背寒日誌

2024年10月末より再開。日々感じたこと、観たこと、聴いたもの、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

女優夏川静江(その1)~初主演の映画『街の子』

2024年11月04日 00時55分45秒 | ボンクラ店長の雑記


『街の子』1924年(大正13)
製作:東京シネマ商会
原作:アイダ・トレッドウェル・サーストン(Ida Treadwell Thurston)の小説「少年僧正」(The Bishop's Shadow)
脚本:野村愛正 監督:畑中蓼坡 撮影:白井茂
出演:夏川静江(少女お京)、小島勉(不良少年仙吉)、小杉義夫(スリの親分金平)、高橋豊子(その妻おろく)、夏川大吾(その倅勘一)、
一色久子(家政婦栄子)、奥村博司(山田実博士)、伊沢蘭奢(その夫人)

 主に連鎖劇の撮影や記録映画を手掛けていた東京シネマ商会(代表芹川政一、東京小石川に本社)が、畑中蓼坡(りょうは)の主宰する劇団新劇協会と組んで製作した社会教育映画。畑中は新劇の演出家兼俳優であったが、監督デビュー作『寒椿』(1921年国活製作、主演:井上正夫、水谷八重子)が好評を博し、これが二本目の監督作品。
 サーストンの小説「少年僧正」を野村愛正(あいせい)が脚色し、夏川静江を主役に抜擢。静江は当時15歳、新劇では名子役として数々の舞台を踏んできたが、映画の主役は初めて。静江は、メーテルリンクの「青い鳥」でミチル役を何度も舞台で演じていて、10歳の時、チルチル役の水谷八重子と共演したことがあり、その時の演出が畑中だった。
 『街の子』は、1923年9月の関東大震災の翌年、まだ復興途上にあった頃の東京で撮影された。キャメラマンの白井茂は、当時東京シネマ商会の専属で、大震災直後の惨状を撮影して記録映画に残したが、この映画の中にも被害の跡が写されている。
 映画の内容は、少女が愛情によって不良少年を更生に導く話である。大震災で父母を亡くしたお京(静江)は、身を寄せたのスリの親分の所から逃げ出すが、その時出会った少年仙吉(小島勉)はかっぱらいの常習犯だった。お京に諭されて仙吉は真面目になろうとするが、不良仲間と喧嘩して怪我を負わされ、手当てしてくれた山田博士の家の世話になる。しかし、家政婦が盗んで隠した金を仙吉は持ち逃げし、その金でお京に贈り物をするのだが、金を盗んだことに気づいたお京にまたもや諭され、ついに仙吉は改心して、金を返しに行く。が、仙吉は、悪い連中に謀られ、身に覚えのない放火の罪を着せられてしまう…、といったストーリー。
 静江の実弟夏川大吾(後年の大二郎)も出演し、また、畑中の新劇協会に在籍していた女優で、すでに松竹蒲田映画に何本か出演していた三浦しげ子(茂子)が、伊沢蘭奢(らんじゃ)の芸名で出演。蘭奢が「マダムX」の芝居で大ブレークするのは、この4年後の1928年春で、急死したのは同年6月だった(享年38歳)。
 夏川静江は、1927年日活京都(大将軍撮影所)に入社し、立て続けに映画出演して、スター女優の道を歩んでいく。(つづく)

F・W・ムルナウ監督作品『ファウスト』(3)

