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2011年03月11日14時46分、東日本大震災発生
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869) 私的岩手通史の旅 第54回

2011年02月04日 | 私的岩手通史の旅
 北日本の大雪、関東のそれなりの寒さと今冬は天候の話題が尽きませんが、暦の上で本日は立春でございます。「春は名のみの風の寒さや」ですが、日ごとに通勤時に歩く夜明け前の町並みが明るくなり、春分の日が近づきつつあります。南部藩時代は職住接近だったゆえに気づかなかった朝の変化です。


第54回 徳丹城終焉(矢巾町)

 前回に続いて徳丹城のお話です。徳丹城跡には志波城跡のような復元櫓はありませんが、城跡内にある歴史民俗博物館には出土品が展示され、18ページにおよぶ城跡の解説書も配付されていました。

 その解説書によると、徳丹城は3ヶ月の突貫工事で築かれたそうですが、志波城の柱を転用して形跡があるそうです。藤原緒嗣は桓武天皇に「天下の苦しむ所は軍事(エミシ侵略)と造作(造都)なり」と建議してこの2つを中止させた人物ですから、城の移転にもコストダウンを考えたのかもしれません。

 胆沢城や志波城よりも小さくなったのも行政の効率化でしょうか?今に通じるものを感じなくもありません。


(徳丹城跡 奥には早池峰山がチラリと -矢巾町西徳田 2010/02/27-)

 このようにコストを抑えて作られた志波城ですがその機能は長続きせず、築かれてから半世紀も経たない9世紀(800年代)中頃にはその役割を終えたとされています。また新たな城を築いたわけではなく、胆沢城にエミシ支配の機能が集約していったようです。多少のエミシの抵抗はあったにしろ、胆沢を拠点として北東北を支配できる程になったということなのでしょう。

 胆沢・志波・徳丹の3城の位置をざっと並べてみました。朝廷側の拠点が南北に移る様を感じていただければと思います。



2010年02月04日の一品・・・634)盛岡散歩 盛岡三十三観音(第21・22番)
2009年02月04日の一品・・・お休みでした
2008年02月04日の一品・・・169)栃木散歩 大田原市(羽田沼)

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