(2010年1月のアーカイブより)
映画『ハゲタカ』DVD発売とコメンタリーから、「劉と守山」二者の関係性への一考察
完全にネタバレしていますので、映画未見の方はぜひ見てからどうぞ…
なお、NHK土曜ドラマ版の『ハゲタカ』(大森南朋主演)に続く続編のような形なので、個人的には「まずドラマ全話見てから映画」を強くお勧めいたします。でないと、人間関係に秘められた思惑が深く伝わってこないので…。もちろん、単体としても十分面白い映画ですが。
(1)二つの本性
アカマの工場で声をかけるシーンから始まった二人の運命の交錯。
買収騒動に守山が関わるきっかけは「君なら正社員になれる、と劉にそそのかされ」と一部のメディアや映画紹介記事にあるものの、劇中でそれはカットされているようだ。
劉が守山に目をつけた理由は明確には描かれていないものの、無表情かつ無気力にタバコを吸う姿に、底辺に属する(していた)もの同士の何か共通する「匂い」を嗅ぎ取ったのか、あるいは自分よりもさらに若い彼に「もしも日本に渡っていなかったら」というIF世界の自分の姿を無意識に重ねていたのかもしれない。
このシーン、おそらく劉の表情と動作は限りなく素に近い(演技をしていないと言う意味ではなく)。工場内のこもった空気や金属臭、埃っぽさから抜け出して、思わず口元に手をやる神経質な額のシワ。腰掛けようと流しに凭れた際に、蛍光灯のスイッチコードが不意に髪に触れて驚く表情、揺れるスイッチを無心に追う瞳、好奇心からか(曇り空とはいえ十分明るい昼間だというのに)ひもを引っ張る仕草は、野原で蝶を追い、花を手に取る幼児のように、思いつくままの振舞いにすらとれる。
彼のひとつの本性「子どものような無垢性」が画面に展開し、観客はそれまでの彼のイメージを微修正する。生意気で攻撃的な「赤いハゲタカ」から、冒頭の畑の一本道で立ち尽くす純粋な瞳の男の子の面影を、再度ここに見出すのだ。(うがった見方をするなら、観客の日本人が本来敵役であるはずの彼に「パーソナル」の部分で「情緒的な」共感や好意を感じるように仕向けていく、重要な転換シーンかもしれない)
そして「ここ、どのくらい?」と語りかける声は、比較的優しいものだ。決して「買収を仕掛けたファンドのトップ」と言う視点からの高圧的なものではない。ただ、基本的に劉は誰かと「対等の関係」を結ぶことができない。それは、対等の関係の基本となる「独立した個性、アイデンティティ、価値観」が彼の中には欠落しているからであろう。それゆえにコーヒーを差し出したあと、すぐに「もうひとつの本性」である「(幼児的な)攻撃性」が現れてしまう。
この変化を呼び起こしたのは守山の「変な勧誘だったらいいっすよ」という拒絶。プライドの高い(=強いコンプレックスの裏返し)劉は、拒絶されたり否定されたりすることに非常に敏感に反応する。本来、自分と対等ではないはずの「弱者」守山に対して、その直後に言わなくてもいい揶揄を投げかけるのは、心理的な優位を無意識に保ちたいがゆえの子どもっぽい反撃を、かろうじて大人の物言いに包んだ程度のレベルである。
これはこの男の行動全てに共通する「幼児的要素」の表れととっていいだろう。このアクションとリアクションのカノン(繰り返し)が劇中を通じて響く基調音のひとつである。
同属ともいえる「守山のコンプレックス」を嗅ぎ取った劉は、獲物を見つけた猛禽さながらに、彼を追い、その内部に入り込み始める。デイブの報酬や待遇に対する物言いは、ひとつのジャブ。メフィストフェレスさながらに「仕事ほしいとき、電話して。用意できると思う」と守山を誘う。一方で「地獄だよ・・・日本は。生ぬるい地獄」と吐き捨てる表情は、日本と日本人に対する嫌悪や軽蔑というよりも、むしろそんな国に一度でも夢を見た自分への嘲りをこめたものだったようにも思える。ここは個人的には名場面のひとつにカウントしたい。 ※
それにしても劉というキャラクターは「矛盾がスーツを着て歩いている」だけでは括れないくらい矛盾だらけである。自分で気づいていないらしいのが、見ようによってはさらに痛い。あまりに痛々しい。
※名刺を手にしたあとの微妙な表情の移り変わり。裏返して渡された名刺、そこにはおそらく連絡先の携帯番号があったのか。初めて劉の正体を知り、立ち去る背中から視線を外せない守山・・・この場面は、仕掛けられた「爆弾」が少しずつ時を刻み始める瞬間に思えてきます。
(2) 誰のための?
リムジンで乗り付けて「守山君、メシ行こうよ。メシ」は「KYな劉」を象徴する屈指の「迷」シーンだとは多くの観客が指摘している。こことファミレスのシーン、2回の二人の絡みを見ていると、劉の変化、守山の変化が面白く描き出されているように思われる。
前にも書いたとおり、(私からみて)基本的に「人と対等の関係を構築できない劉」にとっては、常に自分が主語で、自分の意識が判断の基準である。 彼にとって一番心地いいのは、自分が優位に立った上での、相手に与える恩恵という名の上下関係。そしてまだ幼稚で、そこに気が付かないほどに驕慢で(だからこそ彼は脆く、その若さゆえに美しいのだが)自分を客観視できるほどに深くも経験を積んでもいない。だから、マンダリンのメインダイニングに守山が相応しい出で立ちかどうかなんて一切気にもしないし、気づきもしない。
車寄せですでに一度、劉は守山へのアプローチを間違えている。「友達なので」相手のことをまったく考えない関係から生まれた「友達」というセリフには寒々しさすら漂う。38階からの階段を迷いなく歩いていく彼が戸惑い立ち止まる守山にかけた一言「どうかした?」はその最たるものだろう。「食事に誘う」という本来相手の立場を考えてアクションを起こすべき場合に、またも幼児性故に失敗する。
守山の拒絶は、ここでも劉の仮面を引き剥がし、本性を呼び起こす。不愉快さを表面に出さないギリギリのところでの「やっぱいいです」のセリフは、工場に続いて「優位に立ちたい」劉のプライドを逆なでする。「おい・・・守山!」とやや語気を荒げて呼びかける劉には、先ほどまでの「気安さ」を偽るゆとりはないと同時に、図らずも呼び捨てにすることで本心が露呈してしまう。
力はあっても使い方を知らない、幼いばかりの猛禽は、獲物を逃がしてしまった理由を考えながら、階段を下り、別の獲物に遭遇するが、それはまた別の機会に譲るとしよう。
ここでひとつ私から劉に言うならば、いみじくも彼が鷲津を評したセリフをそのまま同じに使いたいものである。「You were also clumsy.」(キミも下手だっだんだよ)に尽きる。
