背寒日誌

2024年10月末より再開。日々感じたこと、観たこと、聴いたもの、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

『緑園の天使』

2010年04月18日 02時57分56秒 | アメリカ映画

 エリザベス・テーラーとミッキー・ルーニーの『緑園の天使』をビデオで観た。戦前の名子役二人の共演作である。1944年に製作されたMGMのカラー映画で、原題は“NATIONAL VELVET”。映画を観る前にこの原題を見たとき、どういう意味なのか分からなかった。VELVETはふつう、布地のビロードのことだし、それに形容詞のNATIONALが付いて、「国産のビロード」のことかな?変なタイトルだなと思っていた。邦題の『緑園の天使』とも結びつかない。が、映画を観て、やっと分かった。VELVETというのはリズ(エリザベス・テーラー)が演じる女の子(13,4歳くらい)の名前ではないか。名前としては風変わりなので、きっと愛称なのだろうと思って観ていたが、どうやら本当の名前(ファーストネイム)だった。それに、ベルベットというこの女の子も相当変わっていて、馬が異常なほど好きなのだ。彼女は、村人に買われてやって来た荒馬を愛し始め、この馬をもらいうけ、調教して、なんとロンドンの競馬に出走させようという夢に取りつかれる。この物語、イングランドの片田舎に住む一家の話で、時代は1920年代。要するに、子供が抱く大きな夢をついに実現させるというサクセス・ストーリー。結末を言えば、彼女の愛馬はロンドンの檜舞台で大活躍し、一着でゴールインする。(しかし、規定違反で失格してしまうのだが…)。それで、NATIONALという意味もやっと判明。ベルベットは一躍「国民的な」有名人になるわけで、原題の“NATIONAL VELVET”は、「国民的ヒロイン・ベルベット」ということだった。
 ミッキー・ルーニーの役は、放浪児で、名前はマイ、年齢は推定16,7歳。彼は、死んだ父親の手帳に書かれた知人の住所を尋ね歩いている。一時期競馬の騎手だったが、落馬して挫折したらしい。夏のある日、彼がベルベットの家を訪れ、ここに住み込み、精肉店をやっているベルベットの父親の仕事を手伝うことになる。そして、物語は、パイという荒馬、馬が大好きなベルベット、騎手を挫折したマイ、この三者に、ベルベットの父親、母親(若い頃英仏海峡を泳いで渡ったという経歴の持ち主で、その時の水泳のコーチがマイの父親だった)、それに姉二人と弟が加わって、進展していく。
 この映画、内容的にはちょっと信じられない出来事が次々に起こる一種のおとぎ話である。でも、子供が見たら、ハラハラドキドキの連続で、とても喜ぶ映画であることに間違いない。大人(の私)が見ても、内心絵空事にすぎないとは思うものの、かなり楽しんで見られる映画であった。とくに、最後は圧巻だった。競馬に出走する前夜になっても騎手が決まらず、結局ベルベットが騎手になり、当日出場することになる。十数頭の馬が4マイル半の長距離障害レースを戦うのだが、障害物を飛び越えそこなって落馬する騎手が続出するなか、愛馬のパイに跨ったベルベットが走り抜いていく。このシーンが10分以上あって、見ごたえ十分。ハリウッド映画らしくさすがに迫力があった。

 この映画に出た時、エリザベス・テーラーは何歳だったのだろうか。調べてみると、リズは1932年生まれなので、12歳ではないか!それにしては、ずいぶんマセていた。この映画の前半のリズは、やや不恰好であまり可愛いとは思えなかったが、後半になると変身したかのようになぜか急に可愛らしくなるのが不思議だった。セーラー服姿のリズも良かったが、髪を短く切り赤い帽子をかぶって騎手の服を着たリズが颯爽として美しかった。その後のリズの成長ぶりは周知のところで、戦後『若草物語』『花嫁の父』を経て『陽のあたる場所』(1951年)で大人の女優への道を歩み始める。映画の名子役が大人の俳優として大成するのは稀有なことなのだが、リズだけは例外中の例外である。(ディアナ・ダービン、シャーリー・テンプル、マーガレット・オブライエン…皆女優として大成しなかった。ナタリー・ウッドは健闘したが、リズとは比較にならず、フランスではブリジット・フォッセイが思い浮かぶが、子役出演は『禁じられた遊び』だけだったのではあるまいか。日本で子役から大女優になったのは、高峰秀子と美空ひばりくらいか。)
 ミッキー・ルーニーは、この映画の頃すでに20歳を過ぎていたが(1920年生まれなので、この時23歳)、小生意気な大人こどものようでこの映画ではあまり好感は持てなかった。彼が子役として全盛期だったのは1930年代後半で、私はずっと以前に名画座で『少年の町』(スペンサー・トレーシーと共演)を観て、なんとすごい子役なんだろうと思ったことがある。戦後は落ち目で、喜劇的な脇役が多くなったと思う。『ティファニーで朝食を』で変な日本人役をやっていたのが妙に印象に残っているくらいだ。

