戦争責任…(8) 太平洋戦争への道
日清・日露戦争は帝国主義列強の代理戦争という色彩が強い。
日清戦争が始まる直前1894年日英通商航海条約を結びこれが引き金となって各国とも治外法権(領事裁判権)を撤廃することに成功した。ロシアの南下を恐れるイギリスが日清戦争に向け日本の背中を押した形である。 日露戦争は独・仏がロシアを、英・米が日本を財政面を含め支援した。日露戦争勝利のご褒美として米英 等との不平等条約改正を認められ実に半世紀に亙る懸案の関税自主権を回復したのである。
大正時代に入って間もなく欧州列強間で第一次世界大戦が始まった。セルビア・イギリス・フランス・ロシア等の連合国とオーストリア・ドイツ・トルコ等の同盟国の戦争である。日英同盟によると、規定範囲はインドから東が対象で、同盟上日本に参戦義務は無かったし日本の中国・太平洋における台頭を懸念するアメリカの制止があったにも拘らず、対外的には日本の参戦には領土的野心は無いと主張して参戦した。しかし実際には大隈重信内閣は、日英同盟の「情誼(おもいやり)」と日本の国際的地位を高める機会であるとし、第一次世界大戦を帝国主義的な領土拡張の好機として利用したのである。元老井上馨は「日本国運の発展にたいする大正新時代の天佑(天の助け)」と言ったと伝えられている。
日本の真の参戦目的は戦争でアジアに手の回らないドイツの中国その他地域の権益を獲得することであった。 第一次世界大戦が勃発した当初ドイツは中華民国(中国)で山東半島およびその付け根の内陸部から成る膠州(こうしゅう)湾の青島(ちんたお)軍港や、南太平洋に浮かぶ島々(現在のサイパン島、パラオ諸島など)を植民地としていた状況も踏まえての作戦であった。当に3国干渉への報復である。これにより欧州の戦争は世界大戦にまで拡大したのである。
ドイツ軍基地のあった山東半島・青島を占領した日本は、山東省のドイツ権益を日本が引き継ぐこと、日露戦争で得た南満州の権益を99年間延長することなど、過大な二十一カ条の要求を出し、袁世凱政府にほぼその要求を呑ませが、これに異議を唱えたのはアメリカだけで欧州列強は目の前の戦争に手一杯であった為、日本は其の隙をついて中国大陸侵出の足場を築いたのである。更に太平洋方面でもドイツ領を委任統治領として獲得した。このように日本は第一次世界大戦を帝国主義的な領土拡張の好機として利用し、日本の大陸進出を本格化させることになったのである。
日露戦争でアメリカが日本を支援したのは満州への進出を目論んでいたからであるが、日本が満州を独占したこともあり、アメリカが日本を警戒する動きを強め、日本の大陸政策をめぐる英米との対立の出発点となって太平洋戦争へと繋がっていく。
4年間で1千万人の戦死者と2千万人の戦傷者を出す大規模な戦争(日本は千人強)で欧州で長い伝統を持つ三つの王朝が崩壊した。戦勝国ロシアでは長引く戦争の混乱からレーニン・トロッキーによるロシア革命でロマノフ朝が崩壊し、一方同盟国の中心であったドイツで労働者の武装蜂起により皇帝が逃亡した為ホーエンツオレルン朝が、更にドイツ同盟国の名門ハプスブルグ帝国も崩壊した。ロシアはソ連、ドイツはワイマール共和国となった。
日本は第一次世界大戦のパリ講和会議では戦勝国の一員として参加しベルサイユ条約にも調印した。大戦の被害があまりにも大きかった為、この会議でアメリカ大統領ウイルソンの提唱で世界最初の国際平和維持機構=国際連盟の設立が決まり、常任理事国は英・仏・伊・日本の4か国と決まった。米国はモンロー宣言以来の孤立主義で大統領の強い要望にも拘らず議会の同意が得られず非加入となった。米・独・ソ連の有力国不参加に加え 侵略に対する制裁のための軍事力を持たない為、紛争の解決が困難である、更に総会決議は全会一致が原則で、迅速かつ有効な決議を行うことが困難というような問題点もあったが、国際協調の最大の実績としてアメリカ合衆国も加えた1928年の「不戦条約」および「国際紛争平和的処理に関する一般議定書」の採択などの平和政策を推進できたことは大きな成果であった。
帝国主義の動きをあらわにする日本の勢いを削ぐため軍縮と極東問題を議題とするワシントン会議やロンドン海軍軍縮会議で日本に圧力をかけ軍縮を約束させ行動を規制しようとした。太平洋諸島での基地現状維持を約束する4か国条約のほか、主力艦クラスの軍艦保有量を制限する条約等である。更に米国は追い打ちをかけ、中国の主権尊重・領土保全を謳った条約の締結(9か国条約)を呼びかけ日本も孤立を恐れ、日本は山東省の権益を返還せざるを得なくなったのである。
世界恐慌後各国が軍拡に走りだし日本の軍部が米英に反発を強める原因となった。