雨の晩に守山を再度誘い出した劉は、相手に合わせることを少しだけ学んだのかもしれない。問答無用でマンダリンではなく、おそらく「気楽にメシ食えるとこ知らない?この辺詳しくないし、どこがいい?」くらいは相手に聞いたに違いない。
その出で立ちに相応しくもなく、遠慮もなく下品に食事を進める劉の様子を、(おそらく食事を終わっていて)既に喫煙タイムに入っている守山は、微笑すら含んだ表情で優しく見ている。どちらかというと、兄が幼い弟を見るような目だ。ここだけは年齢の逆転すら感じさせるシーンである(二人の実年齢差は9歳)。
劉のほうは、相手の反応など意に介してもいない。ただ、自分のペースで食べ続け、語り続ける。守山を「自分の計画に引き込む」ために(そのペースに乗ってこなかったのは鷲津だけ。マンダリンのレストラン「シグネチャー」でNY時代の想い出話に全く興味を示さなかった鷲津の強さは流石である)。
そのシナリオは無意識ながらあくまでも「自分の価値観」がベースになっている故に、守山の思いを聞くシーンでは劉の傲慢さが仄見える言葉がある。
「守山君は・・・なんでアカマで働いてるの?」
「なんでって・・・派遣会社に行けって言われたから」
無意識の「働く先への特別な思いがあって当たり前ではないか?」という劉の思い込みが打ち砕かれるシーン。守山のセリフに、車が好きだ、アカマが好きだ、というニュアンスが少しでもあれば、この先の展開は違っていたことは想像に難くない。劉にとってはさぞ失望だったであろう。「ふーん」という気のない返事に、よくその心情が表れているように思う。そして観客は、それまで守山とともに劉の子ども時代の昔語りにひととき温かい目を向けている最中、ふと彼の持つ「独善性」と「幼児的なロマンチストという側面」に気づかされる。
多少違うニュアンスだが、冒頭ヘリの中でジムから芝野についての情報を聞いている際の気のない「I see」もまた同じ彼のキャラクターを示している。当座の交渉相手となる芝野についての情報よりも、直後に鷲津の消息を聞くあたり、自分の認めたもの以外は歯牙にもかけない傲慢さが見える。(それゆえにスタンリーの一件で西野治の罠に容易くかかるのだ)
閑話休題。
このシーンで印象的な「誰かになるんだよ・・・守山!」これは、多数の方が既に指摘されている通り、無意識に劉自身のコンプレックスから出た「何者かになる、アイデンティティを手に入れる」声に他ならない、だとすれば、劉は自分がやろうとしていることを、傲慢な物言いながらも無意識に目の前の若者にも辿らせようとしている。 それは、ひょっとすると劉自身が切望しつつも得られないでいた「自己肯定」「自己受容」のひとつの手段だったのかもしれない。(そしてそれを「命令形」でしか表現できない劉の精神構造に、私は哀しいほどの歪みと脆さを見るのです。)
(3) それぞれの想いとすれ違い
すべては計画通りに、アカマ買収のキーに仕立て上げられていく守山のアクション。劉側から言えば、このデモが最初から成功する必要はなかったのだ。ただ、彼自身のプライドが「人を利用した挙句に捨てる」やり方を良しとしなかったのだろう。守山を始め、扇動する側に回った派遣社員には「見返りという名の逃げ道」をちゃんと用意していた。それが「デモを中止する代わりに正社員として身分を保証する」というもの。
しかしその目論見は古谷の一言で崩される。
「信念を持った奴は正社員になっても面倒になるだけだ」
リムジンの車中、シナリオ通りに進んでいたと余裕を見せていた劉の瞳がはっと一瞬見開かれたのは、彼が古谷を「読み切れていなかった」誤算の表れだろうか。それとも、古谷もまたどこかでアカマを愛している、彼なりの信念があるはずだという甘い期待に冷や水を浴びせられたからだろうか?
ここから劉の思いが一人歩きをし始める・・・ 本当に、守山にとってこの会社に残ることが「幸せ」なのか。最上の選択なのか。自分のように、アカマに心惹かれて関わり続けるのなら、これから予想される厳しい状況を会社とともに歩んでいくこともできるだろう。しかし、守山の心にはアカマへの愛着はない。彼をアカマに引き止めても、メリットはない。無表情(見方によっては切り捨てるよう)に目を閉じる劉の横顔と、今まさに混乱の最中にあるデモ会場で叫ぶ守山の姿がクロスオーバーする演出が心憎い。そして気が付かないうちに、劉はそれまでの「自分本位」の価値観から「守山のために何が最善の選択なのか」に動き始めていく。
その夜。怒りに震えてマンダリンに乗り込んできた守山に相対する劉の表情は冷たい。燃えさかる炎に対して、揺らぎもしない氷壁のような視線で肩を掴んで突き放す。彼の価値観は「強くなれ」それはかつて虚無を抱いた鷲津が劉に告げた言葉。強くない者には上を目指す資格はない。しかし400万円分の札束を置いた裏には、結果として裏切ることになった守山への贖罪があったに違いない。だが、守山にとっては、そんなものは劉の自己満足でしかない。その行為自体が劉の後ろめたさの証明なのだから。
昔の彼なら何も言わず受け取っていたであろう、向こう3年の生活の保障とも呼べる手切れ金・・・しかし守山自身が既に劉とのアクション/リアクションの中から化学変化を起こしていたのだ。他ならぬ劉が仕掛けた爆弾を、守山は彼の眼前で炸裂させる。
「最初っから騙す気だったんだな!」
その叫びは劉の胸を鋭く、深く、抉ったことだろう。
ここで、劉は一切言い訳をしていない。これは潔いといって良いと思う。ただ彼の言葉は全く守山には通じていない。
「君子不興命争!賢い人間は運命には逆らわない」
「戻れ、もと居た場所に・・・それが賢明な生き方だ」
そこには「自分自身のような道を歩ませたくはない」「自分が関わって狂いだした彼の人生の歯車を何とかここでリセットしたい」という願いがあったのかもしれない。しかし守山にはその全てが欺瞞、所詮は「違う世界」の住人の気まぐれに翻弄されたという怒りを煽るものでしかなかった。
二人の思いはすれ違い続ける。ここでも劉の変化の引き金となったのが、守山の拒絶(3回目)。 差し出した金を叩き落とされたことで、劉の負の感情が一瞬で怒りに変わる。しかし、過去2回と異なり「拾え!」と力づくで守山を屈服させたあとは、激情でひび割れた仮面から打ちのめされたかのように繊弱な表情を覗かせる(守山はその顔に気づくゆとりはなかったが)。彼自身が決定的に揺らぎ始めるのも、このあたりからかもしれない。窓際のソファに力尽きたように座る彼の顔には、哀しみと傷ついた子どものような淋しげな色合いしか浮かんでいなかった。この背後への考察は後に述べる。 ※1