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ジャズ喫茶~GENIUS

2010年04月14日 20時22分11秒 | ジャズ
 思い返せば今から40年前、高校3年ごろから5,6年間はジャズばかり聴いていた。渋谷の道玄坂を上って、ヤマハの手前を右に曲がったところは百軒店(ひゃっけんだな)と言って、行きつけのジャズ喫茶が2軒、「音楽館」と「スイング」があった。「音楽館」は「クルーヴィ」と名を替え、7年ほど前までやっていたが、ついに閉店してしまった。「スイング」がいつ閉店したかは知らない。百軒店の奥の方に「ありんこ」という小さなジャズ喫茶もあったが、ここもずっと前に閉店したようだ。「デュエット」という店もあった。
 それともう一つ、百軒店まで行かずに道玄坂の中ほどを右に曲がった小路の地下に「GENIUS」があって、ここへもよく通っていた。「GENIUS」は、私がジャズを聴きに行かなくなってからもずっとあって、平成になって中野新橋へ移転した。地下鉄・丸の内線の支線に中野新橋の駅はあるが、駅からちょっと離れた住宅街の小さなマンションの1階に今の「GENIUS」はある。新「GENIUS」へはこれまで4度ほど行ったことがあるが、先日久しぶりに訪ねて、70歳近い店長と昔話に花を咲かせた。移転したとはいえ、40年間、店を続けているのだからすごいものだ。
「40年前と同じスピーカーを使っているんですよ」と店長。
「この大きなスピーカー、憶えていますよ」
「レコードもあの頃と同じものをかけています」
 店長に「何かリクエストありませんか」ときかれたので、マイルスの「FOUR AND MORE」をかけてもらう。このLPは、私がジャズを聴き始めた頃、一番よく聴いていたものの一枚で、今聴いてもゾクゾクする。トニー・ウィリアムズのドラムに煽られて、マイルスもノリに乗って吹いている。
 ところで、昔の「GENIUS」は、前衛ジャズが多かった。オーネット・コールマン、アルバート・アイラー、アーチー・シェップ、アート・アンサンブル・オヴ・シカゴなどのレコードがよくかかっていたことを憶えている。今は、こういうジャズを聴く人は少ないにちがいない。店長の話によると、中野新橋に移ってからはハードバップ系のジャズをかけることが多いそうだ。
 ジャズ喫茶と言えば、明大前に「マイルス」という店があって、ここは場所も替えずに、多分50年以上続いている。駅から甲州街道に向かう商店街の端に、今にも倒れそうな古い二階建ての家屋があり、その二階にある小さな店。店長は女性で、彼女もすでに70歳くらいだと思う。最近ここへは行っていないが、たまに前を通りかかることがあるので、いつもまだやってることを確認し、ほっとした思いにとらわれる。夕方に開店し、夜の11時ごろまで営業しているだけで、商売というより店長が道楽でやっているようなジャズ喫茶である。「GENIUS」もそうだが、「マイルス」もCDはなく、LPレコードしかかけない。

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新宿のピットインでジャズを聴く~松下美千代トリオ

2010年04月14日 20時13分18秒 | ジャズ
 最近またジャズを聴きなおしている。
 きのうの午後は久しぶりに新宿のピットインへ行き、生演奏を聴いてきた。友人の娘さんが出演するというからだ。その友人というのはチャンバリスト・クラブ(チャンバラ映画の愛好会)の仲間で、先日飲み会で彼と隣り合わせで飲んでいた時のこと。
「学生時代はジャズばかり聴いていて、ジャズ評論家にでもなろうかと思ってたんだけど…」と私が言うと、
「あっそうだったの。ジャズ、好きなんだ。実はさ、うちの娘、ジャズピアノ弾いてるんだよ」
「えっ、ほんと?で、有名なの?」
 私の質問に彼は、少し照れくさそうに、でも親馬鹿ぶりを発揮して、
「そこそこかな。時々クラブとかにも出演して、CDも出しているんだけど…。ホームページもあるし、ブログも書いているみたいだよ」
「じゃ、今度聴きに行くから、紙に娘さんの名前書いてもらえる?」
 といったわけで、20回以上も一緒に飲んだことのある彼から初めて、娘さんがジャズ・ピアニストであるという話を聞いたのだった。
 娘の名前は、「松下美千代」。本名だという。早速、仕事場へ帰ってから、パソコンで彼女のホームページを調べる。WELCOME TO MICHIYON’S WEBSITE、いかにも女の子らしいホーム・ページである。

