NPO法人さなぎ達ブログ

横浜市寿地区や近隣地域を中心に社会的生きづらさを抱えている人々を対象としながら活動を行っているNPO法人です。

「さなぎ達」とは

日本三大寄せ場の一つである、横浜市寿地区、寿周辺地区を中心に、路上生活者及び路上生活に至るおそれのある人々が、自ら自立に向かいやすい環境を整える「自立自援」を主な目的とし、メンタルを一番大切にしながら「医・衣・職・食・住」の各方面で活動しているNPO法人です。

【学生インターン】櫻井さんにインタビュー

2012年09月27日 | モトコ
さなぎ達のスタッフや理事、ボランティアってどんなことをやっているの?
活動を通して嬉しかったことは何ですか?
どのような想いを持ってるの? 等々
視察会や取材時に、そのような質問を受けることが多くあります。
また最近では、NPOに参加したいという方が増えているように感じます。

今回、短期NPOインターン生 山田洋平君(関東学院大学1年生)に、理事 櫻井武麿(初代理事長、さなぎの家責任者)にインタビューを行ってもらいました。
山田君は炎天下の中、さなぎの家やさなぎの食堂、緑化活動や地域清掃、炊き出し等、様々な活動に参加してもらいました。


【写真:炎天下の中で皆で草むしり(2012年8月)】


実際、NPOスタッフや理事、ボランティアがどのような業務や想いを持って行っているか、インタビュー形式でこのブログで紹介していきたいと思います。
不定期になりますが、どうぞご覧ください。




【写真:理事 櫻井武麿】

山田洋平(以下、山):どうぞよろしくお願いします。
櫻井武麿(以下、櫻):よろしくお願いします。


山:まず、軽く自己紹介をお願いします。

櫻:宮城県出身で、関東へは大学入学時の上京以来住んでいます。
大学は、キャンパス新設の影響で、1年の時は東京都、2年の時は神奈川県、3年以降は静岡県に住んでいました。
ヨットサークルに加入していて、活動場所が久里浜だったため、昔から神奈川県東岸部にはよく来ていました。
専攻が海洋生物学で、魚や海が好きです。
仕事は一般企業で海苔の研究をしていて、大学の勉強を生かすことができました。
趣味は、自分のライフワークです。さなぎ達での活動が私の喜びにつながります。
休日は自宅近くを自転車で散策したり、海に行ったりしています。
自宅では、昔から大切に使っているブラウン管テレビで、ケーブルテレビでやっているドキュメンタリー等を見て過ごしています。


山:ありがとうございます。
では、さなぎ達について教えてください。どのような経緯で設立されたのでしょうか?

櫻:NPOとしての設立は2001年ですが、それ以前に有志による寿町の「木曜パトロール」の活動から始まりました。
「木曜パトロール」は、1983年におこった中学生による路上生活者襲撃事件がきっかけとなり、路上生活者の実態を知ろうと始まったものです。
そのあとは、路上生活者方の依頼で、自由に使える空間の提供としてさなぎの家が始まりました。



【写真:みんなで緑化活動(2004年9月)】

山:いま行なっている活動には何がありますか?

櫻:さなぎの家での憩いの場提供・生活相談などのヘルパー的活動のほかにも、さなぎの食堂や寝たきり・要介護や病気の人の見守りや看取りをする寿見守りボランティア、その他イベント参加などを行っています。


山:さなぎ達にかかわっている方はどのくらいいますか?

櫻:どこまでがボーダーラインなのかが曖昧なので正確に答えることはできません。
正職員は、家・食堂・事務所にそれぞれ2人ずついます。
また、定期定期に来てくれるボランティアの方がそれぞれ5・10・4人います。
そのたちに、学生などさまざまな方が不定期的にかかわってくださいます。


山:櫻井さんのさなぎの家での一日の流れを教えてください。

櫻:8時半ごろに出勤してきて、その日の天気や気温、曜日などを考えどのような方がくるかを予想して、備品の準備や掃除などをします。
そのあと、さなぎの家は9時から17時までオープンして、その時に来た利用者さんの要望に対して臨機応変に対応しています。
17時以降は、翌日に配布する衣類などの準備をして1日を終えます。


山:さなぎの家で働いていて大変なことは何ですか?

