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スリランカの思いひで(手紙編)

2010年03月23日 | スリランカのこと

 昨日のアクセス解析によりますと、このブログに「スリランカ」関連のキーワードで検索して辿り着かれた方がいらっしゃったのを見て、久し振りにスリランカのことを書きたいと思います(笑)。

 私は当初「観光ビザ」で入国していましたから、延長に延長を重ねるにも限度があります。でも当時は全く分りませんでした。インターネットもない時代の話ですので「ネットで調べる」と言う発想も手段もありませんでした。

 今のことは分りませんが、当時は入国管理局で言われたのは「観光で滞在できるのは1年間で合計6ヶ月まで」ということでした。そしてある日、とうとう「これが最後の延長です」と窓口で言い渡されたことがありました。

 この続きはまた明日。お楽しみに!


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目線が変わると視界が開けた

2009年08月25日 | スリランカのこと

 昨日の記事を書いて、その「目線」という言葉からの連想で思い出したことがあります。それは初めてスリランカに行ったときのことです。

 私はまだ「地球の歩き方」のスリランカ版が出る前に初めてスリランカに行きました。あのときはあらゆる場面で面食らいました(笑)。「ここはまだ日本の戦後間もない頃のようだ」、だなんて、今思うととっても滑稽な話ですが、だって自分も“戦後”を体験していないのですから(笑)、でも知ったかぶりでそう“分析”してしまっていたのです。

 素足、食事、水、トイレ。彼らにとっては日常の生活でも、私にとってそれは、物凄い環境の変化で、はじめのうちは本当に大変でした。

 いろいろなところで我慢していますから体調も崩し易くなります。そんなある日、とうとう熱を出して寝込んでしまいました。

 寝込んでいるとき看病してくれたのは、そのときにお世話になった家族の皆さんでした。当時はシンハラ語も出来ず、英語も片言で、意思疎通もままならない感じでしたが、本当に良くして頂いた。肌で感じる優しさ、とでも言うのでしょうか、言葉は分からなかったのですが、彼らの気持ちが毎朝その家の女の子が運んで来てくれるミルクティーの中に溶け込んでいるような気がして、今でもあの熱が下がった朝に頂いたミルクティーの味は忘れられません(笑)。

 その熱が下がって体調が回復したときのことでした。ある日私は自分の「視界」がパーッと開けたのを感じました。そしてそれから後は、素足でも、スプーンがなくとも、シャワーが水でも、そしてトイレにトイレットペーパーがなくても、全く平気になりました(笑)。それら全ては彼らの「日常」であって、外国からいきなりやって来た者が、遅れているとか進んでいるとか、そんな基準を持ち込むこと自体ナンセンスなのだと感じました。当初、上から見下ろすような目線で見ていたと思われる自分の目線が、彼らの目線に近づいたとき、私は、彼らの日常からやっと、と言いますか、本格的に、「受け入れてもらった」ような、そんな気がしたのを今でも覚えています。そしてその後の滞在はとても楽しいものになり、数年後、荷物を全部まとめてスリランカに行ってしまうほどスリランカに惚れ込んだ、そんな20代の時代がありました(笑)。

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カラムバ

2009年08月05日 | スリランカのこと

 『勤務地シンガポール』なのに今日はスリランカのことについて書きます。

 前回もそうでしたが、脳みそが疲れて来たときは関心を他に移すのが良いと思います。関心の「移し所」は人それぞれあるかと思いますが私の場合は「スリランカ」、以前住み暮らしたところです(笑)。

 上の写真は2006年に行ったときに撮ったもので、手前の建物がコロンボにある「旧国会議事堂」です。その後方に広がっているのがインド洋、遠くの遠くにアラビア半島があります。

 コロンボは今でもスリランカの商業・経済の中心ですが首都ではありません。首都は「スリジャヤワルダナプラコーッテ」という、初めての人にはどこで息継ぎすれば良いか分からないほど長い名前です。意味的に分けるとすると、「スリ・ジャヤワルダナプラ・コーッテ」でしょう。

 コロンボ(Colombo)は英語です。18世紀にイギリスの殖民地になりますが、たぶん当時のイギリス人の耳には現地の人の発音がそのように聞こえたのでしょう。が、実際のシンハラ語の「音」で聞くと、「コラムバ」か「カラムバ」が近いと思います(笑)。日本語には「L」や「R」の発音の違いや「M」と「N」の違いがないので「コロンボ」をローマ字表記した「KORONBO」では、たぶん通じないと思います(笑)。

