映画『ファウスト』は、ドイツの大手映画会社ウーファ(UFA)が巨額を投じて製作した大作であるが、いわば難産で生まれた映画であった。企画段階から脚本家および監督の決定、キャスティングからクランクイン(1925年9月)まで、そして長い撮影期間(クランクアップは翌26年5月)から編集段階を経て、完成版の公開(1926年10月)にこぎつけるまで、いろいろと紆余曲折があったようだ。その辺の経緯を少し調べてみたいと思う。
映画の最初の方にあるシーン、老ファウストは、イェスタ・エクマン
ウーファ社は、ゲーテの戯曲「ファウスト」を映画化するにあたり、最初ルドウィッヒ・ベルゲル(脚本家で映画監督)が書いた脚本(『失われし楽園』)を基に、ハンス・カイザー(劇作家)に脚本を書き改めさせ、ベルゲルを監督にして撮らせようとした。これが出発点だった。
「キネマ旬報」(以下「キネ旬」)が過去の映画のデータを収録したウェッブサイトを見ると、映画『ファウスト』の紹介文は以下のようになっている。
「ドイツの文豪ゲーテが24歳から82歳までかかって書き上げたファウスト、それは古代ドイツの伝説である。多くの作家が或いは劇に或いは音楽にこの主題を取り入れているが、ウーファ社がこれを映画化するに当っては、著名な監督であり文学者であるルドウィッヒ・ベルゲルの書いた脚本『失われし楽園』を土台とし、ハンス・カイザー氏をして創作的な撮影台本を作り上げさせた」
映画『ファウスト』が日本で公開されたのは1928年3月初めだった。キネ旬のこの紹介文は、同年の1月号か2月号に新作映画の紹介として掲載された文章であろうが(未確認)、筆者は不明だが、配給会社からの宣伝材料を参考にして書いたものだと思う。
実は、私がチラシの作品データを書いた時、原作にルドウィッヒ・ベルゲル「失われし楽園」を加えたのは、このキネ旬の記載に倣ったからで、あとでいろいろ調べてみると、原作にこの人の名前(ないし脚本の題名)があるデータは他にほとんど見当たらず、キネ旬の紹介文以外(それを転用したものは除く)だとドイツのウェッブサイト "FILMHISTORIKER. DE"(edited by olaf brill) の『ファウスト』のデータだけである。そこには、ルドウィッヒ・ベルゲルの脚本『失われし楽園』(Ludwig Berger's script "Das verlorene Paradies" )が挙げられている(これでドイツ語の原題も分かる)。
ウーファ社がベルゲルに監督を任せようとしたという記述は、日本語版ウィキペディア(以下「ウィキ」)の『ファウスト』の説明文にあるのだが、根拠とした資料を調べる必要があるが、引用するとこうだ。
「当初ウーファはムルナウが『ヴァリエテ』に関わっていたため、この作品はルドウィッヒ・ベルゲルに撮らせようとした。しかしムルナウはヤニングスの助力とプロデューサーへの圧力で、最終的にエーリッヒ・ポマーを説得し、監督することになった」
「ムルナウが『ヴァリエテ』に関わっていた」という部分と、「プロデューサーへの圧力」というのは、具体的にどういうことなのか? また、そのプロデューサーとエリッヒ・ポマーとの関係も分からない。
エリッヒ・ポマーは、数々のドイツ映画のヒット作を手掛け、当時飛ぶ鳥落とす勢いがあった若手プロデューサーで、ウーファをインターナショナルな映画会社に押し上げた立役者だった。『ニーベルンゲン』(1924年/ 監督フリッツ・ラング)、『最後の人』(1924年/ 監督ムルナウ)、『ヴァリエテ』(1925年/監督 E・A・デュポン)をはじめ、『ファウスト』のプロデューサーでもあった。
問題のルドウィッヒ・ベルゲル(Ludwig Berger ルードヴィヒ・ベルガーと表記した方が良いかもしれない)がどういう人かと言うと、ドイツ語版ウィキによれば、1892年生まれのドイツの作家で、1920年頃には映画界に入り脚本と監督を手掛け、1923年に『一杯の水』で評価され、同年ウーファ社で『失くした靴』というシンデレラの映画を撮っている。『ファウスト』の製作者エリッヒ・ポマーがこの2本の映画の製作も担当していることにも注意したい。ベルゲルは、その後ドイツだけでなくフランスでも映画監督としての地位を築いていく。
