まにあっく懐パチ・懐スロ

古いパチンコ・パチスロ、思い出のパチンコ店を懐古する
(90年代のパチンコ・パチスロ情報がメイン)

中山秀征と遭遇@聖路加国際病院(1999年3月)

2015-02-01 03:47:39 | 昔話あれこれ

以前、「タカラヅカ」絡みの記事を書いた際、かつて星組の娘役トップスターだった白城あやかさんと、タレントの中山秀征さんがご夫婦である事、そして私はこの二人と奇妙な「接点」がある事を、ほんの少しだけ触れた。

(コチラの記事)
http://blog.goo.ne.jp/selfconfide777mc/e/5e32b835a8ff56b635ee11195328e96d


このときは、「接点」の具体的な内容について、「需要があれば、詳しく追記する」としたものの、残念ながら需要は全くなかった(汗)。


ただ、折角の思い出を、このまま封印するのも何だかアレなので、たとえ需要は無くても記事にすることに決めた(笑)。




…という訳で、いきなりだが、話は1998年(平成10年)まで遡る。


この年の暮れ(12月)のある日、私は不運な「交通事故」に巻き込まれた。

確か、土曜の朝だったと思うが、地元のパチ屋に向かう為、住宅街の細い道を原付バイクで走行中、一時停止を無視して直進してきた一台の軽ワゴン(弁当配達)と、出会いがしらに「ドカーン」とぶつかってしまったのだ。


派手に接触して、空中にポーンと放り出された瞬間は、「俺の人生もこれまでかな…」と、一瞬覚悟した。ただ、そのまま道路の側壁に体がぶつかった時、不思議と強い衝撃を受けた感じはしなかった(若干、首に衝撃を受けたが…)。

おそらくは、側壁に体がぶつかった時の体勢が、ちょうど受け身を取る感じになっていて、ショックが和らいだのだろう。また、バイクのスピードがさほど出ていなかった事や、相手の軽ワゴンが坂をゆっくり上がってきたことも、幸いしたと思われる。こちらがフルフェイスのヘルメット着用だったのも、不幸中の幸いであった。


意識も十分はっきりしていて、「このまま死んだふりして倒れていたら、相手の運転手はさぞかし焦るだろうな」などと、冷静に考えていたくらいだ。実際、意識を失ったふりをして、その場に暫く倒れこんでいた(笑)。運転手の中年女性の悲鳴にも似た呼び声が、ヘルメット越しによく聞こえた。


当然のごとく、私は近くの総合病院へ救急搬送されたが、幸いにも軽度の「頸椎捻挫」で済み、治療の為にその病院に通う事となった。


だが、ここの担当医がムカつく野郎で、3回目くらいの診察の時、自分が頸椎の「後遺症」についてあれこれ質問すると、途端に不機嫌になって「そんなこと、まだ分からないでしょう!!」と酷く声を荒らげた。


おそらくは、私が「事故後の賠償金目当て」で、嘘の症状を騙っているとでも思ったのだろう。こちらは、大事な首の状態が不安だから、率直に聞いただけなのに…。

そんな理不尽な応対をした「ヤブ」医者に、心底腹が立つとともに、強い不信感を持った。


そこで、私は翌1999年(平成11年)1月に転院を決意。当時の職場(東京・丸の内)から通えるエリアにあった、築地の「聖路加国際病院」を紹介してもらった。言うまでも無く、かなり名の通った大病院である。


聖路加の整形外科の先生は、例の地元のヤブ医者とは大違いで、いつも低姿勢かつ親身になってくれたので、こちらも安心して治療に専念できた。
(最近は全くお世話になっていないが、今も聖路加病院に対するイメージは、非常に良い。)


その後、病院内にある「リハビリセンター」に、仕事の合間を縫って通う事となった。

当時、仕事が多忙な時期だったので、病院の往復にはタクシーを使う場合がほとんどだった。
(今回は、その「例外」を書くことになるが…)

リハビリ室では、専用の器具を使って首を牽引・固定して、さらに暖かいコルセットを首に巻く、「温熱治療」を毎回30分ほど行った。

このリハビリが実に気持ち良く、日ごろの仕事の疲れやストレスが、一気にすっ飛ぶほどだった。リハビリというよりは、むしろ「リラクゼーション」に感じられた。

また、私を担当した理学療法士の若い女性が、まことに可愛らしい方で、おまけに人柄も大変よろしく、たいそう居心地がよかった(笑)。

リハビリ終了後は、病院の上階にあった小さな喫茶コーナーで、「ざるそば」と「茶めし」のセットを食べてから、会計を済ませて会社に戻るのが、お決まりのパターンだった。

多分、病院内にはもっと大きな食堂もあった筈だが、どこにあるか皆目判らなかったので、たまたま見つけた静かな喫茶コーナーの片隅で、ひっそりと蕎麦を啜っていた。また、時には病院向いの「聖路加タワー」1階にある中華料理店で、ラーメンやチャーハンを食べたりもした。



さて、1999年(平成11年)3月のある日、いつものように会社を抜け出してタクシーで聖路加に向かい、気持ち良いリハビリを受けて、食事をとって会計を済ませて、いよいよ会社へ戻る段になった。

