8月に池袋コミュニティカレッジで「役者論」をされるとお聞きしたので、書庫から昔のメモを引っ張り出してきました。(その1)この頃はまだNHKに在籍していらっしゃいました。毎回熱い語りとロジカルな創造スタンスに快い知的刺激と深い敬意を覚えたものです。
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2010年6月26日(土)
東海高校 第17回 サタデープログラム
『龍馬伝』の舞台裏、そして演出家の仕事
~龍馬伝のクオリティはハリウッド仕込みだった!~
講師:大友啓史氏(NHKディレクター)
本日は雨のなかありがとうございます。
今日は学生さんが中心となって運営をされているということで、非常に共鳴しました。名古屋というのは、家内の実家がこっちで、もうしばらく顔を出していないんですが・・・昨夜も遅くまで収録があり、(行けなくて)ゴメンナサイ!という感じで今日はなんとかこちらにやってきました。
今日は、演出という仕事、「龍馬伝」の中での仕事について、質問なども交えながら進めていきたいと思っています。よろしくお願いします。
初めに今年の大河ドラマ龍馬伝の放映前に作った10分程度のメイキング映像を見てください。(→VTRの内容は以前放映したNHKボイス50の龍馬伝編とほぼ重なり、メインキャスト、スタッフのインタビューと収録風景からなるもの)
さて、放映前のVTRでしたが、今年の大河はいつもの大河といろんな意味で違う、という反響があります。実はいろんな仕掛けがありまして・・・。
まず大河ドラマというのは一年の長丁場です。プロデューサーチームと演出チームの二つに大きく分かれて、全部で20人くらい。プロデューサーは3名、演出家は僕がチーフであと3名、そのほかにも助監督や制作担当が数名います。そのなかで、もともと演出というのは「いろんなものを魅力的に見せる」のが仕事です。与えられた素材をいかに魅力的、効果的に「見せていく」か。いわば料理人のようなものです。「どう表現したら魅力を引き出せるか」を与えられたテーマ、素材で考えていくうちに・・・少し欲張りになります。いい料理人であれば、もっといい素材を、と自分で市場に足を運んで素材を探したくなります。味付けでもそうです。同じ塩でも、全く違う塩はないかと探したり。そうしてどんどん仕事が増えていくのですが(笑)。
龍馬伝は、まず「誰を龍馬に?」から始まりました。誰が龍馬を演じたら一番魅力的に映るか。ここが勝負どころです。そして、坂本龍馬というのは、司馬遼太郎さんの「龍馬が行く」以来、これは悪い意味ではなく、多くの人に共有されている「あるイメージ」があると思います。そして、昨年末の「JIN」で評判の高かった内野(聖陽の)龍馬があります。
これからどうしていくか。どんな龍馬にしていくか。それを具体化していくのが演出家の仕事です。
そして「龍馬伝」の坂本龍馬には全く違う個性があります。よく「草食系龍馬」という表現をされた時がありましたが、とにかくこれまでにない坂本龍馬です。
自分には大河ドラマ「龍馬伝」で3つやりたいテーマがありました。
ひとつは、一次資料としての龍馬自身の「手紙」を紐解いていくこと。今でも、姉の乙女や兄の権平に宛てた直筆の手紙が残っています。それを先ず読みました。そうすると、読むうちに今までと全く違う「坂本龍馬」のイメージが浮かんできました。お茶目で、チャーミングで、繊細な一面を持った・・・よく知られる「改革家、革命家としての坂本龍馬」とはちょっと違う、女の人にモテただろうな、とか、そういう柔らかい感性がそれらの手紙から見えてくるんです。
その手紙は、さらに福山雅治さんの書かれる歌詞や、イメージにも重なってくるんです。スタッフ同士で話をして、一部で言われたような「他の人(俳優)に(主役の話を)持っていった」ということは一切なくて、そこにブレはなかったんです。草食系と言われようが、いわゆる「グイグイ」と引っ張っていく人よりも、人の話に耳を傾ける人で、だからこそ人と人とを結びつけることができる、そこから薩長同盟につながり、さらには倒幕という動きに結びついていったのだろうと。
そうして自分の中で「坂本龍馬は人の話をちゃんと聞ける人だった」という仮説が出来上がりました。さらに「福山龍馬」をどう魅力的に見せるか。そのために、周囲の(人物を演じる)役者の配置も考えます。それから時代背景・・・幕末というのは、「ついこの間」の話、間違いなく自分たちのたった数世代前に直接つながっている時代のように思うので、登場する人物も「すぐ隣にいる人」と・・・彼らが今の僕たちにつながっているんだ、と視聴者に感じてほしい、と思いました。
次にやったことは、写真をじっと見ることでした。幕末の写真で現存しているもの、有名人だけでなく、一般の市井の人々のもです。実は時代劇、大河ドラマにはそれらの「ルール」があって、着物やかつらにも「こういうものだ」的なルールがありました。
でも、当時の写真をいろいろ見ていると、本当にいろんな人がいるんです。たとえば、男性の頭の中剃り(=月代)の部分の幅も、人によってずいぶん違います。たとえば武市半平太、彼はあの幅がとても狭いです。さっきご覧いただいたVTRの中で、長次郎(大泉洋)は「僕のはちょっと広いんじゃないか」って言ってましたよね。歴史的な「定説」では、身分や職業によってだいたい広さは決まっていて、違ったと言うが、本当にそうだろうか?と。写真を見ると、ちゃんと生え際があって、もみあげがある人もいる。画一化されたイメージは違うのではないか?今だって(会場内には)いろんな人が隣にいます。「すぐ隣の近い人」・・・これが、「龍馬伝」の演出イメージでした。そこから「もしかして、こうなんじゃないか・・・?」という細かい観察が始まります。
物語の舞台である土佐に行ってみました。そうすると、現存する武家屋敷に取材に行くと、風の「抜け」がいい建物なんですね。僕は東北、岩手の出身ですが、南部曲屋なんていうのは寒いので建物の中を風が「抜けない」作りになっています。もっと違うところは、土佐ではロスにあるような観葉植物が武家屋敷の中にあるということ。いわゆる(一般的なイメージの)日本の武家屋敷と違う。それを見て「ああ、建物は日本なんだけど、植生はメキシコだ」(笑)と思ったり。