 長く続いた内戦がようやく終結したのは最近の話です。復興には時間がかかると思いますが是非がんばってもらいたいと思います。以前お世話になった人たちは達者で元気にしているのか、気になるころとです(笑)。

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電気も水道もない生活

2009年06月04日 | スリランカのこと

 今週は結構「怒涛の」一週間となっております(笑)。うちのオフィスと家は徒歩7~8分なので、今週はまさに「寝に帰っている」といった感じです(笑)。でもこれはありがたいことので、感謝をしながら明日一日過ごしたいと思います。

 昨日は思いもかけず長い記事になってしました。それにも関わらずコメントを下さった「ぐーす」さん、ありがとう御座位ました!改めて返事させて頂きます!

 その昨日の記事の続編をと思っていたのですが、ちょっと脳みそが上手く働きません、なので今日は軽い話題を(笑)。こんなときは一旦シンガポールを離れて「スリランカ」にでも行くのが良いですね。ということで今日はちょっとした私の体験と思い出話にお付き合い下さい。

 1991年に荷物も全部まとめてスリランカに行ったのですが、キャンディという古都に落ち着くまで、私は山間部のとある村で生活しておりました。熱帯性の木々がうっそうと生い茂る中に家々が点在しています。そこには、電気も、ガスも、そして水道もありませんでした。

 まわりに一切電気がないですから、夜はまさに真っ暗闇です。ですが、そのお陰で満点の星空を楽しむことができす。今思い出しても本当にきれいでしたねぇ。家の中ではランプを使っていましたが、電気と違って、あの炎がほのかに揺れるランプは、見ているだけで心が落ち着いた思い出があります。

 水道が無いのでお風呂というかシャワーは「川」で水浴びでした(笑)。毎朝起きると、洗顔と歯磨きのために、村人達が川辺にやってくるのです。遠くの方に、お坊さんが沐浴している姿などが見え、とても穏やかな朝の風景でした。

 飲み水は、その川の脇の小さな流れというか、ちょっとした湧き水のようなところから皆さん汲んでそれぞれに家に持って帰ります。この仕事はなぜか女性の仕事のようで、ちょうど女性のウエスト・ラインにそって抱えることができるような形をした壷を皆さん抱えて歩いていました。でもそのままでは飲めませんから、必ず沸かします。沸かすのも、電気やガスがないので、「薪」です。ご飯を炊くのも、カレーを作るのも全て薪です。薪のパチパチ燃える音や、炎も見たり聞いたりしていると癒されました。

 こんな風に思い出しながら書いているだけで、結構疲れが取れて来ました(笑)。この続きはまた今度、思い立ったら書かせて頂きたいと思います。では。

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カレー好きが高じて

2009年03月11日 | スリランカのこと

 昨日に引き続き「カレー」ネタになります。

 実は何を隠そうカレーは私の大好物の中のひとつであります。(大好物が多すぎっていう噂も、)ただカレーといってもいろいろなカレーがありますが、物心ついた頃のカレーの記憶はやはり「バーモンド・カレー」でしょう。(この商品名を聞いて“西城秀樹”を連想された方は、年代が近いです:笑)インド料理屋など無い田舎に育っていますので、当時はカレーと言えばバーモンド・カレーくらいしか知りませんでした。そしてそれは「家で作るもの」であり、=イコール「お金を出してまで食べるものではない」という感覚が東京に出てくるまではありましたねぇ(笑)。

 そんな田舎者にとって衝撃の事件が起こります。20代前半(そんな頃が私にもあった!)の頃、私は東京で勤め人をしていたのですが、ある日上司が「おーしっ、今日はカレーを食いに行くぞー」とお昼時に立ち上がったではないですか。「カレーなんてお金を出してまで食べるに値しない」と思いながらもその上司に“素直”について行くと、入ったお店はなんと「インド料理店」。そこで初めて食べましたよ。サラサラのご飯にサラサラのカレー(笑)。「こっ、これも“カレー”かっ!」と言った大衝撃が!それはマーライオンが先日受けた雷よりも大きかったと思います(笑)。

 カレー好きを自認していた割には「家のカレー」しか知らなかった訳で、まさに「井の中の蛙大海を知らず」と言った心境で、かなり打ちひしがれた大事件でした。しかし私はそこで怯まず、「それならば、」と思い立ったのが、「カレー探求の旅」です(笑)。(単純なんです)昼休みになるとオフィス近辺のカレー屋を探索することを続け、そして出会ったのが「スリランカ・カレー」。それがご縁で私はスリランカに行くことに、そして向こうに住んで現地のシンハラ語を操れるまでになるのですが、ここから先は話が物凄く長くなるので、また今度、機会があれば書きたいと思います(笑)。毎度駄文で済みません。

