背寒日誌

2024年10月末より再開。日々感じたこと、観たこと、聴いたもの、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

チャーリー・パーカーに関する文献・資料(6)

2019年08月10日 19時37分17秒 | チャーリーパーカー
 アマゾンで注文しておいた洋書が続々と届き、あれを読んだり、これを読んだりしている。
 その中にパーカーの最新の研究書が2冊あり、どちらも2013年のほぼ同時期に出版された本である。




 1冊目は、チャック・ハディックス Chuck Haddix ”Bird: The Life and Music of Charlie Parker”「バード――チャーリー・パーカーの人生と音楽」(2013年8月13日初版)。私が入手したのはペーパーバック版で2015年発行。著者はカンザス出身のアメリカ音楽研究者。アーカイブで厖大な音源の調査、考証に従事。ラジオの音楽番組のディレクター兼パーソナリティを務め、音楽史の講師でもある。年齢は不詳。多分70歳前後だと思う。カンザス・シティで仕事をしているという地元の利を生かし、パーカーの調査を続けてきたようだ。
 序と第一章だけざっと読んでみた。レベッカについての記述に目新しいことはない。ディギンスの既刊書「セレブレイティング・バード」(1987年)をほぼなぞったものにすぎない。しかし、パーカーの幼少年時代については、新しい事実や考察が書かれていた。転居先とその時期、また通学した小学校に関しては、これまでのパーカーの伝記本には書かれていなかったことだ。また、第四章を拾い読みすると、パーカーがカンザス・シティを出奔した後の母アディの動向について、新たに判明したことが書かれている。また、パーカーがニューヨークへたどり着くまでの足取りもかなり詳細に調査したらしく、新たな見解が記されているようだ。
 この本は全部で180ページほどの薄い本で、英文も読みやすい。



 2冊目は、スタンリー・クラウチ Stanley Crouch の近刊 ”Kansas City Lightning: The Rise and Times of Charlie Parker”「カンザス・シティの稲妻――チャーリー・パーカーの出現とその時代」(2013年9月14日初版)。ペイパーバック版は2014年発行。著者のスタンリー・クラウチは、1945年ロサンゼルス生まれの黒人。多彩な経歴を持つ人で、詩人でドラマーだった。作家、ジャズ評論家としても名を上げ、トランぺッターのウィントン・マルサリスの師匠でもあるようだ。
 この本は、黒人が書いた最初の本格的なパーカーの研究書であるととともに、著者が1980年代から続けてきた黒人の音楽・文化史研究の成果も随所に盛り込んでいる。したがって、チャーリー・パーカーに焦点を当てながらも、文化史的な説明をあちこちに加えて書いているので、分量が増し、またやや読みにくい面もある。ただ、彼自身が行ってきたパーカー関係者へのインタビューをもとに書いている部分は、説得力があり、パーカーのイメージも浮き彫りにされて、読み応えがある。クラウチ自身が居場所を突き止め、初めてインタビューを試みた人では、何と言っても、レベッカ・ラフィンが重要である。クラウチは1981年に初めて彼女にインタビューし、それを録音したテープを持っているそうで、その後、レベッカとは1980年代に何度か話して、そのメモも取っておいたようだ。
 実は、この本を手に取る前に私は、ゲイリー・ディギンスが1987年に出した「セレブレイティング・バード――チャーリー・パーカーの栄光」の日本語版を読んだのだが、この本に書かれたレベッカ・ラフィンの談話に基づいた記述は、まずスターリー・クラウチの協力があって、そのコネでディギンス自身もレベッカと会い、インタビューをして書いたものであった。ディギンスは冒頭の謝辞で、クラウチの好意について書いている。しかし、思うに、レベッカを見つけ出し、最初にインタビューしたクラウチの苦労は、ディギンスにすっかり利用されてしまったようだ。また、クラウチ自身はそれまでずっとあちこちの新聞雑誌にジャズの評論を書いていたようで、2006年にそれらを収録編集した著書”Considering Genius: Writings on Jazz”を発行している。ここに載っているエッセイ”Bird Land: Charlie Parker, Clint Eastwood, and America”(1989)に私は目を通したが、これは、クリント・イーストウッドが監督した映画『バード』の手厳しい批評で、レベッカのことはわずかしか書かれていない。
 まあ、そういう経緯があって、クラウチが長年のうっ憤をぶちまけるようにして執筆した本が「カンザス・シティの稲妻」だと言えるようだ。レベッカの他にも彼女の妹のオフェリアやパーカーの幼友達へのインタビューもあり、もうみんな亡くなってしまったのだが、こうした資料をもとに、この本をようやく完成させたのだと思う。ただ、クラウチという人は、他のパーカー研究者の最新の調査(たとえばチャック・ハディックスの調査やリュー・ウォーカーのウェッブ・サイトの研究)を、知ってか知らずか、採り入れていないところがあり、4分の1ほど読んだ限りではあちこちに記述漏れが目立つ印象を受ける。