さて、F・W・ムルナウはウーファ製作の『最後の人』(1924年)で主演のエミール・ヤニングスとともに高い評価を得た後、映画『タルチュフ』(1925年)で再度ヤニングスと組んで、メガフォンをとっていた。撮影期間は1925年春の2か月だった。『タルチュフ』を撮り終え、続いてムルナウは『ヴァリエテ』を監督する予定だったのかもしれない。日本語版ウィキの記述はそのようにも受け取れ、それで、企画中の『ファウスト』の監督は最初ムルナウでなくベルゲルにオファーが行ったのかもしれない。これは推測にすぎないが、ムルナウは『ヴァリエテ』を監督するよりもむしろ大作『ファウスト』を監督したいと思い、ヤニングスの口添えも得て、ウーファの幹部に働きかけたのではあるまいか。さらに両作品のプロデューサーであるエリッヒ・ポマーをも説得し、『ファウスト』の監督をすることになった。その結果、『ヴァリエテ』の方は、E・A・デュポンが監督し、『ファウスト』はルドウィッヒ・ベルゲルが降板し、ムルナウに代わったのだと思われる。
ハンス・カイザー(文学者で脚本家)に映画の脚本を依頼したのは、ウーファの製作者からであろうが、ムルナウの相棒的存在である脚本家のカール・マイヤーが脚本を担当しなかったのは、監督の決定前に、すでにカイザーに依頼が行っていたからであろう。カイザーが、脚本を書く際、キネ旬の紹介文にあるようにベルゲルの「失われし楽園」という脚本(まったく内容不明)を土台にしたのかどうかは、不明である。当初ゲーテの「ファウスト」第一部を基にしたことは確かだが、古いファウスト伝説とクリストファー・マーロウの「フォースタス博士」(ドイツのファウスト博士を題材にした世界初の戯曲)をどの程度参考にして取り入れたかは、分からない。別に比較検討する必要もあるまい。カイザーの脚本というのは、ストリーの展開と中間字幕(インタータイトル)がメインだと思うが、映画を見る限り、ムルナウの撮った映像と演出の占める部分の方が大きいと言えよう。
映画の最初の方にあるシーン、老ファウストは、イェスタ・エクマン
ウーファ社は、ゲーテの戯曲「ファウスト」を映画化するにあたり、最初ルドウィッヒ・ベルゲル(脚本家で映画監督)が書いた脚本(『失われし楽園』)を基に、ハンス・カイザー(劇作家)に脚本を書き改めさせ、ベルゲルを監督にして撮らせようとした。これが出発点だった。
「キネマ旬報」(以下「キネ旬」)が過去の映画のデータを収録したウェッブサイトを見ると、映画『ファウスト』の紹介文は以下のようになっている。
「ドイツの文豪ゲーテが24歳から82歳までかかって書き上げたファウスト、それは古代ドイツの伝説である。多くの作家が或いは劇に或いは音楽にこの主題を取り入れているが、ウーファ社がこれを映画化するに当っては、著名な監督であり文学者であるルドウィッヒ・ベルゲルの書いた脚本『失われし楽園』を土台とし、ハンス・カイザー氏をして創作的な撮影台本を作り上げさせた」
映画『ファウスト』が日本で公開されたのは1928年3月初めだった。キネ旬のこの紹介文は、同年の1月号か2月号に新作映画の紹介として掲載された文章であろうが(未確認)、筆者は不明だが、配給会社からの宣伝材料を参考にして書いたものだと思う。
実は、私がチラシの作品データを書いた時、原作にルドウィッヒ・ベルゲル「失われし楽園」を加えたのは、このキネ旬の記載に倣ったからで、あとでいろいろ調べてみると、原作にこの人の名前(ないし脚本の題名)があるデータは他にほとんど見当たらず、キネ旬の紹介文以外(それを転用したものは除く)だとドイツのウェッブサイト "FILMHISTORIKER. DE"(edited by olaf brill) の『ファウスト』のデータだけである。そこには、ルドウィッヒ・ベルゲルの脚本『失われし楽園』(Ludwig Berger's script "Das verlorene Paradies" )が挙げられている(これでドイツ語の原題も分かる)。
