まにあっく懐パチ・懐スロ

古いパチンコ・パチスロ、思い出のパチンコ店を懐古する
(90年代のパチンコ・パチスロ情報がメイン)

思い出のシマ(ブラボーセンチュリー)

2016-06-28 19:34:10 | 思い出のパチンコ店
(※業務連絡※)
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今から20数年前の大学生時分、学校に程近い早稲田通りの
「みよし」(現「MIYOSHI344」)というパチ屋に良く通っていた。
 

この店は、かなり昔からやっていて(昭和27年創業との事)、
まさに「早大生御用達」のホール。かつては、岡田彰布さん、
谷沢健一さん、松本匡史さんなど、往年のプロ野球選手達も、
早大野球部在籍中、この「みよし」でパチっていたという。
(当時、校舎傍に大学の野球場(安部球場)が存在⇒現在は中央図書館)
 

みよしは大変こじんまりとした店で、大通りから見ると、丁度
カタカナの「コ」の字をタテにしたような、独特な作りだった。
 

左右の両端に出入口があって、当時は左側がパチンコのシマで、
右側がパチスロシマ。また、その左右を結ぶ奥の数シマにも、
デジパチやハネモノが何機種か置いてあった。
(現状は全く知らないが…)
 

それから私がいた頃は、みよしにグルリと囲まれるように、
一軒の古い「民家兼店舗」(タバコ屋)が隣接していて、
2Fに無数の「ハト」が住み着いていた。通称「ハト屋敷」。
パチ屋の入口前には都バスの停留所があったが、辺り一面
白いフンだらけ。停留所に屋根が無ければ、酷い事になっていた。
現在、ハト屋敷は無く(火事で焼失)、ストリートビューを見る限り、
「コの字型」のパチ屋の作りが、早稲田通りからハッキリ見える。 


みよしは、いかにも「学生街のパチ屋」的な風情で、入口前には
「まわりで評判 楽しいみよし」なんて書かれた回転式の看板が
クルクルと廻っていた。また、店奥の小さな景品カウンターでは、
愛想のよいオバちゃんの店員が仕切っていて、レシートを何枚も
持っていくと「今日は勝ったのね?」などと声をかけてくれた。
 

因みに、当時、店の2Fには「みよし」という同名の雀荘があり、
1年生の時には語学クラスやサークルの友人達によく誘われて、
いいようにカモられていた(今なら返り討ちにする自信があるが…)。
 

学生時分、この「みよし」で打った思い出の台は数々あるが
(ブラボーエクシード、エキサイト麻雀3、パールセブン、
エンタープライズI、フィーバーアタックGP、アメリカンドリーム2、
鮭取物語、アストロライナー、ビッグパルサー、スーパープラネット、
ホールインワン、ニューパルサー…)、特に記憶に刺さる台を一つ挙げるなら、
平和の旧要件デジパチ「ブラボーセンチュリー」(センチュリーB)だろうか。

 

味わい深いドットデジタルに、「舞羅望極II」から引き継いだ
チューリップ式の「オマケチャッカー」、そしてアタッカー両端で
ポンとバウンドした玉が、オマケに流れる独特の構造などが特徴。
特に、チューリップは「二回開き」となっており(「舞羅望」は
一回開き)、オマケの釘さえ良ければ、たった1度の大当りで
3500発以上出る事もザラだった。そして、みよしのセンチュリーは、
まさに、その「大量獲得」が期待できるオマケ調整になっていた。
 

当時、デジパチの標準的なオマケの釘調整で「2500~2900個」※
程度が当たり前だったから、この店のブラボーセンチュリーは、
出玉のボリューム感が違った。時に4000発を超えることもあり、
ほぼ「一発台」の感覚で対峙した。無論、他のデジパチに比べて、
ヘソチャッカーの釘は、1まわりも2まわりもシブかった訳だが…。
大当り確率も「1/256」と当時としてはキツめで、それほど容易には当らなかった。

※地域によっては、無制限営業などで、2000発程度が主流の場合もあった。
 

この機種が思い出深いのは、無論、台自体にも強い愛着があるからだが、
ことさら印象に残るのは、大学1年時、みよしのセンチュリーのシマで
よく顔を合わせた、一人の「女性」の存在である。
 

年の頃20代前半~半ば、どこか三原じゅん子似の綺麗な人だった
(思い出補正が入っているかも)。その彼女も、みよしのセンチュリーが
大変お気に入りのようで、授業終りの3時過ぎ辺りに店へ立ち寄ると、
このシマで一緒になる機会が多かったことを覚えている(別のシマで
出くわしたことはほとんどない)。
 