呆然とする守山(それは私たち観客の驚きそのものでもある)の前で、文字通り床を這い蹲ってお札を拾い集める姿は・・・美しくスマートなファンドマネージャーを「演じていた」劉の素顔、浅ましいまでに必死な一面の象徴である。そして、ここで見せた本性こそが、常盤橋で彼の命を奪う(※2)ことになったのかもしれない。
※1 こういう表情をさせると非常に良い雰囲気になる役者、まさにキャスティングの妙。もしも玉山鉄二が演じていなかったら、劉一華というキャラクターがこれほどまでに「哀しみ」の色合いを出せたかは疑問です。同じことは鷲津と芝野にも言えます。
※2 守山が劉を刺していたら全然面白くないラストだったので、監督の判断には最大の敬意を表したいと思います。
(4) 生ぬるい地獄の果てに…
「金を粗末にするな…!金を…粗末にするな」
守山にとって完全に予想外のセリフだったのではないだろうか?「あちら側の世界」に属すると思っていた劉から必死の形相で二度も言われて、驚いたに違いない。守山が生まれ育ったのはあくまでも豊かな日本で、最低レベルといってもファミレスのご飯を残しても大丈夫な程度の生活はできるのだ。翻すと劉は、彼自身の言葉によると「日々の生活にも困る貧しい農家」に生を享け、成功への足がかりを掴むために非合法な手段をも厭わず国を出た経緯がある。
ふと作品違いながら08年冬に放送されたWOWOW連続ドラマ「プリズナー」で大森南朋演じる囚人「ポン」が玉山鉄二演じる「圭吾」に淡々と告げる言葉が思い出された。
「本当の空腹を知ったら(酷く不味い刑務所の飯も)食えるようになるさ」
「ハゲタカ」では奇しくも立場を変えて、劉が守山に同じ事を告げている。本当の飢えを、本当の底辺の生活を知ったら、目の前の食べ物を、金を、粗末にすることなどできはしない。ここに現代の「生ぬるい日本」育ちの守山の甘さと、極限の貧しさを経験し「修羅場」を生き抜いた劉の持つ厳しさとの、決定的な差がある。そしてこの現実は、そのまま私たちの意識に真正面から突きつけられる。
ここで映画冒頭の畑のシーンをもう一度反芻する。
観客はおそらく不思議に思ったのではないだろうか?幼少時の劉と思われる少年が、蒸したジャガイモと思しきものを片手に掴んだまま、もう片手で(おそらく明らかに無理のある重さの)石灰撒きの道具を持っていたことに気付いたならば。
身体に反動をつけないと上手く撒けないような年頃の子なら、両手で持って普通だろう。あるいは、手にしたものを上着のポケットにでも入れておくか。我々の感覚なら、そう感じるだろう。だが、もしその手にした食べ物が、その日の唯一の食事で、なおかつ一旦手放したら誰かが食べてしまっても文句が言えないような状態だったら・・・?
蒸したジャガイモを丸のまま、冷めた状態で、何もつけずに飲み水もなしで食べたことがある方ならすぐ分かるだろう。小さな子どもには容易く飲み下せる代物ではないことに。そして、大人のペースで進んでいく農作業の合間に、幼い彼がその日の割り当てをちゃんと食べ切れるまで待ってやれる余裕が「日々の生活にも困る貧しい農家」にあっただろうか? 結局、わずかな合間を見つけて一口ずつ齧っては飢えを満たす以外、できなかったのではないだろうか。それでも「一度掴んだものは手放さない逞しさ」を、彼はその細く小さな身体に叩き込んだには違いない。
話を戻す。
守山は当たり前ながら劉の過去を知らない。しかし「拾わなきゃいけないんだよ、守山・・・」と、自ら床を這い蹲って拾い集めた札束を、窓際で自失したままの自分の前に、膝を付いて、手をとってしっかりと握らせた劉の気持ち、その真剣な声と眼差しから何かを感じ取っただろう。たとえ、その時には反感と悔しさで感情は沸騰していたとしても。
視線を同じくして、左手で守山の腕をとり、右手で金をしっかりと掴ませるのは、不器用な劉なりの優しさであり、償いの気持ちの現れではないだろうか?でなければ、立ったまま守山の眼前に札を突き出すだろう。全てが失敗に終わり、CLICに最後通牒を突き付けられてもなお、軽々しく人前に膝をつくような男ではなかったのだから。
この時の劉は怒りを完全に消し去り、むしろ「一人の人間」に戻って真正面から守山の気持ちに相対している。それに気圧された形で守山は自分で札束を拾い始める。その胸中には劉に完敗したこと、圧倒的に非力だった自分自身への不甲斐無さが渦を巻いて、さぞ惨めな気持ちだっただろう。
ところで、途中二回ほど「くっ・・・」と動きを止めて声を詰まらせる場面があるが、この背後には、当初のシナリオで最終的にカットされた「用意してきたナイフを握り締めて、必死で衝動に耐える守山」のシーンもあると思われた。怒りから殺意に結びついてもおかしくないストーリーの流れの中で、守山は何故、劉に手を下さなかったのだろうか?(西野治→鷲津と同じ展開@TVドラマ版になるからという指摘はこの際無用で)アカマの工場での出会い。マンダリンホテル。雨の日のファミレス・・・殺さなかった、ではなく、守山には劉を殺せなかった。そう思わせる理由は、彼がこれまで劉を見るときの表情を思い返すと見えてくるように思う。
守山にとって劉は、やはり「自分の憧れ/願望のわかりやすい具現化」・・・実現性はともかくも、手に入れたいと思う全てを手に入れた(と思われた)眩しい存在。しかし、一方で守山自身も劉に「同属」の匂いを嗅ぎ取っていた・・・「底辺に所属するモノ」としてのアイデンティティ。自分とまったく別世界に棲む人間でありながら、同属でもある。人間的にはむしろ不完全で、幼稚で、下品で、狡猾で計算高いと思えば、ふとした時に透明無垢で繊細、純粋な顔をのぞかせる、不安定な情緒的化合物。
もし圧倒的に強者であり、ひとつも弱点などなく、敵として完璧であったなら、守山は迷いなく劉を刺したに違いない。ただ、劉の持つ不完全さ、「ふたつの本性」こそが、一度はそこに深く関わってしまった守山に、共感や同情からではなくても、手を下してしまうことを躊躇わせたのではないだろうか? ※
それは結局守山の甘さ、生ぬるさなのかもしれない。立場が逆であれば劉は自分を利用して捨てた相手を決して許さなかっただろうから。
余談となるが、マンダリンホテルのこの場面で、一つ興味深いことが垣間見える。悔しさに塗れながら万札を拾う守山を見る劉の瞳に軽蔑や嘲りの色は全く無い。むしろ自分自身がそうさせられているかのような傷ついた顔をしている。何故だろうか?
