背寒日誌

2024年10月末より再開。日々感じたこと、観たこと、聴いたもの、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

『望郷』のミレイユ・バラン

2009年01月04日 04時01分52秒 | フランス映画

 ジャン・ギャバンの相手役をやったミレイユ・バラン(Mireille Balin)という女優のことを調べてみる気になった。
 『望郷』では、ギャバン扮するペペ・ル・モコに女が二人出て来る。一人はカスバの女で、もう一人がギャビーという愛称のパリジェンヌである。ミレイユ・バランはギャビーの方で、フランス人の金持ちの爺さんの愛人なのだが、アルジェへ観光旅行に来て、ペペと知り合うわけである。
 ペペは、アルジェのカスバに逃げ込んで2年も経つので、いい加減うんざりしている。そこへパリの香りを漂わせた奇麗な女が現れたものだから、すっかり魅せられてしまう。ギャビーも金持ちの爺さんには飽き果てているから、指名手配中のペペと危険な遊びがしたくなる。というわけで、ペペの止むに止まれぬ望郷の念と、三角関係のもつれから、最後の悲劇が生まれるわけで、『望郷』という映画はストーリーから言えば、陳腐なシロモノに過ぎない。ジュリアン・デュビビエの映画としては底の浅い作品だと思うのだが、この映画は、何と言ってもジャン・ギャバンの個性と魅力で持っている。それと、ミレイユ・バランの印象も大きい。
 この女優に関しては、日本では意外と知られていないようなので、フランスの資料を覗いてみた。以下、ミレイユ・バランの略歴を書いておく。前半生の恋多き華やかなスター時代に比べ、戦時中ナチス・ドイツの士官と恋に落ちてからは悲運に見舞われ、戦後は不幸のどん底のような人生を送り、哀れな最期を遂げたことが分かる。
 生年月日は、1909年7月20日。モナコのモンテカルロ生まれ。父は新聞記者。子供の頃はマルセイユで育ち、高校時代はパリで過ごす。二十歳ごろからグラビア・モデルの仕事をしていて、映画にスカウトされる。デビューは1931年、22歳のときで、“Vive la Class”という映画の端役だった。
 1932年に映画『ドンキホーテ』に出演。この年に他の作品にも二本出演し、映画女優としてキャリアを歩み始めるも、チュニジア出身のプロボクサー(フライ級の世界チャンピオンだった)と恋仲になる。1933年、今度は金持ちの政治家と大恋愛し、社交界の華となる。この年、映画“Adieu les Beaux Jours”でジャン・ギャバンと共演。以後、映画出演を続けるが、ヌードになった映画もあった。
 1935年、ジュリアン・デュビビエ監督から『地の果てを行く』の出演を依頼されるが、健康上の理由で辞退。この大役はアナベラがやることになる。1936年、デュビビエ監督の『望郷』に出演、主役のジャン・ギャバンと恋仲に。『望郷』は、大ヒットし、彼女も一躍スターになる。1937年、ギャバンと再び『愛欲』(ジャン・グレミオン監督)で共演。ヴァンプ女優として評価される。この後、ギャバンとの関係は終わり、歌手のティノ・ロッシと恋仲になる。
 1937年10月、ハリウッドに渡り、MGMと契約するも、映画出演できずに翌年帰国。パリでティノ・ロッシと同棲生活を続けるが、浮気性のロッシに悩まされる。 1939年、ドイツの男優・エリック・フォン・シュトロハイムと共演して親しくなり、彼の映画にその後も2本出演。1940年、ドイツ軍のフランス侵攻。ロッシとカンヌへ転居。1941年にパリに戻る。ロッシとは破局。
 1942年、ドイツ大使館でウィーン出身の若き士官デスボックと出会い、恋に落ちる。彼と婚約し、パリとカンヌで同棲生活を続けながら、映画出演。1943年、戦争が激化。1944年、パリ解放。デスボックとイタリア国境近くに隠れているところを、フランスのレジスタンス運動派によって逮捕、投獄される。そのとき彼女は折檻、強姦され、デスボックは殺害される。
 1945年、釈放。1946年、映画出演。これが最後の映画となる。その後、度々病魔に冒され、アルコール中毒に。友人の好意でカンヌに暮らし、一時ニースの病院で療養。その後パリに転居。世間から忘れ去られ、細々と生き続けるも、1968年パリ郊外で死去。享年53歳。

