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ミョンジン僧侶の法話

2010年03月26日 | 南域内情勢
今日は皆さんをソウルの江南奉恩寺に案内する。信徒20万を抱える名門仏教寺院ミョンジン僧侶の法話をお読みください。namsang


法話は仏の法を語ること、しかし今日は巷の是非を話すことになった。 信徒と大衆に 心配をかけ、心より懺悔を申し上げる。 奉恩寺仏様にも懺悔します。
この一週間はとても長かった。 1年が過ぎたような歳月だった。 色々と考えた。 あれこれと考えて、結局は正直に、率直にすべてのことを信徒様に申し上げることが正しいと判断した。

私は高等学校卒業して19才で海印寺に出家,ソンチョル僧侶門下で1年修行した。 軍隊行ってきて法住寺でまた出家, 方々を歩き回って1986年海印寺僧侶大会を契機にして、社会と宗教団体の様々な問題に関心を持つことになった。 そのような過程の中で今の総務院長チャスン僧侶と会ったし, 以後格別な縁で今日に至った。




奉恩寺直営は夢にも考えられなかった。

今のチャスン院長とは格別な間柄だ。 92年鳳岩寺で一時期一緒に暮らした。チャスン僧侶が、これから曹渓宗はミョンジン僧侶が責任を負わなければならない、 僧侶を院長にするのだと言っていたが、私は 笑ってしまった。

その後は互いに反対の立場、賛成の立場に身を置き長い歳月生きてきた。
去る選挙の時チャスン院長が訪ねてきて、"僧侶, 私が総務院長出馬することに決心しました。 助けてください。"言った。 前は私を総務院長にすると言いながら何だと笑ったが、しかし 熱心に助けた。 期待と希望の中で推戴され、チャスン僧侶は33代総務院長に当選した。


'市井のやから'与党代表と密通,野合

就任式で疎通と和合で宗教団体を運営すると法話した。 若い院長だが、私たちの宗教団体が和合でスタートした、希望が持てると考えた。 本人(総務院長)が選挙渦中に、財政を透明にして信徒らの支持する奉恩寺のようにすると言った。 その言葉が有難かった。 奉恩寺を中心に韓国仏教を変えようと約束した。

そのように選ばれた総務院長が、直営問題を誰と協議したか訊ねたい。 直営問題で事前に一言でもあったならば、こんなにまで話さなかっただろう。
宗務会議で奉恩寺を直営指定した日の朝、総務部長僧侶から電話がきた。 "奉恩寺は直営寺院に変わった"、と。
私は直営が何か分からなかった。 それで"分かった"と言ったが、 何かは分からなかった。 後で奉恩寺を直営にするんだと、うちの僧侶がきて言うので、 直営が何かと尋ねたくらいだ。



真実を分からなければならない。 11月5日に就任式があった。 11月20日頃キム氏がきて、数日前にチャスン院長とハンナラ党アン・サンス議員と一緒に会ったと言った。(記者会見ー数日前アップ) 11月13日プラザホテルだった。 その場で僧侶の話が出た。 アン・サンス議員が座るやいなや現政権に批判的な奉恩寺ミョンジン僧侶をそのままにして良いのか、と話をした。 その場には国会文化観光委コ・フンギル委員長も一緒にいた。 四人いた。最初チャスン院長は、任期が保障されていてどうにもならない、 任期があまり残っていない、と言った。
アンサンすス代表は、ヨンサン惨事遺族に1億ウォン伝達したことで、金をむやみに運動圏に使うことは防がなければならない、とも言った。 するとチャスン院長は奉恩寺の財政は公開されているのでむやみに使うことはできない。 信徒らが個人的に与えたものを、院長でも意見できない、と答えたそうだ。
… そんな会話の延長線上に直営問題があるとみる。

"私は住職の席に執着しない"

直営問題は誰と議論しなければならないのか。 信徒らとしなければならない。 ところがアン・サンス議員と議論した。 それが疎通か? 密通だ。 和合か? 分裂を起こす野合だ。 密通と野合を通じて宗教団体と奉恩寺に混乱を起こしたのだ。 このことに対してチャスン院長は解明しなければならない。

アン・サンス議員に一言。
市井の輩もこういうことはしない。 もし私の言葉が根拠のない話と判明するならば、私の足で奉恩寺を出るだろう。 私の手で総務院に行って僧籍から私の名前を消す。
アン・サンス議員はチャスン院長と密通したことに責任を負って、政界引退しなければならない。

曹渓宗の現実は、金がなくてしたいことをできない。 だから総務院長に分担金を1億多く出すと提案した。 税金を多く出すといったのと全く同じだ。今後も私は、奉恩寺の財政が良くなれば、宗教団体発展ために分担金をより多く出したい。


この前アン・サンス議員が性暴行が左派教育の結果といった。 キム・キルテはチョン・ドゥファン,ノ・テウ政権の時教育を受けた。 気に入らなければ左派なのか。 パク・チョンヒはイ・フラクを平壌に送って7.4共同声明を出した。 南と北が和合と平和的な方法で統一しようと合意した。 パク・チョンヒが左派か? パク・クネ前ハンナラ党代表は平壌でキム・ジョンイルに会った。 パク・クネも左派か? チョン・ジュヨンが牛の群れをつれて平壌を訪問した。 左派か? ヒョン・ジョンウン現代会長が金剛山事業をしている。 ヒョン・ジョンウンも左派か?