 ところで、ゲイリー・ディギンスの「セレブレイティング・バード」は2013年に改訂版が出されているので、先日原書をアマゾンで注文したが、まだ手元に届いていない。

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チャーリー・パーカー語録(1)

2019年08月10日 16時33分29秒 | チャーリーパーカー
  
(真ん中のページの画像では見出しの最初の文字 No が切れて見えない。No Bop Roots In Jazz<バップのルーツはジャズではない>)

 1949年9月9日発行の「ダウンビート」誌に掲載されたチャーリー・パーカーのインタビュー記事は、生存中のパーカーの発言を伝える最も重要な基礎資料である。また、パーカー研究の原点とも出発点とも言えるものだろう。私はぜひ原文を読みたいと思っていたところ、米国の”Jazz Profiles” というブログにその全文が転記されているのを見つけた。http://jazzprofiles.blogspot.com/2019/05/charlie-parker-1949-downbeat-interview.html
 かなり長い文章で、プリントアウトすると約13ページに及んでいる。で、早速、辞書を引きながら、読んでみた。
 この記事は、Michael Levinと John S. Wilsonという二人の記者が2週間あまりにわたって行った数回のパーカーへのインタビューをまとめたもので、パーカーが語った言葉を直接話法で引用した部分と、記者が間接話法でパーカーの話を伝える部分とで構成されている。ところどころに記者のパーカーに対する印象や感想が加えてあり、最後にパーカーの人柄と音楽性についてかなり好意的な評価を下している。パーカーの奥さん(三番目)のドリスも同席していたようで、最後の方にドリスの話も出てくる。
 このインタビューで、パーカーが語っていること、つまり、記者の関心事に率直に答えたことは、だいたい三つの内容に分けられるだろう。
(1)バップについてのパーカー自身の考え。
(2)パーカーの音楽のバックグラウンド。自分の若い頃の音楽体験。
(3)パーカーがこれからやろうとしていること、自分の音楽への抱負。
 読みながら、なんだ、あれはここにある言葉だったのかと感じるところが多々あった。これまでパーカーに関する本や記事を読んできて、しばしば引用されるパーカー自身の言葉やパーカーの体験についての言及が気になっていたのだが、その出どころの多くはこの記事だったことが分かった次第。

 パーカー自身の言葉をいくつか列挙しておこう。原文の下に私の訳文とコメントを添えておく。

 "It's just music. It's trying to play clean and looking for the pretty notes."
 「(バップは)まさに音楽だよ。まっさらな演奏をしようと努め、美しい音を探しているんだ」

 *パーカーは ”play clean”というフレーズが好きでよく遣う。”clean”は、「清潔できれいな」「爽やかな、すっきりした」「澄んだ」などの訳語が考えられるが、「真新しい」という感じで「まっさらな」という訳語をあててみた。

 "The beat in a bop band is with the music, against it, behind it. It pushes it. It helps it. Help is the big thing. It has no continuity of beat, no steady chug-chug. Jazz has, and that's why bop is more flexible."
 「バップ・バンドのビートは、その音楽に伴ったり、対立したり、背後にあったりするんだ。ビートが音楽を押し出し、あと押しするわけさ。あと押しって大きな役目だよね。ビートに一貫した連続性というものはないし、ズッチャ、ズッチャという一定の決まったリズムもない、ジャズにはあるよね。だからバップはずっと柔軟なんだ」

 "Music is your own experience, your thoughts, your wisdom. If you don't live it, it won't come out of your horn."
 「音楽というのは、自分自身の経験、思考、知恵なんだ。音楽を生きなければ、サックスから音楽が出てくることもないよ」

