この夏(8月)に池袋コミュニティカレッジで「役者論」をされるとお聞きしたので、書庫から昔のメモを引っ張り出してきました。(その2)
前回から約8カ月後、同じく名古屋市の東海高校で行われた講演のメモです。この直後に大友監督はNHKを退局され、文字通り「脱藩浪人」としてのキャリアを歩まれ始めたわけですが、その前にお話しする機会があった時に、そんなことを考えてらっしゃるんじゃないかなあ…とある「予感」を覚えたことを、今でも覚えております。
ちなみに最後の質問をしたのは、私です!(笑) (2014年5月)
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2011年2月19日
東海中学/高校 サタデープログラム18th
大河ドラマ『龍馬伝』監督 大友啓史の“映画的映像演出”
* * *
皆様、こんにちは、大友です。
前回6月に実施されたサタデープログラムで話した内容がご好評をいただいたということで、今回も呼んでいただきました。本当にありがとうございます。
今日のタイトルの「映画的演出」ですが、『龍馬伝』は映画的だ、いつもの大河とは何かが違う、という評・・・ほめていただいたり、そうでなかったり、まあ、そういう言葉をいただくのですが、では「何が違うのか」それを話してほしいということでした。
映像にはTVで見るもの、映画館のスクリーンで見るもの、インターネット、ブロードバンドの映像など、いろいろな種類のものがあります。その中でなぜ『龍馬伝』は映画的といわれるのか?今日は会場の皆さんやと一緒に考えたいと思います。『龍馬伝』がどういう風に作られているのか、その謎解きを。
さて、今年も『江』がすでに5回か、6回まで終わって、昨年のことは記憶の彼方になってしまっている方もいらっしゃるかもしれません(会場笑)・・・それも寂しいので、最初にこちらの大画面で第二部のクライマックスを見ていただきます。大画面で見ると、テレビで見るときとどう違うか・・・を考えていただければ。
* * *
第28話『武市の夢』DVD上映(ほぼ20分間)
弥太郎の家のシーン
武市の牢での三人の面会シーン
以蔵処刑シーン
武市切腹シーン
操練所の5人~第三部予告
(途中で壇を降りて、客席脇のスペースから一緒に大画面を眺めている大友D)
(会場内でやっぱりウルっときているのか、目頭を押さえる観客の方も大勢いました)
(予告パートが終わって上映終了)
* * *
ざくっとみていただいて、何が違うか・・・みなさんにお聞きしたいのですが、ここからだと皆さんの顔が(逆光で)見えなくって(・・・と、手で観客側を指し示す~講堂内に再度淡く照明がつく)どなたかいらっしゃいませんか?
観客1)映画的と言えるかどうかわかりませんが、TVの画面で見ていると光量やスクリーンの大きさで見落としてしまっていた背景や、暗さの中に紛れていた微妙な色合い、役者の顔の筋肉の動き、目の表情までが、画面が大きくなることでさらに詳しく鮮明に読み取ることができるように思います。また、役者の顔にフォーカスが当たっていないシーンも、見る側が全体の絵として受け取る情報量ははるかに多くなっているようにも思いました。
観客2)光の当て方などのリアリティ、影がある分本物じゃないかというほどの深さ、色合いのニュアンスがあった。最近のハイビジョンで自然光のように映してしまうと、何もかもはっきり見えすぎて薄っぺらく見えてしまって…あの暗さが良さですよね。
観客3)武市半平太が牢から出て切腹の場に向かうシーンで、TVで見た時よりも光の加減でさらに後姿の着物の透け具合から空気の風のような動き、人物の持つ匂いまでが伝わってくるように感じました。
ありがとうございます。今日はこのあと、取材を担当してくれた中学生の生徒さん、映像つくりに興味を持っていると聞きました、彼らもいるので、質疑を交えながら進めていきたいと思います。
映画の歴史は一枚の写真から始まりました。映画というと舞台(芸術)に近いものを感じるかも知れませんが、映画のルーツは写真です。そしてハリウッドでは舞台に出る役者とTVドラマに出る役者は、完全に分かれています。日本だとそう区別がないですけど。舞台と映像の違いについて少しお話します。
一枚の写真をルーツとして始まった映像、その最初のものは、列車が駅のホームに入ってきて、静止する・・・という何でもないシーンを映したものでした。それも、今日本当は持ってきてお見せできればよかったんですけれど。その列車がホームにつく、という映像を見て、何て「そのまま」なんだ!と当時見た人々は驚いたんです。
映画を英語で言うと「movie」です。つまり動き、動画である。そして「move(動く)」という感覚がある。さらに「motion」身体そのものの動きと、さらに感情の動き「emotion」・・・これらをどう動的にとらえていくか、それが映画のルーツです。
映画の初期のものはチャップリンやキートンに代表される「無声映画」でした。セリフがなく、身体だけで表現する。セリフがない中で、身体でどう感情を見せるか。それは映像のルーツになりました。
また映画には映像だけではなく当然脚本もあります。私がハリウッドで通っていた学校で、クラスを担当していたのはマーティン・スコセッシ監督と共同脚本を書いている人でした。そしてクラスの課題で脚本を書くというのがあって、下手な英語で脚本を書くんです(笑)・・・持っていくと「I’m not your English teacher。(俺はお前の英語の先生じゃない)」ってボロカスに言われながら(会場笑)いっぱい赤を入れて直されたりするんですがね。
その先生が、「理想的な脚本」について話した時に、「セリフで語るのではなく、映像に語らせる。理想は無声映画(みたいなもの)、セリフではなく映像と音で語るのがいい」と言いました。
先ほど見ていただいた(第28話の)3人が牢で語り合うシーンは、そういう意味ではむしろ「舞台的」ですよね。会話で感情をぶつけ合う、表情、細かな感情表現・・・でも、これを実際に舞台でやると、ほとんどのお客さんからは役者の表情は見えません。しかも3人肩寄せあったまんま殆ど動かないし(笑)。そこへいくと、映像は画面の大きさを変えることができます。より近くに、役者の顔を見えるように撮る。これは(映像表現の)メリットです。
舞台だと役者の芝居が見えない、動かない。そうした点を補うために、舞台役者の芝居はどんどん大きくなっていきます。時として現実ではありえないくらいオーバーな表現も必要になります。それが舞台です。対して、映画は写真から生まれたものです。写真というのはリアリズムの極なわけで、そういうことからも映画での芝居はリアリズム、リアルな芝居をしてほしい、と役者に求めていきます。映画での芝居は舞台とは別の方向で、何が動くのか?といえば、身体ではなく感情・・・目の表情など、舞台を見る観客席の彼方からは見えないものが見えるようなものになります。