櫻:多くの方がNPOにかかわっていますが、その方々それぞれが最も良い活動ができる場を提供することが困難なことです。
また、人間は関係動物なので、感情のこもった付き合い方をしていかなくてはなりません。
例えるならば、とても貧しく苦しい生活を送っている人に対して、現金を上げるのと親身に話を聞いてあげるのとでは後者のほうが断然価値があります。
そのため利用者を理解し、そのうえで要求に対し答えていくのですが、単純ではなく一人ひとりおかれている状況は異なるので大変難しいです。


山:逆に、さなぎの家で働いていてうれしかったことは何ですか?

櫻:利用者さんに、ここにきて助かったよ!と言われることが何よりうれしいし生きがいになります。


山:では、今のさなぎ達の課題を挙げるならば何がありますか?

櫻:時代とともに変化し、多様化するニーズに対してどのように対応していくかが課題です。
例えば、路上生活者の高齢化に対する問題や、不景気による若者の路上生活者増加問題などがそれに当たります。


山:では最後に、櫻井さんが考える「幸せ」とは何でしょうか?

櫻:自分にとって満足できること、生きててよかったと思えることだと思います。


山:私は他人との時間共有だと思います。

櫻:もちろんそのようなものもあると思います。
幸せは人によって違い、時代によっても変わるものなので、これと決めることは私の幸せに対してもできないと思います。


山:わかりました。
どうもありがとうございました。

櫻:こちらこそありがとうございました。


寿に住む一般人

2012年09月24日 | ふらここ
 寿町の住人、というとドヤ住まいの人をまず思い浮かべる。
 でももちろん「一般」の住人もいる。Hさん(女性)もその一人。
 84歳。ここで生まれ、結婚し、子供を育て、いまもビルの
ワンフロアを自宅にして暮らしている。 

 「中区わが街 中区地区沿革史」という本に、寿町・扇町の
戦前記憶地図が掲載されている。
 それを見ると、銭湯、菓子屋、材木屋、コロッケ屋、
パン屋、洋品店、八百屋などが並び、ごく普通の下町だ。
 Hさんの生家もそこにある呉服屋だった。

「いまは廃校になってしまった寿小学校、そこが私の母校です。
 学校の先生になるのが夢で、山手の女子商業へ入りました。
 女子商業は四年まであるんですよ。だけど戦争が始まって、
三年の時に学徒動員。勉強どころじゃなくなりました。
 卒業式もなしでしたね。
 代用教員として、母校である寿小学校の先生になりました。
 教諭資格のある若い男性は、みな戦地に行ってたから、
臨時教諭でも必要だったんです。
 私は勤めながら先生の資格をとったんですよ。

 そしてあの横浜大空襲。
 焼夷弾投下は松影町から始まりました。
 次々と落ちてくるのを、校庭の防空壕の中から見てました。
 私も家族も無事生き延びましたが、家は全焼。
 そう、このあたり一帯が焼け野原になったんです。

 雨露をしのぐためにバラックを建てたけど、
敗戦になり、米軍の接収が始まりました。
 立ち退き命令が出てから24時間の猶予すらなくてねえ、
ブルドーザーがバラックをなぎ倒していったんです。
 そのあとに米軍のカマボコ兵舎がずらりと建ち並んで……。
 マッカーサーの軍隊が来るから女・子供は逃げろと言われ、
生徒達を連れて箱根へ疎開しました。
 二年後に戻ってきて、しばらく千代崎町にいましたね。
 
 接収解除は、このあたり、遅かったんですよ。
 昭和28年頃からでしたかねえ。
 うちは昭和32年に寿へ戻ってきたんです。
 だけどそんなふうに戻ってきた人は少なかったんです。
 もう他所で新しい生活を始めちゃってるし、
 元のような暮らしのある町じゃなくなってましたから。
 そうこうするうちに桜木町から職安が移ってきた。
 そしたら、あっというまに日雇労務者相手のドヤが林立して、
結果、こういう場所になったんです。
 地元になんの相談もなかったですね、職安の移転については。

 そりゃ、怖かったですよ。血気盛んな男ばかり、
全国から集まってきたわけだし、その日暮らしの人も多いから。
 喧嘩や博打はあたりまえ。交番はあっても鍵がかかってるし。
 どこかへ行くにも、寿の町の中を通ったことはありません。
 いまだにそうです。迂回していきます。
 
 うちのビルも、階段で人が寝てたり排泄されたり、
消火栓や玄関マットを持っていかれたりしました。
 でもそれ以上の怖いことが一度もなかったのは、
ドヤの人達と直接関わらないようにはしてたからかもしれません。
 個人対個人になると話がややこしくなるから、トラブルは
役所とか警察を通して解決するようにしてました。