2024年11月03日 14時04分58秒 | ボンクラ店長の雑記
 脚本に関し、一つ、重要なことを付け加えておかなければならいない。実は、ハンス・カイザーの脚本がウーファ社の幹部たちには不評で、これを却下して、別の作家に脚本を書き変えさせたのである。依頼した相手は、なんとドイツを代表する著名な劇作家で詩人のゲアハルト・ハウプトマンGerhart Hauptmann(1862~1946)だった。この辺の事情は不可解極まりない。ハウプトマンが脚本を書くことを引き受けたのは、ムルナウがカイザーの脚本で映画を撮り終わってからなのか? また、ハウプトマンがどれほどの日数で脚本を仕上げ、ムルナウはたしてその脚本で映画を撮り直したのだろうか? どうやら中間字幕の部分だけをハウプトマンに書き変えさせたようである。ムルナウが撮った映像はそのまま使い、字幕の部分だけを差し替えて、ハウプトマン版『ファウスト』を再編集したのだろう。
 このハウプトマン版『ファウスト』の試写会は、1926年8月26日、ウーファ直営の劇場で催されたと言われている。しかし、ウーファの幹部たちはカイザーの脚本よりさらに気に入らず、結局また元のカイザー版を復活させて、一般公開することに決めたのだった。ハウプトマンの脚本(字幕)は韻文(詩)で書かれていたため、文学的だ難解で一般観客向けではないと判断したのだと思う。ハウプトマンに対しては、一般公開の前週に「予期せぬ困難」が生じたと通知し、一方的に事後承諾を得たようだ。
 『ファウスト』のドイツでの初公開は1926年10月14日。場所は、ベルリンのウーファ直営の大劇場パラスト・アム・ツォーであった(Ufa-Palast am Zoo ベルリン動物園の展示ホールを改装した劇場で、当時ドイツ最大2000席以上ある封切り館)。ハウプトマンが脚本として書いた韻文は、パンフレットにして頒布されたという。
 『ファウスト』は、その後ヨーロッパ各国で上映され、アメリカ合衆国では1926年12月に、日本では翌々年の1928年3月に公開された。上映国によって、再編集され、いくつかのバージョンが作られた。ムルナウはアメリカ・ハリウッドのフォックス社と契約して、1926年秋に渡米していた。ドイツでの初公開の前だった。ムルナウ自身の手で編集が行われたのは、ドイツ語のオリジナル版とアメリカ公開用の英語版だったという。

F・W・ムルナウ監督作品『ファウスト』(2)

2024年10月29日 01時34分29秒 | ボンクラ店長の雑記
 映画『ファウスト』は、ドイツの大手映画会社ウーファ(UFA)が巨額を投じて製作した大作であるが、いわば難産で生まれた映画であった。企画段階から脚本家および監督の決定、キャスティングからクランクイン(1925年9月)まで、そして長い撮影期間(クランクアップは翌26年5月)から編集段階を経て、完成版の公開(1926年10月)にこぎつけるまで、いろいろと紆余曲折があったようだ。その辺の経緯を少し調べてみたいと思う。


映画の最初の方にあるシーン、老ファウストは、イェスタ・エクマン

 ウーファ社は、ゲーテの戯曲「ファウスト」を映画化するにあたり、最初ルドウィッヒ・ベルゲル(脚本家で映画監督)が書いた脚本(『失われし楽園』)を基に、ハンス・カイザー(劇作家)に脚本を書き改めさせ、ベルゲルを監督にして撮らせようとした。これが出発点だった。

「キネマ旬報」(以下「キネ旬」)が過去の映画のデータを収録したウェッブサイトを見ると、映画『ファウスト』の紹介文は以下のようになっている。
「ドイツの文豪ゲーテが24歳から82歳までかかって書き上げたファウスト、それは古代ドイツの伝説である。多くの作家が或いは劇に或いは音楽にこの主題を取り入れているが、ウーファ社がこれを映画化するに当っては、著名な監督であり文学者であるルドウィッヒ・ベルゲルの書いた脚本『失われし楽園』を土台とし、ハンス・カイザー氏をして創作的な撮影台本を作り上げさせた」 
 映画『ファウスト』が日本で公開されたのは1928年3月初めだった。キネ旬のこの紹介文は、同年の1月号か2月号に新作映画の紹介として掲載された文章であろうが(未確認)、筆者は不明だが、配給会社からの宣伝材料を参考にして書いたものだと思う。
 実は、私がチラシの作品データを書いた時、原作にルドウィッヒ・ベルゲル「失われし楽園」を加えたのは、このキネ旬の記載に倣ったからで、あとでいろいろ調べてみると、原作にこの人の名前(ないし脚本の題名)があるデータは他にほとんど見当たらず、キネ旬の紹介文以外(それを転用したものは除く)だとドイツのウェッブサイト "FILMHISTORIKER. DE"(edited by olaf brill) の『ファウスト』のデータだけである。そこには、ルドウィッヒ・ベルゲルの脚本『失われし楽園』(Ludwig Berger's script "Das verlorene Paradies" )が挙げられている(これでドイツ語の原題も分かる)。
 