昔の日本映画を創っていた人たち、香川京子さんが黒澤明監督に言われたことで、「芝居をするな」「余計なことをするな」「アップで撮るから、身体じゃなくて心を動かして。それをカメラできちんと撮っていくから、そういうお芝居をしてほしい」と言われたそうです。つまりmotionでなくemotion。そういうアクティング・メソッド(演技手法)、いかにナチュラルに、自然でリアルな芝居をするか。
『龍馬伝』は登場人物の「感情の起伏の大きい」芝居です。それに比べると日常我々が見ているTVドラマのお芝居はいかに(動きが)大袈裟か。あれは映像の芝居ではない、と思います。
ただ、『龍馬伝』は江戸時代末期の話です。本当はそれを言ってしまえば、登場人物の立場によって劇中でのポジションがすべて決まってしまうという・・・上士と下士がいて、お殿様は当然上座で、という。でも、我々が描こうとしたのはその階層、ヒエラルキーを壊そうとした人々だったわけで。それを表現すること・・・我々は「下剋上」と呼んでいましたが、ひっくり返す、いったん社会の仕組みを壊し、その代わりのポジションに入ろうとする・・・どんな動きをして物事を変えようとしたのか。それを、身体の動きで示そうとしました。
実は日本の時代劇は「サムライ・ミーティング」と言われたりします。それは多分に揶揄を含んだ意味合いで、サムライが車座になって、何の動きもなくじっと座って何やら相談事をしたりしている。その内容が、言葉がわからない外国人には伝わらないわけです。チャップリンはその逆です。言葉がなくても通じる。そういうことから、映画的と言うのは動的、motionであるということが言えます。
ところで映像はスクリーンなりTV画面なりに映される二次元です。それをどうやって3D、4D、5D・・・といった多次元の奥行きを作っていくか。撮るときはそれを考えています。そしてハリウッドにはその奥行きを出すためのツールや手法がちゃんとあります。たとえば、この講堂で150人がいるならば、これをここ(演壇上)からカメラでこう撮れば、150人分の奥行きが出ます。そのように、どう立体的に画面を見せるか。この「奥行き作り」に関しては、ハリウッドは結構真面目にやっているんです。たとえばエキストラの数、カメラの位置、動き、カメラのズーム、その空気感、たとえばここ(演壇上)からそこ(聴講席最前列)を普通に撮ると、この距離が映像での「空気感」となって生じます。ではズームを使って大きくしてみるとどうか。確かに被写体は大きくなりますが、その映像にはまだその(距離に由来する)「空気感」が消えずに残ってしまっているんです。では、カメラをレールショットにしたり、クレーンを組んでそちらに近づけて撮るとどうか。人物をヨリで(接近して)撮ると、その空気の層が変わるんです。この「空気の層」・・・何も見えないようでいて、とても映像に影響するものです。それは、人数がいたら人数分の「奥行き」が映像に生まれるのと同じことです。
アメリカにいる時にオーソン・ウェルズ監督の『市民ケーン』(1941年公開)を見ました。この映画は「奥行きを出す」ことにものすごくこだわっていて、当時としてはとても贅沢な作品だったと思います。見たときに「2次元の映像に、説得力のある3次元の奥行きを作っている」というのを感じました。ですが、あれを今やろうと思ったらどれだけ予算があっても足りないのも事実です。
ハリウッドには資金があります。90年代、アメリカにいたころに平均的なデータとして映画1本70億円、と言われていました。そのうち20億が宣伝で、50億が製作費・・・まあ、その大半は人件費でしょうが。50億、そのくらいあると機材だってエキストラだって何でもやれます。こ~~~んな(と、両手をめいっぱい広げる)長大なクレーンだって借りてこれますし、エキストラだって何百人と使える。ただ現実の問題、『龍馬伝』で長州が幕府軍を攻めた『馬関の奇跡』の回では、使えるエキストラが20名しかいなかったんですよね(苦笑)。撮影後半でお金が無くなってきていたものですから。そこでどうするか?という工夫もあります。
要は「いかに立体的に」「いかに(視聴者に)TVの中の話としてではなく、体験として見てもらえるか」・・・映像を通じて共有していくものとして見てほしい、いかに他人事ではなく、その世界に自分もいるという気持ちで入ってきてもらうか。ハリウッドがこれを突き詰めた先にあるのが「3D」・・・一枚の写真(2D)から出たもの(映像)が、3Dまで辿り着いたのです。
どうやって「奥行き」にこだわるか。TVドラマ制作に許される予算は、映画に比べると比較にならない(ほど少ない)ものです。では「奥行き」を作るためにどんなことをしたかというと、まずお芝居から。別に、画面から忍者ハットリ君の腕がニョキッ!って飛び出してこなくてもいいわけですよね?(会場爆笑!・・・っていうか例えが古すぎないか?大友D!)映像の「もの」ではなくて俳優の芝居にある「奥行き」それを出せるように工夫しました。つまり役者の「奥行き」とは心情、また「深く、目に見えない」もの、それを作るということです。
民放のドラマを見ていますと・・・あ、民放関係者の方はいますか?これは非難しているわけではないので!すみません!(会場笑)・・・スケジュールがあり、スポンサーがあり、タイアップした衣装は汚しちゃいけないとかの問題があって、いろいろと表現の制約があるんです。たとえば服でも、着こなしというか、身体に馴染んだもの、その馴染み具合なんかが、実は役者の表現する映像的奥行きにものすごく影響します。ただ、日本の映像界はそういうところに関する意識がまだ弱い。
黒澤監督は、戦闘シーンを撮るのに一ヶ月や二ヶ月の間役者たちに鎧を着せてリハーサルをしたといいます。ご存じのとおり、鎧はとても重いですから、普通には動けないです。それを毎日着ているうちに役者の体が「鎧を着た時に一番自然にかなっている所作」を身につけていきます。役者が体得したもの、その自然な動きは映像にさらに奥行きを与えます。一番良い時の日本映画はそういう作り方をしていたんだと思います。そして世界に評価された。しかし、今はそれができない状況でもあります。
ハリウッドではそうしたリアリティに対するこだわりを今でもきっちり持ってやっています。たとえば、トム・クルーズが日本にやってきて、サラリーマンの役を演じることになったなら、彼は一ヶ月や二ヶ月の間日本に来て、毎日電車に乗って通勤して(サラリーマンとしての)身体を作るでしょう。それが役作りってものです。その「奥行き」がないと役者が役者本人のままで、役になりきる前に撮り終わってしまうということもあるわけです。そうした映像をみても、役者が演じている人物ではなく素の役者にしか見えないし、当然深みもないわけで。ただ、TV会社も事務所もお金を稼がないといけませんから、一ヶ月も二ヶ月も俳優を拘束されてはほかの仕事ができませんよね。さっさと撮って、CMやほかのドラマを入れたほうがいいでしょう(会場笑)。
