1992年(平成4年)に三共から登場した普通機(チューリップ台)「タッチダウンI」
・賞球…オール10
・台枠…ステラ’92モデル(ステラ枠)
センターヤクモノとチューリップの連動がアツかった、アナログ感タップリの平台。モチーフはアメフト。
新宿・西口大ガードそば「ニューミヤコセンター」で、小銭を元手に戦った日々を思い出す。向ヶ丘遊園南口の「ぱちんこ遊園」でも打ったな…。
(在りし日のニューミヤコセンター…跡地は「カレイド」に)
夜ともなると、5×4の丸い電飾がクルクルと回ったり、赤・青・黄のネオンが上⇒下に点滅したりして、たいそう目立った(電車からもよく見えた)。
間口は狭いが、一歩店内に入ると意外なほど広く、設置機種も豊富だった。また、景品コーナーの充実ぶりは、都内でも屈指の品揃えで知られた。
サイフに余裕のない時、「波の荒いスロやデジパチ連チャン機を打つのは不安だな…」と思うことがよくあった。そんな時、新宿ニューミヤコに足を運び、本機でマッタリと勝負した。
元手が2000円くらいあれば十分楽しめたし、最初に買った100円分の玉がジワジワ増えて、気づけば1500発ほど溜まっていることもあった。
ハネモノも投資がかさみがちだった当時、本機は自分にとって「超ローリスク」「ロー(orミドル)リターン」的な位置づけの台で、かなり重宝した。
ただ、空き台で右端のチューリップが1個だけ開いている台が落ちてたりすると、「ラッキー」とばかりに拾うのだが、幾ら右打ちで狙ってもチューリップには入らず、結局数百円を無駄に費やしたりもした。まぁ、そういった「トラップ」に引っかかった事も、今では懐かしく思える。
新宿ニューミヤコは、入口左の2シマが普通機コーナーになっていて、タッチダウン、ハイパーボール、トリプルパワーといった、三共の普通機が並んでいた。これら3機種の中でも、個人的に一番楽しめて、かつ相性の良かったのがタッチダウンであった。逆に、ハイパーボールとはあまり相性が良くなかった。
(三共「ハイパーボールI」、1992年)
(三共「トリプルパワーII」、1992年)
ニューミヤコの普通機シマの年齢層は高く、オッチャン・オバチャンがメインのユルい雰囲気が漂っていた。だが、中にはパチプロ然とした人達も混じっていて、彼等が足元に1500発用のドル箱(デジパチ用より少し小さい)を2箱、3箱と積む光景をよく目にした。また、スロやデジパチとの戦いに敗れた「負傷兵」の若者が、最後の力を振り絞って座りにくる事もあった(笑)。
本機はいわゆる「普通機」であり、デジタルや電動ヤクモノの類はいっさい存在しない。純粋に、盤面下段のチューリップとセンターヤクモノ、その他の入賞口で出玉を稼ぐタイプだ。特に、センターヤクモノとチューリップの「連動」が秀逸で、長時間打っても飽きなかった。
センターヤクモノは3層構造の「振り分け式」になっている。左右の命釘を抜けてヤクモノ上段に入賞した玉は、中段で左右の穴に飛び込むか、下段の中央穴に入る。各穴への入賞に応じて、特定のチューリップが連動して開く仕掛けだ。
※以下の説明を簡潔にすべく、各チューリップに「A~G」の記号を付ける。
A B
C D
E F G
少々記憶が飛んでいるが、確か、連動の仕組みは以下のようだったと記憶する。
(誤りあればご指摘を)
・ヤクモノ左穴に入ると、AとFが開放。
・ヤクモノ右穴に入ると、BとFが開放。
・ヤクモノ中央穴に入ると、そのままヤクモノ真下のチャッカーに入り、A・B・Fの3か所が開放。
・Aに入賞するとEが開放。
・Bに入賞するとGが開放。
・天下の3か所とヤクモノ両サイドにも入賞口があり、左サイド入賞でC、右入賞でDが開放。
(CとDにも連動性があった気がするが、失念…)
このように、本機は各チューリップや入賞口へ直接放り込む以外に、メインヤクモノの振分け穴入賞で特定のチューリップが開き、さらに開いたチューリップに入賞して他のチューリップが連動する…という具合に、気持ちのよい「連鎖反応」で出玉を増やすことができたのだ。
また、開いたチューリップにタイミング良く「ダブル」で入賞して(チューリップが2個続けて玉を拾うと、いったん閉じたチューリップが再び開く)、ツボにハマると短時間にワッと出たりした。「ワッと」とはいっても、元々の賞球が「オール10」なので、すぐドル箱が満タンになる訳ではないが…。
さて、当時を思い返すと、本機を打つときには、微妙な「ストロークの調整」に気を使っていた。
チョロ打ち、ブッコミ弱め、ブッコミ強め、天釘狙い、右狙い…と、台によって狙いは違うものの、ある特定の箇所に「ミリ単位」で狙いを定めると、今までの低調さが嘘のように台が好転して、ポンポンとヤクモノやチューリップに連続入賞する事があったのだ。
そうやって台の「ツボ」を見つけると、何か「クイズの答え」に辿りついた気がして、妙に嬉しかった事を思い出す。
しかし、そんな好調台でも、暫く打ち続けていると、ストロークは変えていないのに、全く穴に入らなくなったりした。そこで、ハンドル位置をほんの数ミリずらしてみると、その途端に再び息を吹き返して、ジャンジャン出始める事があった。
もちろん、単なる「遊び台」に過ぎず、いくらストロークを変えても死んだまま…のケースも多かったが。
そんな感じだから、タッチダウンと対戦する時は、細かいストロークに気を付けつつ、ハンドル固定も行わず、右手に左手を添えたりして、あれこれと神経を使った。同時に、玉の打ち出しの小さな変化も見逃すまいと、玉が当たるブッコミ辺りを目が痛くなるほど睨みつけて、自分でも驚くほど真剣に台と対峙した。この時ばかりは、まさにいっぱしの「パチプロ」気分であった(笑)。
そうしてスランプを乗り越えながら、500発、1000発、1500発と出玉がゆっくり伸びていく。朝から甘釘台を掴んだ本当のプロならば3箱、4箱と出すだろうが(ニューミヤコの普通機コーナーは無制限営業だった)、授業終わりの「午後から参戦」の私にとっては、たまたま座った台が1500発も出てくれれば、ほとんど「打ち止め」気分となり、出玉量以上の充実感があった。
そこまで出たら即・出玉交換して、換金所で三千数百円(2.5円交換)の「貴重な」現金を手にする。また、文庫本小説や雑誌などの書籍(ニューミヤコは書籍コーナーも充実していた)に交換して、帰りの小田急線でしばし「戦いの後の読書」に耽ったりもした。
その他、靴下、Tシャツ、CD、ファミコンソフト、カセットテープ、レトルト食品、菓子、缶詰など、新宿ニューミヤコで「チョイ勝ち」したときは、まさにコンビニ感覚で景品交換を楽しんだ。そういや、パチンコ小冊子の「王様手帖」も、よくあの店で貰っていた。
数百円の投資で4000円弱の勝ちを収めただけで、「打ち出の小づち」でも振ったような感覚に浸ったものだ。あの当時は、随分と安上がりな人間だったと思う(笑)。
(参考)首都圏で長く本機を置いた、「みなし機設置店」
・ニューアラスカ(蕨・塚越)
・ムラキヤ(江戸川・松江)
・三ツ又(豊島・池袋本町)
・一兆(大田・大森)
・コンドル(練馬・上石神井)
・大丸ホール(相模原・上鶴間)
など