 ウーファ社がベルゲルに監督を任せようとしたという記述は、日本語版ウィキペディア(以下「ウィキ」)の『ファウスト』の説明文にあるのだが、根拠とした資料を調べる必要があるが、引用するとこうだ。
「当初ウーファはムルナウが『ヴァリエテ』に関わっていたため、この作品はルドウィッヒ・ベルゲルに撮らせようとした。しかしムルナウはヤニングスの助力とプロデューサーへの圧力で、最終的にエーリッヒ・ポマーを説得し、監督することになった」
「ムルナウが『ヴァリエテ』に関わっていた」という部分と、「プロデューサーへの圧力」というのは、具体的にどういうことなのか? また、そのプロデューサーとエリッヒ・ポマーとの関係も分からない。
 エリッヒ・ポマーは、数々のドイツ映画のヒット作を手掛け、当時飛ぶ鳥落とす勢いがあった若手プロデューサーで、ウーファをインターナショナルな映画会社に押し上げた立役者だった。『ニーベルンゲン』(1924年/ 監督フリッツ・ラング)、『最後の人』(1924年/ 監督ムルナウ)、『ヴァリエテ』(1925年/監督 E・A・デュポン)をはじめ、『ファウスト』のプロデューサーでもあった。

 問題のルドウィッヒ・ベルゲル(Ludwig Berger ルードヴィヒ・ベルガーと表記した方が良いかもしれない)がどういう人かと言うと、ドイツ語版ウィキによれば、1892年生まれのドイツの作家で、1920年頃には映画界に入り脚本と監督を手掛け、1923年に『一杯の水』で評価され、同年ウーファ社で『失くした靴』というシンデレラの映画を撮っている。『ファウスト』の製作者エリッヒ・ポマーがこの2本の映画の製作も担当していることにも注意したい。ベルゲルは、その後ドイツだけでなくフランスでも映画監督としての地位を築いていく。
 
 さて、F・W・ムルナウはウーファ製作の『最後の人』(1924年)で主演のエミール・ヤニングスとともに高い評価を得た後、映画『タルチュフ』(1925年)で再度ヤニングスと組んで、メガフォンをとっていた。撮影期間は1925年春の2か月だった。『タルチュフ』を撮り終え、続いてムルナウは『ヴァリエテ』を監督する予定だったのかもしれない。日本語版ウィキの記述はそのようにも受け取れ、それで、企画中の『ファウスト』の監督は最初ムルナウでなくベルゲルにオファーが行ったのかもしれない。これは推測にすぎないが、ムルナウは『ヴァリエテ』を監督するよりもむしろ大作『ファウスト』を監督したいと思い、ヤニングスの口添えも得て、ウーファの幹部に働きかけたのではあるまいか。さらに両作品のプロデューサーであるエリッヒ・ポマーをも説得し、『ファウスト』の監督をすることになった。その結果、『ヴァリエテ』の方は、E・A・デュポンが監督し、『ファウスト』はルドウィッヒ・ベルゲルが降板し、ムルナウに代わったのだと思われる。
 
 ハンス・カイザー(文学者で脚本家)に映画の脚本を依頼したのは、ウーファの製作者からであろうが、ムルナウの相棒的存在である脚本家のカール・マイヤーが脚本を担当しなかったのは、監督の決定前に、すでにカイザーに依頼が行っていたからであろう。カイザーが、脚本を書く際、キネ旬の紹介文にあるようにベルゲルの「失われし楽園」という脚本(まったく内容不明)を土台にしたのかどうかは、不明である。当初ゲーテの「ファウスト」第一部を基にしたことは確かだが、古いファウスト伝説とクリストファー・マーロウの「フォースタス博士」(ドイツのファウスト博士を題材にした世界初の戯曲)をどの程度参考にして取り入れたかは、分からない。別に比較検討する必要もあるまい。カイザーの脚本というのは、ストリーの展開と中間字幕(インタータイトル)がメインだと思うが、映画を見る限り、ムルナウの撮った映像と演出の占める部分の方が大きいと言えよう。

F・W・ムルナウ監督作品『ファウスト』(1)

2024年10月28日 13時53分09秒 | ボンクラ店長の雑記
10月27日(日)昼の部「澤登翠&柳下美恵サイレント映画の旅」@壱岐坂ボンクラージュ
上映作品『ファウスト』(Faust ―Eine deutsche Volkssage)



