追憶の彼方。

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戦争責任...(7)

2019年03月03日 | 国際政治
戦争責任…(7) 太平洋戦争への道
歴史に「もしも」はないが,〔吉田・鳩山・石橋・岸・池田・佐藤・田中〕という戦後総理の系譜の中で石橋(湛山)が健康で長期政権を維持することができ、政権を田中(角栄)に繋いでいたら日本は官僚政治、対米従属路線を離れアジアで独自の道を歩んでいた可能性が強い。石橋は退任後も岸の制止を振り切って訪中し周恩来に日中米ソ平和同盟結成を呼び掛け中国の信頼を得て彼等の門戸を開く努力を重ねていた。歴史的な日中国交回復を電撃的に果たした田中は訪中直前に石橋を見舞って自らの意思を伝えているが其の地ならしをした人物こそ石橋であった。
石橋湛山は大正・昭和、軍部が猛威を振るった時代、身の危険をも顧みず東洋経済新報社で言論の自由を唱え,言論の自由こそ「うっ積すべき社会の不満を排せつせしめ、その爆発を防ぐ唯一の安全弁」であるとし、様々な報道がなされることで国民の批判能力を養い、「見解を偏らしめず、均衡を得た世論」をつくる事が出来ると訴えた。
大正10年(1921年)社説…「一切を棄(す)つるの覚悟」では「朝鮮・台湾・樺太・満州と言うごときわずかばかりの土地を棄つる事により広大なる支那の全土をわが友とし、進んで東洋の全体,否世界の弱小国全体をわが道徳的支持者とすることはいかばかりの利益であるか計り知れない」。「防衛戦は日本海で充分である」とも主張した。
更に(同)社説「大日本主義の幻想」で軍事力による膨張主義を批判し、平和な貿易立国を目指す「小日本主義」を提唱した。そして「いかなる民族といえども、他民族の属国たるを愉快とするごとき事実は古来ほとんどない」と植民地の人々の心情に対する日本人の想像力の欠如も指摘していたのである。
石橋湛山こそ当に大正デモクラシーの旗手であった。
資源が全くなく国力の貧弱な日本の生きる道は自ずから明白であったが日清戦争・日露戦争に勝利したことが身分不相応な大国主義・帝国主義に走らせた。
明治維新政府の最初の外交問題は征韓論であったことは極めて象徴的、、吉田松陰の流れをくむ薩長藩閥政治家の強国・拡張主義の面目躍如である。
1890年の第1回帝国議会の施政方針演説で山県首相は「主権線-日本」だけでなく「利益線―朝鮮」も守っていくと述べその為の軍拡予算を成立させ1894年の日清戦争に突入した。
日清戦争で勝利した日本は①「朝鮮の独立」②「遼東半島・台湾・澎湖諸島(台湾・中国間の島々)」を取得,更に③賠償金3億千万円に加え3国干渉による遼東半島返還見返りとして5千万円を得、④日清通商航海条約を欧米と同様の不平等な内容で締結させた。賠償金の6割強が海軍拡張を中心とする軍拡に充てられ、更に受け取った金貨を基に金本位制を確立し、資金の一部で軍備増強および産業資材用鉄鋼の生産増大をはかるため,中国湖北省大冶鉄鉱山の鉄鉱石の長期契約を締結し、背後に筑豊炭田を抱える八幡に官営製鉄所を建設した。
当時イギリス産業革命に遅れること1世紀、渋沢栄一が大阪で官営模範工場の5倍の規模で蒸気機関を使った機械による大量生産システムの大阪紡績会社(東洋紡の前身)を設立し紡績業を日本の産業革命の中核に据えた。
生糸の生産でも富岡製糸所を中心に産業革命が起こり生糸の輸出は中国を抜いて世界一位となった。このような光の陰に15時間労働という過酷な労働と低賃金の女工哀史の現実もあった。日本初めてのストライキは女工によって起こされ、幸徳秋水による社会主義政党が結成されたが、これを危険視した山県(2次)内閣が治安警察法を適用しすぐに解散させてしまった。幸徳秋水は社会主義を忌み嫌う山県の後継者桂太郎内閣の下、大逆事件で無実にも関わらず十分な取り調べもなく絞首刑に処せられた。
前後するが日露戦争については「戦争責任…(5)」で記述した通りである。
アメリカ大統領ルーズベルトの調停でポーツマス条約が締結されたがそれ以前に日本は大国米英と交渉し韓国を支配することを認めさせ、周辺諸国から異論を出ないようにしたうえで韓国に軍事的圧力をかけ幾つもの条約を結ばせ、1910年の韓国併合条約で植民地化を実現した。これ以降韓国は日本の領土の一地方として「朝鮮」と呼ばれることとなった。日露戦争勝利後韓国統監に就任した伊藤博文は抗日運動高まりの中、1909年ハルビン駅で朝鮮民族主義活動家の朝鮮人安重根に暗殺された。
現在日韓の間に棘の様に突き刺さった竹島領有権問題はこの植民地化の一環なのかどうかという点で揉めており、根底に根深い国民感情が横たわり解決は困難を極めている。

明治時代最後の1911年には半世紀に亙り懸案となっていた米英等との不平等条約改正を認めさせ関税自主権を回復し、大正時代に入った。
大正時代は第一次世界大戦による欧州の軍需の盛り上がりにより、日本経済は非常に潤い、農業国から工業国へと脱皮し中国・太平洋への進出を強め、アメリカと同様債権国へ転換した。しかし、第一次世界大戦が終結してヨーロッパの軍需が冷え込むと外需に依存していた日本は、1920年以後には戦後恐慌に陥った。1923年の関東大震災なども重なり銀行の信用構造は大きく揺らぎ、1927年に昭和金融恐慌が発生した。さらに1930年、民政党を中心とする浜口内閣が実行した経済政策(金解禁)が世界恐慌と重なることで頓挫し、不況は悪化して昭和恐慌と呼ばれた。その後政権が政友会を中心とする犬養内閣に戻り、高橋是清蔵相の下、金解禁を再禁止し、積極的な財政政策により世界恐慌による混乱から日本経済を一足早く脱出させた。
日清・日露・第一次世界大戦で日本は経済立国として躍進したがこの大国主義への道が太平洋戦争の悲劇に繋がったのである。
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