せつなさというのは不思議
な気持ちだと思う。
淋しさや悲しさのよにわか
りやすくはないし、言葉で
説明を求められてもはっき
り答えられないから困って
しまう。
それに人によって受けとめ
方もさまざまで、ある人は
淋しさによく似た気持ちか
もしれないし、
ある人にとっては悲しみの
ひとつの形になっているか
もしれない。
私は・・・・と言うと、こ
れが曖昧。
たとえば触れられそうで触
れられない、その指先と何
ものかの距離をせつなさと
呼ぶのかもしれない。
抱きしめているのに、どう
しても手に入らないもの。
ひとつになりたいのに、決
して体も心もひとつになれ
ないこと。
取り戻せない時間。なのに
昨日のことのように輝いて
いる出来事。そんあどうに
もならない何ものかとの隙
間が、とても愛しくて、とて
も素敵で、とてもとてもせつ
ない。
時の流れという縦糸といろん
な出来事や気持ちの横糸が描く
つづれ織り。
せつさなは言葉では表せない。
ただただ、心にしんと感じる
もの。
甘い声でマリアがささやいた。
「伊集院さん、
私を愛してるって最初にわ
かったのはいつ?」
伊集院はきっぱり答えた。
「みんなにきみのことをバカで
魅力がないって言われて、
猛烈に腹が立ったときさ」
マンネリになった恋を救う
カンフル剤は、彼の嫉妬
(ジェラシー)しかない。
ある日、突然、
ファッションや髪型、好みの
音楽を変えてみる、
ちょっとした言葉づかいまで
・・・・・。
「どうしたんだ、一体」
「????」
「別に・・・・・・」
あなたはとらえどころのない
ような遠い眼をして、
笑ってみせるだけでいい。
「気分のまま、流れている
だけ」
そんな時期は、1日に何度も
していたLINEを、
二日に一度にしてみる。
恋の不安におびえているあな
たにとって、その我慢は死ぬ
よりつらいことかもしれない。
だけど決定的な破局(カタス
トロフ)に直面する辛さにくら
べたら、ものの数ではないで
しょう。
唇を離した瞬間、イヴの
夜、暖炉の風がキッチンからベ
ットサイドへ、花の香り
を運んでくる。
今夜のために買った白い
ストック。初めから死ん
でしまっている、切り花。
その切ない香りを、わたし
は胸いっぱいに吸い込んだ。
もしも天国に香りがある
としたら、それはこんな香
りかもしれないと思いながら。
魅力は眼を奪う。
人格は心を奪う。
“じっと引っ込んでいては
人と出会うことはない
行動すれば間もなく
かけがえない人と出会う“
「犬も歩けば棒にあたる」と
いう言葉がある。
人間を犬にたとえるのは、は
なはだ気がひけるが、職場と
我が家を、わき目をふらず通
っているだけだったら、その
人の生活領域は線でとまる。
それでは、仕事上の人間
関係の城を出ない。
外へ出ることだ。何かを
求めて行動することだ。人
間ぎらいで人と出会うことを
億劫(おつくう)がっていた
ら、いつまでたっても一人で
いる以外にない。
結婚の相手にだって、ネット交流
しても実際に会ってみなては
先は見えません。
“優しい言葉
優しい笑顔
優しい行為
優しさとは人を憂(うれ)え
る心だ“
優しさは、人間生活にかけ
がえのないものである。
だれだって優しさを求めて
いる。しかし、優しさとは
何であるか、的確につかんで
いるフシがある。
優しさとは、文字の示すとお
り、他人のことを憂える心の
ことだ。
優しい言葉、優しい笑顔、優
しい行為すべて甘美な言葉で
ある。だから、多くの人が渇
望(かつぼう)しているのだ
ろう。
それは他人を憂える心からか
もし出す零囲気である。
「他人の幸せ、自分の幸せ」
他人の幸せを豊かな気持ち
で祝福する。それは同時に
あなたが
自分を祝福していることを
意味します。
※ローマの詩人セネカの言葉
に、「人間が一人でおれば必ず
親切にする機会がある」という。
人のために何かをしてあげよう
というのは人間の特性であり、
それが自分のためになるのです。
「手のきたない人は、信用で
きない」
こういうとずいぶん乱暴に
響くかもしれません。それでも、
きたない手のままで平気でいる
というのは、
すごく粗野でないかと思うのです。
手は体のなかで、人とのやり取り
を担う部分。「さわる」という行為
をとりおこなうのです。
食べもの、お客さまに渡す品物、
ほかの人の手や頬にふれる手が、
きれいなほうがいいのは当然
でしょう。
実際にさわる、さわらないかの
問題ではありません。もし誰か