 この町の移り変わり? いやでも見えてきますよ。
 もう横浜には、昔みたいに港湾や建設の仕事が
あるわけじゃない。
 ここが仕事の斡旋場所になることはないでしょう。
 ほんとに高齢者ばかりになりましたねえ。
 これから、この町はどうなっていくんでしょう。
 私はこの歳ですから、昔の資料をとっておいたり、
こうして話すことしかできませんけどねえ……。


こんのくんとおばば6

2012年09月20日 | つくんこ
この日今野はグループホーム訪問看護の日。

夕方にクリニックに戻り16時過ぎくらいから川崎さんとおばば宅へ。
少し弱った感じだ。

おばばの身の上話になった。
東京の浅草生まれ。3歳からお琴・三味線をならい東京の歌舞伎座というところで芸をしたこと数回。
兄弟は兄姉併せて5~6人。姉は障害持ちだった。
自分は15歳の時から親の変わりに昼間は食堂やって、夜はそのまま飲み屋をやった。
食堂の名前は「〇〇コ食堂」から「〇〇コ食堂」へ変更。自分の名前を冠したそうだ。
障害持ちの姉は何も出来ずに家に引きこもるだけだったが唯一できたのがおでんの煮付け。
それだけ店の手伝いとしてやらせてた。
自分でキリモリして、売り上げは全て親にあげた。

その後21歳くらいから寿へ。そこでも働いた。酒、タバコはもちろん博打もやった。でもちゃんと働いた。

「夜飲み屋をやっていたときなんだけど、酔っぱらって金をださねえ客がいるから、前払い制にしてちゃんと飲ませてやって、そいつが酔っぱらったら店から引きずり出して、タクシー呼んでやるんだ。」
と、稼ぎのコツを得意げに語る。
結構オラオラしてたんだな。


笑ったのが年齢の話。
「アタイこないだ○○○病院に入院したんだよ。その時にアタイのカルテを見たんだけどアタイ、今の年齢77歳なんだってよ!!
アタイずっと71歳だと思ってたんだよ^^」
と。
年齢重ねると、自分が何歳なのかたいした問題では無くなるんだろうね。
分かる気がする。自分も別に自分の年齢に興味ないもんね。

そういえば、アメリカに住んでいる叔母にこういわれたことがある。
「私、今でも気分は20歳よ!!(当時70歳前)貴方はいいわね。若くて。私が貴方の年齢に戻れたらやりたかったこと全部やるわ!!」って。
オババも叔母もそうだけど、基本的に女性の方が好奇心旺盛なんだなって気が何となくした。

もう一つはタバコについて。オババはハイライトが大好き。

「まあ、好きならいいんだけど、タバコ吸ってて苦しくないの?」と聞くと、すかさずこんな返事が来た。

「タバコ!?吸ってないよ。ふかしてるだけなんだ。肺に入れて癌になったら大変だからさ!!」

ちょっと得意になっている表情。

「ああ、そう、、、」

その時俺の頭の中にはある疑問が、、、

「あれ、オババ 肺がんじゃなかったっけ?告知していたよなあ、、、??まあ、そこのところは深く話してもしょうがない。今この時間を楽しもう。」

その後も色々話して、この日はトータル1時間以上話した。

帰り際、おばばはこう言ってきた。

「寂しいからよ。また来てくれよ」

大分弱って(素直になって)きている。牙が抜けてきた感じだ。


いろいろ話しながら、時々見せる笑顔。(前はそんなに見たことなかった。小さな変化ってやつだ)

近いのかなあ?って思う。

こんなにゆっくり関われることはないと思うので出来る範囲で関わっていこう。と思う。

意外と知られていない寿とあいりんの決定的な違いからのニッポンの将来

2012年09月13日 | さなぎ達理事長 山中 修
横浜ことぶきと大阪あいりん地区。
両地区は“どや街”“寄せ場”としてワンセットでよく紹介されるが、
根本的決定的に違うことが一つある。

それは、住民票。
寿の簡易宿泊所には住民票がおけるが、あいりんはおけない。

昔っからこの制度は変わらない。
政令都市の自由度なのか?なんなのか? 
飛鳥田市政の名残なのか? 
大阪は排除で横浜は寛容なのか?
行政の理由は分からない。
分からないが、その結果はここに来て大きく異なる社会を創り上げた。
「寿は10年先を予測できる町」
念仏の様に唱えてきた結果が、住民票の有無からあいりんと比較するとよく分かる。