1926年/ドイツ ウーファ /107分/DVD上映
監督:F・W・ムルナウ 製作:エリッヒ・ポマー 原作:ゲーテの戯曲、ルドウィッヒ・ベルゲル「失われし楽園」 脚本:ハンス・カイザー 撮影:カール・ホフマン
出演:イェスタ・エクマン(ファウスト)、エミール・ヤニングス(メフィストフェレス)、カミラ・ホルン(グレートヒェン)、ヴィルヘルム・ディーテルレ
文豪ゲーテの戯曲を基に古いファウスト伝説も加えてシナリオ化し、ドイツ表現主義映画の名匠ムルナウが監督。ムルナウの妥協しない演出と撮影所スタッフの優れた技術力により、映像美と特殊効果の粋を極めた記念碑的作品に仕上がっている。悪魔メフィスト役は、ドイツの名優エミール・へニングス。ウーファ(ドイツの映画会社)が巨額を投じて製作したが、採算は取れなかったという。ムルナウはその後フォックス社に招かれて渡米し、名作『サンライズ』を撮る。


以上がチラシに掲載した作品のデータと私が簡単に記した解説である。


メフィスト(ヤニングス)、若返ったファウスト(エクマン)、グレートヒェン(ホルン)

 古い外国映画を調べる時、私は、Internet Movie Data-base(IMDb)をまず参照しているが、『ファウスト』についてIMDbに投稿されているトリビア(コメント)をいくつか紹介(英文和訳は私)しておこう。このコメントは映画ファンが匿名で投稿したものなので、根拠となる資料が明記されておらず、真偽のほどが疑わしいものも多い。
●この映画は、1年後に『メトロポリス』が製作公開されまでは、最も製作費をつぎ込んだドイツ映画だった。
●撮影は6か月かかり、200万マルクの費用がかかった。しかし興行収益はその半分しか上がらなかった。
●ムルナウは、リリアン・ギッシュにグレートヒェンの役をやらせたかったが、リリアンはお気に入りキャメラマンであるチャールズ・ロッシャーが撮るべきだと主張した(※根拠となる資料が分からず、真偽不明)。で、ムルナウは代わりにカミラ・ホルンを登用。カミラは、ムルナウ作品『タルチュフ』(1925年)で、女優リル・ダゴファーの吹き替えをやっていて、その時ムルナウはセットでカミラと出会っていた。
●ファウスト役には、ジョン・バリモアが候補に上がったが(※根拠となる資料が分からず、真偽不明)、最後は、スウェーデンの俳優イェスタ・エクマンになった。
●ハンス・カイザーの脚本で映画がすでに撮られた後、ウーファー社はカイザーの脚本が気に入らず、彼の反論を無視して、ドイツの作家ゲアハルト・ハウプトマンに脚本を依頼した。しかし、ウーファー社はハウプトマンの脚本がそれ以上に気に入らず、結局、映画はカイザーのオリジナル版で公開された。
<つづく>


チャーリー・パーカー語録(2)

2019年09月06日 13時53分28秒 | チャーリーパーカー
 前回資料として挙げたインタビューのうち、パーカーの伝記本に彼の言葉が引用されることが多いのは、(2)と(4)である。
 今回は、(4)について述べておこう。これはパーカーが死ぬ1年2か月前に行われたラジオ番組用のインタビューである。
 ところでパーカーは、1954年1月18日から1週間、ボストンのハイハット・クラブに出演中だった。このクラブにパーカーだけが単身乗り込み、バックはボストンの地元のミュージシャンが務めた。この時のライブ演奏はラジオ放送され、その録音は現在CD化されている(2枚組のCDで、1953年6月のハイハット・クラブでの演奏も含まれている)。YouTubeにも全曲アップされているので、パーカーの熱演を聴くことができる。また、司会のシンフォニー・シッドとパーカーの言葉のやり取りもあって、貴重な音源でもある。


 
 さて、問題のインタビューは、1954年1月23日、ボストン滞在中のパーカーが現地のラジオ局(WHDH)へ赴き、そこで収録された。毎週土曜の夜にやっていた”Top Shelf”という音楽番組のためのもので、パーカーの談話は、同日と翌週の1月30日(土)の2回に分けて放送された。聞き手はこの番組のパーソナリティであったジョン・マックレラン(本名ジョン・フィッチ)とゲストのアルトサックス奏者のポール・デスモンドである。ポール・デスモンドは当時デイヴ・ブルーベック・カルテットで人気急上昇中であり、パーカーを師と仰いで敬愛し、パーカーとも親しくしていたので、ゲストとして呼ばれたのだと思うが、聞き手として最適であった。また、パーカーの方でもデスモンドを同じミュージシャンとして信頼していて、デスモンドの突っ込んだ質問に対しても率直に答えている。