それから当時の道について。当然、舗装はされていませんでした。そこへ大八車や、馬、人が通れば、当然砂埃が上がります。通りを行く人はその砂埃を浴びて歩いていく、そういうディテールができていきます。もちろん、シャワーなんかないので、髪や着物も砂埃の汚れのついた感じになる。このドラマのせいでコーンスターチが一躍有名になってしまいましたが、このコーンスターチの粉がつくと、古びた感じ・・・当時の雰囲気「っぽい」!んです。さっきのVTRでも、寺島しのぶさんが犠牲になってましたが、「儀式」って言って大型扇風機でコーンスターチを役者さんに吹き付けて、演出で言うところのエイジング、着物でも着馴れた感じ、が出るようにしています。時代劇にあまり出ない役者さんだと二日三日着物を着ても「着馴れていない感」はどうしようもありませんが、シワや汚れがつくことで、「キマって」くるんです。
黒沢映画のようにそうした(時間を経たものをあらかじめセット、小道具、衣装などで)準備することができないもので、もっと即席的に日常的な生活感を出す。「すぐ隣にいる人」として効果的に見せるためのひとつのテクニックとして、コーンスターチは使っています。
演出的方針の決め方は、賛否あっても「いつもの大河と違う」・・・たとえば土佐の汗や、あの暑い夏の表現など。そこから幕末という「時代を変えようとした人々のエネルギー」を伝えていきたいと思っています。
中心となる役者は40代の人が多いです。福山さんは40歳、香川さんもそうです。今の僕たちの感覚で言うと違和感があるかもしれません。ですが、あの頃は20代ですでに30、40代という落着きを備えていた(人々の)時代です。今とは違います。現代は食生活も格段に違って、老化というか、老いが進みにくい・・・そんなだから、40代の役者が20代の役をやっても十分通用すると思っています。
幕末の20代が今の40代といっても過言ではない。それだけ、腰の据わった若者たちの時代です。考えても見てください。人を斬れる、殺せる、「刀」を腰に差して歩いているんですよ。そして、それをむやみに振り回さない、という教育をも合わせて受けている。そこで培われた抑制心や、理性・・・そうした武家の教育を受けた若者たちは、今よりもずっと落ち着いていたのではないだろうか?そう考えていくことで、彼ら(40代の役者)に20代を演じさせるといった「正当性」を見つけていきます。そうして、反応がきます。幕末の熱気というのは、今までいろんな制度に抑え込まれてきた・・・土佐では上士と下士の関係なども描いています・・・その鬱屈したエネルギーが、わーっと出る、そういう熱気です。
33年の人生で地球を2周半(≒75000キロ)した坂本龍馬。これはその時代としてはとんでもない距離です。彼が動くと、風が起こる。彼が動くと、その熱で人が汗をかいている。演出にはこれらを効果的に使いながら、一つ一つ(人物造形を?)うめていく・・・たとえば、龍馬はどういう人であったのか?俳優部とも、ときに説得し、ときに納得してもらいながら、進めていきます。これが、「龍馬伝」という物語の「基礎」になります。
さて「龍馬という題材」をどう「撮る」か。
今回はカメラを変え、撮り方を変えました。普通なら場面ごとのカット割りがあって、ここからここはこのカメラで撮ります、今度はこちらから別のカメラで撮ります、とシーンを全部、別々に撮っていきます。ですが「龍馬伝」では最初からカメラを3台構えて、全部回して一気に場面を撮っていきます。途中で切らないので、たとえば8分程度のシーンだと台本にして10~15ページ、役者は全部覚えないといけません。もちろん役者さんなので覚えてきますが、その緊張は相当なものです。そしてその8分を演じているうちに、役者自身の中に何か、予測しなかったものが生じてきます。
たとえば、あるシーンでそこは「物語的には」泣かなくてもいいところ、別に泣く(=演技)ような指示が入っているわけでもない、そんなところで、役者がふと涙をこぼすことがある・・・そう言うシーンは演技というよりも、むしろ日常のようなものに近く、僕たちはそういうものを一つ一つ拾っていく・・・ふと目にした何か、一見物語とは関係のない何か。それは、演技、理屈というよりも感性のような・・・芝居とは不思議なものです。そういうシーンが、一話42分の中にどれだけ、ふっと入っているか。それが、ドラマの中の人物を「すぐ隣の人」・・・歴史年表でもなく、坂本龍馬という「伝説」でもなく、「身近にいる人」と見る側に捉えれていただけるポイントかと思っています。
こういうときに、福山さんの俳優としてのポテンシャルを感じます。彼はもともとミュージシャンで、ライブに強い人です。だから、そうした状況をむしろ楽しんでくれています。「龍馬伝」の収録は毎日ライブをやっているかのようだ、と言ってくれている・・・そう言うはまり方をしてくれています。
現在放映中の第二部はもうすぐ終幕になります。土佐編を去年の10月から撮り始めて、7月11日放映の第二部の最後をもって、龍馬が幼いころから親しんできた幼馴染であり同志でもあった、武市半平太と岡田以蔵が舞台から退場します。ここで、実はサプライズを用意しています。半平太と、龍馬、そして弥太郎。この3人が再び顔を合わせる再会のシーンがあります。半年これまでずっと一緒にやってきた彼らの役を超えた絆・・・そこで「仕込み」が効いてくるんです。
福山さんのことで言うと、撮影時に「よーい、スタート!」の合図で彼は「福山雅治」から「坂本龍馬」になります。さっき言ったように、ひとつのシーンをコマ切りにせずに、長く撮ることで、「龍馬として」(その時間を)生きてもらう。長回しをしているから、そういう「役を生きる」シーンがいつもの大河ドラマより長いです。
役者が「役を、その感性で生きる瞬間」というのは、(演じているときに)出てくる感情が演技ではない・・・全く違った本当の感情、「真情」と呼べるものになる、ということです。そういったものが彼ら役者から零れ落ちてくる瞬間、そういうことを僕たちは拾っていくのです。
物語を効果的に見せるために、「坂本龍馬」というテーマを与えられて、何故龍馬なのか?彼はどんな人だったのか?を考えました。もっとも一般的なイメージは「時代を変えようとした人間」です。ですが、僕は法学部出身だからでしょうか、何かを語る時に「当事者適格性」というものをどうしても考えてしまう。その対象を語るに足る人間であるか、手法であるか。自分では「ちょっとあるかな」と思っています。