いつもなら、正面玄関から外に出て、ロータリーに停車中のタクシーに乗り込むのだが、この日は首の具合もだいぶ良く、急ぎの仕事も入っていなかったので、「たまには、近くの築地駅から地下鉄に乗って、のんびり戻ろう」と思い、いつもの正面玄関ではなく、反対側の「裏口」から病院の外に出た。

(「聖路加病院の裏口」というと、90年代半ばに起きた「とある出来事」と関連深いが、今回はできるだけ「楽しく」記事を書き進みたいので、「その事」には触れない。ピンと来た方も、どうかご協力願いたい。)



人気(ひとけ)の少ない裏口から外に出て帰ろうとすると、右手のスペースの一角に、何やらガヤガヤと、人だかりができているのが見えた。

「何かあったのかな?」と思って近づくと、マイクや録音機材などを手に持った20名ほどの男女が、一人の男性をグルッと取り囲んでいた。その男性の正面には、撮影用と思しきTVカメラも見えた。

「いったい、何事か?」と思い、人だかりの後ろから覗いて円陣の中心に目を向けると、なんと、いつもテレビで見ているタレント、中山秀征(秀ちゃん)の姿があった。


当時の秀ちゃんといえば、自分にとっては、やはり日テレ・土曜深夜の「DAISUKI」だったな。お気に入りの「パチンコ対決」がオンエアされる頻度が、だんだん少なくなっていた頃だが…。





どうやら、この日の秀ちゃんは、芸能レポーターや雑誌記者から、「囲み取材」を受けているようだった。そういえば、マイクを向けている女性も、名前こそ知らないが、どこか見覚えのある女性芸能レポーターに思えた。

特に規制線などもなく、さらに近づいて背後から様子を覗くと、マイクを向けられた秀ちゃんが、「お蔭様で…」「…元気です」「…嬉しいですね」などと、満面の笑みで答えていた。

(ビシッと髪型が決まった秀ちゃんを間近で見て、あらためて「芸能人ってカッコいいな」と思ったり…)


「あれ、秀ちゃん、何で今この病院にいるんだ?撮影で怪我したのか?」とも思ったが、次の瞬間、私はある事に「ピン」ときた。

「あ、これってもしかして、ついこのあいだ※秀ちゃんと結婚した、元・宝塚スターの白城あやかさんが、この病院でお子さんを出産したんじゃないの?」
※前年(1998年)6月、中山秀征さんと白城あやかさんがご結婚された。




そして、秀ちゃんと女性インタビュアーのやりとりをしばらく聞いていて、それは「確信」に変わった。


そう、私はこの日、リハビリテーションの帰り際、聖路加病院の裏口で、秀ちゃんの「出産報告インタビュー」に、たまたま出くわしたのだ。1999年3月18日、秀ちゃんとあやかさんの間に、お二人にとって初めてのお子さんとなる、ご長男が誕生したのだった。

そんな記念すべき日に、偶然にも、私は彼らと同じ「空間」で、幾ばくかの時を過ごした事になる。そう思うと、「赤の他人」とはいっても、妙に感慨深いものがあった。

おそらくその日、旦那さんである秀ちゃんは、奥様のあやかさんに病室でずっと付き添っていて、無事に出産したのを見届けた後、病院の裏口で囲み取材に応じたのだろう。

そこへ、同じ聖路加病院の裏口から出てきた私が、たまたま通りかかったという訳だ。

リハビリの日程、病院内で過ごした時間、そして、いつもと違う「裏口」を使ったことなど…多くの「偶然」が重なった結果といえよう。まさに、「不思議な巡り合わせ」という他はない。


まぁ、私の方は事故後の「リハビリ」で、かたや秀ちゃんは、幸せいっぱいの「出産報告」である。その日の状況には、まさに天と地ほどの開きがあったが…(笑)。貴重な場面に出くわした事に少し高揚しながら、日比谷線の築地駅まで歩いたことが懐かしい。


(16年前、治療とリハビリで使っていた、聖路加国際病院の診察券。たまたま手元に残っていた。)
※「St Luke’s」は、「聖路加」の英語名称。


まぁ、よくよく考えてみれば、当の秀ちゃんは、一般人である私の存在に気付くはずもなく、奥さんも病室にいらっしゃった訳だから、この話は彼らとの「接点」というより、単なる「一方的な思い出話」に過ぎない。それでも、こういった場面に立ち会った事の偶然性を思うにつけ、何か特別な親近感が湧いてくるのだ。私にとっては、これでも立派な「接点」である。




そんな訳で、今回は、90年代末の「記憶の小さな引き出し」を、久方ぶりに開けてみた。

おそらく、今回もあまり「需要」はないと思うが…個人的には満足のいく記事が書けたと思う。


3 コメント

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Unknown ()
2015-02-02 08:59:01
「記憶の引き出し」系の記事は結構面白く読ませていただいています。個人個人で異なる記憶ですが、世代が同じせいか「懐かしさ」が共感できるんですよね。

90年代はバブルの余韻もありましたし、パソコンやネット、携帯電話など変化も激しくまだまだ勢いがあった時代だと思います。こう感じるのは「今」だからであって、あと20年後には2015年が懐かしくなるのかもしれませんがね・・思い出だけで楽しめるのはオッサンになった特権だと思ってます^^
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Unknown (山形屋)
2015-02-20 18:42:39
こうゆう記事も好きですよ~。

いろいろ書いてくださいね~。
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Unknown (きてるのか)
2015-03-25 09:38:23
楽しめましたよw
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