限られたスケジュールと時間ではあるものの、『龍馬伝』では若い役者さんたちにいかに幕末の空気感、志士たちの気持ちを体得してもらえるか、その一つの方法として刀を持ってもらいました。人を殺せるものを持ち歩くというのがどういうことなのか。実際に大根とか、藁の束とかも切ってもらいました。もちろん銃刀法違反になってしまうといけないので、資格を持った方に一緒についていただいて、ですが。
刀を実際に持つと、まずその重さに驚きます。わざわざ腕を振るわずに、腰からすっと刀身の重さに任せて「落とす」ようにすれば、藁でもなんでもスッと切れてしまうんです。俳優が実際にその「切れる」感覚を身近に感じることで、少しでも演技に奥行きが出ればという狙いがありました。
またリアリティや奥行きを求める手法の一つに「汚し」があります。これ、私の趣味のように言われてることもあるんですけれど(会場爆笑)違います!生活感を出していくための工夫です。
生活風景を最初に撮ったのは広島の「みろくの里」ロケでしたが、土佐の街並みを再現するにあたって「乾いている」→「土埃」→「汚れる」という感じを出すために『龍馬伝』ですっかり有名になったコーンスターチ(笑)をリアル土埃の代わりに吹き付けて衣装やメイクに生活感を出していました。それはジョン・ウェインの西部劇の一シーンと同じで、あの土埃の舞う西部の田舎町、そこに観客も一緒に「居る」ことを体験させるような、そんな工夫でした。
衣装とメイクについて。これも「汚し」によって生活感が出ます。あの時代、いつも皆きれいな服を着ているわけではありません。毎日クリーニングに出すわけがない(笑)だから、着物も普通は衣装部にきちんと畳んで仕舞われていて、折り目が綺麗に付いているのを、衣装部の方に頼んでわざと折り目を消したり、綺麗な着物に「汚し」をかけてもらったりします。セットも衣装も同じことで、汚したら当然またきれいにしなければなりません。服なら洗濯して、セットならば同じセットを他の撮影で使うこともありますから、汚れたままでは使い回しできないので、これまたきれいな状態に戻す。一人二人ではなく、何百人分のエキストラも含めた着物のこととなると、それは膨大な量の仕事を生んでしまいます。担当スタッフはそれでもやってくれますが、やはり、リアリティの追求よりも「その職業の方の都合」が出てしまうのは、見る側から考えた論理ではないですよね。あくまでも制作側の都合であって。『龍馬伝』では、申し訳なかったんですがスタッフの方にお願いして、全部やってもらいました。
血(血糊メイク)についてもそうです。先ほど見ていただいたDVDでも出ました、以蔵のメイク・・・あれは、みなさんどうですか?(会場内に何とも言えない空気が流れる)・・・そうなんですよね。普通の、いわゆる放送業界の暗黙の諒解のようなもので言えば、明らかにあれは「やりすぎ」です。あそこまでやらなくってもいいだろうと。そして武市半平太の切腹シーンも、普通なら一回目を腹に突き立てたところでカメラカット的には顔のアップに移ります。あんな血が出る切った腹は絶対に見せない。ここに子どもさんがいらっしゃったら見て怖い思いをされたかもしれませんが、ごめんなさい(笑)。でも3回切ってすさまじいまでの武市の覚悟を見せたい。いわゆる「お約束」の演出には反していますが、では「お約束」通りで、それでいいんですか!?と。(←「それでいいんですか?!」のちょっとハゲタカっぽい言い方に笑ってしまいました)
ハリウッドで作られたファンタジーを見ると、たとえば「ハリー・ポッター」シリーズなどはちゃんと「闇の魔法使い」たちを怖く作ってあるんです。リアルに怖さを追求しています。ファンタジーとしてのリアルな怖さがあるからこそ、ファンタジーが成立する。マンガだから、ではなく、マンガだからこそのリアリティを追求することで、制作側はどうやって登場人物たちを「血の流れる、感情を共有できる人間」にしていくか・・・。
『龍馬伝』も、歴史上の人物を視聴者に「感じて」もらうことを大切にしていました。血、汗、涙、鼻水、あの福山雅治だって鼻水を流して泣く、ということです。自分たちと同じ人、というか「すぐ隣にいる人」、実際に存在している人として作る、それがハリウッド的と言えることで、また『龍馬伝』の基本スタンスでした。これは作り手の野心とでも言っていいもので(笑)「リアリズムをお茶の間に復活させたい!」という気持ちです。お茶の間って、ある意味ものすごい日常空間じゃないですか。そこへ、ほんのちょっとでもいいから、そのリアリズムで「見る側を『この世界』に引き込みたい!」という野心です。
それは「音」(音響効果=SE)ひとつとってもそうです。映像と同じく音にも「奥行き」があります。近景・中景・遠景、と重ねることで「音の奥行き」が出せる。たとえば人物がしゃべるセリフの声が「近景」で、その場面が夏であれば、庭でセミが鳴いている声、台所で誰かが炊事をしているような物音は「周囲の音(中景)」そして、家の外で子どもたちが遊んでいたり、物売りが流して歩いていくような「遠景の声」・・・これは「映画的」な音の作り方です。対してTVドラマはまずセリフの音を立てて、それに「音(SE)をかける」まずセリフが聞こえないとダメという。確かにセリフを聞き取るのは大事なことですが、雑な作りのドラマだとセリフ以外にSEが3つくらいしかないようなものもあります。やろうと思えばSEを12チャンネルとか15チャンネルとか(一つのシーンに多重に)かぶせて作ることもできるんです。ただ、それをやると音響スタッフの仕事は当然増えるわけで・・・。
SEの仕事が、もしも3つくらいの音を重ねることでできてしまうようなものだったら、仕事を始めてから2~3年で一通りできちゃうと思います。でも、そのあとの仕事の広がり、音の世界での進化というものはない。
映画は「フレームの外の音」をどういうふうに映像にあてるか考え、音によって画面の奥の世界を観客に想像させる、そんな奥行きがある音を作ります。(見た側による「映画的な」という評価とは逆に)こちら側から「『龍馬伝』は映画的」といった時には、そういったポイントがあります。
* * *
大友D「質疑を交えてって言ってますので、このあたりで少し聞いたほうがいいかなと思って。何か質問はありますか?」
観客席にマイクが向けられる。
観客4)『龍馬伝』を見ていて、他のドラマを見ているとやはり照明の明るさや色合いといったものが違っていて気になります。撮影の際に何か工夫されていることはありますか?