 *これは、パーカーの音楽を表現するためによく引用される有名な言葉である。

 "I never cared for vibrato, because they used to get a chin vibrato in Kansas City (opposed to the hand vibrato popular with white bands) and I didn't like it. I don't think I'll ever use vibrato."
 「私はヴィブラートが好きじゃなかった。カンザス・シティではみんな、顎でやるヴィブラート(白人バンドでよくやっている手で操るヴィブラートとは反対のもの)を使っていたからね。私の好みじゃなかった。自分がヴィブラートを使うことはこれかもないと思う」

 *サックス奏者は、テナーのコールマン・ホーキンスにしろ、ベン・ウェブスターにしろ、アルトのジョニー・ホッジスにしろ、吹く音にヴィブラート(細かく震える音)をかけていた。カンザス・シティの黒人サックス奏者は、あご先(chin)を動かしてヴィブラートをかけ、白人のサックス奏者はキーを押す手を動かしてヴィブラートをかけていたということか。レスター・ヤングの吹くテナーは、ヴィブラートをかけないストレートで平板な音が特色で、パーカーはレスターがとくに好きだった。

 "I was crazy about Lester. He played so clean and beautiful. But I wasn't influenced by Lester. Our ideas ran on differently."
 「レスター(・ヤング)にはすっかり夢中だった。彼の演奏は、なにしろまっさらで美しかったからね。でも、私はレスターから影響は受けなかったよ。彼と私は、発想が違っていたしね」

 *若い頃パーカーは、レスター・ヤングの演奏が入っているカウント・ベイシー楽団のレコードを全部、演奏先のオザーク山中へ持って行き、レスターの奏法を徹底的に研究、コピーしたという話があるが、この話は誰の証言を根拠にしているのだろうか?

 "They teach you there's a boundary line to music, but, man, there's no boundary line to art."
 「音楽には境界線があるって教わるよね。いやあ、でも、芸術に境界線なんてないんだよ」

 *”boundary line”の訳語を「限界」するのはどうなのか。どの本だったかは忘れたが、「音楽には限界があるが、芸術には限界がない」という訳文があったが、これは誤訳だと思う。パーカーは、芸術としての音楽に境界線はないと言っているのであって、話の流れから解すると、ジャズとかクラシック音楽とか前衛音楽とかの間に境界線を設けるのはおかしいと言っているのだと思う。

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チャーリー・パーカーに関する文献・資料(5)

2019年08月08日 20時28分40秒 | チャーリーパーカー
 先日、チャーリー・パーカーに関する素晴らしいウェッブ・サイトをいくつか見つけた。
 まず、イギリス人のLlew Walker(リュー・ウォーカー)氏というパーカー愛好家(研究者でもある)が制作・運営しているサイトで、タイトルは、

 ”Bird Lives: the Life of Charlie Parker Jr.”(バードは生きている――チャーリー・パーカーの人生)

  https://www.birdlives.co.uk/
 ここには、パーカーの詳細な伝記、考察、文献・資料などが掲載され、またパーカーの演奏(音源)、写真、映像もアップされている。内容が実に豊富で、さすが学究肌のイギリス人のサイトだと思った。もちろん全部英語で、読み応えは十分。私が読んだのはまだ4分の1くらいなのだが、参考になることがたくさんあって、非常に有益だ。2013年ほぼ同じ頃に出版された最新のパーカー研究本、スタンリー・クラウチの著書とチャック・ハディックスの著書も紹介され、両書の研究成果も採り入れているようだ。このウェブ・サイトは2005年に立ち上げられ、年々充実させて、2018年まで更新を続けている。
 このサイトに、パーカーが1950年代に行ったインタビューを活字化したものがアップされていたので、全部プリントアウトした。YouTube にアップされている音源もあるが、聴くだけでは分からない部分も分かって、大変役に立っている。

 また、このウェッブ・サイトの伝記の部分を読んでいたら、日本語の翻訳があって、クリックしてみたところ、日本人のパーカー・ファン・サイトにリンクされていた。鈴木よういち氏という人が制作・運営しているサイトで、タイトルは、