ウーファ社がベルゲルに監督を任せようとしたという記述は、日本語版ウィキペディア(以下「ウィキ」)の『ファウスト』の説明文にあるのだが、根拠とした資料を調べる必要があるが、引用するとこうだ。
「当初ウーファはムルナウが『ヴァリエテ』に関わっていたため、この作品はルドウィッヒ・ベルゲルに撮らせようとした。しかしムルナウはヤニングスの助力とプロデューサーへの圧力で、最終的にエーリッヒ・ポマーを説得し、監督することになった」
「ムルナウが『ヴァリエテ』に関わっていた」という部分と、「プロデューサーへの圧力」というのは、具体的にどういうことなのか? また、そのプロデューサーとエリッヒ・ポマーとの関係も分からない。
エリッヒ・ポマーは、数々のドイツ映画のヒット作を手掛け、当時飛ぶ鳥落とす勢いがあった若手プロデューサーで、ウーファをインターナショナルな映画会社に押し上げた立役者だった。『ニーベルンゲン』(1924年/ 監督フリッツ・ラング)、『最後の人』(1924年/ 監督ムルナウ)、『ヴァリエテ』(1925年/監督 E・A・デュポン)をはじめ、『ファウスト』のプロデューサーでもあった。
問題のルドウィッヒ・ベルゲル(Ludwig Berger ルードヴィヒ・ベルガーと表記した方が良いかもしれない)がどういう人かと言うと、ドイツ語版ウィキによれば、1892年生まれのドイツの作家で、1920年頃には映画界に入り脚本と監督を手掛け、1923年に『一杯の水』で評価され、同年ウーファ社で『失くした靴』というシンデレラの映画を撮っている。『ファウスト』の製作者エリッヒ・ポマーがこの2本の映画の製作も担当していることにも注意したい。ベルゲルは、その後ドイツだけでなくフランスでも映画監督としての地位を築いていく。
さて、F・W・ムルナウはウーファ製作の『最後の人』(1924年)で主演のエミール・ヤニングスとともに高い評価を得た後、映画『タルチュフ』(1925年)で再度ヤニングスと組んで、メガフォンをとっていた。撮影期間は1925年春の2か月だった。『タルチュフ』を撮り終え、続いてムルナウは『ヴァリエテ』を監督する予定だったのかもしれない。日本語版ウィキの記述はそのようにも受け取れ、それで、企画中の『ファウスト』の監督は最初ムルナウでなくベルゲルにオファーが行ったのかもしれない。これは推測にすぎないが、ムルナウは『ヴァリエテ』を監督するよりもむしろ大作『ファウスト』を監督したいと思い、ヤニングスの口添えも得て、ウーファの幹部に働きかけたのではあるまいか。さらに両作品のプロデューサーであるエリッヒ・ポマーをも説得し、『ファウスト』の監督をすることになった。その結果、『ヴァリエテ』の方は、E・A・デュポンが監督し、『ファウスト』はルドウィッヒ・ベルゲルが降板し、ムルナウに代わったのだと思われる。
ハンス・カイザー(文学者で脚本家)に映画の脚本を依頼したのは、ウーファの製作者からであろうが、ムルナウの相棒的存在である脚本家のカール・マイヤーが脚本を担当しなかったのは、監督の決定前に、すでにカイザーに依頼が行っていたからであろう。カイザーが、脚本を書く際、キネ旬の紹介文にあるようにベルゲルの「失われし楽園」という脚本(まったく内容不明)を土台にしたのかどうかは、不明である。当初ゲーテの「ファウスト」第一部を基にしたことは確かだが、古いファウスト伝説とクリストファー・マーロウの「フォースタス博士」(ドイツのファウスト博士を題材にした世界初の戯曲)をどの程度参考にして取り入れたかは、分からない。別に比較検討する必要もあるまい。カイザーの脚本というのは、ストリーの展開と中間字幕(インタータイトル)がメインだと思うが、映画を見る限り、ムルナウの撮った映像と演出の占める部分の方が大きいと言えよう。