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『望郷』をもう一度

2009年01月03日 21時43分42秒 | フランス映画

 『望郷』を初めから見直す。前回は、ジャン・ギャバンのぺぺ・ル・モコが着用していたネクタイの柄を確認した後で、心ならずも眠ってしまった。
 今回は、画面の前に座って、真面目な鑑賞態度で観る。すると、いろいろ面白い発見があった。
 まず、ギャバンが、服装を四度も替えていることが分かった。すべてグレーの背広なのだが、さすがパリジャンらしく、着こなしをずいぶん工夫している。初めて登場するときは、黒シャツにクリーム色(多分)のネクタイで、ダンディな格好。ネクタイの柄は、小さな四角形を並べた模様である。次に登場したときは、ノーネクタイでラフな着こなし。三度目は、白シャツに濃紺(多分)の無地のネクタイで、フォーマルな感じである。ラスト・シーンで、カスバから出て行くときが、何と言っても一番格好良く、頭からつま先までビシッと決まっている。ソフト帽をかぶり、新品の背広に白シャツで、首にはネッカチーフを二重三重に巻いている。よく見ると、なんとネッカチーフの柄が水玉模様ではないか!石森さんはこのときのネッカチーフの柄とネクタイの柄とを混同して、頭に焼き付けてしまったようだ。これで納得。
 『望郷』をじっくり観て感心したことは、ギャバンの服装に限らず、小道具の使い方のうまさである。ステッキ、首飾り、ブレスレット、拳銃、けん玉、蓄音機、手錠、ナイフなど、シーンごとに次々とこうした小道具が出てきて、実にうまく生かされているのだ。とくに、鮮やかな印象として残ったのは、数珠のようなダイヤのブレスレットである。パリジェンヌのギャビー(ミレイユ・バラン)が細い手首に付けていたもので、一度取り外したブレスレットをギャバンがまた取り付けてやるのだが、そのとき思わず女の手をぎゅっと握り締めるところが良かった。
 ところで、ギャバンのペペ・ル・モコが歌うシーンは、確かにあった。好きになった女のギャビーとデートをする前に、ペペが上機嫌でテラスに出てシャンソンを歌っているのだ。明るくテンポの早いシャンソンで、歌詞を訳した字幕は出ない。部分的であるし、この歌詞を書き留めるのはフランス人でもない私には非常に難しい。難しいけど、石森さんの要望なので、このシーンだけもう一度見直してみようかと思っている。ネクタイの柄は目を凝らして観察したが、今度は、耳の穴をかっぽじって傾聴しなくてはなるまい。それにしても、神経を張る課題を出されたものだ。
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今年初の映画~『望郷』と『男はつらいよ』