 ”Chasin’ the Bird” (バードを追いかけて)

  http://www.chasinthebird.com/
「モダンジャズの神様「Bird」こと、チャーリー・パーカーのファンサイト。泥沼パーカーフリークのためのオアシスです」という紹介があって、鈴木氏のエッセイのほか、パーカー・ファンの投稿記事もたくさんアップされている。話題もさまざまだ。また、リュー・ウォーカー氏のウェッブ・サイトの英語の記事を鈴木氏自身が苦労しながら和訳して、22項目に分けて掲載している。2005年6月から2年半ほどかけて、和訳作業を続けたことが分かり、感心した。現在、この和訳も読ませてもらっている。ほかに、パーカー音源紹介、引用フレーズ集、好きな曲とアルバムのアンケート、掲示板もある。このサイトは、1999年に立ち上げられ、2015年8月23日が最終更新。残念ながらこの4年間ほどは休止中である。

 もう一つ、日本人の作ったウェッブ・サイトで、凄いと思ったサイトを紹介しよう。

 “The Bird’s Legacy” (バードの遺産)

  http://birdparkerslegacy.com/index.html
 Toriya さんというパーカー愛好家(本名は三浦和三郎氏)が2011年に立ち上げ、2012年3月12日パーカーの57回目の命日にリニューアルしたという。2018年11月17日の最終更新に至るまで、ページを増やしていったのだろう。ここにアップされたレコード・コレクションは圧巻。コレクターズ・ノートも有益。チェン・パーカーへのインタビュー記事、レコードのライナー・ノーツなど、パーカーに関する英文記事の翻訳文もアップされている。

 上記の二つのサイトには、他の関連サイトへのリンク一覧があり、これを見ると、パーカーを研究しているサイトは他にいくつかもあるようだ。
 なかでも、シンプルだが、中身が非常に濃密な英文サイトを見つけた。タイトルは、

 "Miles Ahead: A Miles Davis Website"

  http://www.plosin.com/milesAhead/main.aspx
 アメリカ・ヴァージニア州在住の Peter Losin(ピーター・ローシン)氏のウェッブ・サイトで、マイルス・デイヴィスのほかにチャーリー・パーカーのページも充実。ディスコグラフィに加え、最新の詳細な年表(作成者はデンマーク人のLeif Bo Petersen氏)もアップされていて、大変役に立つ。

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チャーリー・パーカーの半生 (11)

2019年08月06日 11時16分44秒 | チャーリーパーカー
 アディ・パーカーは、初めて息子が結婚したいと言うの聞いた時のことを、後年(1957年以降)、こう語っている(ライズナー編著「チャーリー・パーカーの伝説」)。
 ある日、チャールズが私のそばへ来て、こう言ったんです。「ママ、ぼく、あの子に惚れちゃったんだよ。もう結婚できる年だよね」 息子はまだ結婚できる年ではなかったかもしれないけれど、身体の方はもう大きかった。私はこう答えました。自分で大丈夫だと感じる時が来たら、結婚してもいいよって。(拙訳)

 チャーリー・パーカーは1935年11月に演奏家組合(ユニオン)に加入し、15歳ですでにプロ・ミュージシャンになっていた(組合員の資格は18歳以上だったが、4歳サバを読み、19歳として加入したいう)。ハイスクールは退学し、自活の道を進み始め、少ないながら収入を得ていた。グリーン・リーフ・ガーデンズというクラブで白人のピアニストに雇われ、その楽団のリード・セクションでアルト・サックスを吹き、数ヶ月間定期出演。その後、トミー・ダグラス楽団に入り、カンザス・シティのナイト・クラブやダンス・ホールで演奏し、サックスの腕を磨いていた。仕事へ行く前には、レベッカに会い、相変わらずデートを続けていた。
 1936年の初夏、6月19日の金曜日の夜、チャーリーはレベッカにプロポーズした。場所は、二人の母校アタックス小学校の入口の階段。二人がしばしば待ち合わせに使うところだった。階段に座って話をしている時に、チャーリーが切り出したのだった。
 その日の夜は、ニューヨークのヤンキー・スタジアムでボクシングのヘビー級の大試合、ジョ―・ルイスとマックス・シュメリングの対戦があり、米国中が沸いていた。「褐色の爆撃機」の異名を持つ黒人ボクサーのジョ―・ルイスは、これまで24勝無敗で快進撃を続けていた。そのヒーローが、ドイツ人の元世界ヘビー級王者・マックス・シュメリングに12ラウンドにKO敗けしたのである。黒人たちにとって忘れられない痛恨の日であった。