その人(=坂本龍馬)を表現するためには、龍馬に負けない斬新さ、自由を持っていないといけないのではないか?そう思いました。一方で「大河ドラマ」「日曜日夜8時」「視聴率20%」「50年近い歴史」何十年といった格式があるわけです。その重さに潰されそうになります。いつもの大河と同じことをやれば、というのは「龍馬(のしようとしたこと)と違う」そういう発想で、むしろ「今までにやってないことをやろうよ」だって「龍馬伝」だから、と、坂本龍馬その人をエクスキューズ、言い訳にして、「やらないところをやる」から入りました。
僕の感じた「坂本龍馬」は、自分を変える、その過程で出会った人を変える、その延長線上で、もしかしたら日本を変えたかもしれない、そういう人です。そんな人物を描くのですから、こちらもそう(変わる)しないと龍馬を魅力的には描けない、と。僕はNHKに属する一人の組織人ですが、龍馬は組織人ではなく、どこにも属さない人、フリーターみたいな人・・・そんな人がなぜ、あんなことができた?そういう方法論を使いました。
でも、新しけりゃいい、ってもんじゃありません。効果的に、いかに自由になるか。たとえば撮影するときに、役者の立ち位置、動きを決めません。「ここにカメラあるんでここでいったん止まって」という指示は、「龍馬伝」ではありません。役者は自由に動いて、カメラがそれを追っかけます。その勢いは、幕末という熱い時代を生き急いだ人々に相応しいのではないでしょうか。よく、大河ドラマは登場人物が座敷で向かい合って延々と話をしている「サムライ・ミーティング」と呼ばれたりするのですが、幕末の時代の彼らは、呑気に座ってなんかいられなかったのではないでしょうか。歩きながらでも話をする、やろうよ、動こうよ・・・といったエネルギー、それが龍馬ではないでしょうか。撮影では、人が動くとカメラもついて動きます。砂煙も立ちます。汗も出ます。そういうことで「物語」をよりリアルにしていければと思っています。
今後の龍馬伝について。(すべて史実の再現では当然ないので)ドラマの中の嘘をツッコミながら楽しむ人がいます。一方でそこでチャンネルを変える人もいます。視聴者の方に、ドラマとして、でもちゃんと自分の周りのリアルに感じてもらえるか・・・そのための一つ一つの表現を考えていくのが、演出という仕事です。
先日新聞に載った記事で、三菱の方が話をされるときに最初に「うち(の創業者)は鳥籠屋でしたから」と言って笑いを取った、という話がありました。あの鳥籠・・・あの籠を背負っている弥太郎、あれがリアルなの?というのは確かにあります。というのは、弥太郎の配役が決まり、衣装や小道具を決めていく段階で、鳥籠、という指示を僕が美術さんに出して、美術さんが「びっくりさせてやろう」とめちゃくちゃでっかいのを作ってきた、ということがあったんです。背負うと重すぎてひっくりかえりそう。さすがにそれはないだろう・・・(笑)と。でも、そのバカでかい鳥籠が、何故か見てて面白いんです。演出の「リアル」というのは、真面目にやるとみんな役者も真面目に問い詰めていってしまいます。でも、その「リアル」というのは人によって違うんです。料理の味と同じです。塩味が好きな人、醤油味が好きな人。塩加減も様々です。
その鳥籠の一件では、弥太郎役の香川照之さんがやっとの思いで大きな鳥籠を背負って、そこで「ニカっ」と笑ったんですよ。そうしたらみんながその笑顔につられて、笑いました。そういう面白さ、笑いは、真面目に「リアル」を追求してそれを相手に預けてしまうと出てきません。発想は自由に。リアルなんだけど、「隣の人」「すぐそばの人」、そして「面白いものを提案したもの勝ち」な雰囲気。スタッフが面白いかな?と見つけてきたものは、視聴者にとっても面白いか?そういうことの積み重ねです。坂本龍馬の生きた時代=幕末=自由。一回きりの人生だからこそ、自由に、という。スタッフだって、監督に言われてやるのはつまらないと思います。自分で面白いと思ったもの、それがどんどん広がっていく。それこそが「龍馬伝」のパワーなんです。
もちろん、ちゃんと時代考証はしています。でも、大河ドラマは時代考証や史実をただ真面目に再現するものじゃない。こう言うと語弊がありますが、リアルというならば幕末に身長180センチの人なんていません。平均身長150センチとかの時代です。顔立ちだって違います。本当の「リアル」は違う・・・それを乗り越えて、自由にやろうよ、というのが「龍馬伝」の考え方です。
ハリウッドに留学していたときのことです。ハリウッドでは組合(の労働管理)がとても厳しく、ユニオンと言いますが、それがとても強い力を持っています。だから制作スタッフのやることも厳密に決まっています。たとえば、日本なら照明さんが重い機材を抱えて歩いていると、周りが手伝ったりするのは普通です。でもハリウッドだと、自分の職分が決まっている。「これは俺の仕事だ、お前は俺の仕事を横取りしようとするのか」と手伝おうとするのを断る、そういう人もいます。
ハリウッドの映画製作の予算は、僕が留学していた当時は一本平均70億円でした。これは、組合が強いことで、スタッフに支払うギャラも当然高くなり、それが制作費に上乗せされるからなんです。5億円以下の予算の映画が「スモールバジェット」低予算映画、と呼ばれていたくらいですが、日本で70億って言ったらとんでもないことです。5億円でも大作と言われます。
では逆に組合に入っていないスタッフが集まった映画の製作現場はどんなだったかと言いますと、雰囲気がまったく違います。いい意味で、ぐちゃぐちゃというか、アメリカらしい、カリフォルニアらしいオープンマインドさ、思いつきを自由に取り入れられる・・・自分はそういうのをやりたい、と思いました。
演出家というのはヒエラルキーのトップです。でも、全員が自分の言うことを聞かなくちゃダメだ、ではなく、1人よりも50人、100人のアイディアを集めた方がいいものができるんじゃないか、と思っています。「龍馬伝」はそうした演出方針です。
スタッフの自由、と言いますが、自由というのは一方で「こわい」ものです。たとえば撮影スタッフに「自由に撮っていいよ」と言って、そのカメラさんが「何にも考えていない状態」で撮ったとします。そうすると、そのカメラ(映像)には力がない。自由に、というからには、撮る側に考え、意志が必要です。撮影カメラの担当は4人いますが、この4人の映像に差が出るんです。そして、編集した時に「強い映像、芝居」だけが生き残っていく。さっきの「力のない映像」は、全然使われないんです。だからスタッフ間での「龍馬伝」制作裏テーマは「下剋上」です!