映画の前半、鷲津ファンドのミーティングでの村田の報告を覚えている観客は、理由に思い当たるかもしれない。
「来日当初は日本語が話せず、中国人として随分虐められたそうです」
小中学校での「虐め」という言葉の持つ残虐さを知っていたら、おそらく劉もまた、過去に同じような、あるいはもっと酷いことを経験したのだろうとは想像に難くない。その体験が彼の内部に「幼児的な攻撃性」と「拒絶や否定に対する過剰反応」を産んだのだろうが、この場面で劉は過去守山や三島由香に対して行ったようなサディスティックな扱いはしていない。それは、彼自身の変化、迷い、何より「自分本位」の行動に変化が生じてきたからだとは言えないだろうか?
※守山は劉になりたかったのでしょうか?
私もまだはっきりとは納得できる結論には達していません。ただ、芝野-鷲津ライン、鷲津-西野ライン、鷲津-劉ラインのどれにも当たらない、不可思議な関係性が(映画には描かれきっていないものの)この二人にはまだ隠されているように思えてなりません。
(5)残されたモノ、遺された想い
映画の中で、忘れ難い場面がある。
春まだ浅い嵐の夜、桜の花が一斉に舞い散るような。あるいは撃ち抜かれた翼から次々と風切羽が散っていくが如く。それは数百の万札の形をして。東京の深い闇と摩天楼の輝きを背に、傲然と佇む微動だにしないその姿は研ぎ澄まされ、眼差しは凄絶で、「神の峻厳」と「堕天の背徳」とを同時に感じて背筋が震えた。大画面に一瞬だけ映し出される厳しい表情は、どこか興福寺の阿修羅像に似ていた。孤独に己の決めた道を歩む「異形の天部」としての覚悟と、その中に確実に混在する「鬼神・修羅」の本質、浅ましさと俗悪さ。それほどに深い。
まさに「永遠の一瞬」・・・『劉一華』というキャラクターの持つ二面性と矛盾を、極彩色の曼荼羅のように余すところなく描き切った、あれほど「美しい」場面は、劇中で他にない。
その印象から一連の場面があまりに秀逸だったせいだろうか、マンダリンを出た後に東京駅八重洲口あたりを彷徨する守山の姿には、実はさしたる感慨は沸かなかった。目付きが完全に振り切れた人間のもので、物理的に怖さを感じたくらいである。直後の新光証券の電光掲示板の前のシーンも何やら「取ってつけた」ようで、編集された話の流れからは浮いて見えた。本当は編集前にバックグラウンドとなるシーンがたくさんあったはずだが、結果としては「守山の後日譚」を観客が想像する材料程度になってしまっていたのが、惜しいと感じた。
そして。
守山は劉から最後に何を受け取っていったのか?
そして何を受け継がなかったのか?
マンダリンでの対決以降、彼ら二人の軌跡が再び交わることはない。だから劉の訃報を守山がどんな感慨を持って受けとめたのか、は観客の想像の範囲でしかない。あえて「マンダリンで守山はナイフを持っていた」という仮説(大友監督いわく、当初の設定)を踏まえて考えるなら、「自分が殺せなかった男」への複雑な想いがあったには違いない。あるいは「こんな死に方をするような男ではなかった」という形で、彼の死を悼んだかもしれない。
少なくとも劉との出会いは「諦めていた地獄をぶち壊す」(デモ演説より)きっかけを彼に与えた「転換点」だった。彼自身がどう思ったにせよ、劉に仕掛けられた爆弾は彼の中に時を刻み、そこから彼は「ただの部品」に甘んじていた「守山翔」というアイデンティティを再び取り戻していく。「自己肯定」と「自己受容」・・・皮肉にもそれは、劉が心の底から手に入れたいと願って止まなかったもの、そして最期まで叶えられなかった望みだった。さらに皮肉なことに、劇中呼ばれることは無かった守山のファーストネームは「翔」(プログラムより)、翼持ち天駆ける者。そして劉自身は地に斃れる。
「誰かになる」ことではなく、劉の言葉をきっかけとして守山は最後に《自分》を取り戻す。
終盤、NEWアカマGTを駆る守山の姿に観客は少なからず驚かされる。あの400万円の使い道として彼はその車を選んだのか、あるいは別の生き方に身を投じたのか。よく見ると、守山の服も、髪も、ピアスも微妙にそれまでとは異なっていて、車を買うだけでなく、明らかに所有と維持にかかる経費を負担できるという背景を匂わせている。
実のところ、私は彼が株で一山当てたのかとか、デイトレーダーとしての生き方を選んだのかとか、そんなことはどうでも良かったりする。ただ、この運転中の守山の向かう先に何があるのか、ビジュアルなイメージは全く沸いてこない。
同じ一本道の先に、幼い劉は赤い車と、地平線を見た。その映像は原点となって彼の運命の輪をめぐらし、加速させ、様々な出会いと別れを呼び、そして破滅させていく。一方で、アカマGTを駆る守山の視線の先には、漠として霞がかった大都市の高層ビル群しかない。それは何を意味するのか・・・?