そういえば、「授業」で思い出したが、みよしは早大の「西門」に程近い
所にあった。この西門近くには体育館があって、私も体育の授業を受けた。
受講した科目を振り返ると、1年生時が「卓球」で、3年生が「合気道」。
(2年時も何か取った筈だが、サボってばかりで授業には一度も出なかった)
卓球は森武先生、合気道は志々田文明先生に教わった。お二人とも、今もご健在で、
森先生は「早大名誉教授」、志々田先生は「早大スポーツ科学学術院教授」
というお立場。今思えば、すごい方々に教えを乞うたのだな…と思う。
体育の授業終わり、西門の「三品食堂」で食べる「玉牛」(牛めし&生卵)の
美味かったこと(「珍味」のラーメン半チャーハンセットも絶品だった…) 。


さて、件の「三原じゅん子似」の女性だが、最初はお互いそ知らぬ振りだったが、
センチュリーのシマで何度か顔を合わせるうちに、段々と打ち解けていった。
そのうち、和気あいあいと肩を並べて打つようにもなり、「馴染みの常連同士」
という関係になった。センチュリーのシマは小さくて台も6台程度と少なかったから、
お互いの存在や台の調子などが、結構気になったりした。
 

リーチがかかれば、片方が「出張」して、二人でデジタルを覗き込む。当たれば共に喜び、
外れれば自らの事のように悔しがる。惜しい一コマハズレなら、「あーッ!」と嘆息する。
そして、センチュリーの出玉の多さが、当れば「ウハウハ」、外せば「ガックリ」の
ギャンブル感覚を増幅させて、いっそうアツくなった。

或いは、お互い結構なゼニを使ってハマっていて、フラッと座った一見の客が、
数百円で大当たりさせた時などは、いかにも苦々しく顔を見合わせたりもした。


ある時など、「パチンコ必勝ガイド」誌にセンチュリーの「リーチ判別」の話が出て、
リーチがかかった瞬間の右デジタルが、「0、7、8、h」のどれかから始まれば
大当りする可能性があるが、それ以外だと期待できない…といった特徴が判明。
以来、私はこの判別を普通に使ったが、彼女は攻略ネタにあまり興味がないらしく、
そのテの判別も知らない様子だった。なので、彼女の台を見ていてリーチがかかると、
すかさず右デジを判別して「大当りする、しない」を予測。そして「このリーチはダメ」
「これは来るかも」と、いかにも「カン」で予想しているように振る舞った。
で、 それが結構当ったから(当然だが)、「すごい!」「よく判るね~」と感心してくれた。
  
 
まぁ、こういったごく当たり前の振る舞いも、「孤独」にさらされ易いパチ屋では、
自分にとって、まさに「一服の清涼剤」(故・田山プロの言葉を借りると)であった。
たまに、シマに出向いて彼女の姿がないと、それだけでガッカリした気になった。
 

ただ、いかに彼女とシマで打ち解けても、お互いの素性やプライベートは、
一切話すことが無かった。あくまでも「センチュリーのシマ」のみの関係。
それ以上は、絶対に詮索しなかった。当然、彼女の名前や年齢、既婚か未婚か、
どこに住んでいるかといった「個人情報」は、最後まで知ることも無かった。


向うにしても、こちらが早大生かどうかを聞くこともなく、ただ純粋に
「リーチが当った、外れた」を一喜一憂し合うだけの仲であることに、
それなりに満足しているようだった。


まぁ、コチラにささやかな「恋愛感情」がなかったといえばウソになるが、
「常連同士」以上の深い関係になろうとする勇気は、ついに沸かなかった。
 

そんな素性も知らない彼女だが、夕方6時過ぎになると、決まってツレと
思しき年配の女性に声を掛けられて退店した。或いは、彼女は既婚者で、
夕飯の支度までの数時間を、センチュリーのシマで過ごしたのかもしれない。
とすれば、ツレの年配女性は、母親(義母)だった可能性もあろう。まぁ、
それすら知らない奇妙な関係だが、センチュリーのシマでは「戦友」だった訳だ。
 

そういえば、当時、みよしのデジパチのシマのドル箱は、平たくて大きい
「4000発サイズ」だったから、センチュリーで彼女が当てると、3500発以上も入った
重い箱をカウンターまで運ぶのが、如何にも大変そうだった。そんな訳で、いつしか私は
彼女のドル箱を代わりに運んでやるようになった。別に、店員に運ばせればいいだけだが、
軽々と箱を持ちあげて「腕っぷし」をアピールする事で、格好つけたかったことは確かだ。
 

その後、新要件時代に入って暫くして、旧要件のセンチュリーがシマから外されると、
彼女は、店にほとんど顔を出さなくなった。或いは、彼女が好きだったのは「パチンコ」
そのものではなく、リーチ時「ジリジリ」と音を立てながら右デジが回り、右デジが
ピタッと止まって大当りして、二度開きチューリップのオマケに玉がガンガン流れて、
大箱一杯に玉が溜まるセンチュリーだからこそ、連日、あのシマにいたのかもしれない。
まぁ、少なくとも、私がシマに同席したから通い詰めた、という訳ではないだろうが…。


あれから25年も経ってしまったが、今、彼女は、どこでどうしているのだろうか?