自由である面白さ、これはチャンプルードラマとでもいいましょうか、アイディアのごった煮と、そこから生まれる熱気です。このごった煮のエネルギーこそが、幕末の当時のエネルギーになって現れてくるのでは、と考えています。
画面に映るものを(ただ)作るよりも、それを作るスタッフ、素材をどう作っていくか。能力を、魅力を、どう引き出していくか。そこに面白さがあります。
たとえば僕自身は撮影をするわけではありません。役を演じるのは役者、そこに効果的に光を当てるのは照明部のスタッフ、それを撮るのはカメラ撮影スタッフ、撮ったものを編集する編集スタッフ、大道具、小道具、セットを担当する美術部のスタッフ、そこへ音を加える音響効果スタッフがいます。では演出とは?演出の仕事というのは、彼らを結び付けて、自分のやりたいことを伝え、それらの仕事を効果的に組み合わせ、共有し、作品として出すということです。それがうまく行ったとき、スタッフがいいなと思っていたものがうまく形になった時は、自分だけが考えていた時よりもよほどいい。焼物のような感じです。(火を入れて、窯から出して初めてわかる)計算されない面白さがそこにはあります。
そして僕は監督や演出よりも、そうした制作スタッフの仕事が高く評価される方がうれしいんです。それぞれの存在、仕事を魅力的に効果的に「使っていく」・・・語弊があるかもしれませんが、「スタッフの能力を効果的に引き出していく」のが演出の仕事です。だから、たまには飲みに行ったりもしながら、あるいは「今年の大河はOOじゃないか」といった声に「すいません」と頭を下げたりしながら(笑)、現場とは全然違うところで汗をかくこともあります。
坂本龍馬という人間について。彼の一番面白いところは、新しい情報を手に入れたときに、その情報を確かめるためにその人に会いに行くんです。そんなに「動こう」と思う人はいないかもしれません。彼自信が動いているんです。それが面白い。今のようにネット社会ではありませんし、情報の伝わってくる早さも方法も違う。だから、龍馬は直接その発信源に会いに行く。その人間の持つ、体温のようなものを信じているんです。直接・・・つまり「じか」のコミュニケーションの達人です。龍馬が直接その人に触れることで、会う側、会われた側それぞれの体温が変わっていくんです。それが、龍馬の残した手紙を読むと伝わってきます。
こういった温度、熱さという抽象的なものをどうやって映像化するか。(これまでのドラマの様式美のような)ぬり絵ではなく、自分で汗をかいて走り回っていた人にする。そう言う龍馬を描くために、僕は頭も下げつつ、自己弁護もしつつ(笑)やっています。
さて、「龍馬伝」第三部は長崎編になります。第二部で、土佐時代からの同志、幼馴染みの死を乗り越えて、「日本をせんたく」するという決意を胸に抱いて、坂本龍馬という人間が歴史の表舞台に出てきます。これまでのDreamer、Adventurer からCommunicator、Negotiatorとしての龍馬の登場です。「成長していく」ことが「龍馬伝」のテーマです。
そして龍馬を演じる福山さんは長崎の出身です。故郷に対して特別な思いを持っている人です。「自分の生まれた土地」への愛着、誇り。福山さんが龍馬役を引き受けた大きな理由は、出身地長崎が物語のメインの舞台になる、というのがありました。当然、役者としての想いも「ノって」いくでしょう。福山さん個人の想いとあわさって、より効果的に「坂本龍馬」が「福山雅治」に一体化していく・・・それを演出するというのは、プロデュースでもありますが、ひとつの「共鳴」でもあります。
ドラマ、フィクションを作るということについて少しお話します。僕が作るのはドラマという商品です。これはアメリカにいるときに教わったことですが、商品というのは目に見えるもの、たとえば今この壇上にあるペットボトルの水。これを、ボトルと中身合わせて150円出して買うということ。手でさわれるもの、具体的なモノへの対価として、そのお金は支払われます。これは普通のビジネスです。
しかし、映像ソフトというのはそこに表現されているものに対する「感動」への対価です。これは本当に不思議な商品です。人によって、感動の基準も当然違います。人を動かすなんて大それたことだ、と思わないでもないですが、「人を動かすこと」「感動」を商品として提供する・・・それが、エンターテインメントの仕事です。そのためにはまず自分が感動しないものは売れません。まず、自分が見て感動できる商品かどうか?です。
一方で制作現場は「繰り返し」です。まず台本を読んだ時の感動があります。そして現場でそれが形になっていくときの感動があります。しかし、同じことを何度も繰り返すわけですから、そのうち感動の鮮度、最初に感じたあの心の動き、その感動の鮮度が薄れてしまう。だからこそ、制作のプロセスにおいて「新たな感動」を見つけていかないといけない。そうしないと最後まで(気持ちが)持ちません。
自分が台本を読んで感じた、持ったイメージ、それが役者や美術さんといったスタッフの手によって「あ、違うアイディアだ!」と気づく・・・それで心が新鮮な感動に戻ります。そしてさらに撮影したものを編集して、出来上がったものを見る、そこにさらに音楽が加わると、また新しい感動、違った見え方をしてきます。そう言った感動の積み重ねが大事だと思っています。何を撮るか、何を作るか、を「職人的に」こなしていくと、結果として「何を魅力的に伝えるのか」を忘れてしまうことにもなりかねません。
いかに(見る側である)「お客さん」のままでいるか。自分の作っているものをピュアに見られるか。もしもお客さんだったらどう見るだろうか。それは作り手の論理とは違います。自分のやったことが効果的に伝わっているかどうか・・・これは、独りよがりでなくチェックをしていくことが必要です。
作ったもの、ドラマに対する評判ですが、自分はネットマニアなので、放映後に検索して書いてあることを地味に結構チェックしています。批判も含めて、ああそうかと納得していったり・・・そう言う声をもらって、結果としてそれまで考えていたものを変えていくこともあります。ですから、今日来ていただいた皆様も、ネットなりブログなり書いていただければ、僕がどこかで見るかもしれませんので(笑)、是非遠慮なく書いていただければと思います。
今日はありがとうございました。