http://www.tim.hi-ho.ne.jp/michiyon/

「美千代」だから、愛称「みちよん」。自分でも気に入っている呼び名らしく、ホームページに本人もその名を使っているほど。プロフィールに写真も出ている。可愛いではないか!出演スケジュールも詰まっているし、あちこちで活躍しているようだ。
 でも、演奏を聴いてみないことには、と思いながらも、生演奏を聞く機会を楽しみにしていた。きのう、その日が来たのだった。
 新宿のピットインへ行くのは、2年ぶり。前回は山下洋輔トリオだった。往年の山下洋輔とは違い、いささか失望した。サイドミュージシャンが若くて、しっくり行っていないと感じた。
 松下美千代トリオの出演は午後2時半から。ピットインの昼の部は、若手のジャズミュージシャンが多い。平日のこの時間帯、客も少ないにちがいない。掲示板で夜の部の出演者を見ると、まだやっているのかとびっくりするようなミュージシャンの名前が並んでいる。渡辺貞夫、峰厚介、佐藤允彦、渡辺香津美、辛島文雄など、昔の名前が出ているのだ。
 2時ちょっと過ぎに店に着く。開場2時というのに、CLOSEDの看板が店の前に出ている。待っている客は私を含め3人。2時30分少し前に開店。客はやっと10人。カウンターで、ドリンク付き入場料(1300円)を払う。アイスコーヒーをもらい、前から5列目の左端の席に着く。ここからは「みちよん」の顔は見えないが、ピアノの鍵盤はよく見える。ジャズファンとしてはピアニストの指の運びが見えることが大切なのだ。

<ピットインの店内。五列目の左端に座った>
 ステージの左脇に出演者の控え室があったので、彼女に挨拶くらいはしておこうと思った。ドアが開いていたので、中を覗くと、小柄な女の子が立っている。こげ茶色の長袖のTシャツに、グレーのベストを身につけ、下はサブリナというのか、細めのパンツ。ショートヘアで、昔で言うマッシュルームカット。薄暗闇で見たせいもあるが、ひょろっとしていて、なんだか不思議の森に生えている地味なキノコのよう。写真とは違うが、この子がきっと、かの「みちよん」にちがいない。
「松下さんですか?」
「はい」と、素直な返事。が、小首をかしげている。
「お父さんの知り合いでチャンバリストのFです。聴きに来ました」
「あっ、あ~、どうも」と、彼女、ちょっと驚きながらも心当たりがある表情。父親から私が訪ねにくることを聞いていたようだ。大きな目が輝いている。
「じゃ、またあとで」と、開演前なので、そそくさと席へ戻る。
 演奏が始まった。一曲目を聴き始めてすぐ「おっ」と驚き、「なかなかやるなあ」と思い、「いいじゃないか」と感心した。ベースとドラムの息も合っている。このトリオで何度も演奏しているのだろう。
 一曲、二曲と聴いて、新鮮で爽快な気分になった。ポップ調とゴスペル調を融合したようなライト・ミュージック的なジャズで、ノリも軽快だ。ホーム・ページで好きなミュージシャンに確か、オスカー・ピーターソンとキース・ジャレットを挙げていたが、後者の影響が強いようだ。黒人のジャズに特有なブールス・フィーリングは感じない。でも、日本人のやるジャズはこれでいいのだと思う。ソウルフルなジャズを日本人が真似ようとしても無理だし、猿真似になってしまう。
 二曲演奏して、みちよんが挨拶。
「こんなお天気のいい日に、地下の暗いところへわざわざお越しくださって、ありがとうございます」
 続いてサイドメンの紹介があり、ベースの工藤精さん、ドラムスの斎藤良さんに、暖かい拍手が送られる。
 ファーストステージでは、リチャード・ロジャースのスタンダードと、ベーシストのスティーブ・スワローとチャーリー・ヘイデンの曲を演奏。へぇー、ずいぶん珍しい選曲だなと思う。四曲目はゴスペル。メロディーラインを小学生が音楽の時間に使うピアニカで演奏していたが、面白いアイデアだし、ピアニカの音色も意外なほどゴスペルのメロディに合うなと感じる。
 休憩時間にみちよんと5分ほど話す。私のジャズ体験を一方的にしゃべったので、きっと「なに、このオジサン」と思ったことだろう。
 セカンドステージは、リラックスした雰囲気になる。みちよんのしゃべりも好調。親友をイメージして彼女が作った「加藤けいこ」(タイトルも親友の名前そのまま)が、変拍子でなかなかの傑作。「けいこ」という名前はどういう字を当てるのか知らないが、彼女もジャズ・ピアニストだそう。自分と誕生日も同じで双生児みたいだと言っていた。ほかに彼女のオリジナル曲を2曲ほど披露。BREAKSHOTという曲が良かった。
 演奏が終わり、客席に来た彼女に、「とっても良かったよ」と言う。若い人が何かに対しひたむきに情熱を注いでいる姿を見ると、嬉しくなりいつも感動してしまう。年を取ったせいもあるが、応援したい気持ちなる。こういう時は励ましの言葉だけでなく、ご祝儀を渡すのがいちばんだと私は思っている。包み紙に、私の会社名と氏名を書き、「ホーム・ページもあるから、今度覗いてみて!」と言葉を添えておく。
 みちよんに包み紙を手渡し、彼女のCD、「TURNING POINT」も買って帰る。MICHIYON TRIOのファースト・アルバムである。ベースとドラムスも同じメンバーで、6曲入り。今、彼女のCDを聴きながら、このブログを書き綴っている。