2009年01月02日 18時37分18秒 | フランス映画
 ジャン・ギャバンの『望郷』(ぺぺ・ル・モコ)を昨年からずっとまた見直そうと思っていた。この映画、すでに五、六回は観ているのだが、最後に観たのはもう何年も前のこと。細かいところは忘れてしまっていた。
 実は、昨年の夏前にシナリオ作家の石森史郎さんと親しくなり、喫茶店でフランス映画のことを話していたときに、たまたま『望郷』の話になった。石森さんは映画監督のジュリアン・デュビビエが好きで、とくに『望郷』が大のお気に入り。私は、デュビビエの映画の中では『望郷』をそれほどの傑作だと思っていなかったので、「あの映画のどこがいいんですか?」みたいな質問を石森さんにした。すると、「あなたは『望郷』をちゃんと観ていないでしょ」と叱られた上に、クイズを出された。
「ジャン・ギャバンのぺぺ・ル・モコが初登場するとき、初めにネクタイが映るけど、どんな柄だったか言ってみなさい」と石森さん。
「すいません、覚えていないんですけど……」と答えると、
「ダメじゃないか!ネクタイは水色の水玉模様ですよ」
「えっ、あの映画は白黒ですけど……」と私が言うと、
「白黒でも色は分かるんです!」
 もう口答えのしようもない。あのまくし立てるような早口で石森さんが言う。
「初めにネクタイが映って、そこからキャメラが上へ移動してギャバンの顔のアップになるんだよな。ギャバンって美男子じゃないよね。ジャガイモみたいな顔だけど、フランスじゃああいう男がダテ男なんだな」
「ダテ男って、もともと伊達藩の侍のことだから日本人のことを言うんじゃないですか」と私。
「まあそうだけど、あのネクタイにパリジャンのダテ男ぶりを象徴させているわけだよ。うまいと思わないのか」
「はい」
「ギャバンのペペ・ル・モコはパリジャンだろ。それがアルジェのカスバに逃げ込んで、ずっとそこに居るうちに故郷のフランスが恋しくて、もう帰りたくて仕方がなくなるんだね。カスバの女はみすぼらしくて、フランスから観光に来たパリジェンヌがやけに美しく見えちゃってさ。この女、金持ちの爺さんの愛人なんだけど、ぺぺは目が眩んじゃうわけよ。女にパリの地下鉄の匂いがするなんて言っちゃってさ」
 石森さんにとって『望郷』は、青春の記念碑のような想い出深い映画らしく、詳しいのなんの!微に入り、細に入り、あきれるほどよく覚えている。彼は『約束』という映画のシナリオを書いているが、そのラスト・シーンは『望郷』のラスト・シーンを真似たのだと言う。『約束』でショーケンが岸恵子と最後に別れるところで、鉄柵を使ったのがそうらしい。
 クイズは続く。第二問である。
「ギャバンがあの映画の中で唄うシャンソンがまたいいんだよな。知ってる?」
「えっ、歌なんかありましたっけ」
「僕はちゃんと歌えますよ。メロディだけだけど……」
「で、フランス語の歌詞は?」と尋ねると、石森さん、急に低姿勢になり、
「実は、あなたに頼みがあるんだけど……、あの歌の歌詞をメモしておいてくれないかなあ」と来た。
 とんだ課題を出されたものである。それを今の今までほったらかしにしておいた。そこで正月の暇なときに『望郷』をじっくり見直そうと思ったわけである。
 元旦にビデオを探し出し、さて観ようと思ったら、これが三倍モードで録画したヤツで、映画が3本入っているではないか。「寅さん」2本の間に『望郷』がはさまっている。早送りして『望郷』だけ観ようとも思ったが、面倒臭いので、「寅さん」から観始めた。「寅さん」もテーマは「望郷」である。
 まず、一本目の『男はつらいよ 純情詩集』を観る。マドンナは京マチ子で、壇ふみが娘役で出演しているアレだ。「寅さん」のシリーズでは、マドンナが最後に死んでしまう唯一の作品である。
 さて次にいよいよ『望郷』が始まり、ネクタイの柄を確認しようと目を凝らす。ギャバンの顔が現れる前にネクタイが映るのは石森さんの言う通りなのだが、柄が違うじゃありませんか!水玉模様ではなく、小さな四角形を並べた模様なのだった。色は分からないが、水色でないことも確かで、多分クリーム色の地に四角形の模様は赤色のような気がする。白黒の映画なので、これはあくまでも想像にすぎないのだが……。ソファに寝そべって、字幕を読まずにフランス語を聞いていたのがいけなかった。途中で睡魔に襲われ、ふと気がつくとラスト・シーンになっている。いやはや肝心な歌の部分は見逃してしまった。
 起き上がって巻き戻すのも面倒だから、そのまま次の「寅さん」を観る。リモコンが壊れているので、遠隔操作が出来ない。三本目は、『男はつらいよ 忘れな草』である。マドンナは浅丘ルリ子で、リリーさんが初登場する作品だ。「寅さん」のシリーズでは名作の一本に数えられるが、最後にリリーさんが結婚して寿司屋のおかみさんにおさまっているところには、いつも疑問を感じる。亭主が毒蝮三太夫では不釣合いだし、話のオチとしても無理がある。まあ、それはともかくとして。
 結局、『望郷』はもう一度初めから見直すことになってしまった。ビデオを巻き戻して今日でもまた観ようかと思っている。



