三蟠軽便鉄道を生んだ土壌と歴史的な背景
ここで過去をひもとき黄蕨の国の先進性について振り返ってみたい。
三蟠軽便鉄道が開通できた背景、そして鉄道沿線・周辺地域とはいったいどんな地域だったのか
明治43年6月12日宇野線開通に伴い、それまで岡山市の表玄関とされていた三蟠港は、
宇野港にその地位を奪われ、上道郡内の住民、特に旭川東岸住民は危機感を増すことになりました。
富国強兵を標榜した明治に、鉄道は重要なインフラであり、
国の産業振興施策の一環として、明治43年8月3日施行された、軽便鉄道法と
続く軽便鉄道補助法が制定され、軽便鉄道敷設への気運が急速に高まりました。
上道郡内では平素郡内の各村長が定期的に郡役所に集い、コミュニケーションをとる場があり、
沿線、周辺の村長たちが発起人となり、大正3年2月1日三蟠鉄道株式会社を設立しました。
国が民間鉄道を奨励したことで、全国的に鉄道敷設の機運が高まったとはいえ、
三蟠軽便鉄道が驚異的なスピードで開業にこぎつけたことを説明しきれるものではない。
住民たちがいかにこの地を誇りに想い、鉄道敷設に向け、連帯して立ち上がったからに他ならない。
この恵まれた土壌と文化が根付いた歴史を紐解いてみたい。
岡山県南は古代吉備の国の中心地、古くから卓越した人物がたびたび登場している。strong>
黄蕨の穴海と古墳時代前半の推定海岸線
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全国に先駆けて先覚者が多くそだった背景には何があったのか。
きっと古代から気候温暖な晴れの国。山と海の幸がふんだんな黄蕨(吉備)は、
目指していた葦原の国(楽園)だったに違いありません。
縄文時代末期から、渡来人が相次いで大陸から移住するようになりました。
当時は海路が中心で交通の要衝たる地域は多くの渡来人が、住み着いたのです。
当時の岡山平野は穴海と呼ばれる大きな海でしたが、児島も文字通り島であり、
現在の小豆島よりやや大きな島だったようです。
古代の瀬戸内航路の本航路は児島の北側でした。穴海の周辺は渡来人が多く住み、
穴海を通じて物資や食料などを運ぶには好都合だったと思われます。
巨大な文化圏が生まれたとしても自然なことだったと思います。
中国山脈のおかげで高梁川、旭川、吉井川の県内三大河川の水は豊富で、
しかもとてもきれいな水です。この美味しくて腐らない水は、その後遣隋使、
遣唐使の時代にも飲料水として、船に積み込まれたに違い有りません。
航海には相当の日数を要し、航海技術も未熟だった時代、文字通り命をつなぐ水として
小野妹子、吉備真備、和気清麻呂、阿倍仲麻呂も吉備の美味しい水を積んで
旅立ったことでしょう。
既に4世紀には大挙して渡来したと言われる騎馬民族の秦族が上陸したのは、
現在の東児島地区の可能性が高いと筆者は考えています。
秦一族が製鉄の技術や治山治水の技術を持ち込んだ結果として、
黄蕨(吉備)の国を造り、そして邪馬台国を造ったと思います。
秦氏の足跡と見られる痕跡が児島を中心として、現岡山県南各地に見られるからです。
例えば、製鉄技術は、高温を必要とするので農機具や日本刀をはじめとした
様々な鉄器や陶器、煉瓦も生み出しています。
空を飛んだ浮田幸吉にみる先進性
江戸末期、八浜の表具師浮田幸吉は、空飛ぶ鳥を見て、
若い頃から空を飛ぶことを夢見ていました。
表具師の材料と技術経験を生かして、竹を骨組みとして紙と布を張り合わせ、
柿渋を塗って強度を持たせ翼を作って準備しました。
1785年夏、旭川に架かる京橋の欄干から飛び上がって、僅かながら滑空して川原に落下
したとされ、日本で初の飛行をしている。因みにライト兄弟の飛行より早かったとされ、大記録です。
当時の備前岡山藩の藩主池田治政は町民を騒がせたという罪で所払いとされ、
浮田幸吉は放浪の旅を続け、駿河の国に移り住んだといわれています。
没後150年経過して、平成9年、旧備前岡山藩池田家の末裔、池田隆政により、
開拓者精神にあふれた浮田幸吉の偉業が見直され、所払いは許されている。
以下の画像2枚は表具師浮田幸吉が京橋の欄干から飛んだ(飛び降りた)時に使われた翼など表具
岡山市南区の藤原元太郎記念館に保管されている
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東児島の宮浦地区の石工集団の歴史
三蟠港対岸の宮浦地区は、現在岡山市南区となっているが、
かつての児島郡内である。かつて江戸末期、全国屈指の石工集団がいた地区でした。
石工集団とは現在のゼネコンに相当する大規模な土木集団であり繁栄を極めていました。
セメントやコンクリートのない時代、全国に出張し大規模な橋や城づくりを手がけていたのです。