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芥川全集を買う

2010年04月11日 20時48分50秒 | 
 きのう、方南町のブックオフで「芥川龍之介全集」(岩波書店)全12巻を買う。1970年代に出版された箱入りの豪華装丁本で、これがなんと1冊300円の超特価。しかも全12巻揃っている!締めて3600円。ばら売りしていたのだが、大きくて重い本なので、1冊も売れず、どんどん値下げてしていったようだ。箱に値段のシールが三枚重ねて貼ってあり、1冊1200円から800円、さらに300円になっていた。神田の古本屋なら、全巻揃いで2万円はするだろう。大変な得をした気分だ。
 今日は、第1巻を早速読み始める。芥川がデビューした大正3年から大正5年に書かれた小説と随筆を拾い読みする。有名な短編では、「羅生門」「鼻」「孤独地獄」「虱」「酒虫」「手巾」。これらを、45年ぶりに再読した。中学1年の頃、読んで以来だ。その頃、中央公論社の「日本の文学」が発刊され、青い箱に入ったこのシリーズがなぜか気に入り、作家を選んで時々新刊を買っては読んでいた。忘れもしない。初めて買ったのが、「日本の文学」の「芥川龍之介集」だった。中学1年生が読むには、芥川は難しいと思うのだが、かなり熱中して読んだ記憶がある。よほど面白かったのだろう。今、また45年ぶりに芥川の短編小説を読んでも、その頃と変わらず、大変面白く感じる。読み出すと止まらないから、半日ずっと読んでいた。芥川の小説は、登場人物が異様でユニークである。「鼻」の禅智内供という坊主、「虱」の森と井上という二人の侍、「酒虫」の劉という主人公とエセ坊主。みんな変人だが、自分で変人とは思っておらず、非常に真面目なところがおかしい。
 「手巾(ハンカチ)」は現代物だが、この小説のアイディアは親友の久米正雄が出したもので、芥川が久米の承諾を得て、それを拝借したとのこと。主人公の長谷川先生は、新渡戸稲造がモデルだという。
 この他に読んだものは、小説では「老年」「ひょっとこ」「父」。随筆では、「大川の水」「私の文壇に出るまで」など。
 芥川は、東京京橋生まれの東京人で、子供の頃から大川(隅田川)を眺めて育った。だから、大川に対する愛着がとても強いと語っている。
 芥川の、子供の頃から一高時代までの読書遍歴が興味深い。小学高学年の頃は講談本を読み漁り、家の近くの貸本屋にあった講談本は全部読んだという。その流れで、馬琴、一九などの江戸の戯作本を読む。その後、「西遊記」ほか中国の小説を愛読。日本の文学では、徳富蘆花、泉鏡花に影響を受け、鴎外、漱石の作品も全部読んでいる。外国文学も、当時流行のツルゲーネフ、イプセンから、英米、フランスの文学に及ぶ。芥川は、中学時代は歴史家に、高等学校時代は英文学者になろうと思っていたという。学生時代の芥川は、いわば「本の虫」で、ほとんど部屋に籠って読書に耽っていたようだ。フランスの小説や詩は、英訳したものを読んでいる。東京大学英文科に入って、アナトール・フランスの短編を翻訳し、「新思潮」(第三次)に発表。これが全集の第1巻の最初に載っている。
 芥川が漱石を初めて訪ねたのは、大正4年12月のことで、芥川が大学3年の時。漱石に逢って感服し、すぐに門下に入る。漱石にとって芥川は最後に近い門下生で、その才能と教養の深さを高く評価し、他の誰よりも可愛がったようだ。「新思潮」(第四次)に載った芥川の「鼻」(大正5年)を、漱石が読んで絶賛したことはよく知られている。漱石はわざわざ芥川宛に長文の手紙を書いて送った。これが大きな励みになって、芥川は小説家を目指すことになる。が、漱石はその年(大正5年12月)、死去。芥川が漱石に私淑したのはわずか一年にすぎず、芥川にとって漱石の死ほど心残りなことはなかったという。
 
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