日本は国際連盟で人種的差別撤廃を提案したが、アメリカは他国を上回る勢いで強硬に反対し、国内でも、日本人移民が多いカリフォルニア州などを中心に広まった黄色人種に対する人種差別を背景に日本に対する脅威論が広まった。これに後押しされた人種差別的指向を持つ諸派が「黄禍論」を唱え、その結果、排日移民法によって日本からアメリカへの移民が禁止された。
これらのアメリカ当局による人種差別も背景にした敵対的行動に対して、日本でも反米感情が高まり日米関係は悪化の一途を辿ることとなった。アメリカによるイギリスとの分離工作もあって、ドイツ、イタリアへの接近、その後の第二次世界大戦における米英両国との衝突に繫がって行くことになった。
日英間の関係を分断すると同時に、アジア太平洋地域と中華民国における自国の権益を守護するべくアメリカ政府が提唱した「太平洋における領土と権益の相互尊重」と、「諸島における非軍事基地化」を取り決めた「四カ国条約」が、1921年(大正10年)に日本、アメリカ合衆国、イギリス、フランスの間で締結され、アメリカ政府の要求通りに日英同盟は発展的に解消された。
日露戦争後には友邦となっていた帝政ロシアがその後の単独講和を経てロシア革命によって共産化したことも重なり(ソビエト連邦の成立)、日本は実質的な同盟国を有さない状態となった。
日本は日清・日露戦争、第一次世界大戦でも国土の直接の戦火を免れた。既に工業化を進めていた日本は連合国から軍需品の注文で軍需景気に沸き海運・造船電・電力・銀行・鉄鋼業が基盤を確立させた。大戦による船舶不足で海運業は世界3位まで急成長し、造船技術を伸ばした結果造船量も世界3位に躍進、農業国から工業国に変身を遂げた。大戦景気は成金を生み、人口の都市集中化が進み、急激なインフレで貧富の格差が広がり社会生活が一変した。戦争終結後輸出の急減し株式暴落が引き金となって戦後恐慌が始まり多くの企業が倒産、失業者の増加が社会不安を煽った。その3年後には関東大震災による震災恐慌が引き金となって金融恐慌が発生30数行の銀行が取り付け騒ぎ等で倒産した。
この金融恐慌対策に中国に強硬姿勢に臨む軍部の意向を酌む長州陸軍出身の田中義一内閣が選ばれモラトリアム発動で鎮静化させたが、太平洋戦争に繋がる中国出兵に大きく舵を切ることになったのである。
戦争責任(8)。。。人類史上最大の悲劇・第2次世界大戦(太平洋戦争)へ
日清・日露戦争は帝国主義列強の代理戦争という色彩が強い。
日清戦争が始まる直前1894年日英通商航海条約を結びこれが引き金となって各国とも治外法権(領事裁判権)を撤廃することに成功した。ロシアの南下を恐れるイギリスが日清戦争に向け日本の背中を押した形である。 日露戦争は独・仏がロシアを、英・米が日本を財政面を含め支援した。日露戦争勝利のご褒美として米英 等との不平等条約改正を認められ実に半世紀に亙る懸案の関税自主権を回復したのである。
大正時代に入って間もなく欧州列強間で第一次世界大戦が始まった。セルビア・イギリス・フランス・ロシア等の連合国とオーストリア・ドイツ・トルコ等の同盟国の戦争である。日英同盟によると、規定範囲はインドから東が対象で、同盟上日本に参戦義務は無かったし日本の中国・太平洋における台頭を懸念するアメリカの制止があったにも拘らず、対外的には日本の参戦には領土的野心は無いと主張して参戦した。しかし実際には大隈重信内閣は、日英同盟の「情誼(おもいやり)」と日本の国際的地位を高める機会であるとし、第一次世界大戦を帝国主義的な領土拡張の好機として利用したのである。元老井上馨は「日本国運の発展にたいする大正新時代の天佑(天の助け)」と言ったと伝えられている。
日本の真の参戦目的は戦争でアジアに手の回らないドイツの中国その他地域の権益を獲得することであった。 第一次世界大戦が勃発した当初ドイツは中華民国(中国)で山東半島およびその付け根の内陸部から成る膠州(こうしゅう)湾の青島(ちんたお)軍港や、南太平洋に浮かぶ島々(現在のサイパン島、パラオ諸島など)を植民地としていた状況も踏まえての作戦であった。当に3国干渉への報復である。これにより欧州の戦争は世界大戦にまで拡大したのである。
ドイツ軍基地のあった山東半島・青島を占領した日本は、山東省のドイツ権益を日本が引き継ぐこと、日露戦争で得た南満州の権益を99年間延長することなど、過大な二十一カ条の要求を出し、袁世凱政府にほぼその要求を呑ませが、これに異議を唱えたのはアメリカだけで欧州列強は目の前の戦争に手一杯であった為、日本は其の隙をついて中国大陸侵出の足場を築いたのである。更に太平洋方面でもドイツ領を委任統治領として獲得した。このように日本は第一次世界大戦を帝国主義的な領土拡張の好機として利用し、日本の大陸進出を本格化させることになったのである。
