大阪市北部の中心はJR大阪駅や梅田駅を中心に広がる、通称「キタ」と呼ばれるエリアです。
あだ名を怪童丸。「ネフローゼ」という腎臓の難病を幼少期から患いながら、プロ棋士となり、29歳の若さでA級在籍のまま逝去した棋士、村山聖九段所縁の場所、北区と福島区を今日は歩いてきました。
まだ開館前の関西将棋会館。村山聖九段は毎日のように通い、研究にいそしんでいた場所。伝説、「終盤は村山に訊け」はここで生まれました。また、森師匠との運命的な出会いをはたしたのもこの場所。
森師匠とふたりで何度も歩いたというシンフォニーホール前の公園並木。奥に車が停まっていて残念な感じ。
金蘭女子中高校。自身が生活するアパートからの行き帰り、同年輩の女子高生と顔を合わせるのが恥ずかしく、下を向いて歩いていたそうです。
彼が終生借り続けた「前田アパート」。 2階真ん中の白いカーテンの部屋がそう。
対局後に高熱を出す事は度々で、体調を崩すと、体力を温存するために、ひたすら動かず、暗い部屋の中、布団にくるまり回復を待つ。常に水道の蛇口から水滴が垂れるようにし、その音を聞くことで自分が生きている事を確認していた。
日曜でシャッターが降りていますが、1階には「三谷工業」さんがあります。対局の朝、体調を崩し、玄関から這うように外に出たもののアスファルトの上に崩れ動けなくなった所を三谷工業の方に助けられて将棋会館まで行き、手合いに間に合う、そんなことが何度かあり、その日以来、毎朝9時頃、前田アパートの前の様子を窺うのが日課になっていたとのこと。
梱包材料屋。東京へ引越す時、荷物を梱包する段ボール箱を購入した店。
よく買い物をしていたというスーパー、
ビバ大淀でフリスクを買いました。
森師匠の住まいであった大淀ハイツ。前田アパートからここまでトボトボ歩いてきては洗髪をして帰ったとか。
森師匠と内弟子生活を始めた頃に住んでいた市山ハイツからは、学区外でしたが至近距離にあり、また養護学級があったため、事情を話し転校したのがこの大淀中学校。
開館の時間が来たので、最後に村山聖九段の面影を辿り、関西将棋開館へ立ち寄りました。
今までこれほど丹念に歩いたことがなかったので、感慨深いものがありました。
「何のために生きるのか? 」
おそらく問いはそのままに答えなのだ。
鏡のようにはね帰ってくる
その問いこそ僕の答えなのだ。
何のために生きるのかと
問いながら歩く事なしに、
到達はありえない。