 
<ジョ―・ルイス>   <ルイス対シュメリング>>
(ジョ―・ルイスが世界ヘビー級の王者になるのはこの1年後で、以後25回連続防衛の大記録を樹立する。シュメリングとの再戦は1938年7月に行われ、米国対ナチス・ドイツとの世紀の対決と言われたが、1ラウンドにKO勝ちして、雪辱を果たしている)

 レベッカの話によると、国中が騒然としたこの日に、チャーリーにプロポーズされ、嬉しくて、すぐその場で快諾したそうだ。その夜、家に帰って母親に話した時には大喧嘩になって、今度は家内が騒然としたにちがいない。翌朝、レベッカは自分の荷物をまとめると、家を飛び出し、パーカー家へ転がり込むのである。
 そして、その約1か月後の1936年7月25日、二人はアディ・パーカーを伴い、カンザス・シティにある地方裁判所へ赴き、正式に結婚する。花嫁のレベッカは黄色と白のドレス、チャーリーは茶の背広を着ていた。判事がチャーリーに指輪を求めたが、持っていなかった。それで、アディが自分の指にはめていた指輪をはずして息子に渡し、急場をしのいだという。
 チャーリー・パーカーはまだ15歳(一か月後に16歳になる)だった。これは間違いない。一方、レベッカ・ラフィンは、本人の話を信用すれば、16歳だったことになる。しかし、レベッカの実年齢というのは、三度の移り変わりを経て、近年の調査で、この時は18歳だったと確定したようだ。その調査によると、レベッカ・ラフィンは、2018年2月23日生まれで、チャーリー・パーカーより2歳半年上だった。


<レベッカ、結婚後、街の写真屋で撮った記念写真だと思われる>

 チャーリーとレベッカの結婚について、もう少し詳しく述べておこう。
 二人は教会では結婚式を挙げず、ミズーリ州ジャクソン郡(カンザス・シティがある行政区)の裁判所で、判事の前で宣誓し、結婚した。
 米国の結婚および戸籍制度というのはよく分からないのだが、どうやら年齢とか住所とかは自己申告して、婚姻届に署名すれば、結婚が成立するらしい。当時の米国の結婚に関する法律についても不詳で、州によっても違うと思うのだが、男子も女子も18歳以上になれば結婚できたようだ。ただし、男子は21歳未満の場合は保護者の同意が必要だった。レベッカはこの時18歳を越えていたので、問題なかったが、チャーリーは、本当は15歳なのに、18歳以上であると偽っていた(チャーリーは20歳、レベッカは19歳、と申告したという説もある)。それで、母のアディが二人に付き添って、同意の署名をしたのだろう。が、それにしても、アディ自身、息子の年齢を2歳あまり上にして、虚偽の申告(あるいは誓約)に加担したのだから、共犯者である。レベッカの母ファニーは、立ち会わなかったようだが、異議は申し立てず、否応なく黙認したのだろう。現在はどうだか知らないが、当時の米国の公的な申請というのは、いい加減だったと思わざるをえない。結婚する時に、出生証明書とか戸籍謄本とかは不要で、誓約して自己申告すれば、それで通ったのである。


<結婚証明書>

 チャーリー・パーカーとレベッカ・ラフィンの結婚証明書の写しの画像が、ギディンス著「セレブレイティング・バード」に載っている。レベッカが所有していたものだと思うが、写しの日付を見ると、1961年7月25日とある。結婚した日付は、1936年7月25日であるから、ちょうど結婚25周年にあたる日に発行されたわけだ。もちろん、パーカーは亡くなっていたが、多分レベッカが銀婚式を一人で祝おうと思って、取り寄せたのだろう。
 この結婚証明書には、「チャールズ・パーカー・ジュニアは21歳未満、レベッカ・ラフィンは18歳以上」になっていて、「チャールズ・パーカー・ジュニアの母アディ・パーカーがこの結婚に同意する」と記してある。

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チャーリー・パーカーの半生 (10)