※本当は後半で見るはずだったVTRが10分あったものの、時間超過の為、放映話でそのまま質疑応答タイムへ入りました。
(本編のみ・QAは除く)
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2010年6月26日(土)
東海高校 第17回 サタデープログラム
『龍馬伝』の舞台裏、そして演出家の仕事
~龍馬伝のクオリティはハリウッド仕込みだった!~
講師:大友啓史氏(NHKディレクター)
本日は雨のなかありがとうございます。
今日は学生さんが中心となって運営をされているということで、非常に共鳴しました。名古屋というのは、家内の実家がこっちで、もうしばらく顔を出していないんですが・・・昨夜も遅くまで収録があり、(行けなくて)ゴメンナサイ!という感じで今日はなんとかこちらにやってきました。
今日は、演出という仕事、「龍馬伝」の中での仕事について、質問なども交えながら進めていきたいと思っています。よろしくお願いします。
初めに今年の大河ドラマ龍馬伝の放映前に作った10分程度のメイキング映像を見てください。(→VTRの内容は以前放映したNHKボイス50の龍馬伝編とほぼ重なり、メインキャスト、スタッフのインタビューと収録風景からなるもの)
さて、放映前のVTRでしたが、今年の大河はいつもの大河といろんな意味で違う、という反響があります。実はいろんな仕掛けがありまして・・・。
まず大河ドラマというのは一年の長丁場です。プロデューサーチームと演出チームの二つに大きく分かれて、全部で20人くらい。プロデューサーは3名、演出家は僕がチーフであと3名、そのほかにも助監督や制作担当が数名います。そのなかで、もともと演出というのは「いろんなものを魅力的に見せる」のが仕事です。与えられた素材をいかに魅力的、効果的に「見せていく」か。いわば料理人のようなものです。「どう表現したら魅力を引き出せるか」を与えられたテーマ、素材で考えていくうちに・・・少し欲張りになります。いい料理人であれば、もっといい素材を、と自分で市場に足を運んで素材を探したくなります。味付けでもそうです。同じ塩でも、全く違う塩はないかと探したり。そうしてどんどん仕事が増えていくのですが(笑)。
龍馬伝は、まず「誰を龍馬に?」から始まりました。誰が龍馬を演じたら一番魅力的に映るか。ここが勝負どころです。そして、坂本龍馬というのは、司馬遼太郎さんの「龍馬が行く」以来、これは悪い意味ではなく、多くの人に共有されている「あるイメージ」があると思います。そして、昨年末の「JIN」で評判の高かった内野(聖陽の)龍馬があります。
これからどうしていくか。どんな龍馬にしていくか。それを具体化していくのが演出家の仕事です。
そして「龍馬伝」の坂本龍馬には全く違う個性があります。よく「草食系龍馬」という表現をされた時がありましたが、とにかくこれまでにない坂本龍馬です。
自分には大河ドラマ「龍馬伝」で3つやりたいテーマがありました。
ひとつは、一次資料としての龍馬自身の「手紙」を紐解いていくこと。今でも、姉の乙女や兄の権平に宛てた直筆の手紙が残っています。それを先ず読みました。そうすると、読むうちに今までと全く違う「坂本龍馬」のイメージが浮かんできました。お茶目で、チャーミングで、繊細な一面を持った・・・よく知られる「改革家、革命家としての坂本龍馬」とはちょっと違う、女の人にモテただろうな、とか、そういう柔らかい感性がそれらの手紙から見えてくるんです。
その手紙は、さらに福山雅治さんの書かれる歌詞や、イメージにも重なってくるんです。スタッフ同士で話をして、一部で言われたような「他の人(俳優)に(主役の話を)持っていった」ということは一切なくて、そこにブレはなかったんです。草食系と言われようが、いわゆる「グイグイ」と引っ張っていく人よりも、人の話に耳を傾ける人で、だからこそ人と人とを結びつけることができる、そこから薩長同盟につながり、さらには倒幕という動きに結びついていったのだろうと。
そうして自分の中で「坂本龍馬は人の話をちゃんと聞ける人だった」という仮説が出来上がりました。さらに「福山龍馬」をどう魅力的に見せるか。そのために、周囲の(人物を演じる)役者の配置も考えます。それから時代背景・・・幕末というのは、「ついこの間」の話、間違いなく自分たちのたった数世代前に直接つながっている時代のように思うので、登場する人物も「すぐ隣にいる人」と・・・彼らが今の僕たちにつながっているんだ、と視聴者に感じてほしい、と思いました。
次にやったことは、写真をじっと見ることでした。幕末の写真で現存しているもの、有名人だけでなく、一般の市井の人々のもです。実は時代劇、大河ドラマにはそれらの「ルール」があって、着物やかつらにも「こういうものだ」的なルールがありました。
でも、当時の写真をいろいろ見ていると、本当にいろんな人がいるんです。たとえば、男性の頭の中剃り(=月代)の部分の幅も、人によってずいぶん違います。たとえば武市半平太、彼はあの幅がとても狭いです。さっきご覧いただいたVTRの中で、長次郎(大泉洋)は「僕のはちょっと広いんじゃないか」って言ってましたよね。歴史的な「定説」では、身分や職業によってだいたい広さは決まっていて、違ったと言うが、本当にそうだろうか?と。写真を見ると、ちゃんと生え際があって、もみあげがある人もいる。画一化されたイメージは違うのではないか?今だって(会場内には)いろんな人が隣にいます。「すぐ隣の近い人」・・・これが、「龍馬伝」の演出イメージでした。そこから「もしかして、こうなんじゃないか・・・?」という細かい観察が始まります。
物語の舞台である土佐に行ってみました。そうすると、現存する武家屋敷に取材に行くと、風の「抜け」がいい建物なんですね。僕は東北、岩手の出身ですが、南部曲屋なんていうのは寒いので建物の中を風が「抜けない」作りになっています。もっと違うところは、土佐ではロスにあるような観葉植物が武家屋敷の中にあるということ。いわゆる(一般的なイメージの)日本の武家屋敷と違う。それを見て「ああ、建物は日本なんだけど、植生はメキシコだ」(笑)と思ったり。