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好きなことに言葉は要らない

2008年03月29日 | スリランカのこと

 
 昨夜食事先でばったりお会いしたT社長から誘われるままに、向かい側に立つホテルのラウンジでウィスキーを頂きました。

 お互いの近況を話しているうちに、話題はなぜか私のスリランカ時代の話になりました。

 「なぜ君はそんなにスリランカの事が好きなのか?」とT社長。
 「わかりません(笑)」と私。

 シンガポールの滞在年数はスリランカよりも断然長いです。私は人からシンガポールは好きかと問われれば「好き」と答えて、その理由をとうとうと並べたてることができるでしょう(笑)。街が綺麗だとか、便利だとか、諸手続きがユーザーフレンドリーだとか、ちょっと思っただけでも10や20は直ぐ出てきそうです。また同時に「シンガポール」の嫌いな点も同じように直ぐに上げられると思います。

 ですが、スリランカに対してはそうは行かないのです。大好きなのですが、よく分らなくて、あえて数えたら、好きな点より嫌いな点の方が多くなってしまいそうです(笑)。

 そんな、なんだかんだ少し酒が回った状態で話を続けていたとき、ふと、昔読んだある本の中に書いてあった文章だったか、または誰かがテレビでしゃべっていたことだったかは忘れてしまいましたが、たしか男女の間柄を次のようにいい表していたのを思い出しました。

 “相手のどこが好きとか好きな点を並べ立てることが出来ているうちは、まだ本当に相手の事を好きになってはいない。相手を本当に好きになったときは、何がなんだか分らなくなってしまうものだ。何にも見えなくなってただ好きということだけ。ここが好きあそこが嫌いという分析などできなくなる。”

 と、いうような内容だったかと思います。

 昨夜のあの場面では、この内容は当てはまりませんが、酔いも手伝ってか、そんな能書きをたれてT社長の追及を煙に巻きました(笑)。

 スリランカ。正確には「スリ・ランカ」。もっと正確には「シュリ・ランカ」で、「シュリ」はシンハラ語で“光り輝く”という意味で、「ランカ」は“島”、またはスリランカ人にとっては“国”となるのでしょうか。そのような綺麗な名前を持つ国なんですから、一日も早く平和になってもらいたいものです。


 写真は、スリランカ北東部のポロンナルワという都市に旅した際に撮ったものです。湖とそこに落ちてゆく夕日ですが、この湖は古代の人工湖です。雨の少ない北部、北東部にはこのような灌漑用の巨大な人工湖がいたるところにあり、何世紀も経た現在でも人々に利用されています。そのとき宿泊したホテルのマネジャーが言っていたことを思い出します。「当時の王たちは、自分たちの治世の間だけでなく、人々が何世代何世紀にもわたって利用できるものを作ったが、現在の為政者たちは自分たちのことしか考えていないようだ。」ん~ん、座布団一枚でしょうか(笑)。


 それでは皆さん、どうぞ良い週末をお過ごし下さい!


写真2

2008年03月12日 | スリランカのこと

 <前回の続きです>

 スリランカ時代、撮っていた対象は「人」です。人にレンズを向けるのはとても勇気が要ります。撮られる方もレンズを向けられていると意識しますし、そうするとどうしても表情にそれが表れ、こちらが狙っている笑顔や自然な表情はすーっと消えてしまいます。望遠レンズを使って遠くから撮ればいいのかも知れませんが、それはポートレートで無い限り私はやりませんでした。自分が表現したかったのは動きのある豊かな表情をした「人間」でした。それで、レンズはあえて28mmの広角を用い、対象物との距離を測り、被写界深度を深くして、シャッタースピードを決めて、後はファインダーも覗かずその人とシンハラ語で話をしながらバシバシと撮っていくやり方で撮っていました(笑)。あのときはとても楽しかったです(笑)。でももうあのときのようには撮れないと思います。人にレンズを向ける勇気が、ちょっと今はもう無いかも知れません(笑)。今は簡単なデジカメで風景や家の猫でも撮っているのが合っていると思います。

 影響を受けたというのはとても恐れ多いですが(笑)、好きな作家は地元出身で高名な巨匠、土門拳です。地元には土門拳記念館があって当時私はプー太郎でしたのでかなりの頻度でその記念館に通っていました。年会員になると当時は自由に出入りできましたので(笑)。