名シーンのひとつ、丸の内鍛治橋駐車場での鷲津と劉、二人の最後の邂逅。 ※
「愛していたんじゃないのか・・・お前は、アカマを」
この言葉で抉り出された劉の想いは、確かに別の場所、別の人間へと受け継がれはした。しかし、スクリーンを越えた「遥かな次元」から二人を見守る観客は、アカマGTを駆る守山の姿に決して共感しない。むしろ、同じルーツを共有しながらもすれ違い続けた「劉の想い」と「守山の想い」は、最後まで重なることはなかったのか、と救いがたい業、やり切れなさを感じるのかもしれない。その感情はラストシーンで「あの一本道」に立ち尽くす鷲津の姿に、いつしか重なっていく。かつての「夢見る男の子」がついに掴みきれなかった想いを彼に託す、祈りと願いを込めて・・・。
※零れ落ちた劉の想いを掬い上げることができたのは、同じ哀しみを背負っている鷲津だけだったのでしょう。大森南朋の言う「作品中の全キャラクターで、ただ一人《鷲津だけが》全員を理解している」が、ここに来てようやく私たちの胸の内に落ちてくるのです。
そう思うと、出会い方を間違えた「あの二人」の関係性は、文字通りの悲劇でした。
《終》
映画『ハゲタカ』DVD発売とコメンタリーから、「劉と守山」二者の関係性への一考察
完全にネタバレしていますので、映画未見の方はぜひ見てからどうぞ…
なお、NHK土曜ドラマ版の『ハゲタカ』(大森南朋主演)に続く続編のような形なので、個人的には「まずドラマ全話見てから映画」を強くお勧めいたします。でないと、人間関係に秘められた思惑が深く伝わってこないので…。もちろん、単体としても十分面白い映画ですが。
(1)二つの本性
アカマの工場で声をかけるシーンから始まった二人の運命の交錯。
買収騒動に守山が関わるきっかけは「君なら正社員になれる、と劉にそそのかされ」と一部のメディアや映画紹介記事にあるものの、劇中でそれはカットされているようだ。
劉が守山に目をつけた理由は明確には描かれていないものの、無表情かつ無気力にタバコを吸う姿に、底辺に属する(していた)もの同士の何か共通する「匂い」を嗅ぎ取ったのか、あるいは自分よりもさらに若い彼に「もしも日本に渡っていなかったら」というIF世界の自分の姿を無意識に重ねていたのかもしれない。
このシーン、おそらく劉の表情と動作は限りなく素に近い(演技をしていないと言う意味ではなく)。工場内のこもった空気や金属臭、埃っぽさから抜け出して、思わず口元に手をやる神経質な額のシワ。腰掛けようと流しに凭れた際に、蛍光灯のスイッチコードが不意に髪に触れて驚く表情、揺れるスイッチを無心に追う瞳、好奇心からか(曇り空とはいえ十分明るい昼間だというのに)ひもを引っ張る仕草は、野原で蝶を追い、花を手に取る幼児のように、思いつくままの振舞いにすらとれる。
彼のひとつの本性「子どものような無垢性」が画面に展開し、観客はそれまでの彼のイメージを微修正する。生意気で攻撃的な「赤いハゲタカ」から、冒頭の畑の一本道で立ち尽くす純粋な瞳の男の子の面影を、再度ここに見出すのだ。(うがった見方をするなら、観客の日本人が本来敵役であるはずの彼に「パーソナル」の部分で「情緒的な」共感や好意を感じるように仕向けていく、重要な転換シーンかもしれない)
そして「ここ、どのくらい?」と語りかける声は、比較的優しいものだ。決して「買収を仕掛けたファンドのトップ」と言う視点からの高圧的なものではない。ただ、基本的に劉は誰かと「対等の関係」を結ぶことができない。それは、対等の関係の基本となる「独立した個性、アイデンティティ、価値観」が彼の中には欠落しているからであろう。それゆえにコーヒーを差し出したあと、すぐに「もうひとつの本性」である「(幼児的な)攻撃性」が現れてしまう。
この変化を呼び起こしたのは守山の「変な勧誘だったらいいっすよ」という拒絶。プライドの高い(=強いコンプレックスの裏返し)劉は、拒絶されたり否定されたりすることに非常に敏感に反応する。本来、自分と対等ではないはずの「弱者」守山に対して、その直後に言わなくてもいい揶揄を投げかけるのは、心理的な優位を無意識に保ちたいがゆえの子どもっぽい反撃を、かろうじて大人の物言いに包んだ程度のレベルである。
これはこの男の行動全てに共通する「幼児的要素」の表れととっていいだろう。このアクションとリアクションのカノン(繰り返し)が劇中を通じて響く基調音のひとつである。
同属ともいえる「守山のコンプレックス」を嗅ぎ取った劉は、獲物を見つけた猛禽さながらに、彼を追い、その内部に入り込み始める。デイブの報酬や待遇に対する物言いは、ひとつのジャブ。メフィストフェレスさながらに「仕事ほしいとき、電話して。用意できると思う」と守山を誘う。一方で「地獄だよ・・・日本は。生ぬるい地獄」と吐き捨てる表情は、日本と日本人に対する嫌悪や軽蔑というよりも、むしろそんな国に一度でも夢を見た自分への嘲りをこめたものだったようにも思える。ここは個人的には名場面のひとつにカウントしたい。 ※
それにしても劉というキャラクターは「矛盾がスーツを着て歩いている」だけでは括れないくらい矛盾だらけである。自分で気づいていないらしいのが、見ようによってはさらに痛い。あまりに痛々しい。
※名刺を手にしたあとの微妙な表情の移り変わり。裏返して渡された名刺、そこにはおそらく連絡先の携帯番号があったのか。初めて劉の正体を知り、立ち去る背中から視線を外せない守山・・・この場面は、仕掛けられた「爆弾」が少しずつ時を刻み始める瞬間に思えてきます。
(2) 誰のための?
リムジンで乗り付けて「守山君、メシ行こうよ。メシ」は「KYな劉」を象徴する屈指の「迷」シーンだとは多くの観客が指摘している。こことファミレスのシーン、2回の二人の絡みを見ていると、劉の変化、守山の変化が面白く描き出されているように思われる。
前にも書いたとおり、(私からみて)基本的に「人と対等の関係を構築できない劉」にとっては、常に自分が主語で、自分の意識が判断の基準である。 彼にとって一番心地いいのは、自分が優位に立った上での、相手に与える恩恵という名の上下関係。そしてまだ幼稚で、そこに気が付かないほどに驕慢で(だからこそ彼は脆く、その若さゆえに美しいのだが)自分を客観視できるほどに深くも経験を積んでもいない。だから、マンダリンのメインダイニングに守山が相応しい出で立ちかどうかなんて一切気にもしないし、気づきもしない。
車寄せですでに一度、劉は守山へのアプローチを間違えている。「友達なので」相手のことをまったく考えない関係から生まれた「友達」というセリフには寒々しさすら漂う。38階からの階段を迷いなく歩いていく彼が戸惑い立ち止まる守山にかけた一言「どうかした?」はその最たるものだろう。「食事に誘う」という本来相手の立場を考えてアクションを起こすべき場合に、またも幼児性故に失敗する。