それから当時の道について。当然、舗装はされていませんでした。そこへ大八車や、馬、人が通れば、当然砂埃が上がります。通りを行く人はその砂埃を浴びて歩いていく、そういうディテールができていきます。もちろん、シャワーなんかないので、髪や着物も砂埃の汚れのついた感じになる。このドラマのせいでコーンスターチが一躍有名になってしまいましたが、このコーンスターチの粉がつくと、古びた感じ・・・当時の雰囲気「っぽい」!んです。さっきのVTRでも、寺島しのぶさんが犠牲になってましたが、「儀式」って言って大型扇風機でコーンスターチを役者さんに吹き付けて、演出で言うところのエイジング、着物でも着馴れた感じ、が出るようにしています。時代劇にあまり出ない役者さんだと二日三日着物を着ても「着馴れていない感」はどうしようもありませんが、シワや汚れがつくことで、「キマって」くるんです。
黒沢映画のようにそうした(時間を経たものをあらかじめセット、小道具、衣装などで)準備することができないもので、もっと即席的に日常的な生活感を出す。「すぐ隣にいる人」として効果的に見せるためのひとつのテクニックとして、コーンスターチは使っています。
演出的方針の決め方は、賛否あっても「いつもの大河と違う」・・・たとえば土佐の汗や、あの暑い夏の表現など。そこから幕末という「時代を変えようとした人々のエネルギー」を伝えていきたいと思っています。
中心となる役者は40代の人が多いです。福山さんは40歳、香川さんもそうです。今の僕たちの感覚で言うと違和感があるかもしれません。ですが、あの頃は20代ですでに30、40代という落着きを備えていた(人々の)時代です。今とは違います。現代は食生活も格段に違って、老化というか、老いが進みにくい・・・そんなだから、40代の役者が20代の役をやっても十分通用すると思っています。
幕末の20代が今の40代といっても過言ではない。それだけ、腰の据わった若者たちの時代です。考えても見てください。人を斬れる、殺せる、「刀」を腰に差して歩いているんですよ。そして、それをむやみに振り回さない、という教育をも合わせて受けている。そこで培われた抑制心や、理性・・・そうした武家の教育を受けた若者たちは、今よりもずっと落ち着いていたのではないだろうか?そう考えていくことで、彼ら(40代の役者)に20代を演じさせるといった「正当性」を見つけていきます。そうして、反応がきます。幕末の熱気というのは、今までいろんな制度に抑え込まれてきた・・・土佐では上士と下士の関係なども描いています・・・その鬱屈したエネルギーが、わーっと出る、そういう熱気です。
33年の人生で地球を2周半(≒75000キロ)した坂本龍馬。これはその時代としてはとんでもない距離です。彼が動くと、風が起こる。彼が動くと、その熱で人が汗をかいている。演出にはこれらを効果的に使いながら、一つ一つ(人物造形を?)うめていく・・・たとえば、龍馬はどういう人であったのか?俳優部とも、ときに説得し、ときに納得してもらいながら、進めていきます。これが、「龍馬伝」という物語の「基礎」になります。
さて「龍馬という題材」をどう「撮る」か。
今回はカメラを変え、撮り方を変えました。普通なら場面ごとのカット割りがあって、ここからここはこのカメラで撮ります、今度はこちらから別のカメラで撮ります、とシーンを全部、別々に撮っていきます。ですが「龍馬伝」では最初からカメラを3台構えて、全部回して一気に場面を撮っていきます。途中で切らないので、たとえば8分程度のシーンだと台本にして10~15ページ、役者は全部覚えないといけません。もちろん役者さんなので覚えてきますが、その緊張は相当なものです。そしてその8分を演じているうちに、役者自身の中に何か、予測しなかったものが生じてきます。
たとえば、あるシーンでそこは「物語的には」泣かなくてもいいところ、別に泣く(=演技)ような指示が入っているわけでもない、そんなところで、役者がふと涙をこぼすことがある・・・そう言うシーンは演技というよりも、むしろ日常のようなものに近く、僕たちはそういうものを一つ一つ拾っていく・・・ふと目にした何か、一見物語とは関係のない何か。それは、演技、理屈というよりも感性のような・・・芝居とは不思議なものです。そういうシーンが、一話42分の中にどれだけ、ふっと入っているか。それが、ドラマの中の人物を「すぐ隣の人」・・・歴史年表でもなく、坂本龍馬という「伝説」でもなく、「身近にいる人」と見る側に捉えれていただけるポイントかと思っています。
こういうときに、福山さんの俳優としてのポテンシャルを感じます。彼はもともとミュージシャンで、ライブに強い人です。だから、そうした状況をむしろ楽しんでくれています。「龍馬伝」の収録は毎日ライブをやっているかのようだ、と言ってくれている・・・そう言うはまり方をしてくれています。
現在放映中の第二部はもうすぐ終幕になります。土佐編を去年の10月から撮り始めて、7月11日放映の第二部の最後をもって、龍馬が幼いころから親しんできた幼馴染であり同志でもあった、武市半平太と岡田以蔵が舞台から退場します。ここで、実はサプライズを用意しています。半平太と、龍馬、そして弥太郎。この3人が再び顔を合わせる再会のシーンがあります。半年これまでずっと一緒にやってきた彼らの役を超えた絆・・・そこで「仕込み」が効いてくるんです。
福山さんのことで言うと、撮影時に「よーい、スタート!」の合図で彼は「福山雅治」から「坂本龍馬」になります。さっき言ったように、ひとつのシーンをコマ切りにせずに、長く撮ることで、「龍馬として」(その時間を)生きてもらう。長回しをしているから、そういう「役を生きる」シーンがいつもの大河ドラマより長いです。
役者が「役を、その感性で生きる瞬間」というのは、(演じているときに)出てくる感情が演技ではない・・・全く違った本当の感情、「真情」と呼べるものになる、ということです。そういったものが彼ら役者から零れ落ちてくる瞬間、そういうことを僕たちは拾っていくのです。
物語を効果的に見せるために、「坂本龍馬」というテーマを与えられて、何故龍馬なのか?彼はどんな人だったのか?を考えました。もっとも一般的なイメージは「時代を変えようとした人間」です。ですが、僕は法学部出身だからでしょうか、何かを語る時に「当事者適格性」というものをどうしても考えてしまう。その対象を語るに足る人間であるか、手法であるか。自分では「ちょっとあるかな」と思っています。
