院内で病気の方にお話ししました。
それはどちらも小さくて
どちらがどちらかだか見
間違うほど
どちらが輝いているわけ
でもなく
どちらが重たいわけで
もなく
それはごくありふれた
けしの実のような小さな種
じつはふたつは同じもの
花が咲かなくては何の花
だかわからない
きっとそんなようなもの
しあわせになりたいと思った
ときから
しあわせは始まっている
だけど手のひらにのっている
この種が
どちらの種だかわからない
私はときどき弱くなって
しあわせをあきらめそうに
なる
すると美しくたおやかな芽は
あきらめのかたちに変わって
しまう
だけど決して踏みつけないで
夢「生きる」という名の光と水で
しあわせの芽にかわるのだから
いろんなことがあるけれど
可憐な花を咲かせましょう。
「たとえば渋谷の駅前の
交差点。私、あそこを渡る
のがキライなの」
「何でまた?」
「蟻の大群みたいに大勢の
人がいるのに、私を求めて
いる人も、私が求めている
人もいないんだと思うと、
とても悲しくなるのよね」
でも、
「新コロナ・ウイルスで人が
いない交差点はもっと嫌い」
交差点。私、あそこを渡る
のがキライなの」
「何でまた?」
「蟻の大群みたいに大勢の
人がいるのに、私を求めて
いる人も、私が求めている
人もいないんだと思うと、
とても悲しくなるのよね」
でも、
「新コロナ・ウイルスで人が
いない交差点はもっと嫌い」
心のしくみは不思議だ。
脳にたくさんの襞(ひだ)が
刻まれているように、心にも
細かい襞が刻まれている。
その繊細さ、傷つきやすさ。
そして、絶望を乗り越えて
生きていこうとする魂の力
強さに、私はいつも胸が
熱くなる。
“一人で歩いてきたつもり
だったが
心眼を見聞いてよく観たら
同行二人一人ではなかった
水先案内人がそばを歩いていた“
「オレは自分の力でここまで
やってきたんだぞ、他人に遠
慮する必要なんか何もない」
と、若いときは力んだものだ。
意気盛んなことはよいことだ。
だがよく見たら、一緒に歩い
ていた人がいた。気づかなか
ったのは、無知か、
まわりを気づかうゆとりが
なかったからだ、と考える
ようになったのは、ほんの
この前だ。
その水先案内人がいなかっ
た、間違った道を歩いていた
かもしれない。平凡な道で
はああったが、人並に今日
まで歩いてこられた。
同行二人、それが親であった
か会社であったか神か仏で
あったか。
これからも胸を張って二人で
歩こう。