これまでさなぎの活動が続けられたのは、寿に住む人たちが、生保として簡易宿泊所に居住できる市民権が得られたからである。
最も大事な居場所の確保。
さなぎ達が一番大切に考えている、人生の安心、そのひとがその人らしく生きていくために必要なことは、居場所と生きがい。
居場所が住民票によって保証されている安心感は絶大。
大阪の場合は、生保認定された時から、あいりん地区を出なければならないのである。

この違いが、同じ“どや街”と称された町を擁する現在の2つの政令都市の行く末を大きく分けた。

大阪では、あいりん地区から出された生保の高齢者が、地域から鼻つまみ者のして扱われ、孤独死している。 あいりんにいれば、教会やボランティアやドヤ仲間と一緒に居られたのに・・・・。
寿では全く反対の現象が起こっている。
住民として、介護、看護、医療の対象に、ヘルパー、ナース、医師、みまもりの学生などが、「人のつながり」ネットワークを創り、「福祉の力で人に見守られる安心」を感じて一生を終えている。それどころか、近年は近隣の区からは認知症や癌の末期、各種障がい者で家族を持たない人たちが、「寿ならなんとかしてくれるだろう」と逆に送り込まれて来ている。寿はその人達をも受け入れ飲み込んでいる。すごい町である。
その人達の受け入れのKEY WORDは「話しをしようよ」という「受容」の気持ちである。大切なのは何億かけて創った「はまかぜ」よりも、「そうだね」と相づちうつおばちゃんヘルパーのひと言ひと言である。

これからの大阪はさらに変わろうとしている。
今をときめく大阪維新の会。
この会の党首の原則原理は合理化と競争の原理であり、強力な指導力と、見事なまでの
対立軸作製能力に裏打ちされて、人気を博している。
最近の党首のスピーチには、田中角栄やアドルフ・ヒトラーのエネルギ-を彷彿とさせる強さがある。
強さとは弱さの裏返しである。10年後にとんでもない弱さが待っているような気がする。
急激な改革や変化は中国文革のような、大切なものを失ってしまうことにもなりかねない。
あいりん地区から路上生活者仕事を失った高齢者、各種依存症の人たち、各種障がいをもつ人たち、認定されていない潜在的障がいをもつ人たちが、きれいさっぱりと消えさってしまいそうな維新が起こりそうだ。
党首は“あいりん問題を半年で片付けたヒーロー”になるであろう。
消された人々は、大阪の町にちりばめられ、マスコミの対象にもならず静かに消えていくのである。

10年先、寿とあいりんは決定的に違う町になる。
ニッポンの縮図、ニッポンの未来。
みなさんはどちらを望みますか?

「さなぎの食堂」のボランティア三ヶ月、のつぶやきデス。

2012年09月12日 | marugarita
(菊名教会、谷口さんのレポートです)

 さなぎ食堂のボランティアに参加して3ヶ月が過ぎました。
スタッフの足を引っ張らないようにと、おばさんはかなりの緊張の中奮闘しています。

おばさんにとって大変だなぁと感じることは、立て続けに入る注文を記憶し、スピーディーに動くことです。「目が回る忙しさ」とは本当に目が回るんだなぁと実感しました。しかし週1回ではありますが、食堂に一歩足を踏み入れると、おばさんの中の眠っていた何かがフツフツと沸き立ち、家路につくときには心地よい疲労と充実感に満たされます。

最近では食堂に来てくださるお客様の顔や好みなどが少しわかるようになってきました。それと同時に寿の抱えている現実やスタッフの苦労も伝わってきます。

 ご縁あってさなぎ達と関われたことは、大きな感謝です。おばさんの力は微力どころかマイナスかもしれません。でも、おばさんは母の目線で、これからも心を込めて「ありがとうございました!」とお食事を手渡ししていけたらと思っています。
                          (カトリック菊名教会所属 谷口)

 *谷口さんは今の所、週一回「さなぎの食堂」のボランティアとして働いてくださっています。自称「おばさん」ですが……まだバリバリの現役アラフィー?の張り切りお母さんです。
目の回る忙しさで頑張っている彼女や食堂のスタッフのおかげで、お客様も増えている様子…本当にありがたいことです。末永くお付き合い下さいネ!

寿で出会ったペット達

2012年09月10日 | モトコ
寿で出会ったペット達。



昨年の夏。熱中症になったジジイ犬「リュウ」。目がうつろ…バケツで冷やされていました。




昨年11月頃。サンタの格好をさせられた「リュウキチ」。無理矢理帽子をかぶせて撮影。
その後、逃亡…




今年8月。暑くてのびきっている猫の「ピョンピョン」。この日は三回ぐらい踏みそうになった。


猫、犬以外にも、亀や小鳥、ウサギ等々飼っている人たちがいます。

【お知らせ】9月11日野菜市@かどべやを開催いたします!

