山中理事長(ポーラのクリニックの院長)から、みなさまへ。
「10年未来の町、寿から」
かの大戦からの復興、高度経済成長と日本列島改造、バブルの崩壊、失業・夢なくした依存症、生活保護、高齢化、孤独死孤立死、福祉介護、そして行き着いたところは、みまもりとみとりまで。かつては“寄せ場”とよばれ、日本3大ドヤ(簡易宿泊所)の街と称された寿町は、NPOや行政が大きく介入することにより、いつしか東京の山谷や大阪のあいりん地区と路線を異にした歩みをするようになった。日本社会の未来を10年先取りして走り続ける街、寿。ここから日本が占える。そんな町である。なぜ断言できるのか?
「ソトブキ」から眺めた寿は総じて、「汚い。暗い。怖い。」の陰のイメージであろう。しかし、この町に関わって12年、入って医師としての仕事をして8年足らず、回周遅れの落ちこぼれランナーである寿選手が、実は時代の最先端を突っ切って走って居ることに気づかされる。2年前に胃がんで亡くなった戦後の寿で中華料理屋を営んだ老婆はこう言った。「そりゃ先生、儲かったよ~。だって24時間お店開けててもお客が来るんだもの。ここの人達は24時間を二交代で勤務するじゃん。だから、仕事前の腹ごしらえと仕事後の寝る前に一杯と。 今の店とは大違い。」
かつての寿では、戦後の日本を底辺で支えた男達が全国から集まって、寝泊まり飲み食い打つ買うの経済活動が繰り広げられた。若く、力みなぎる男達が原発をつくり、高圧送電線の鉄塔を、高速道路を、高層ビルを建てた。日本を創った。ベビーブームー以降の戦後生まれの世代は、彼等がみなとで汗して運んだバナナを貴重品のように遠足の時、病気の時食べさせてもらったのである。現場で強風のため鉄塔から落下して命を失った者も少なくないとおじさんからは聞かされる。作業中のアスベストによる肺がんとおもわれる患者もいる。寿のおじさん達は歳とともに動けなくなり、稼げなくなり、家族からは孤立し、みんな寿でしか残り時間を過ごせなくなった。
モノに光が当たる時、必ず影が生まれる。寿は陰影の町。時代の流れに応じて顔を変えた繁栄の影の部分だけを一手に引き受けた街である。車が快適に高速道路を走るとき、その光の向こう側には必ずCO2という影が生まれる。
昨年の震災後に、被災しなかった日本人は、「安心」の担保の下、こぞって募金だ、支援だ、絆だ、と「ハレ」の部分に身を置き、東日本の人々に対してある種の優位性の心情で、「私のできることで勇気を与えたい」と一年を過ごし、被災者の忍耐力とともに海外からの賞賛を浴びた。しかしながら反面、このような国民性に反して、街の復興には瓦礫の処理が必要となることを、人は認めたがらない。 瓦礫の受け入れは、自分の身に降りかかる「ケ」である。
「ケ」の部分は「けが」「ケガレ」として風評否定してしまうのもこの国の人々の影の一面であろう。不要な「不安」を招き入れたくないのである。あの統制不能の日々に原発事故の重大さを正確に情報開示することなく、可及的にことなかれ主義で済ませてしまおうと、「ケ」の回避のため本能的に動いたこの国の指導者達もまた代表的日本人である。
この12年間に寿から私が学んだことは、震災後の一年ではっきりと集約証明されたように思えてならない。「ハレ」だけで人が生まれ、生き、死ぬことはできない。「ハレ」の裏側にある「ケ」を否定しないで、見つめながら毎日をしっかり生きることが、いま発信されるべきではなかろうか? 一見、社会から捨てられた様にみえる寿町。
ここで7年間、人生最期の日々を過ごす人々を数多く看取った。また、その後にも家族を持たないあるいは家族に捨てられた、ニート、精神、身体、発達などの障害者や各種依存症の患者さんなどの多数の若者が寿に流れ込んでくる。「ケ」の街寿から学ぶことはいっぱいある。
これからの日本が向かう方向性は?どこを目指すべき? 震災後ちょうど一年経った昨日、黙祷しながら考えていた。いつでも10年未来の街、寿がそれを教えてくれそうだ、と。