日露戦争でアメリカが日本を支援したのは満州への進出を目論んでいたからであるが、日本が満州を独占したこともあり、アメリカが日本を警戒する動きを強め、日本の大陸政策をめぐる英米との対立の出発点となって太平洋戦争へと繋がっていく。
4年間で1千万人の戦死者と2千万人の戦傷者を出す大規模な戦争(日本は千人強)で欧州で長い伝統を持つ三つの王朝が崩壊した。戦勝国ロシアでは長引く戦争の混乱からレーニン・トロッキーによるロシア革命でロマノフ朝が崩壊し、一方同盟国の中心であったドイツで労働者の武装蜂起により皇帝が逃亡した為ホーエンツオレルン朝が、更にドイツ同盟国の名門ハプスブルグ帝国も崩壊した。ロシアはソ連、ドイツはワイマール共和国となった。
日本は第一次世界大戦のパリ講和会議では戦勝国の一員として参加しベルサイユ条約にも調印した。大戦の被害があまりにも大きかった為、この会議でアメリカ大統領ウイルソンの提唱で世界最初の国際平和維持機構=国際連盟の設立が決まり、常任理事国は英・仏・伊・日本の4か国と決まった。米国はモンロー宣言以来の孤立主義で大統領の強い要望にも拘らず議会の同意が得られず非加入となった。米・独・ソ連の有力国不参加に加え 侵略に対する制裁のための軍事力を持たない為、紛争の解決が困難である、更に総会決議は全会一致が原則で、迅速かつ有効な決議を行うことが困難というような問題点もあったが、国際協調の最大の実績としてアメリカ合衆国も加えた1928年の「不戦条約」および「国際紛争平和的処理に関する一般議定書」の採択などの平和政策を推進できたことは大きな成果であった。
帝国主義の動きをあらわにする日本の勢いを削ぐため軍縮と極東問題を議題とするワシントン会議やロンドン海軍軍縮会議で日本に圧力をかけ軍縮を約束させ行動を規制しようとした。太平洋諸島での基地現状維持を約束する4か国条約のほか、主力艦クラスの軍艦保有量を制限する条約等である。更に米国は追い打ちをかけ、中国の主権尊重・領土保全を謳った条約の締結(9か国条約)を呼びかけ日本も孤立を恐れ、日本は山東省の権益を返還せざるを得なくなったのである。
世界恐慌後各国が軍拡に走りだし日本の軍部が米英に反発を強める原因となった。
日本は国際連盟で人種的差別撤廃を提案したが、アメリカは他国を上回る勢いで強硬に反対し、国内でも、日本人移民が多いカリフォルニア州などを中心に広まった黄色人種に対する人種差別を背景に日本に対する脅威論が広まった。これに後押しされた人種差別的指向を持つ諸派が「黄禍論」を唱え、その結果、排日移民法によって日本からアメリカへの移民が禁止された。
これらのアメリカ当局による人種差別も背景にした敵対的行動に対して、日本でも反米感情が高まり日米関係は悪化の一途を辿ることとなった。アメリカによるイギリスとの分離工作もあって、ドイツ、イタリアへの接近、その後の第二次世界大戦における米英両国との衝突に繫がって行くことになった。
日英間の関係を分断すると同時に、アジア太平洋地域と中華民国における自国の権益を守護するべくアメリカ政府が提唱した「太平洋における領土と権益の相互尊重」と、「諸島における非軍事基地化」を取り決めた「四カ国条約」が、1921年(大正10年)に日本、アメリカ合衆国、イギリス、フランスの間で締結され、アメリカ政府の要求通りに日英同盟は発展的に解消された。
日露戦争後には友邦となっていた帝政ロシアがその後の単独講和を経てロシア革命によって共産化したことも重なり(ソビエト連邦の成立)、日本は実質的な同盟国を有さない状態となった。
日本は日清・日露戦争、第一次世界大戦でも国土の直接の戦火を免れた。既に工業化を進めていた日本は連合国から軍需品の注文で軍需景気に沸き海運・造船電・電力・銀行・鉄鋼業が基盤を確立させた。大戦による船舶不足で海運業は世界3位まで急成長し、造船技術を伸ばした結果造船量も世界3位に躍進、農業国から工業国に変身を遂げた。大戦景気は成金を生み、人口の都市集中化が進み、急激なインフレで貧富の格差が広がり社会生活が一変した。戦争終結後輸出の急減し株式暴落が引き金となって戦後恐慌が始まり多くの企業が倒産、失業者の増加が社会不安を煽った。その3年後には関東大震災による震災恐慌が引き金となって金融恐慌が発生30数行の銀行が取り付け騒ぎ等で倒産した。
この金融恐慌対策に中国に強硬姿勢に臨む軍部の意向を酌む長州陸軍出身の田中義一内閣が選ばれモラトリアム発動で鎮静化させたが、太平洋戦争に繋がる中国出兵に大きく舵を切ることになったのである。
戦争責任(8)。。。人類史上最大の悲劇・第2次世界大戦(太平洋戦争)へ