2012年09月10日 | モトコ


毎日暑い日が続きますが、みなさんいかがお過ごしでしょうか。

明日、石川町5丁目にありますレンタルスペース「かどべや」にて、野菜市を行います!

日時: 9月11日(火) 13時~17時
場所: レンタルスペース かどべや (住所: 横浜市中区石川町5-209-3 1階)

当日はボランティアのおじさん達も一緒に参加いたします。

また今回は、上記にありますチラシ画像を持って来てくれた方には、全品1割引きとさせていただきます。

この機会にぜひお越しください!

こんのくんとオババ5

2012年09月06日 | つくんこ
2012年3月30日

訪問診療。

水曜日はいろいろあって見舞いには行かず。

いつものように訪問、「こんにちは~。おじゃましま~す」ってあがると遠くから「あ~い」っといつもよりは少し小さな声で迎えてくれる。

喫煙は続いている。この部屋はいつも紫煙に包まれている。

むせるぜ。マスクが必要だぜ。あんなに愛煙家だったのに今はすっかり嫌煙家。

オババにとってタバコとは人生の伴侶のようなものなんだろう。

しゃあない。寝たきり、楽しみはタバコと時々見舞いに来てくれる人たち。

毎日毎日 四六時中 布団に横になって天井ばかり見ていたら気が狂うだろうな。


もし自分がこの立場だったら?耐えられないだろう。思うように体は動かない、動くとしたら寝返りのみ。


俺15歳の時バイクで電柱に突っ込んで骨折して入院したんだけど、2週間ベッド上生活だった。まあ、手術してそのあとからは離床できたんだけど。2週間の間にいろいろ考えた。

「このままずっと歩けなくなるんじゃないか?」

「障害が残ったら・・・」

「あ~あ、とことんついてない。人生終わったって感じ」

置いていかれちゃった。って感じで、社会からの疎外感を感じた時、人って思いっきり心が折れる。

あっけないくらい、ポキッて。

無気力・無感情、自業自得だって自分を責めても後悔してみても、な~んにも変わらない。

結果が残るのみ。

なんて人生は無常なんだろうと思う。

呼吸音:RATTINGは消失。

訪問するたびに感じること。オババから牙(オラオラ感)がなくなっていく。

キューブラー・ロスという精神科医が昔いて「死の受容過程」ってのを唱えてた。経験的に全ての過程を通過することはあまりなくあってもその時間は個人によって長かったり、短かったり様々。

1週間もしないうちにいろんな葛藤を抱えたりしていつの間にか死を受容している人もいれば、初見の時から既に達観の域に達していると思っていたのが最後の最後で乱れたり。
人それぞれだ。

オババは元気だった時は「オレはもういつ死んだっていいんだ!!」って言ってたけれど、ちょこっと具合が悪くなった時に会った時は(杖ついてヨボヨボしてた)「アタイ、もうちょっと生きたいんだよ」って言ってた。

どっちも本音なんだろうね。その時のコンディションに応じた自分の本音。嘘ではない。粋がってもいない。

自分に余裕のあるときは他者に対して思いやりを持てる。でも、自分に余裕のないときは他者に対して思いやりを持てるか?なんていうとそれは難しいと思う。

「自分を犠牲にしてでもその人に尽くしても良い」ってなかなか思えないと思う。


さきほど話に出したキューブラー・ロスさんは自身の終末の時、悪態をついて死んでいったようだ。

知る人ぞ知る有名な話。誰も死んだことなんてないんだし、未知なものに不安を抱えるのは当然のことだと思う。

まあ、きっと呆けていたのもあるのだろうけれどね。

俺も看護師って名称をなんとなく名乗って早13年目。

死亡症例には数えてないけど、相当数経験してる。別に特別な感情なんて一切持ったことがないけれど。

そういうと「心が無いんだね」とか訳ワカンナイこという人に時たま出会ったりすることあるけれど、その人の最期に接する時ちゃんと看取っているよ。て思うこともたまにある。

いろんな人の最期を見ていて(病院、在宅限定)、ときどき思うことがある。

自分の死に様ってどういうふうになるんだろう???って。


この度 不思議なことに、興味が沸いたのでオババの事を日記にしているけれど、今はこれを書き止める余裕があるから書けるんだな。


何年か後に読み返したら、思い出がよみがえってきて楽しいんだろうね。
どうなんだろうね。
still I don't knowって感じ?