守山の拒絶は、ここでも劉の仮面を引き剥がし、本性を呼び起こす。不愉快さを表面に出さないギリギリのところでの「やっぱいいです」のセリフは、工場に続いて「優位に立ちたい」劉のプライドを逆なでする。「おい・・・守山!」とやや語気を荒げて呼びかける劉には、先ほどまでの「気安さ」を偽るゆとりはないと同時に、図らずも呼び捨てにすることで本心が露呈してしまう。
力はあっても使い方を知らない、幼いばかりの猛禽は、獲物を逃がしてしまった理由を考えながら、階段を下り、別の獲物に遭遇するが、それはまた別の機会に譲るとしよう。
ここでひとつ私から劉に言うならば、いみじくも彼が鷲津を評したセリフをそのまま同じに使いたいものである。「You were also clumsy.」(キミも下手だっだんだよ)に尽きる。
雨の晩に守山を再度誘い出した劉は、相手に合わせることを少しだけ学んだのかもしれない。問答無用でマンダリンではなく、おそらく「気楽にメシ食えるとこ知らない?この辺詳しくないし、どこがいい?」くらいは相手に聞いたに違いない。
その出で立ちに相応しくもなく、遠慮もなく下品に食事を進める劉の様子を、(おそらく食事を終わっていて)既に喫煙タイムに入っている守山は、微笑すら含んだ表情で優しく見ている。どちらかというと、兄が幼い弟を見るような目だ。ここだけは年齢の逆転すら感じさせるシーンである(二人の実年齢差は9歳)。
劉のほうは、相手の反応など意に介してもいない。ただ、自分のペースで食べ続け、語り続ける。守山を「自分の計画に引き込む」ために(そのペースに乗ってこなかったのは鷲津だけ。マンダリンのレストラン「シグネチャー」でNY時代の想い出話に全く興味を示さなかった鷲津の強さは流石である)。
そのシナリオは無意識ながらあくまでも「自分の価値観」がベースになっている故に、守山の思いを聞くシーンでは劉の傲慢さが仄見える言葉がある。
「守山君は・・・なんでアカマで働いてるの?」
「なんでって・・・派遣会社に行けって言われたから」
無意識の「働く先への特別な思いがあって当たり前ではないか?」という劉の思い込みが打ち砕かれるシーン。守山のセリフに、車が好きだ、アカマが好きだ、というニュアンスが少しでもあれば、この先の展開は違っていたことは想像に難くない。劉にとってはさぞ失望だったであろう。「ふーん」という気のない返事に、よくその心情が表れているように思う。そして観客は、それまで守山とともに劉の子ども時代の昔語りにひととき温かい目を向けている最中、ふと彼の持つ「独善性」と「幼児的なロマンチストという側面」に気づかされる。
多少違うニュアンスだが、冒頭ヘリの中でジムから芝野についての情報を聞いている際の気のない「I see」もまた同じ彼のキャラクターを示している。当座の交渉相手となる芝野についての情報よりも、直後に鷲津の消息を聞くあたり、自分の認めたもの以外は歯牙にもかけない傲慢さが見える。(それゆえにスタンリーの一件で西野治の罠に容易くかかるのだ)
閑話休題。
このシーンで印象的な「誰かになるんだよ・・・守山!」これは、多数の方が既に指摘されている通り、無意識に劉自身のコンプレックスから出た「何者かになる、アイデンティティを手に入れる」声に他ならない、だとすれば、劉は自分がやろうとしていることを、傲慢な物言いながらも無意識に目の前の若者にも辿らせようとしている。 それは、ひょっとすると劉自身が切望しつつも得られないでいた「自己肯定」「自己受容」のひとつの手段だったのかもしれない。(そしてそれを「命令形」でしか表現できない劉の精神構造に、私は哀しいほどの歪みと脆さを見るのです。)
(3) それぞれの想いとすれ違い
すべては計画通りに、アカマ買収のキーに仕立て上げられていく守山のアクション。劉側から言えば、このデモが最初から成功する必要はなかったのだ。ただ、彼自身のプライドが「人を利用した挙句に捨てる」やり方を良しとしなかったのだろう。守山を始め、扇動する側に回った派遣社員には「見返りという名の逃げ道」をちゃんと用意していた。それが「デモを中止する代わりに正社員として身分を保証する」というもの。
しかしその目論見は古谷の一言で崩される。
「信念を持った奴は正社員になっても面倒になるだけだ」
リムジンの車中、シナリオ通りに進んでいたと余裕を見せていた劉の瞳がはっと一瞬見開かれたのは、彼が古谷を「読み切れていなかった」誤算の表れだろうか。それとも、古谷もまたどこかでアカマを愛している、彼なりの信念があるはずだという甘い期待に冷や水を浴びせられたからだろうか?
ここから劉の思いが一人歩きをし始める・・・ 本当に、守山にとってこの会社に残ることが「幸せ」なのか。最上の選択なのか。自分のように、アカマに心惹かれて関わり続けるのなら、これから予想される厳しい状況を会社とともに歩んでいくこともできるだろう。しかし、守山の心にはアカマへの愛着はない。彼をアカマに引き止めても、メリットはない。無表情(見方によっては切り捨てるよう)に目を閉じる劉の横顔と、今まさに混乱の最中にあるデモ会場で叫ぶ守山の姿がクロスオーバーする演出が心憎い。そして気が付かないうちに、劉はそれまでの「自分本位」の価値観から「守山のために何が最善の選択なのか」に動き始めていく。
その夜。怒りに震えてマンダリンに乗り込んできた守山に相対する劉の表情は冷たい。燃えさかる炎に対して、揺らぎもしない氷壁のような視線で肩を掴んで突き放す。彼の価値観は「強くなれ」それはかつて虚無を抱いた鷲津が劉に告げた言葉。強くない者には上を目指す資格はない。しかし400万円分の札束を置いた裏には、結果として裏切ることになった守山への贖罪があったに違いない。だが、守山にとっては、そんなものは劉の自己満足でしかない。その行為自体が劉の後ろめたさの証明なのだから。
昔の彼なら何も言わず受け取っていたであろう、向こう3年の生活の保障とも呼べる手切れ金・・・しかし守山自身が既に劉とのアクション/リアクションの中から化学変化を起こしていたのだ。他ならぬ劉が仕掛けた爆弾を、守山は彼の眼前で炸裂させる。
「最初っから騙す気だったんだな!」
その叫びは劉の胸を鋭く、深く、抉ったことだろう。
ここで、劉は一切言い訳をしていない。これは潔いといって良いと思う。ただ彼の言葉は全く守山には通じていない。
「君子不興命争!賢い人間は運命には逆らわない」
「戻れ、もと居た場所に・・・それが賢明な生き方だ」
そこには「自分自身のような道を歩ませたくはない」「自分が関わって狂いだした彼の人生の歯車を何とかここでリセットしたい」という願いがあったのかもしれない。しかし守山にはその全てが欺瞞、所詮は「違う世界」の住人の気まぐれに翻弄されたという怒りを煽るものでしかなかった。