その人(=坂本龍馬)を表現するためには、龍馬に負けない斬新さ、自由を持っていないといけないのではないか?そう思いました。一方で「大河ドラマ」「日曜日夜8時」「視聴率20%」「50年近い歴史」何十年といった格式があるわけです。その重さに潰されそうになります。いつもの大河と同じことをやれば、というのは「龍馬(のしようとしたこと)と違う」そういう発想で、むしろ「今までにやってないことをやろうよ」だって「龍馬伝」だから、と、坂本龍馬その人をエクスキューズ、言い訳にして、「やらないところをやる」から入りました。
僕の感じた「坂本龍馬」は、自分を変える、その過程で出会った人を変える、その延長線上で、もしかしたら日本を変えたかもしれない、そういう人です。そんな人物を描くのですから、こちらもそう(変わる)しないと龍馬を魅力的には描けない、と。僕はNHKに属する一人の組織人ですが、龍馬は組織人ではなく、どこにも属さない人、フリーターみたいな人・・・そんな人がなぜ、あんなことができた?そういう方法論を使いました。
でも、新しけりゃいい、ってもんじゃありません。効果的に、いかに自由になるか。たとえば撮影するときに、役者の立ち位置、動きを決めません。「ここにカメラあるんでここでいったん止まって」という指示は、「龍馬伝」ではありません。役者は自由に動いて、カメラがそれを追っかけます。その勢いは、幕末という熱い時代を生き急いだ人々に相応しいのではないでしょうか。よく、大河ドラマは登場人物が座敷で向かい合って延々と話をしている「サムライ・ミーティング」と呼ばれたりするのですが、幕末の時代の彼らは、呑気に座ってなんかいられなかったのではないでしょうか。歩きながらでも話をする、やろうよ、動こうよ・・・といったエネルギー、それが龍馬ではないでしょうか。撮影では、人が動くとカメラもついて動きます。砂煙も立ちます。汗も出ます。そういうことで「物語」をよりリアルにしていければと思っています。
今後の龍馬伝について。(すべて史実の再現では当然ないので)ドラマの中の嘘をツッコミながら楽しむ人がいます。一方でそこでチャンネルを変える人もいます。視聴者の方に、ドラマとして、でもちゃんと自分の周りのリアルに感じてもらえるか・・・そのための一つ一つの表現を考えていくのが、演出という仕事です。
先日新聞に載った記事で、三菱の方が話をされるときに最初に「うち(の創業者)は鳥籠屋でしたから」と言って笑いを取った、という話がありました。あの鳥籠・・・あの籠を背負っている弥太郎、あれがリアルなの?というのは確かにあります。というのは、弥太郎の配役が決まり、衣装や小道具を決めていく段階で、鳥籠、という指示を僕が美術さんに出して、美術さんが「びっくりさせてやろう」とめちゃくちゃでっかいのを作ってきた、ということがあったんです。背負うと重すぎてひっくりかえりそう。さすがにそれはないだろう・・・(笑)と。でも、そのバカでかい鳥籠が、何故か見てて面白いんです。演出の「リアル」というのは、真面目にやるとみんな役者も真面目に問い詰めていってしまいます。でも、その「リアル」というのは人によって違うんです。料理の味と同じです。塩味が好きな人、醤油味が好きな人。塩加減も様々です。
その鳥籠の一件では、弥太郎役の香川照之さんがやっとの思いで大きな鳥籠を背負って、そこで「ニカっ」と笑ったんですよ。そうしたらみんながその笑顔につられて、笑いました。そういう面白さ、笑いは、真面目に「リアル」を追求してそれを相手に預けてしまうと出てきません。発想は自由に。リアルなんだけど、「隣の人」「すぐそばの人」、そして「面白いものを提案したもの勝ち」な雰囲気。スタッフが面白いかな?と見つけてきたものは、視聴者にとっても面白いか?そういうことの積み重ねです。坂本龍馬の生きた時代=幕末=自由。一回きりの人生だからこそ、自由に、という。スタッフだって、監督に言われてやるのはつまらないと思います。自分で面白いと思ったもの、それがどんどん広がっていく。それこそが「龍馬伝」のパワーなんです。
もちろん、ちゃんと時代考証はしています。でも、大河ドラマは時代考証や史実をただ真面目に再現するものじゃない。こう言うと語弊がありますが、リアルというならば幕末に身長180センチの人なんていません。平均身長150センチとかの時代です。顔立ちだって違います。本当の「リアル」は違う・・・それを乗り越えて、自由にやろうよ、というのが「龍馬伝」の考え方です。
ハリウッドに留学していたときのことです。ハリウッドでは組合(の労働管理)がとても厳しく、ユニオンと言いますが、それがとても強い力を持っています。だから制作スタッフのやることも厳密に決まっています。たとえば、日本なら照明さんが重い機材を抱えて歩いていると、周りが手伝ったりするのは普通です。でもハリウッドだと、自分の職分が決まっている。「これは俺の仕事だ、お前は俺の仕事を横取りしようとするのか」と手伝おうとするのを断る、そういう人もいます。
ハリウッドの映画製作の予算は、僕が留学していた当時は一本平均70億円でした。これは、組合が強いことで、スタッフに支払うギャラも当然高くなり、それが制作費に上乗せされるからなんです。5億円以下の予算の映画が「スモールバジェット」低予算映画、と呼ばれていたくらいですが、日本で70億って言ったらとんでもないことです。5億円でも大作と言われます。
では逆に組合に入っていないスタッフが集まった映画の製作現場はどんなだったかと言いますと、雰囲気がまったく違います。いい意味で、ぐちゃぐちゃというか、アメリカらしい、カリフォルニアらしいオープンマインドさ、思いつきを自由に取り入れられる・・・自分はそういうのをやりたい、と思いました。
演出家というのはヒエラルキーのトップです。でも、全員が自分の言うことを聞かなくちゃダメだ、ではなく、1人よりも50人、100人のアイディアを集めた方がいいものができるんじゃないか、と思っています。「龍馬伝」はそうした演出方針です。
スタッフの自由、と言いますが、自由というのは一方で「こわい」ものです。たとえば撮影スタッフに「自由に撮っていいよ」と言って、そのカメラさんが「何にも考えていない状態」で撮ったとします。そうすると、そのカメラ(映像)には力がない。自由に、というからには、撮る側に考え、意志が必要です。撮影カメラの担当は4人いますが、この4人の映像に差が出るんです。そして、編集した時に「強い映像、芝居」だけが生き残っていく。さっきの「力のない映像」は、全然使われないんです。だからスタッフ間での「龍馬伝」制作裏テーマは「下剋上」です!