大友D)はい、よく言われます。何年か前までの時代劇を見ていますと、実は照明の当て方というのはむしろ『龍馬伝』に近いものがありました。『必殺仕掛人』や『水戸黄門』でもそうです。ちゃんと影ができています。でも今は全部ビカビカに(注:ここはビカビカとおっしゃっていました。ピカピカ、ではなく)光を当てています。あれね、光を当てれば良いってものじゃなくて、今のハイビジョンカメラで撮ると鬘の生え際とか化粧とか、アラもボロも全部見えてしまうから・・・。映像が「闇」や「陰影」を排除する方向に行っている気がします。
昔はフィルムで撮っていたせいか、ちゃんと映像には影がありました。グレースケールと言いまして、黒と白の間のグラデーションですが、その黒白だけで「奥行き」は作れるんです。それが今ではスタジオの天井にいっぱい照明を釣って、すべてまんべんなく光を当てています。ですから『龍馬伝』では今回すべてスタジオのセットに「屋根」をつけました。生活空間としての家だったり、屋敷だったり。役者がいかにリアルに演じていても、天井がないスタジオ撮影では絶対に「ああ、ここスタジオなんだよな」と意識が戻ってしまう。役者には撮影であることを忘れてほしかった。一方で屋根を付けてしまったので、天井に照明がつけられません。では、照明スタッフは「光源はどこになるのだろう」と考えないといけなくなります。当時の光源と言えば、燭台か、太陽の光です。それがどうやって入ってきて、どう人物やモノに当たるか。ちなみにハリウッドの撮影では大雑把なもので、太陽の位置を決めると、そこにもの凄くデカい照明をバーンとおいて、そこから撮影していきます。
『龍馬伝』では照明をスタジオの内部に入れました。「場明かり」というその場の照明が基本です。一般的にTVドラマでは照明の位置が決まっていると、役者に当たる光の加減や影なども全部決まってしまうので、役者はその立ち位置が決まってしまいます。ですが、『龍馬伝』では照明もカメラもその場にいて、役者の芝居を追いかけて撮るので、空間にいっぱい人はいますが、動きははるかに自由になります。
もともと日本人の陰影に関する感性、色彩感覚というのは独自のもので、非常に繊細だと思います。谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』ではありませんが、陰翳のみで世界観を作っていくことができるのです。そこで『龍馬伝』も「(本来の)時代劇の明かりに戻ろう」としました。
アナログテレビでは暗い、見えにくいと言われましたが、その辺は逆に非常に注意してやっています。見えないものは「見えなくてもいいもの」です。むしろ「(こちらが)見てほしいもの」を見てほしい。TVドラマ的な(まんべんなく当たる)照明ではなく、リアルに影ができるならそれでいい。逆光で人物の顔やシーンが見えなくなっても、見る側はその見えない中であれこれ想像をしてみていくわけですから。そうしたものを取り戻していきたい。それが「野心」です。
観客5)今後どのような作品を撮っていきたいですか?また、現在手掛けている作品はありますか?個人的には、また大人が見て楽しめる骨太なドラマ、経済ドラマなども見たいと思っているのですが。
大友D)ハゲタカのファンの方でしょう?(会場笑)まあそれに関しては、タイミングが合えば・・・ということで。(←笑いつつもビミョーな表情)今やっている企画はありますが、いろいろと難しいこともあって、まだご発表できる段階にはありません。
観客6)『龍馬伝』では、カット割りでなく一度で全部撮っていく、またカメラの動かし方なども印象的でした。役者の顔が見えなくても、それでいい、とおっしゃっていましたが、役者さんはそれでいいのでしょうか?せっかく演技しているのだから映してくれ、というようなことはないのでしょうか?たとえば、先ほど上映された武市半平太の切腹シーンも、最後に雨に打たれる右手が手前ではっきり写っていて、半平太役の大森さんの顔は遠くでぼやけてしまっています。あれでよいとした理由があれば教えてください。
大友D)まず切腹のもともとの意味からお話ししましょうか。いろんな説があると思いますが、まず「自分の潔白を証明する」腹黒いという言葉がありますが、まさに文字通り腹を切って「自分の腹は黒くない」というのを相手に見せる、はらわたをつかみ出して相手に見せる、そういったところまでが一連の切腹の儀式であったわけです。
ただ実際腹を切って内臓を掴み出して・・・というのは大変に見苦しいものでもあったので、それがイヤで見届ける側から死ぬ側への介錯の作法が出来上がったということです。
ただ、武市に限らず宮迫さんが演じた平井収二朗なども壮絶で、彼は牢内において筆も何もない中、爪で刻み込んだ遺書というのがありました。当時の人々の無念というもの、彼らは改革のために改革をするというようなどこかの政党のような(笑)気持ちではなく、真剣に革命を起こそうとしていた。志半ばで死なねばならなかった人々の無念が「坂本龍馬」になっていった。その無念を表現したかったのです。
武市半平太を演じた大森南朋さんが、武市のお墓にお参りに行ったそうです。そうしたら、何も伝えていなかったのに、武市の妻、冨役の奥貫薫さんが同じ日にやはり墓参りに来ていて、墓前で偶然に出会ったそうです。そうした偶然がある。人の無念というのは、人をそうして呼び寄せる力を持っているのでしょうか。思いがけないことが起きることがあります。
実際に以蔵や武市のシーンを撮っていると、確かに肩がずっしり重くなってくるんです。自分は霊感体質ではありませんが、何かあるんですね(笑)。先日萩に行く用事があり、松蔭先生や高杉さんのお墓にもお参りしてきました。その後松蔭先生の書いた「死生観」を読んでいると、またずっしりと来るんです。ああいうのを(映像として)見せてあげたい。
先程の武市の切腹後のカットですが、実はあの赤い血溜まりをメインに撮りました。(白い装束で)白地に赤い日の丸を抱えているような、想いを抱いて死んだ武市へのオマージュと言うか・・・私は右(翼的思想の持ち主)とかじゃありませんが、そうした制作サイドなりの礼というものを尽くしたかった。
もう一つ。あの場面での武市は既に絶命しています。彼は三段に切腹をしたためそのまま倒れ込んでしまい、首を落とすという通常の介錯ができなかったのです。資料には立ち合いの武士が脇腹を何度も突いて止めを刺したと残っています。そして死人に表情はありません。無表情なはずです。ですから映像のピントはそちら(顔)ではないのです。
観客7)今日はありがとうございました。大河ドラマファンとしても是非お聞きしたいことがあります。子どものころから親しんだ数々の大河ドラマですが、昨年の『龍馬伝』は今までこんなの見たことがない!という強烈な作品でした。(人物デザインを担当された)柘植さんの『龍馬デザイン』にも大友さん始め制作サイドの「これまでの大河ドラマの常識を覆す」「このままではいけない」と言った気概のような、チャレンジ精神を痛いほどに感じました。 振り返って、その大河制作における「革新の精神」というものは、現在NHKの内部、ドラマ制作班やスタッフの中に引き継がれて、いや多少なりと影響として残っているのでしょうか?それとも「何も変わらない」のでしょうか?NHK内部から見て率直なところを是非ともお伺いしたく思います(会場爆笑)。
大友D)うーん…(笑)私は「残っていく」のは「個人」ではないかと考えています。組織ではなく。