二人の思いはすれ違い続ける。ここでも劉の変化の引き金となったのが、守山の拒絶(3回目)。 差し出した金を叩き落とされたことで、劉の負の感情が一瞬で怒りに変わる。しかし、過去2回と異なり「拾え!」と力づくで守山を屈服させたあとは、激情でひび割れた仮面から打ちのめされたかのように繊弱な表情を覗かせる(守山はその顔に気づくゆとりはなかったが)。彼自身が決定的に揺らぎ始めるのも、このあたりからかもしれない。窓際のソファに力尽きたように座る彼の顔には、哀しみと傷ついた子どものような淋しげな色合いしか浮かんでいなかった。この背後への考察は後に述べる。 ※1
呆然とする守山(それは私たち観客の驚きそのものでもある)の前で、文字通り床を這い蹲ってお札を拾い集める姿は・・・美しくスマートなファンドマネージャーを「演じていた」劉の素顔、浅ましいまでに必死な一面の象徴である。そして、ここで見せた本性こそが、常盤橋で彼の命を奪う(※2)ことになったのかもしれない。
※1 こういう表情をさせると非常に良い雰囲気になる役者、まさにキャスティングの妙。もしも玉山鉄二が演じていなかったら、劉一華というキャラクターがこれほどまでに「哀しみ」の色合いを出せたかは疑問です。同じことは鷲津と芝野にも言えます。
※2 守山が劉を刺していたら全然面白くないラストだったので、監督の判断には最大の敬意を表したいと思います。
(4) 生ぬるい地獄の果てに…
「金を粗末にするな…!金を…粗末にするな」
守山にとって完全に予想外のセリフだったのではないだろうか?「あちら側の世界」に属すると思っていた劉から必死の形相で二度も言われて、驚いたに違いない。守山が生まれ育ったのはあくまでも豊かな日本で、最低レベルといってもファミレスのご飯を残しても大丈夫な程度の生活はできるのだ。翻すと劉は、彼自身の言葉によると「日々の生活にも困る貧しい農家」に生を享け、成功への足がかりを掴むために非合法な手段をも厭わず国を出た経緯がある。
ふと作品違いながら08年冬に放送されたWOWOW連続ドラマ「プリズナー」で大森南朋演じる囚人「ポン」が玉山鉄二演じる「圭吾」に淡々と告げる言葉が思い出された。
「本当の空腹を知ったら(酷く不味い刑務所の飯も)食えるようになるさ」
「ハゲタカ」では奇しくも立場を変えて、劉が守山に同じ事を告げている。本当の飢えを、本当の底辺の生活を知ったら、目の前の食べ物を、金を、粗末にすることなどできはしない。ここに現代の「生ぬるい日本」育ちの守山の甘さと、極限の貧しさを経験し「修羅場」を生き抜いた劉の持つ厳しさとの、決定的な差がある。そしてこの現実は、そのまま私たちの意識に真正面から突きつけられる。
ここで映画冒頭の畑のシーンをもう一度反芻する。
観客はおそらく不思議に思ったのではないだろうか?幼少時の劉と思われる少年が、蒸したジャガイモと思しきものを片手に掴んだまま、もう片手で(おそらく明らかに無理のある重さの)石灰撒きの道具を持っていたことに気付いたならば。
身体に反動をつけないと上手く撒けないような年頃の子なら、両手で持って普通だろう。あるいは、手にしたものを上着のポケットにでも入れておくか。我々の感覚なら、そう感じるだろう。だが、もしその手にした食べ物が、その日の唯一の食事で、なおかつ一旦手放したら誰かが食べてしまっても文句が言えないような状態だったら・・・?
蒸したジャガイモを丸のまま、冷めた状態で、何もつけずに飲み水もなしで食べたことがある方ならすぐ分かるだろう。小さな子どもには容易く飲み下せる代物ではないことに。そして、大人のペースで進んでいく農作業の合間に、幼い彼がその日の割り当てをちゃんと食べ切れるまで待ってやれる余裕が「日々の生活にも困る貧しい農家」にあっただろうか? 結局、わずかな合間を見つけて一口ずつ齧っては飢えを満たす以外、できなかったのではないだろうか。それでも「一度掴んだものは手放さない逞しさ」を、彼はその細く小さな身体に叩き込んだには違いない。
話を戻す。
守山は当たり前ながら劉の過去を知らない。しかし「拾わなきゃいけないんだよ、守山・・・」と、自ら床を這い蹲って拾い集めた札束を、窓際で自失したままの自分の前に、膝を付いて、手をとってしっかりと握らせた劉の気持ち、その真剣な声と眼差しから何かを感じ取っただろう。たとえ、その時には反感と悔しさで感情は沸騰していたとしても。
視線を同じくして、左手で守山の腕をとり、右手で金をしっかりと掴ませるのは、不器用な劉なりの優しさであり、償いの気持ちの現れではないだろうか?でなければ、立ったまま守山の眼前に札を突き出すだろう。全てが失敗に終わり、CLICに最後通牒を突き付けられてもなお、軽々しく人前に膝をつくような男ではなかったのだから。
この時の劉は怒りを完全に消し去り、むしろ「一人の人間」に戻って真正面から守山の気持ちに相対している。それに気圧された形で守山は自分で札束を拾い始める。その胸中には劉に完敗したこと、圧倒的に非力だった自分自身への不甲斐無さが渦を巻いて、さぞ惨めな気持ちだっただろう。
ところで、途中二回ほど「くっ・・・」と動きを止めて声を詰まらせる場面があるが、この背後には、当初のシナリオで最終的にカットされた「用意してきたナイフを握り締めて、必死で衝動に耐える守山」のシーンもあると思われた。怒りから殺意に結びついてもおかしくないストーリーの流れの中で、守山は何故、劉に手を下さなかったのだろうか?(西野治→鷲津と同じ展開@TVドラマ版になるからという指摘はこの際無用で)アカマの工場での出会い。マンダリンホテル。雨の日のファミレス・・・殺さなかった、ではなく、守山には劉を殺せなかった。そう思わせる理由は、彼がこれまで劉を見るときの表情を思い返すと見えてくるように思う。
守山にとって劉は、やはり「自分の憧れ/願望のわかりやすい具現化」・・・実現性はともかくも、手に入れたいと思う全てを手に入れた(と思われた)眩しい存在。しかし、一方で守山自身も劉に「同属」の匂いを嗅ぎ取っていた・・・「底辺に所属するモノ」としてのアイデンティティ。自分とまったく別世界に棲む人間でありながら、同属でもある。人間的にはむしろ不完全で、幼稚で、下品で、狡猾で計算高いと思えば、ふとした時に透明無垢で繊細、純粋な顔をのぞかせる、不安定な情緒的化合物。
もし圧倒的に強者であり、ひとつも弱点などなく、敵として完璧であったなら、守山は迷いなく劉を刺したに違いない。ただ、劉の持つ不完全さ、「ふたつの本性」こそが、一度はそこに深く関わってしまった守山に、共感や同情からではなくても、手を下してしまうことを躊躇わせたのではないだろうか? ※
それは結局守山の甘さ、生ぬるさなのかもしれない。立場が逆であれば劉は自分を利用して捨てた相手を決して許さなかっただろうから。
余談となるが、マンダリンホテルのこの場面で、一つ興味深いことが垣間見える。悔しさに塗れながら万札を拾う守山を見る劉の瞳に軽蔑や嘲りの色は全く無い。むしろ自分自身がそうさせられているかのような傷ついた顔をしている。何故だろうか?