自由である面白さ、これはチャンプルードラマとでもいいましょうか、アイディアのごった煮と、そこから生まれる熱気です。このごった煮のエネルギーこそが、幕末の当時のエネルギーになって現れてくるのでは、と考えています。
画面に映るものを(ただ)作るよりも、それを作るスタッフ、素材をどう作っていくか。能力を、魅力を、どう引き出していくか。そこに面白さがあります。
たとえば僕自身は撮影をするわけではありません。役を演じるのは役者、そこに効果的に光を当てるのは照明部のスタッフ、それを撮るのはカメラ撮影スタッフ、撮ったものを編集する編集スタッフ、大道具、小道具、セットを担当する美術部のスタッフ、そこへ音を加える音響効果スタッフがいます。では演出とは?演出の仕事というのは、彼らを結び付けて、自分のやりたいことを伝え、それらの仕事を効果的に組み合わせ、共有し、作品として出すということです。それがうまく行ったとき、スタッフがいいなと思っていたものがうまく形になった時は、自分だけが考えていた時よりもよほどいい。焼物のような感じです。(火を入れて、窯から出して初めてわかる)計算されない面白さがそこにはあります。
そして僕は監督や演出よりも、そうした制作スタッフの仕事が高く評価される方がうれしいんです。それぞれの存在、仕事を魅力的に効果的に「使っていく」・・・語弊があるかもしれませんが、「スタッフの能力を効果的に引き出していく」のが演出の仕事です。だから、たまには飲みに行ったりもしながら、あるいは「今年の大河はOOじゃないか」といった声に「すいません」と頭を下げたりしながら(笑)、現場とは全然違うところで汗をかくこともあります。
坂本龍馬という人間について。彼の一番面白いところは、新しい情報を手に入れたときに、その情報を確かめるためにその人に会いに行くんです。そんなに「動こう」と思う人はいないかもしれません。彼自信が動いているんです。それが面白い。今のようにネット社会ではありませんし、情報の伝わってくる早さも方法も違う。だから、龍馬は直接その発信源に会いに行く。その人間の持つ、体温のようなものを信じているんです。直接・・・つまり「じか」のコミュニケーションの達人です。龍馬が直接その人に触れることで、会う側、会われた側それぞれの体温が変わっていくんです。それが、龍馬の残した手紙を読むと伝わってきます。
こういった温度、熱さという抽象的なものをどうやって映像化するか。(これまでのドラマの様式美のような)ぬり絵ではなく、自分で汗をかいて走り回っていた人にする。そう言う龍馬を描くために、僕は頭も下げつつ、自己弁護もしつつ(笑)やっています。
さて、「龍馬伝」第三部は長崎編になります。第二部で、土佐時代からの同志、幼馴染みの死を乗り越えて、「日本をせんたく」するという決意を胸に抱いて、坂本龍馬という人間が歴史の表舞台に出てきます。これまでのDreamer、Adventurer からCommunicator、Negotiatorとしての龍馬の登場です。「成長していく」ことが「龍馬伝」のテーマです。
そして龍馬を演じる福山さんは長崎の出身です。故郷に対して特別な思いを持っている人です。「自分の生まれた土地」への愛着、誇り。福山さんが龍馬役を引き受けた大きな理由は、出身地長崎が物語のメインの舞台になる、というのがありました。当然、役者としての想いも「ノって」いくでしょう。福山さん個人の想いとあわさって、より効果的に「坂本龍馬」が「福山雅治」に一体化していく・・・それを演出するというのは、プロデュースでもありますが、ひとつの「共鳴」でもあります。
ドラマ、フィクションを作るということについて少しお話します。僕が作るのはドラマという商品です。これはアメリカにいるときに教わったことですが、商品というのは目に見えるもの、たとえば今この壇上にあるペットボトルの水。これを、ボトルと中身合わせて150円出して買うということ。手でさわれるもの、具体的なモノへの対価として、そのお金は支払われます。これは普通のビジネスです。
しかし、映像ソフトというのはそこに表現されているものに対する「感動」への対価です。これは本当に不思議な商品です。人によって、感動の基準も当然違います。人を動かすなんて大それたことだ、と思わないでもないですが、「人を動かすこと」「感動」を商品として提供する・・・それが、エンターテインメントの仕事です。そのためにはまず自分が感動しないものは売れません。まず、自分が見て感動できる商品かどうか?です。
一方で制作現場は「繰り返し」です。まず台本を読んだ時の感動があります。そして現場でそれが形になっていくときの感動があります。しかし、同じことを何度も繰り返すわけですから、そのうち感動の鮮度、最初に感じたあの心の動き、その感動の鮮度が薄れてしまう。だからこそ、制作のプロセスにおいて「新たな感動」を見つけていかないといけない。そうしないと最後まで(気持ちが)持ちません。
自分が台本を読んで感じた、持ったイメージ、それが役者や美術さんといったスタッフの手によって「あ、違うアイディアだ!」と気づく・・・それで心が新鮮な感動に戻ります。そしてさらに撮影したものを編集して、出来上がったものを見る、そこにさらに音楽が加わると、また新しい感動、違った見え方をしてきます。そう言った感動の積み重ねが大事だと思っています。何を撮るか、何を作るか、を「職人的に」こなしていくと、結果として「何を魅力的に伝えるのか」を忘れてしまうことにもなりかねません。
いかに(見る側である)「お客さん」のままでいるか。自分の作っているものをピュアに見られるか。もしもお客さんだったらどう見るだろうか。それは作り手の論理とは違います。自分のやったことが効果的に伝わっているかどうか・・・これは、独りよがりでなくチェックをしていくことが必要です。
作ったもの、ドラマに対する評判ですが、自分はネットマニアなので、放映後に検索して書いてあることを地味に結構チェックしています。批判も含めて、ああそうかと納得していったり・・・そう言う声をもらって、結果としてそれまで考えていたものを変えていくこともあります。ですから、今日来ていただいた皆様も、ネットなりブログなり書いていただければ、僕がどこかで見るかもしれませんので(笑)、是非遠慮なく書いていただければと思います。
今日はありがとうございました。
※本当は後半で見るはずだったVTRが10分あったものの、時間超過の為、放映話でそのまま質疑応答タイムへ入りました。
(本編のみ・QAは除く)