「個人」があれ(龍馬伝的手法)をどう受け取ったか、良いと感じたか、あるいはそうでないのか。組織の中、まして大河ドラマのような大きな現場では「個人」は萎縮しがちになる。大河っぽいことを!となると(過去の積み上げや規模の大きさもあって)どんどん萎縮してしまう。でも残っていくのは「個人」です。
そもそもドラマは制作する題材によって手法は違います。幕末を描いた『龍馬伝』と戦国時代を舞台にした『江』では制作のスタンスは異なるはずです。同じ時代を取り上げていても、スタイルは毎年違っていいはずなんです。それを題材ごとに一歩一歩作っていく。成功したからと言って、その手法が全てに応用できるわけではないし、見て「そういうやり方もあるか」と思った人もいるでしょうが、(制作)全部がそっち(の手法)に行く、ということもありません。真似されても困るし、簡単に真似されたくないです(笑)。
大河ドラマの制作は視聴率20%がベースにあるNHKの言わば金看板、その大河ドラマでありつつも、我々がまず話し合ったのは「坂本龍馬の話を作ろう!」・・・『龍馬伝』ならではのことをやろう、大河をやるつもりではなく、20%を取れるドラマで、なおかつ作り手も楽しいものにしよう!作る側が守りに入ってしまわないように・・・そんなことでした。
柘植さんとも話しましたが「大河ドラマの常識を壊す!」と言いながら完全には振り切れない、まあまあこのくらいで、とか(腕をメーターのように振り切って、少し戻す)完全には壊せない。それに加えて「大河をやろう」というとスタッフはいつも以上に小さくまとまってしまうんです。
その中でもやはり「残っていく」のは「個人」ではないかと。
司会)ありがとうございました。
では最後に大友さんから一言お願いします。
大友D)今日はたくさんの方に来ていただき、ありがとうございました。『白洲次郎』『ハゲタカ』とも、日本の現状ではできないチャレンジをしている作品です。是非お時間のある時『龍馬伝』ともどもレンタル屋さんででも手にとって頂いて、何度でも楽しんでいただければと思います。
ありがとうございました。(拍手)
* * *
おしまい
前回から約8カ月後、同じく名古屋市の東海高校で行われた講演のメモです。この直後に大友監督はNHKを退局され、文字通り「脱藩浪人」としてのキャリアを歩まれ始めたわけですが、その前にお話しする機会があった時に、そんなことを考えてらっしゃるんじゃないかなあ…とある「予感」を覚えたことを、今でも覚えております。
ちなみに最後の質問をしたのは、私です!(笑) (2014年5月)
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東海中学/高校 サタデープログラム18th
大河ドラマ『龍馬伝』監督 大友啓史の“映画的映像演出”
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皆様、こんにちは、大友です。
前回6月に実施されたサタデープログラムで話した内容がご好評をいただいたということで、今回も呼んでいただきました。本当にありがとうございます。
今日のタイトルの「映画的演出」ですが、『龍馬伝』は映画的だ、いつもの大河とは何かが違う、という評・・・ほめていただいたり、そうでなかったり、まあ、そういう言葉をいただくのですが、では「何が違うのか」それを話してほしいということでした。
映像にはTVで見るもの、映画館のスクリーンで見るもの、インターネット、ブロードバンドの映像など、いろいろな種類のものがあります。その中でなぜ『龍馬伝』は映画的といわれるのか?今日は会場の皆さんやと一緒に考えたいと思います。『龍馬伝』がどういう風に作られているのか、その謎解きを。
さて、今年も『江』がすでに5回か、6回まで終わって、昨年のことは記憶の彼方になってしまっている方もいらっしゃるかもしれません(会場笑)・・・それも寂しいので、最初にこちらの大画面で第二部のクライマックスを見ていただきます。大画面で見ると、テレビで見るときとどう違うか・・・を考えていただければ。
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第28話『武市の夢』DVD上映(ほぼ20分間)
弥太郎の家のシーン
武市の牢での三人の面会シーン
以蔵処刑シーン
武市切腹シーン
操練所の5人~第三部予告
(途中で壇を降りて、客席脇のスペースから一緒に大画面を眺めている大友D)
(会場内でやっぱりウルっときているのか、目頭を押さえる観客の方も大勢いました)
(予告パートが終わって上映終了)
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ざくっとみていただいて、何が違うか・・・みなさんにお聞きしたいのですが、ここからだと皆さんの顔が(逆光で)見えなくって(・・・と、手で観客側を指し示す~講堂内に再度淡く照明がつく)どなたかいらっしゃいませんか?
観客1)映画的と言えるかどうかわかりませんが、TVの画面で見ていると光量やスクリーンの大きさで見落としてしまっていた背景や、暗さの中に紛れていた微妙な色合い、役者の顔の筋肉の動き、目の表情までが、画面が大きくなることでさらに詳しく鮮明に読み取ることができるように思います。また、役者の顔にフォーカスが当たっていないシーンも、見る側が全体の絵として受け取る情報量ははるかに多くなっているようにも思いました。
観客2)光の当て方などのリアリティ、影がある分本物じゃないかというほどの深さ、色合いのニュアンスがあった。最近のハイビジョンで自然光のように映してしまうと、何もかもはっきり見えすぎて薄っぺらく見えてしまって…あの暗さが良さですよね。
観客3)武市半平太が牢から出て切腹の場に向かうシーンで、TVで見た時よりも光の加減でさらに後姿の着物の透け具合から空気の風のような動き、人物の持つ匂いまでが伝わってくるように感じました。
ありがとうございます。今日はこのあと、取材を担当してくれた中学生の生徒さん、映像つくりに興味を持っていると聞きました、彼らもいるので、質疑を交えながら進めていきたいと思います。
映画の歴史は一枚の写真から始まりました。映画というと舞台(芸術)に近いものを感じるかも知れませんが、映画のルーツは写真です。そしてハリウッドでは舞台に出る役者とTVドラマに出る役者は、完全に分かれています。日本だとそう区別がないですけど。舞台と映像の違いについて少しお話します。
一枚の写真をルーツとして始まった映像、その最初のものは、列車が駅のホームに入ってきて、静止する・・・という何でもないシーンを映したものでした。それも、今日本当は持ってきてお見せできればよかったんですけれど。その列車がホームにつく、という映像を見て、何て「そのまま」なんだ!と当時見た人々は驚いたんです。
映画を英語で言うと「movie」です。つまり動き、動画である。そして「move(動く)」という感覚がある。さらに「motion」身体そのものの動きと、さらに感情の動き「emotion」・・・これらをどう動的にとらえていくか、それが映画のルーツです。
映画の初期のものはチャップリンやキートンに代表される「無声映画」でした。セリフがなく、身体だけで表現する。セリフがない中で、身体でどう感情を見せるか。それは映像のルーツになりました。