2019年08月04日 22時56分38秒 | チャーリーパーカー
 レベッカの母ファニーは、道徳心の強い女性だった。娘がチャーリーと仲良くしているのを知って、注意するようになった。最近色気の出てきた娘が年下の少年と肉体関係を持って、子どもをはらみでもしたら、大変だと思ったにちがいない。レベッカに対しファニーは、一階のチャーリーの部屋に入って二人きりになることを、禁じた。下の娘たちにも、そんなところを見かけたら、教えるようにと命じた。
 ファニーは、チャーリーの品行が良くないことも気になっていた。人づてに聞くと、学校の成績も悪いそうだし、ぐうたらな不良少年だとしか思えなかった。ファニーはレベッカに、チャーリーのことを悪しざまに言うようになった。黒人の俗語で「汚らわしい嫌なヤツ」を意味する「ドブネズミ」(alley rat)とまで呼ぶようになった。それでもレベッカがチャーリーの肩を持って、交際を続けているので、何とかしなければと思っていた。
 ある日、チャーリーの部屋にレベッカが彼と二人だけでいるところを妹が目撃して、ファニーに告げ口した。ファニーは怒って、レベッカをきつく叱った。
 
 チャーリーの母アディは、二人の交際に反対ではなかった。息子がレベッカに夢中になっているのも知っていたし、自分が息子をかまってやれないだけに、放任していた。レベッカのことも気に入っていたようだ。
 後年、レベッカは、その頃のアディとチャーリーの母子関係について、こう語っている。(Stanley Crouch “Bird Land: Charlie Parker, Clint Eastwood, and America”1989 から引用。筆者のスタンリー・クラウチは、1980年代にレベッカを探し出し、彼女に初めてインタビューを試みた黒人の評論家である)
 「アディはいつも彼の思いのままにさせていたけど、深い愛情みたいなものは欠けていたように感じました。不思議でした。あれだけ息子のことを自慢して、彼のために働いて、何でも与えていたのに、二人の心は通じ合っていなかったようでした。彼は与えられるだけで愛されていなかった。彼には心の渇きがあるように思えて、そういう感じがひしひしと伝わって来て、私の気持ちも動かされたんです」(拙訳)

 1935年6月、レベッカはリンカーン・ハイスクールを卒業した。
 卒業式の日、チャーリーは、学校のオーケストラでバリトン・ホーンを演奏していた。それを見て、レベッカは初めて彼が実際に楽器をやっているのを知って驚いたという。それまでデートをして、いろいろな話をしたのに、そんな話は一度も出なかったからだ。演奏壇からチャーリーはレベッカの方をちらちら見ていた。そして、その日の祝賀会で、二人はダンスを踊った。

 チャーリーは、今度こそ学校を中退しようと決心を固めた。昨年の夏前、落第が決まって、1年生をもう一度やらなければならなくなった時、退学しようと思った。しかし、レベッカに説得されて、退学は断念した。彼女といっしょに登校し、学校が終われば、デートできる楽しみがあったからだった。彼女がいるから学校に通っていたわけで、彼女がいなくなってしまえば、学校に行く意味もなくなっていた。それに、今年もまた落第で、三年目の1年生をやらなければならない。
 ハイスクールを中退して、レベッカと結婚しようとすれば、自活の道を考えなければならない。チャーリー・パーカーがプロのミュージシャンを目指そうとしたきっかけは、案外単純で、早くレベッカと結婚したかったことだった、と私には思えてならない。
 レベッカは、ハイスクールを4年で卒業すると、カンザス・シティの公立図書館に就職した。夕方仕事が終わると、チャーリーと会って、デートを続けた。
 チャーリーは、学校の先輩ローレンス・キーズのバンド”ディーズ・オヴ・スウィング“(間もなく”テン・コーズ・オヴ・リズム Ten Chords of Rhythm”と改名したようだ)に入って、アルト・サックスを吹いていた。が、一日11時間から15時間、猛然とサックスの練習に励むようになったのは、この頃からだろう。1935年秋、15歳になったチャーリー・パーカーは、人生の目標を定め、それに向かって走り始めていた。
 1936年の春、ラフィン一家が、2年そこそこでアディ・パーカーの家の二階を引き払い、引っ越すことになった。母ファニーは、娘とチャーリーの仲を無理やり引き裂こうとした。
 しかし、レベッカは母親にチャーリーとの交際を禁じられたにもかかわらず、密会を続けた。妹たちも協力するようになり、二人のデートを取り持つ役を務めた。

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