にちらりとでも、
「この手にさわりたくないなあ」
と感じられたら、僕は自分で自分
がいやになってしまいます。
相手の立場になって考え、想像
すれば、人の目につく手をどれほ
どきちんと手入れすべきか、
わかっていただけるのではないで
しょうか。
手と同じように足もきれいにしま
しょう。目に見えないところ
まできれいに整えるという心
がけが、ていねいな暮らしや
人生をかたちづくるのです。
体や健康という、命につながる
ことに留意しない人は信用でき
ない ―――こう言えば、冒頭
の言葉もあながち乱暴に聞こえな
いと思います。
幾度かの台風が過ぎ去った公園に
山吹が ぽつり ぽつりと咲いて
いた
嵐にも負けないと 決意表明して
いるみたい
出番の春には まだ遠いのに
「初冬に春の花がまた咲き出す」
春に咲く桜や山吹、つづじ、桃、
杏などが、初冬、小春日和のころ
に再び花を咲かせることがありま
す。
ぽかぽか陽気にだまされたのか、
春に花芽が十分に育たず時期遅れ
に咲いたのか、あるいは次の春が
待ち遠しかったのか・・・・。
そんな季節はずれの花を「帰り
花」または「返り花」と言います。
「狂い花」とか「狂い咲き」とい
う言い方もありますが、
「帰り花」のほうが美しい言葉
ですね。
ちなみに、一度は見請けされて
堅気になった遊女が再び遊郭に
戻ることも「返り花」といいまし
た。
この返り花には少し切ないもの
があります。
わが身を捨てる覚悟さえあれば、
世の中のことでなにか怖ろしい
ことはあるだろうか(いや、
なにもない)。
樋口一葉、最晩年の日記「水の
うね」からの一節。
その2年前、本郷丸山福山町
(現・文京区西片)に転居し、
生活苦と戦いながらの文筆活動
のピークを迎える。
『文学界』に「大つごもり」「たけ
くらべ」を連載したのを皮切りに、
「ゆく雲」「にごりえ」「十三夜」
「わかれ道」などを次々に発表。
いずれの作品においても、独特な
文体により、同時代を生きる女性
の哀歓を切々と訴える。
24歳と8か月で死去。わずか、
14か月の作家生活であった。
愛や恋心は、人類不変、永遠の
テーマには違いない。みんな戸惑い、
迷っているからこそ、語られていく
ものだと思う・・・・。
友達がイヤなメールをくれた。わ
たしの彼が、誰か知らない子と仲
良く歩いていたという。
人のことなんていいじゃない、と
思う。けれど、彼女には気になって
仕方ないのだろう。
馬鹿バカしいと思いながら、ふと、
不安が襲ってくる。
こういう気分がいやなのだ。恋に
はつきものといっても、ふっと
心の穴を突くような想いは、時々
ある。
ある日、思ってもみないことが
起きた。いつものように彼と喫茶
店で待ち合わせて、彼が、少し
遅れて席に着いたばかりの時だっ
た。
ウエイトレスが彼の注文を取りに
きて、去った直後、私たちのテー
ブルの横に、すうっと誰かが立
った。
彼よりも私の顔をじっと見つめて、
今にも泣き出しそうな気配だ。
それは、いったい何秒くらいの
時間だったどろう。その後
すぐ、その子は、くちびるを
かみしめて、想いを振り切るよう
に店のドアへ向かって走り、その
まま外へ飛び出していった。
私は、彼とその子の間でなにか
あったのかと疑いは持ったが、彼
の話を聞く限り、単なる先輩、後
輩同士で、少しやさしく教えてあげ
たりしたら、好意と勘違いされて、
うやたら、まといつくようになった
とのことだった。
「しょうがない。あなたはなにも
してないんだから、交通事故ね」
とは言ったものの、憂鬱になるのは
事実だった。
けれど、妙に、私は実感として、彼
が私のことで心くだいて悩んでいる
ことに、安心したりするのだった。
なぜだか知らない。でも、私と彼との
間に、誰も入る余地はないという確信
のようなものが、わいてきている。
電車が駅に着いた。改札口で彼は、今
日は家まで送っていくと言ったが、私
は「大丈夫」と言って、手を振った。
なぜか闘志のようなものも、わいて
きている。彼の信頼を得ているという
気分も強かった。心の中の疑問符が
解けた。
・・・大丈夫、私。守ってあげる、
あなたを・・・
と、つぶやく私がいた。
・・・◇・・・
恋における 信頼 確信 みたい
なものは
ほんの気分で 変りもする
だから ほんの気分で 生まれても
おかしくない
小さなアクシデントで 結束が
強くなったりする
???の繰り返しは
!!!に逆転することもある
愛って だぶん ???