幕末の頃、当時の西欧列強各国は日本に開国を求めて、黒船を中心に頻繁に列島沿岸部に近づき、
幕府は全国の大名に命じて、迎え撃つ体制をとりました。
当時備前岡山藩も幕府の求めに応じて、国防のため千葉の房総半島に援軍を送っています。
また、江戸末期の日米和親条約締結に伴い箱館(現函館)を開港し徳川家定の命により
築造された五稜郭の石積みは、宮浦地区の井上喜三郎が請け負ったものでです。
この五稜郭は江戸末期に蝦夷地の箱館府(現函館市)に築造された稜堡式の城郭で
ヨーロッパ風、星形となっている。
当時の宮浦に石工集団が居たからこそ、
三蟠軽便鉄道の線路敷きとなる道床も速やかに敷設整備できたという側面も忘れてはならない。
沖新田の開墾
備前岡山藩藩主だった池田光政、綱政当時に津田永忠に命じて造営した現岡山県南
に位置する広大な沖新田を、後に三蟠軽便鉄道が駆け抜けました。
備前岡山藩は、表玄関が三蟠港であり、歴代の藩主は、この地を重要視した経緯もあり、
住民たちは誇りを持って日常生活を営んでいました。
沖新田はまさに、藩主が威信と命運を賭けて成し遂げた大事業だったが、
極めて広大な土地が造営できて、
石高も大いに上がり、藩の財政も豊かになったことは言うまでもありません。
現在の沖田神社には産土神として沖田姫が祀られている。日本古来の生贄文化が、
この地にも美談として語り継がれています。
倉安川の造営
沖新田の開墾と相俟って、津田永忠は、藩主の命を受け、
次々と大事業を成し遂げていくことになるが、中でも、操山の南麓に旭川下流域から
吉井川中流域まで総延長約20kmに及ぶ大運河を作ったことでも有名です。
つまり吉井川との接続地点に設置した倉安川吉井水門は、運河の出入り口となって、
船通しの閘門(こうもん) 施設なのです。
岡山藩主池田光政が延宝7(1679)年に、津田永忠に命じて掘削に当たらせ、
1年間で完成したものです。
その目的は、岡山藩が17世紀後半に干拓 した倉田・倉富・倉益の三新田への
灌漑用水の供給、和気・赤磐・上道3郡の年貢米の 輸送、岡山城下へ出入りする
高瀬舟の水路整備などであり、通過地域にちなんで倉安川と名付けられている。
倉安川から沖新田へ流れる水路が、
田園地帯を潤す農業用水に地域住民は歓喜したことでしょう。
この閘門式運河の造営技術は全国に先駆けたばかりか、
世界的に有名なスエズ運河やパナマ運河より、早い時期に竣工していたのです。
国産自動車第1号制作の山羽虎夫 氏
国産自動車第1号が、岡山、三蟠間(6キロ)を走ったのは、明治37年5月7日だった。
その製作を担当した山羽虎夫、佐々木久吉、両氏の苦心もさることながら
其の発註者たる森房造、楠健太郎、両氏の卓越した見識も見落としてはならない。
日本で最初の国産自動車は国清寺三蟠間を走った
山羽虎夫の国産自動車第1号となった木炭自動車
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偶々、50周年にあたるを以て、東京自研社主唱して醵金、
岡山の有志者その紀念日に除幕式を行う。・・とある。(1954年孟春 岡長平識)
因みに、陸蒸気を模したのか、太い煙突の有る木炭車だった。
そのレプリカは現在トヨタ自動車本社に展示されている。
トヨタ自動車本社に展示の山羽虎夫の国産自動車第1号
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以上は一例ですが、岡山県内は古くから開拓精神旺盛で、先覚者も多く、
常に全国に先駆けての先進性を持ち、気候風土、地の利と相俟って岡山県人の心の中に
郷土を愛する県民性が育まれていったと考えています。
こうした郷土を思う心は、新たな課題が生まれたときにも、その力を如何なく発揮され、
その都度、見事に課題を克服してきました。
三蟠軽便鉄道が設立から短期間に開通にこぎつける事が出来たのも、
地域住民が先駆者の業績に思いを馳せたからに違いありません。
国からの民間鉄道敷設奨励に、その必要性を感じた住民達は、忠義を重んじ、
そのプライドを賭けての大事業を強い結束力と行動力を持って、
驚異的なスピードで開業にこぎつけたのです。
きっと先人たちをお手本にしたに相違ありません。
会社設立は大正3年2月1日、開通できたのが大正4年8月11日ですから、
その間1年6ヶ月余りです。鉄道は村々を越えて、当然のことながら広域的な事業展開になります。
それでも各村長が全く未経験な鉄道事業に取組む事に、全くとまどいもなく踏み込めたのか不思議です。
それには課題解決のため、上道郡の郡役場に郡内の村長たちが集うことが出来た
という時代背景も忘れてはなりません。
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