映画の前半、鷲津ファンドのミーティングでの村田の報告を覚えている観客は、理由に思い当たるかもしれない。
「来日当初は日本語が話せず、中国人として随分虐められたそうです」
小中学校での「虐め」という言葉の持つ残虐さを知っていたら、おそらく劉もまた、過去に同じような、あるいはもっと酷いことを経験したのだろうとは想像に難くない。その体験が彼の内部に「幼児的な攻撃性」と「拒絶や否定に対する過剰反応」を産んだのだろうが、この場面で劉は過去守山や三島由香に対して行ったようなサディスティックな扱いはしていない。それは、彼自身の変化、迷い、何より「自分本位」の行動に変化が生じてきたからだとは言えないだろうか?
※守山は劉になりたかったのでしょうか?
私もまだはっきりとは納得できる結論には達していません。ただ、芝野-鷲津ライン、鷲津-西野ライン、鷲津-劉ラインのどれにも当たらない、不可思議な関係性が(映画には描かれきっていないものの)この二人にはまだ隠されているように思えてなりません。
(5)残されたモノ、遺された想い
映画の中で、忘れ難い場面がある。
春まだ浅い嵐の夜、桜の花が一斉に舞い散るような。あるいは撃ち抜かれた翼から次々と風切羽が散っていくが如く。それは数百の万札の形をして。東京の深い闇と摩天楼の輝きを背に、傲然と佇む微動だにしないその姿は研ぎ澄まされ、眼差しは凄絶で、「神の峻厳」と「堕天の背徳」とを同時に感じて背筋が震えた。大画面に一瞬だけ映し出される厳しい表情は、どこか興福寺の阿修羅像に似ていた。孤独に己の決めた道を歩む「異形の天部」としての覚悟と、その中に確実に混在する「鬼神・修羅」の本質、浅ましさと俗悪さ。それほどに深い。
まさに「永遠の一瞬」・・・『劉一華』というキャラクターの持つ二面性と矛盾を、極彩色の曼荼羅のように余すところなく描き切った、あれほど「美しい」場面は、劇中で他にない。
その印象から一連の場面があまりに秀逸だったせいだろうか、マンダリンを出た後に東京駅八重洲口あたりを彷徨する守山の姿には、実はさしたる感慨は沸かなかった。目付きが完全に振り切れた人間のもので、物理的に怖さを感じたくらいである。直後の新光証券の電光掲示板の前のシーンも何やら「取ってつけた」ようで、編集された話の流れからは浮いて見えた。本当は編集前にバックグラウンドとなるシーンがたくさんあったはずだが、結果としては「守山の後日譚」を観客が想像する材料程度になってしまっていたのが、惜しいと感じた。
そして。
守山は劉から最後に何を受け取っていったのか?
そして何を受け継がなかったのか?
マンダリンでの対決以降、彼ら二人の軌跡が再び交わることはない。だから劉の訃報を守山がどんな感慨を持って受けとめたのか、は観客の想像の範囲でしかない。あえて「マンダリンで守山はナイフを持っていた」という仮説(大友監督いわく、当初の設定)を踏まえて考えるなら、「自分が殺せなかった男」への複雑な想いがあったには違いない。あるいは「こんな死に方をするような男ではなかった」という形で、彼の死を悼んだかもしれない。
少なくとも劉との出会いは「諦めていた地獄をぶち壊す」(デモ演説より)きっかけを彼に与えた「転換点」だった。彼自身がどう思ったにせよ、劉に仕掛けられた爆弾は彼の中に時を刻み、そこから彼は「ただの部品」に甘んじていた「守山翔」というアイデンティティを再び取り戻していく。「自己肯定」と「自己受容」・・・皮肉にもそれは、劉が心の底から手に入れたいと願って止まなかったもの、そして最期まで叶えられなかった望みだった。さらに皮肉なことに、劇中呼ばれることは無かった守山のファーストネームは「翔」(プログラムより)、翼持ち天駆ける者。そして劉自身は地に斃れる。
「誰かになる」ことではなく、劉の言葉をきっかけとして守山は最後に《自分》を取り戻す。
終盤、NEWアカマGTを駆る守山の姿に観客は少なからず驚かされる。あの400万円の使い道として彼はその車を選んだのか、あるいは別の生き方に身を投じたのか。よく見ると、守山の服も、髪も、ピアスも微妙にそれまでとは異なっていて、車を買うだけでなく、明らかに所有と維持にかかる経費を負担できるという背景を匂わせている。
実のところ、私は彼が株で一山当てたのかとか、デイトレーダーとしての生き方を選んだのかとか、そんなことはどうでも良かったりする。ただ、この運転中の守山の向かう先に何があるのか、ビジュアルなイメージは全く沸いてこない。
同じ一本道の先に、幼い劉は赤い車と、地平線を見た。その映像は原点となって彼の運命の輪をめぐらし、加速させ、様々な出会いと別れを呼び、そして破滅させていく。一方で、アカマGTを駆る守山の視線の先には、漠として霞がかった大都市の高層ビル群しかない。それは何を意味するのか・・・?
名シーンのひとつ、丸の内鍛治橋駐車場での鷲津と劉、二人の最後の邂逅。 ※
「愛していたんじゃないのか・・・お前は、アカマを」
この言葉で抉り出された劉の想いは、確かに別の場所、別の人間へと受け継がれはした。しかし、スクリーンを越えた「遥かな次元」から二人を見守る観客は、アカマGTを駆る守山の姿に決して共感しない。むしろ、同じルーツを共有しながらもすれ違い続けた「劉の想い」と「守山の想い」は、最後まで重なることはなかったのか、と救いがたい業、やり切れなさを感じるのかもしれない。その感情はラストシーンで「あの一本道」に立ち尽くす鷲津の姿に、いつしか重なっていく。かつての「夢見る男の子」がついに掴みきれなかった想いを彼に託す、祈りと願いを込めて・・・。
※零れ落ちた劉の想いを掬い上げることができたのは、同じ哀しみを背負っている鷲津だけだったのでしょう。大森南朋の言う「作品中の全キャラクターで、ただ一人《鷲津だけが》全員を理解している」が、ここに来てようやく私たちの胸の内に落ちてくるのです。
そう思うと、出会い方を間違えた「あの二人」の関係性は、文字通りの悲劇でした。
《終》