 あと好きな作家を、というと長倉洋海さんでしょうか。。。長倉さんは第12回(1993年)「土門拳賞」の受賞者でもあります。受賞の展示会を土門拳記念館で開催した時もかなり入り浸っていました(笑)。受賞作品の「マスード 愛しの大地アフガン」はアフガニスタンのマスード国防相を長い期間撮り続けた作品でしたが、その後マスードが暗殺された時は私もかなりショックでした。。。


 とまあ、写真に関しては話が長くなります(笑)。今ではもうすっかりコンパクトなデジカメですが、デジカメも今では、例えばキャノンのEOS系もありますので、それであればシンガポールに持って来て今はドライボックス眠っているレンズ達もいつか再び活躍の日の目を見るかも知れません。でも、たぶん首からじゃらじゃらカメラをぶら下げて歩くっていうのにはならないと思います。

 同じ「モノクロ」、「Black & White」の世界でも今は「書」ですね(笑)。真っ白い紙に黒い線で表現する世界、でしょうか(笑)。写真にも書にも心の状態がもろに現れます。鍛錬ですね。それにしても私は、今ハタと気が付いたのですが、かなり「モノクロ」人間のようです(笑)。いや、「絵」があります(笑)。絵も書と同様に線が大切ですが、絵には色があります。絵について書きますとまた長くなりますのでまた今度機会がありましたら書きたいと思います。

 
 昔話に付き合って頂きまして有難うございました。思い出すことでふと日々の疲れが癒された気分です(笑)。


写真

2008年03月10日 | スリランカのこと

 昨日の記事でヨドバシカメラのことを書いたら、その関連で「写真」を趣味にしていた頃の膨大な記憶がよみがえってきましたの今日は少し思い出話を(笑)。

 学生時代一緒に中国に行った当時の友人の影響で写真を始めました。友人の暗室で最初にモノクロの写真を焼いたときの感動は今でも良く覚えています。丁度絵を描くように印画紙に光を当てていくのです。現像液につけた印画紙の上にスーッと画像が浮かんでくる瞬間はなんともいえないものがありました(笑)。

 スリランカ時代も写真を撮っていました。ジャングルの生活からちょっとした街に移り住んでまず最初に行なったのが写真屋探しです。で、ある特定の写真屋さんに狙いを定め、毎日通って仲良くなり、その後日曜日に暗室を使わせてもらっていました(笑)。

 当時メインで使っていたのはメカニカルシャッターのアサヒペンタックス。私のおじさんから貰った人生ではじめてのカメラでした。が、残念なことに、このカメラはタイのチェンライを旅行中に盗まれてしまいました(泣)。その後のメインになったのはミノルタのXD。これは新橋の中古屋で買ったものを2台持っていてこの2台は今シンガポールの自宅のドライボックスの中で眠っています(笑)。いたってマニュアル志向だったのですが、一台だけキャノンのEOSを持っていました。EOSはその後シリーズ化するのですが、多分私のはEOSの一番最初のやつだったと思います。そのカメラはスリランカを離れるときに、お世話になったお礼にと例の写真屋のお兄さんにあげました(笑)。


 <長くなってしまいそうなので今日はここまで。明日続きます。>


匂い

2008年02月20日 | スリランカのこと

 最近オフィスで飲んでいる紅茶が切れたので買いに行って来ました。これまではリプトンのイエローラベルを(まあ定番ですが、)ずっと飲んでいたのですが、今回は昔住んでいたよしみと言うこともあって、「Dilmah(ディルマ)」という100%スリランカの茶葉を使用している紅茶にしてみました。

 ティーバックだし、またティーポットを用いないオフィスでの簡易的な飲み方なので味はあまり期待していなかったのですが結構しっかりした味で気に入って飲んでいます。香りはというと、開封して直ぐだったせいか、カップを口に近づけると、湯気と一緒にスリランカ紅茶独特の香りが私の鼻を中心に顔全体に広がった感じがしました(笑)。

 人が物事を強烈に記憶する際には、「匂い」ってとても重要なファクターのひとつだと思いますが、今回の紅茶の香りに接して、私はあのスリランカで過ごした日々のことを思い出した次第です(笑)。

 そんなことがありまして、今日はスリランカの写真、といっても風景ではありませんが、をアップさせて頂きました。これ、土でできたポットですが、当時は思いっきり沸騰させた水道水を写真に出ているようなポットに入れて、それを冷まして飲み水としていました。結構冷たくなって美味しいのです(笑)。