さて、あまり長く続くと次が書けないので、
寿の歴史はこれが最終回。
もうすぐ5月29日がやってきます。
横浜大空襲の日です。
1945年のこの日、米軍のB29戦闘機による爆撃で
横浜の中心部は無残な焼け野原となりました。
私達は昨年の東日本大震災の惨状を知っています。、
67年前の横浜市街地は、まさしく同じ光景。
どこもかしこも、死体の山だったのです。
荒涼たる焼け跡の横浜
同年の8月15日、太平洋戦争は終結を迎えました。
敗戦国になった日本に、進駐軍がやってきました。
最高司令官はダグラス・マッカーサー。
専用機で厚木の飛行場に降り立ったマッカーサーは、
まっすぐ横浜に向かい、焼け残っていたホテル・ニューグランド
に入りました。
ニューグランド本館前のマッカーサー
米軍は、港湾を初めとする横浜の市街地を広範囲に接収しました。
寿町やその周辺も含まれていました。
戦火を逃れた大きな建物……ニューグランドや伊勢佐木町の
デパートなどは、米軍の施設として使用されました。
日本人は焼け跡にバラックを建て、雨露を凌ごうとしました。
が、米軍のブルドーザーはそれすらも容赦なく
踏みつぶしたといいます。
きれいな空き地にしたところで、米軍は兵舎を建てました。
兵舎はその形から、かまぼこ兵舎と呼ばれました。
前回は明治三年の絵地図として見ていただいた「釣り鐘型」の
関外地区。
そこに、この写真ではびっしりとかまぼこ兵舎が並んでいます。
長者町から若葉町にかけて、小型飛行機の飛行場まで
造られていました。
「米軍の残飯を食べたんですよ。肉をしゃぶった後の骨とか、
野菜屑とか、時には吐き捨てたガムまで混じってる残飯を、
大鍋で煮て、街頭で売ってるんです。
そんなものまで食べないと生きられなかったんです」
当時を知る人から、よく聞く話です。
戦地から戻ったものの怪我や病気を抱えた復員兵、
親を亡くした浮浪児、家族を養うため米軍兵士に身を売る女……。
関東大震災からなんとか甦ったというのに、横浜はまたもや、
暗澹たるカオスの底にありました。
その後に起きた朝鮮戦争、ベトナム戦争にも、アメリカは
深く関与していきます。
皮肉なことに、同じアジアを舞台にしたこれらの戦争が
横浜の復興を促進しました。
基地が置かれた横浜にはおびただしい数の米軍が出入りします。
そのため、横浜港に大きな需要が生まれました。
コンテナなどなかったその頃は、すべてが人力。
人手がいくらあっても足りない状態です。
日本中から、労働者達が集まってきました
港の荷役(五十嵐英寿写真集 横濱みなとの唄より)
やがて徐々にではありますが、市街地の接収が解除され、
横浜もようやく再建にとりかかることのできる状態に
なっていきました。
1965年、飛鳥田市長はこれから行う「横浜の六大事業」
を発表します。
都心部の強化、金沢沖の埋立、港北ニュータウン、高速道路、
高速鉄道(地下鉄)、ベイブリッジ。
都心部の強化の中に、後のみなとみらい21も含まれています。
エネルギー革命により、本格的な高度経済成長も始まっていました。
どこの建設現場でも、必要とされるのは現場の労働力。
現場から現場へと流れていく日雇い労働者達です。
そうなると横浜の便利な場所に、彼らの宿泊場所が
必要になりました。
野毛や日ノ出町などのバラックに分散して泊まったり
野宿をしたりと、いろいろだったうようですが、
大岡川に水上ホテルがあったこともあります。
ホテルといっても、船の雑魚寝です。
客を詰め込みすぎたため船が転覆し、
多数の死者を出すという惨事も起きました。
寿町とその周辺は、昭和29年から34年にかけて段階的に
接収解除されました。
接収前、ここには小売り店や工場や住宅があったそうですが
米軍が去った後は、なにもない野原。
もとの町に戻すことは難しい状況でした。
多くの人が土地を手放し、他所へ移って行きました。
そのあとに建ち始めたのが、長期滞在の日雇い労働者達を対象とした
簡易宿泊所です。
ここは港へ行くにも便利な場所でした。
加えて、1957年(昭和32)には、桜木町にあった職業安定所が、
この地区に移転してきました。
たちまちにして簡易宿泊所が林立し、日本三大ドヤ街のひとつが
誕生したのです。
港や建設現場で危険な重労働に従事する男達は、
疲労や辛さ、寂しさを、酒、博打、女、覚醒剤などでまぎらす
ことも多かったでしょう。
喧嘩も絶えなかったはずです。
荒々しい雰囲気が漂い、寿町は「危ない場所」として
知られるようになりました。
警察関係者や新聞記者でさえ「あの頃の寿は怖かった」と言います
さて、現在はどうでしょう。
横浜の六大事業はすべて完成しました。
高度経済成長期も終わりました。
それどころかいまは、就活に失敗した若者達が
何人も自殺するという不景気な時代です。
寿町へ来ても、仕事を得ることは難しくなりました。
それでもいま、松影町や扇町を含む寿地区には、
簡易宿泊所が123軒あります。(昨年度11月調べ)
宿泊者数は6500人余り。
昔は働き盛りの男達がひしめいていた場所ですが、
いまは高齢者と心身障害者が圧倒的に多くなりました。
8割が生活保護の受給者です。
高齢者の中には、マリンタワー、海浜の埋立、みなとみらいなど
などの建設現場で、汗にまみれて働いていた人も多くいます。
建築家やデザイナーは称賛されても、現場労働者の名前など
誰一人として残りません。
けれども簡易宿泊所の狭い部屋で最期を迎えるとき、
「あんた達が造ったんだよねえ、日本一、夜景のきれいな横浜を」
と言うと、その人は安堵のこもった微笑を返してくれるそうです。
誰も孤独死させないKMVP(寿みまもりボランティアプログラム)
のリーダーにして「ポーラのクリニック」院長、山中修先生から
伺った話です。
長い日雇い労働者暮らしで、家族も故郷も失った高齢者が
ここにはいます。
心身に障害を持ち、差別から逃れてきた若い人達が
ここにはいます。
この人達の孤独を、私は他人事とは思えません。
日本の至る所に、こうした「孤独」が渦巻き、昨年から
盛んに言われている「絆」という言葉のむなしさを
かみしめているのではないでしょうか。
自分の孤独を思う時、私は他者の孤独にも
思いを馳せずにはいられません。
あなたは、どう感じますか?