!!! の きわどい勝負かも
しれない
負けたっていいじゃない
自分の中で!!!と思っている
限りは
ずっと ???? で いるより
いいに決まっている
言葉づかいは、マナーではなくて
気持ちです。
その人が「世界にどんな気持ちで
向き合っているのか」のあらわれ
です。
相手や場によって言葉をつかい
分けるというのは、その意味で
はおかしなことかもしれません。
祖父から言葉づかいだけでなく、
ちょっと立ち寄ったラーメン屋
の店員さん、まだ小さな子ども
もとにかく
「誰に対しても同じ態度をと
りなさい」と教わりました。
私たちは、けっして乱暴に話し
ているつもりはなくても、知ら
ず知らずのうちに気を許し、
言葉がラフになっていきます。
しかし、「マナーではなく、相手
への気持ち」と思えば、選ぶ
言葉も変わってくるのではない
でしょうか。
言葉づかいは、その人が世間に
どんな気もちで向き合っている
かのあらわれです。
“まずこちらから声をかけてみる”
Aさんは、自分は、会社でに
白眼視されていると訴える。
なぜなのだろうか?
私たちは、自分ほど可愛い物
はない。ですから、人が自分
に会ったとき、心地よい微笑
みや優しい言葉をかけてくれ
ないと、私たちの心に不満が
生じ、あの人は冷たい、あの
人は私を無視している・・・
と思いがちである。
結局、自分に甘えているのです。
自分に会ったら、人は笑顔や親
切な言葉をかけてくれるものだ
と、決めてかかっているのです。
しかし、こちらだけが微笑みや
親切な言葉を期待しているので
はなく、相手も微笑みや親切な
言葉を期待しているのです。
人が自分に悪感情を持っている
と感じるとき、たいていの場合
は自分に原因があります。
思い切って、こちらから「お元
気ですか」と先に声をかけるこ
とです。
誰もがそれを望んでいるのです。
こちらが心を開けば、相手もき
っと心を開いてくれるはずです。
有名な言葉に、「人にしてほしい
ことを、人にもしてあげなさい」
とあります。
自分中心に物事を考えずに、まず
相手思考をすることが楽しく過ご
すコツです。
彼女は、男の支えであると同
時に、男から支えられたかった。
彼が何を考え、何をどう感じてい
るのかを知っていたいし、彼にも
自分の胸の中をちゃんと見守って
いて欲しかった。
でないとすれば愛することは、
ただ虚しいことでしかない。
彼の身の周りの世話をしたり、家
の中をきちんとしておくだけなら、
是が非でも咲良がやらなくてもい
いいわけだ。
咲良は、彼のために彼女でなけ
れば出来ないことをしたい。
「幸せになるには必ずなに
かがなくてはいけなくて、
それがあるから幸せなのだ。
つまり外界に依存した感情な
のだ。喜びにはそんなものは
いらない。目に見える理由が
ひとつなくてもわたしたちを
つつみ、
まるで太陽みたいに、自分自身
の核を燃やしながら燃やつづ
ける」
幸せと喜びの違い。幸せには
「〇〇だから」というような、
ある程度客観的な理由というの
は存在し、他人もそういうもの
さしで人の幸せを見ている。
が、喜びというのは、人それぞれ
で、何をもって喜びとするか、
どういうときに喜びを感じるか、
に客観的な理由というのは存在
しない。
幸せよりも喜びを大切に―――。