また映画には映像だけではなく当然脚本もあります。私がハリウッドで通っていた学校で、クラスを担当していたのはマーティン・スコセッシ監督と共同脚本を書いている人でした。そしてクラスの課題で脚本を書くというのがあって、下手な英語で脚本を書くんです(笑)・・・持っていくと「I’m not your English teacher。(俺はお前の英語の先生じゃない)」ってボロカスに言われながら(会場笑)いっぱい赤を入れて直されたりするんですがね。
その先生が、「理想的な脚本」について話した時に、「セリフで語るのではなく、映像に語らせる。理想は無声映画(みたいなもの)、セリフではなく映像と音で語るのがいい」と言いました。
先ほど見ていただいた(第28話の)3人が牢で語り合うシーンは、そういう意味ではむしろ「舞台的」ですよね。会話で感情をぶつけ合う、表情、細かな感情表現・・・でも、これを実際に舞台でやると、ほとんどのお客さんからは役者の表情は見えません。しかも3人肩寄せあったまんま殆ど動かないし(笑)。そこへいくと、映像は画面の大きさを変えることができます。より近くに、役者の顔を見えるように撮る。これは(映像表現の)メリットです。
舞台だと役者の芝居が見えない、動かない。そうした点を補うために、舞台役者の芝居はどんどん大きくなっていきます。時として現実ではありえないくらいオーバーな表現も必要になります。それが舞台です。対して、映画は写真から生まれたものです。写真というのはリアリズムの極なわけで、そういうことからも映画での芝居はリアリズム、リアルな芝居をしてほしい、と役者に求めていきます。映画での芝居は舞台とは別の方向で、何が動くのか?といえば、身体ではなく感情・・・目の表情など、舞台を見る観客席の彼方からは見えないものが見えるようなものになります。
昔の日本映画を創っていた人たち、香川京子さんが黒澤明監督に言われたことで、「芝居をするな」「余計なことをするな」「アップで撮るから、身体じゃなくて心を動かして。それをカメラできちんと撮っていくから、そういうお芝居をしてほしい」と言われたそうです。つまりmotionでなくemotion。そういうアクティング・メソッド(演技手法)、いかにナチュラルに、自然でリアルな芝居をするか。
『龍馬伝』は登場人物の「感情の起伏の大きい」芝居です。それに比べると日常我々が見ているTVドラマのお芝居はいかに(動きが)大袈裟か。あれは映像の芝居ではない、と思います。
ただ、『龍馬伝』は江戸時代末期の話です。本当はそれを言ってしまえば、登場人物の立場によって劇中でのポジションがすべて決まってしまうという・・・上士と下士がいて、お殿様は当然上座で、という。でも、我々が描こうとしたのはその階層、ヒエラルキーを壊そうとした人々だったわけで。それを表現すること・・・我々は「下剋上」と呼んでいましたが、ひっくり返す、いったん社会の仕組みを壊し、その代わりのポジションに入ろうとする・・・どんな動きをして物事を変えようとしたのか。それを、身体の動きで示そうとしました。
実は日本の時代劇は「サムライ・ミーティング」と言われたりします。それは多分に揶揄を含んだ意味合いで、サムライが車座になって、何の動きもなくじっと座って何やら相談事をしたりしている。その内容が、言葉がわからない外国人には伝わらないわけです。チャップリンはその逆です。言葉がなくても通じる。そういうことから、映画的と言うのは動的、motionであるということが言えます。
ところで映像はスクリーンなりTV画面なりに映される二次元です。それをどうやって3D、4D、5D・・・といった多次元の奥行きを作っていくか。撮るときはそれを考えています。そしてハリウッドにはその奥行きを出すためのツールや手法がちゃんとあります。たとえば、この講堂で150人がいるならば、これをここ(演壇上)からカメラでこう撮れば、150人分の奥行きが出ます。そのように、どう立体的に画面を見せるか。この「奥行き作り」に関しては、ハリウッドは結構真面目にやっているんです。たとえばエキストラの数、カメラの位置、動き、カメラのズーム、その空気感、たとえばここ(演壇上)からそこ(聴講席最前列)を普通に撮ると、この距離が映像での「空気感」となって生じます。ではズームを使って大きくしてみるとどうか。確かに被写体は大きくなりますが、その映像にはまだその(距離に由来する)「空気感」が消えずに残ってしまっているんです。では、カメラをレールショットにしたり、クレーンを組んでそちらに近づけて撮るとどうか。人物をヨリで(接近して)撮ると、その空気の層が変わるんです。この「空気の層」・・・何も見えないようでいて、とても映像に影響するものです。それは、人数がいたら人数分の「奥行き」が映像に生まれるのと同じことです。
アメリカにいる時にオーソン・ウェルズ監督の『市民ケーン』(1941年公開)を見ました。この映画は「奥行きを出す」ことにものすごくこだわっていて、当時としてはとても贅沢な作品だったと思います。見たときに「2次元の映像に、説得力のある3次元の奥行きを作っている」というのを感じました。ですが、あれを今やろうと思ったらどれだけ予算があっても足りないのも事実です。
ハリウッドには資金があります。90年代、アメリカにいたころに平均的なデータとして映画1本70億円、と言われていました。そのうち20億が宣伝で、50億が製作費・・・まあ、その大半は人件費でしょうが。50億、そのくらいあると機材だってエキストラだって何でもやれます。こ~~~んな(と、両手をめいっぱい広げる)長大なクレーンだって借りてこれますし、エキストラだって何百人と使える。ただ現実の問題、『龍馬伝』で長州が幕府軍を攻めた『馬関の奇跡』の回では、使えるエキストラが20名しかいなかったんですよね(苦笑)。撮影後半でお金が無くなってきていたものですから。そこでどうするか?という工夫もあります。
要は「いかに立体的に」「いかに(視聴者に)TVの中の話としてではなく、体験として見てもらえるか」・・・映像を通じて共有していくものとして見てほしい、いかに他人事ではなく、その世界に自分もいるという気持ちで入ってきてもらうか。ハリウッドがこれを突き詰めた先にあるのが「3D」・・・一枚の写真(2D)から出たもの(映像)が、3Dまで辿り着いたのです。
どうやって「奥行き」にこだわるか。TVドラマ制作に許される予算は、映画に比べると比較にならない(ほど少ない)ものです。では「奥行き」を作るためにどんなことをしたかというと、まずお芝居から。別に、画面から忍者ハットリ君の腕がニョキッ!って飛び出してこなくてもいいわけですよね?(会場爆笑!・・・っていうか例えが古すぎないか?大友D!)映像の「もの」ではなくて俳優の芝居にある「奥行き」それを出せるように工夫しました。つまり役者の「奥行き」とは心情、また「深く、目に見えない」もの、それを作るということです。
民放のドラマを見ていますと・・・あ、民放関係者の方はいますか?これは非難しているわけではないので!すみません!(会場笑)・・・スケジュールがあり、スポンサーがあり、タイアップした衣装は汚しちゃいけないとかの問題があって、いろいろと表現の制約があるんです。たとえば服でも、着こなしというか、身体に馴染んだもの、その馴染み具合なんかが、実は役者の表現する映像的奥行きにものすごく影響します。ただ、日本の映像界はそういうところに関する意識がまだ弱い。
黒澤監督は、戦闘シーンを撮るのに一ヶ月や二ヶ月の間役者たちに鎧を着せてリハーサルをしたといいます。ご存じのとおり、鎧はとても重いですから、普通には動けないです。それを毎日着ているうちに役者の体が「鎧を着た時に一番自然にかなっている所作」を身につけていきます。役者が体得したもの、その自然な動きは映像にさらに奥行きを与えます。一番良い時の日本映画はそういう作り方をしていたんだと思います。そして世界に評価された。しかし、今はそれができない状況でもあります。