<ポール・デスモンド>

 このインタビューでは、前半でパーカーの音楽観をうかがい知ることができて、大変興味深い。また後半で、ディジー・ガレスピーやマイルス・デイヴィスと初めて出会った頃のことについて、パーカー自身の思い出を語った部分がある。
 インタビューは、パーカーのレコードの中の曲をいくつかかけて、曲と曲の合間に進められているが、最初にかかった曲が何であったのかは分からない。バップ創成期の1944年か45年にレコーディングされた曲だったようだ。インタビューの最初の部分だけ私が訳したものを紹介しておこう。

デスモンド:アルトサックスのスタイルがそれまでのものとは全然違いますよね。当時あなたは、自分の演奏がジャズにこれほど大きな影響を与え、その後の十年のジャズ界をまったく変えてしまうことになるなんて感じていましたか?

パーカー:(照れながら)じゃ、まあそういうことにしておこうか。いや、実を言うと感じてなかった。そんなに違うなんて、ちっとも思っていなかっんだよ。(笑)

マクレラン:私もどうしても質問したいことがあるんですよ。こんな急激な変化がなぜ起こったのか、実のところを知りたいんです。それまでアルトサックスの演奏は、ジョニー・ホッジスとかベニー・カーターのスタイルだった。あなたのこの演奏は、まったくコンセプトが違いますよね。アルトサックスの演奏法だけでなく、音楽観そのものが違う。

パーカー:いやあ、その質問には答えようがないと思うがね。

 インタビューはこんな感じで進んでいく。
 パーカーの音楽観をうかがい知ることができるのは、以下の言葉だ。

パーカー:私が言いたいのは、音楽というのは大いに進歩の余地があるものだということなんだ。あと25年、いや50年かもしれないけど、きっとだれか若い人が出て来て、このスタイルを取り上げ、何か新しいことをやってくれると思うね。私がずっと音楽を聞きながら思ってきたのは、音楽は真新しく、ぴったりとしたものであるべきだということなんだ。ともかく、できる限り真新しいものであるべきだ。分かるよね。それから、人間にとって、多少の差はあれ、音楽というのは何か理解できるもの、何か美しいと感じるものだよね。確かに、いろいろなストーリーが次から次に音楽上のイディオムで語られている。まあ、イディオムとは言わないにしても、音楽を言い表すのはとても難しいな。基本的な言い表し方はあるけどね。つまり、音楽というのは基本的にはメロディーとハーモニーとリズムだよね。でも、われわれは、音楽によってそれ以上のもっとずっと多くのことをやれると思うんだ。音楽は、すべての形式において、きわめて表現力豊かなものなんだよ。しかも人生のすべての面にわたることを表現できるんだね。

 参考までに上記のパーカーの英語の言葉を文字にしたものを下に挙げておこう。よく聞き取れない箇所は、筆記者が類推して適当に書いたようだが、下線を施した部分は、(→ )で私なりに文意を考えて直したものを、(? )で疑問に思う語句を付記した。また、パーカーが良い音楽に対して使う形容詞の clean は、「真新しい」と訳した。precise は「ぴったりとした」、descriptive は「表現力豊かな」と訳したが、もっと良い訳語があるかもしれない。

PARKER: I mean, music can stand much improvement. Most likely, in another 25, maybe 50 years, some youngster will come along and take this style and really do something with it, you know, but I mean, ever since I've ever heard music, I've always thought it should be very clean, very precise ―― as clean as possible, anyway ― you know, and more or less to the people, you know, something they could (→ can) understand, something that was (→ is) beautiful, you know ―― there's definitely stories and stories and stories that can be told in the musical idiom, you know ―― you wouldn't say idiom, but it's so hard to describe music other than the basic way to describe it. Music is basically melody, harmony and rhythm, but, I mean, people can do much more with music than that. It can be very descriptive in all kinds (? ) of ways, you know, all walks (? ) of life.