もううんざりする左派論争は止めなければならない。 宗教の立場で、南北が戦争なしに平和統一成し遂げることを願い交流するため、私も曹渓宗代表として北朝鮮に何回も行ってきた。性質の悪い、道理に合わないこともする弟に、悪いこと出来ないように止めて共存し、民族的悲劇を防ごうとすることが左派か? どうすれば良い? 交流を閉ざし飢えさせて殺すべきか? それは違う。

アン・サンスはどこにでも左派のレッテルを付けたがる。 恐らく自分の夫人が料理が不味くても左派夫人といっただろう。 子供が勉強をできなくても左派子供というだろう。 通りの犬がほえても左派犬というだろう。 この民族を分裂と葛藤に追い込むアン・サンス代表は、政治から身を退くことを薦める。

直営問題は途方もない反発を押し切って採決した。与党の院内代表要請と、脅迫,指令を受けたチャスン院長が下手人の役割をしたのだ。


"直営するならば僧籍から私の名前を消す"

私はこのような政治勢力との野合の中でなされた直営問題は撤回しなければなければならないと考える。

政治というものは行為を通じて私の利益を得れば、政治的になる。 巨大な権力に屈しないで、正しい声を上げる人にならなければならない。 政権にひれ伏し、これまで韓国仏教がそのように生きた。 大統領府で呼べば、急いで行きご馳走に与り…。

ノ・ムヒョン政権の時、軍疑問死真相究明委員会委員長の提案を受けた。 一言で断った。 なぜか。 仏の弟子だから。 政治的だったら受けただろう。

アン・サンスは市井の輩のように、頭の中は左派という単語の外に分からない無知な国会議員だ。 こういう人と会って密通、野合をする人が政治僧であって, 私は政治僧にはならない。


韓国社会が道徳的なのか? 互いに信じて信頼して形成された社会なのか? 経済だけ良くなって暮らすことだけ良くなれば、良い社会なのか? 嘘を飯を食べるようにする人,約束と信義を手の平ひっくり返すようにする人,他人の論文盗作しても恥じない世の中が、良い世の中か?

私たちはそのような世の中に生きている。 恥を知る世の中であるべきだろう。 恥をしらずただお金だけ分かる世の中は暗い。

与党代表とチャスン院長の真実は、近い将来明らかになるだろう。

●与党からも辞任要求が出されたアンサンスは、「食事の席で話したことがこんなになるとは」と鎮静化に努めている。骨の髄までしみ込んだ親日反共思想は、弁解すれば弁解するほどボロが出る。退路を断ち決死の覚悟で臨む僧侶の気概に、政界は今揺れている。


ミョンジン僧侶、過去の面白法話

2010年03月26日 | 管理人のつぶやき
ミョンジン僧侶の過去の面白い法話抜粋

“韓国女性が死ねば閻魔大王は頭を痛める。”冥土に来る人を確認すべきなのに,整形しすぎて冥府の住民登録証でいくら対照しても分からないのです!”

“それだけではないのですよ。 次に入る所が熱い煉獄なのに,韓国女性たちはサウナで鍛練されて,その熱湯地獄でも‘ああ気持ち良い’といいながら出てこないのです。


ミョンジン僧侶ってどんな人?

2010年03月26日 | 管理人のつぶやき
794年に創建された奉恩寺はソウル江南区三成洞修道山にある,信徒数20万人を確保している国内最大寺院の一つです。 この寺院を受け持っている方がミョンジン僧侶(59)です。

ミョンジン僧侶は19才の時海印寺白蓮庵で出家し、以後87年民主化運動当時仏教弾圧対策委員会委員長,94年曹渓宗宗教団体改革会の常任議員に歴任され、韓国仏教の改革に努力された代表的な現実参加派僧侶でいらっしゃいます。

ノ・ムヒョン前大統領告別式に仏教界を代表,般若心経を奉読したりもしました。 全国が悲しみに埋まった日僧侶は、日落西山月出東と話をしました。 太陽が西山に落ちると月は東から昇るの意。沈む太陽のようにあなたは逝くが、あなたの意志と精神は月のように光るであろうと述べられました。

ミョンジン僧侶は奉恩寺住職として、仏教界初の財政公開,信徒の事業参加という宗教界に久しく残る改革事業を遂行しました。 社会各界要人で構成された“奉恩寺未来委員会”を設けて改革を陣頭指揮しました。
2006年11月奉恩寺で仕事を始め、同じ年12月から1000日祈祷を始めたミョンジン僧侶。外出せず毎日1000拝をする苦行行いました。
しかしノ・ムヒョン前大統領の逝去時は己に課した戒律を破って家の外に出ました。 戒律も重要だが,国民が痛く感じる時には戒律を破ることも重要だということを見せました。