ハリウッドではそうしたリアリティに対するこだわりを今でもきっちり持ってやっています。たとえば、トム・クルーズが日本にやってきて、サラリーマンの役を演じることになったなら、彼は一ヶ月や二ヶ月の間日本に来て、毎日電車に乗って通勤して(サラリーマンとしての)身体を作るでしょう。それが役作りってものです。その「奥行き」がないと役者が役者本人のままで、役になりきる前に撮り終わってしまうということもあるわけです。そうした映像をみても、役者が演じている人物ではなく素の役者にしか見えないし、当然深みもないわけで。ただ、TV会社も事務所もお金を稼がないといけませんから、一ヶ月も二ヶ月も俳優を拘束されてはほかの仕事ができませんよね。さっさと撮って、CMやほかのドラマを入れたほうがいいでしょう(会場笑)。
限られたスケジュールと時間ではあるものの、『龍馬伝』では若い役者さんたちにいかに幕末の空気感、志士たちの気持ちを体得してもらえるか、その一つの方法として刀を持ってもらいました。人を殺せるものを持ち歩くというのがどういうことなのか。実際に大根とか、藁の束とかも切ってもらいました。もちろん銃刀法違反になってしまうといけないので、資格を持った方に一緒についていただいて、ですが。
刀を実際に持つと、まずその重さに驚きます。わざわざ腕を振るわずに、腰からすっと刀身の重さに任せて「落とす」ようにすれば、藁でもなんでもスッと切れてしまうんです。俳優が実際にその「切れる」感覚を身近に感じることで、少しでも演技に奥行きが出ればという狙いがありました。
またリアリティや奥行きを求める手法の一つに「汚し」があります。これ、私の趣味のように言われてることもあるんですけれど(会場爆笑)違います!生活感を出していくための工夫です。
生活風景を最初に撮ったのは広島の「みろくの里」ロケでしたが、土佐の街並みを再現するにあたって「乾いている」→「土埃」→「汚れる」という感じを出すために『龍馬伝』ですっかり有名になったコーンスターチ(笑)をリアル土埃の代わりに吹き付けて衣装やメイクに生活感を出していました。それはジョン・ウェインの西部劇の一シーンと同じで、あの土埃の舞う西部の田舎町、そこに観客も一緒に「居る」ことを体験させるような、そんな工夫でした。
衣装とメイクについて。これも「汚し」によって生活感が出ます。あの時代、いつも皆きれいな服を着ているわけではありません。毎日クリーニングに出すわけがない(笑)だから、着物も普通は衣装部にきちんと畳んで仕舞われていて、折り目が綺麗に付いているのを、衣装部の方に頼んでわざと折り目を消したり、綺麗な着物に「汚し」をかけてもらったりします。セットも衣装も同じことで、汚したら当然またきれいにしなければなりません。服なら洗濯して、セットならば同じセットを他の撮影で使うこともありますから、汚れたままでは使い回しできないので、これまたきれいな状態に戻す。一人二人ではなく、何百人分のエキストラも含めた着物のこととなると、それは膨大な量の仕事を生んでしまいます。担当スタッフはそれでもやってくれますが、やはり、リアリティの追求よりも「その職業の方の都合」が出てしまうのは、見る側から考えた論理ではないですよね。あくまでも制作側の都合であって。『龍馬伝』では、申し訳なかったんですがスタッフの方にお願いして、全部やってもらいました。
血(血糊メイク)についてもそうです。先ほど見ていただいたDVDでも出ました、以蔵のメイク・・・あれは、みなさんどうですか?(会場内に何とも言えない空気が流れる)・・・そうなんですよね。普通の、いわゆる放送業界の暗黙の諒解のようなもので言えば、明らかにあれは「やりすぎ」です。あそこまでやらなくってもいいだろうと。そして武市半平太の切腹シーンも、普通なら一回目を腹に突き立てたところでカメラカット的には顔のアップに移ります。あんな血が出る切った腹は絶対に見せない。ここに子どもさんがいらっしゃったら見て怖い思いをされたかもしれませんが、ごめんなさい(笑)。でも3回切ってすさまじいまでの武市の覚悟を見せたい。いわゆる「お約束」の演出には反していますが、では「お約束」通りで、それでいいんですか!?と。(←「それでいいんですか?!」のちょっとハゲタカっぽい言い方に笑ってしまいました)
ハリウッドで作られたファンタジーを見ると、たとえば「ハリー・ポッター」シリーズなどはちゃんと「闇の魔法使い」たちを怖く作ってあるんです。リアルに怖さを追求しています。ファンタジーとしてのリアルな怖さがあるからこそ、ファンタジーが成立する。マンガだから、ではなく、マンガだからこそのリアリティを追求することで、制作側はどうやって登場人物たちを「血の流れる、感情を共有できる人間」にしていくか・・・。
『龍馬伝』も、歴史上の人物を視聴者に「感じて」もらうことを大切にしていました。血、汗、涙、鼻水、あの福山雅治だって鼻水を流して泣く、ということです。自分たちと同じ人、というか「すぐ隣にいる人」、実際に存在している人として作る、それがハリウッド的と言えることで、また『龍馬伝』の基本スタンスでした。これは作り手の野心とでも言っていいもので(笑)「リアリズムをお茶の間に復活させたい!」という気持ちです。お茶の間って、ある意味ものすごい日常空間じゃないですか。そこへ、ほんのちょっとでもいいから、そのリアリズムで「見る側を『この世界』に引き込みたい!」という野心です。
それは「音」(音響効果=SE)ひとつとってもそうです。映像と同じく音にも「奥行き」があります。近景・中景・遠景、と重ねることで「音の奥行き」が出せる。たとえば人物がしゃべるセリフの声が「近景」で、その場面が夏であれば、庭でセミが鳴いている声、台所で誰かが炊事をしているような物音は「周囲の音(中景)」そして、家の外で子どもたちが遊んでいたり、物売りが流して歩いていくような「遠景の声」・・・これは「映画的」な音の作り方です。対してTVドラマはまずセリフの音を立てて、それに「音(SE)をかける」まずセリフが聞こえないとダメという。確かにセリフを聞き取るのは大事なことですが、雑な作りのドラマだとセリフ以外にSEが3つくらいしかないようなものもあります。やろうと思えばSEを12チャンネルとか15チャンネルとか(一つのシーンに多重に)かぶせて作ることもできるんです。ただ、それをやると音響スタッフの仕事は当然増えるわけで・・・。
SEの仕事が、もしも3つくらいの音を重ねることでできてしまうようなものだったら、仕事を始めてから2~3年で一通りできちゃうと思います。でも、そのあとの仕事の広がり、音の世界での進化というものはない。
映画は「フレームの外の音」をどういうふうに映像にあてるか考え、音によって画面の奥の世界を観客に想像させる、そんな奥行きがある音を作ります。(見た側による「映画的な」という評価とは逆に)こちら側から「『龍馬伝』は映画的」といった時には、そういったポイントがあります。
* * *
大友D「質疑を交えてって言ってますので、このあたりで少し聞いたほうがいいかなと思って。何か質問はありますか?」
観客席にマイクが向けられる。
観客4)『龍馬伝』を見ていて、他のドラマを見ているとやはり照明の明るさや色合いといったものが違っていて気になります。撮影の際に何か工夫されていることはありますか?