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直木三十五の大衆文藝論(その二)

2009年01月02日 12時52分02秒 | 
 当時直木が新聞雑誌のあちこちに大衆文藝論を書いたその真意は、まだ生まれて数年に過ぎない「大衆文藝」「大衆文学」のレベルを上げ、文藝の一ジャンルとして地位を確立することだった。
 随筆集を読むと、直木の真意がよく理解できる。直木が真っ向から対抗したのは、仲間の大衆文藝作家たちではなく(彼らへの批判は愛の鞭に近い)、当時の「文壇」に巣食う傲慢な作家たちだった。直木は、「文学は芸術である」と主張する文壇小説家たち、評論家たちを認めながらも、大衆文藝に対する彼らの無理解な発言に腹を立て、その論拠のなさをこてんぱんにやっつけている。槍玉に上がったのは、まず正宗白鳥である。
 正宗白鳥といえば、小林秀雄が文壇に登場する以前に権威だった文藝評論家だが、直木は白鳥に幾分かの敬意を払いながらも、白鳥が書いた「南国太平記」の批評がどうも気に入らなかったらしい。正宗氏は史実に無知で大衆物を批評する資格が無い、と直木は言い切って、憤懣をぶちまける。
 青野季吉と相馬泰三の二人が大衆文藝は「読者に媚びている」と言ったことに対して、直木は怒り心頭に発し、口角沫を飛ばさんばかりに喧嘩を売っている。直木の言葉を二、三引用すると、彼らのことを相馬に青野と呼び捨てにした上で、「尋常一年生みたいな物の見方をする連中」とこき下ろし、「馬鹿も休み休みに云うがいい」「手前達の無理解とイージーゴーイングを示しただけ」で、「文句があるならいつでも来い」と締めくくっている。
 評論家というものはだいたい無責任な事を偉そうに言うもので、直木が怒るのも無理はない。ただ、自分に対して言われたことでもないのに、直木がこれだけ怒るのがいかにも義憤家の彼らしいところである。詳しい事情は知らないが、これはどう見ても直木の主張の方がもっともで、文壇評論家の二人は尻尾を巻いて逃げたに違いない。


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直木三十五の大衆文藝論

2009年01月02日 11時19分46秒 | 
 直木三十五の随筆集を読んでいる。昭和9年4月発行、中央公論社版の一巻本で、638頁。六章から成り、「人の事、自分の事」「文壇風土記」「武勇傳雑話」「吾が大衆文藝陣」「大阪を歩く」「秋色漫想」の中に面白そうなタイトルの随筆が60編ほど収められている。
 元旦から、この本のあちこちを読んでいるのだが、「吾が大衆文藝陣」の章を全部読む。昭和初期の大衆文藝作家たちに対する直木三十五の歯に衣を着せぬ論評が切れ味抜群である。直木の筆致は激越で、遠慮というものがこれっぽちもない。仲間の作家たちをばっさばっさと斬りまくっていく。
 「大衆小説を辻斬る」(昭和7年)という随筆では、吉川英治も林不忘も白井喬二も長谷川伸も形無しで、一刀両断に斬られている。
 たとえば、吉川英治の「燃える富士」は、「萬事安手の書き流し」「出鱈目で不自然」である。直木先生、初めは「一杯茶をすすり、一服煙草をつけて、膝を正して読み出した」のだが、1頁読んでうんざり、「続けて読んで行く元気がなくなってしまった」そうな。
 白井喬二の「盤獄の一生」などコケコケである。「なってない文章」「天下の悪文」「こんな物が堂々と『文藝』と銘を打って通用するのだから呆れる外はない。」
 私は「燃える富士」も「盤獄の一生」もまだ読んでいないので、何とも言いようがないが、直木三十五の気焔たるや、すさまじい。よくもまあ、これほど舌鋒鋭い文章が書けるものだと感心。正月早々、直木の毒気に当てられながらも、痛快な気分を感じて読んでいる。
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