大友D)はい、よく言われます。何年か前までの時代劇を見ていますと、実は照明の当て方というのはむしろ『龍馬伝』に近いものがありました。『必殺仕掛人』や『水戸黄門』でもそうです。ちゃんと影ができています。でも今は全部ビカビカに(注:ここはビカビカとおっしゃっていました。ピカピカ、ではなく)光を当てています。あれね、光を当てれば良いってものじゃなくて、今のハイビジョンカメラで撮ると鬘の生え際とか化粧とか、アラもボロも全部見えてしまうから・・・。映像が「闇」や「陰影」を排除する方向に行っている気がします。
昔はフィルムで撮っていたせいか、ちゃんと映像には影がありました。グレースケールと言いまして、黒と白の間のグラデーションですが、その黒白だけで「奥行き」は作れるんです。それが今ではスタジオの天井にいっぱい照明を釣って、すべてまんべんなく光を当てています。ですから『龍馬伝』では今回すべてスタジオのセットに「屋根」をつけました。生活空間としての家だったり、屋敷だったり。役者がいかにリアルに演じていても、天井がないスタジオ撮影では絶対に「ああ、ここスタジオなんだよな」と意識が戻ってしまう。役者には撮影であることを忘れてほしかった。一方で屋根を付けてしまったので、天井に照明がつけられません。では、照明スタッフは「光源はどこになるのだろう」と考えないといけなくなります。当時の光源と言えば、燭台か、太陽の光です。それがどうやって入ってきて、どう人物やモノに当たるか。ちなみにハリウッドの撮影では大雑把なもので、太陽の位置を決めると、そこにもの凄くデカい照明をバーンとおいて、そこから撮影していきます。
『龍馬伝』では照明をスタジオの内部に入れました。「場明かり」というその場の照明が基本です。一般的にTVドラマでは照明の位置が決まっていると、役者に当たる光の加減や影なども全部決まってしまうので、役者はその立ち位置が決まってしまいます。ですが、『龍馬伝』では照明もカメラもその場にいて、役者の芝居を追いかけて撮るので、空間にいっぱい人はいますが、動きははるかに自由になります。
もともと日本人の陰影に関する感性、色彩感覚というのは独自のもので、非常に繊細だと思います。谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』ではありませんが、陰翳のみで世界観を作っていくことができるのです。そこで『龍馬伝』も「(本来の)時代劇の明かりに戻ろう」としました。
アナログテレビでは暗い、見えにくいと言われましたが、その辺は逆に非常に注意してやっています。見えないものは「見えなくてもいいもの」です。むしろ「(こちらが)見てほしいもの」を見てほしい。TVドラマ的な(まんべんなく当たる)照明ではなく、リアルに影ができるならそれでいい。逆光で人物の顔やシーンが見えなくなっても、見る側はその見えない中であれこれ想像をしてみていくわけですから。そうしたものを取り戻していきたい。それが「野心」です。
観客5)今後どのような作品を撮っていきたいですか?また、現在手掛けている作品はありますか?個人的には、また大人が見て楽しめる骨太なドラマ、経済ドラマなども見たいと思っているのですが。
大友D)ハゲタカのファンの方でしょう?(会場笑)まあそれに関しては、タイミングが合えば・・・ということで。(←笑いつつもビミョーな表情)今やっている企画はありますが、いろいろと難しいこともあって、まだご発表できる段階にはありません。
観客6)『龍馬伝』では、カット割りでなく一度で全部撮っていく、またカメラの動かし方なども印象的でした。役者の顔が見えなくても、それでいい、とおっしゃっていましたが、役者さんはそれでいいのでしょうか?せっかく演技しているのだから映してくれ、というようなことはないのでしょうか?たとえば、先ほど上映された武市半平太の切腹シーンも、最後に雨に打たれる右手が手前ではっきり写っていて、半平太役の大森さんの顔は遠くでぼやけてしまっています。あれでよいとした理由があれば教えてください。
大友D)まず切腹のもともとの意味からお話ししましょうか。いろんな説があると思いますが、まず「自分の潔白を証明する」腹黒いという言葉がありますが、まさに文字通り腹を切って「自分の腹は黒くない」というのを相手に見せる、はらわたをつかみ出して相手に見せる、そういったところまでが一連の切腹の儀式であったわけです。
ただ実際腹を切って内臓を掴み出して・・・というのは大変に見苦しいものでもあったので、それがイヤで見届ける側から死ぬ側への介錯の作法が出来上がったということです。
ただ、武市に限らず宮迫さんが演じた平井収二朗なども壮絶で、彼は牢内において筆も何もない中、爪で刻み込んだ遺書というのがありました。当時の人々の無念というもの、彼らは改革のために改革をするというようなどこかの政党のような(笑)気持ちではなく、真剣に革命を起こそうとしていた。志半ばで死なねばならなかった人々の無念が「坂本龍馬」になっていった。その無念を表現したかったのです。
武市半平太を演じた大森南朋さんが、武市のお墓にお参りに行ったそうです。そうしたら、何も伝えていなかったのに、武市の妻、冨役の奥貫薫さんが同じ日にやはり墓参りに来ていて、墓前で偶然に出会ったそうです。そうした偶然がある。人の無念というのは、人をそうして呼び寄せる力を持っているのでしょうか。思いがけないことが起きることがあります。
実際に以蔵や武市のシーンを撮っていると、確かに肩がずっしり重くなってくるんです。自分は霊感体質ではありませんが、何かあるんですね(笑)。先日萩に行く用事があり、松蔭先生や高杉さんのお墓にもお参りしてきました。その後松蔭先生の書いた「死生観」を読んでいると、またずっしりと来るんです。ああいうのを(映像として)見せてあげたい。
先程の武市の切腹後のカットですが、実はあの赤い血溜まりをメインに撮りました。(白い装束で)白地に赤い日の丸を抱えているような、想いを抱いて死んだ武市へのオマージュと言うか・・・私は右(翼的思想の持ち主)とかじゃありませんが、そうした制作サイドなりの礼というものを尽くしたかった。
もう一つ。あの場面での武市は既に絶命しています。彼は三段に切腹をしたためそのまま倒れ込んでしまい、首を落とすという通常の介錯ができなかったのです。資料には立ち合いの武士が脇腹を何度も突いて止めを刺したと残っています。そして死人に表情はありません。無表情なはずです。ですから映像のピントはそちら(顔)ではないのです。
観客7)今日はありがとうございました。大河ドラマファンとしても是非お聞きしたいことがあります。子どものころから親しんだ数々の大河ドラマですが、昨年の『龍馬伝』は今までこんなの見たことがない!という強烈な作品でした。(人物デザインを担当された)柘植さんの『龍馬デザイン』にも大友さん始め制作サイドの「これまでの大河ドラマの常識を覆す」「このままではいけない」と言った気概のような、チャレンジ精神を痛いほどに感じました。 振り返って、その大河制作における「革新の精神」というものは、現在NHKの内部、ドラマ制作班やスタッフの中に引き継がれて、いや多少なりと影響として残っているのでしょうか?それとも「何も変わらない」のでしょうか?NHK内部から見て率直なところを是非ともお伺いしたく思います(会場爆笑)。
大友D)うーん…(笑)私は「残っていく」のは「個人」ではないかと考えています。組織ではなく。
「個人」があれ(龍馬伝的手法)をどう受け取ったか、良いと感じたか、あるいはそうでないのか。組織の中、まして大河ドラマのような大きな現場では「個人」は萎縮しがちになる。大河っぽいことを!となると(過去の積み上げや規模の大きさもあって)どんどん萎縮してしまう。でも残っていくのは「個人」です。
そもそもドラマは制作する題材によって手法は違います。幕末を描いた『龍馬伝』と戦国時代を舞台にした『江』では制作のスタンスは異なるはずです。同じ時代を取り上げていても、スタイルは毎年違っていいはずなんです。それを題材ごとに一歩一歩作っていく。成功したからと言って、その手法が全てに応用できるわけではないし、見て「そういうやり方もあるか」と思った人もいるでしょうが、(制作)全部がそっち(の手法)に行く、ということもありません。真似されても困るし、簡単に真似されたくないです(笑)。
大河ドラマの制作は視聴率20%がベースにあるNHKの言わば金看板、その大河ドラマでありつつも、我々がまず話し合ったのは「坂本龍馬の話を作ろう!」・・・『龍馬伝』ならではのことをやろう、大河をやるつもりではなく、20%を取れるドラマで、なおかつ作り手も楽しいものにしよう!作る側が守りに入ってしまわないように・・・そんなことでした。
柘植さんとも話しましたが「大河ドラマの常識を壊す!」と言いながら完全には振り切れない、まあまあこのくらいで、とか(腕をメーターのように振り切って、少し戻す)完全には壊せない。それに加えて「大河をやろう」というとスタッフはいつも以上に小さくまとまってしまうんです。
その中でもやはり「残っていく」のは「個人」ではないかと。
司会)ありがとうございました。
では最後に大友さんから一言お願いします。
大友D)今日はたくさんの方に来ていただき、ありがとうございました。『白洲次郎』『ハゲタカ』とも、日本の現状ではできないチャレンジをしている作品です。是非お時間のある時『龍馬伝』ともどもレンタル屋さんででも手にとって頂いて、何度でも楽しんでいただければと思います。
ありがとうございました。(拍手)
* * *
おしまい