背寒日誌

2024年10月末より再開。日々感じたこと、観たこと、聴いたもの、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

『浪花の恋の物語』

2006年05月07日 07時45分03秒 | 日本映画
 ずっと長い間、開店休業状態でしたが、実は『錦之助ざんまい』という別のブログを作成していました。今後はこちらにも地道に記事を書いていきますので、また何卒よろしくお願いします。
 なお、中村錦之助(萬屋錦之介)の映画に興味をお持ちの方はぜひ以下のブログにもご訪問下さい。

http://blog.goo.ne.jp/sesamefujii/


 『浪花の恋の物語』(1959年)は、悲しくも美しい映画だった。男と女の添い遂げられない恋が、せつなく悲しい。そして、いちずに思い続ける心が、穢れなく美しい。これは男と女の悲恋の美しさをあざやかに描いた映画だった。
 原作は近松門左衛門の『冥途の飛脚』。梅川・忠兵衛の有名な話である。舞台は大阪。飛脚問屋「亀屋」の養子忠兵衛は、初めて登った廓で遊女梅川に惚れてしまう。挙句の果ては身請けするため、封印切り (依頼主の金に手を付けてしまうこと)という大罪まで犯して梅川を連れ出し、生家のある田舎の村へと駆け落ちしていく。この近松の人形浄瑠璃を、名シナリオライター成澤昌茂が血の通った脚本に書き起こし、巨匠内田吐夢が色あでやかで見事な映画作品に仕上げた。ともすれば取っ付きにくい古典的な様式美の世界を、だれが見ても感動する映像美の世界に移し変えた。さすが内田吐夢である。さらに言えば、劇中の登場人物は、黒子に操られた人形ではなく、生身の俳優。下手をすれば、安っぽい田舎芝居になりかねないが、あにはからんや、この映画は演劇的にも完成度の高い作品だった。内田監督の演出が冴えわたり、出演者もみな適役で最高の演技を繰り広げていた。
 忠兵衛役の錦之助が良かったことは言うまでもない。錦之助はこの作品で新境地を開いたとも言える。チャンバラのヒーローが一転して、遊女に溺れる生真面目な町人役を演じたのである。いわば硬派の剣士・武将から、女に身も心も捧げる軟派の色男になったわけだ。上方弁を話すのも新たな挑戦であったにちがいない。
 梅川役の有馬稲子は体当たりの演技だった。しっとりと落ち着いた情の厚い女が男に惚れて次第に変わっていく。その狂わんばかりの女のさがを表現していた。近松門左衛門役の片岡千恵蔵は貫禄十分(ただ下膨れの顔がいつも気になる)。ほかに忠兵衛の義母に田中絹代、同業の親友に千秋実、廓の強欲な主人に進藤英太郎、廓のやり手ばあさんに浪花千栄子、梅川に横恋慕するイヤらしい金持ちに東野英治郎など、芸達者ばかり。若い花園ひろみも箱入り娘役で出ていた。

 『浪花の恋の物語』は、様式的な枠組みのなかに、斬新なアイデアを取り入れ、工夫した構成になっていた。面白いのは、近松役の千恵蔵が所々で現れ、狂言回しのような役割を演じていたことだ。芝居作者として忠兵衛と梅川に関心を寄せ、二人の様子をたえず見守っているのだが、あえてこのような傍観者的な視点を加えたことが、映画に奥行きを与えていた。破滅に向かう二人の恋がまるで遠近法で描かれた絵のように見えたからである。
 何と言っても、この映画のクライマックスが秀逸だった。二人は駆け落ちして、忠兵衛の父親の住む田舎の村へと逃げていく。雪の中、追っ手が迫り、難をのがれ飛び込んだ民家。決して離れまいと固く抱き合う二人。このシーンは胸を打つ。そのあと、近松のもとへ二人が追っ手に捕まったという知らせが届く。父親に会えなかったのだ。それを憐れむ近松の顔のアップ。
 その後に続くシーンは観る者の意表を突くものだった。拍子木の音が鳴ると、まるで幻想の世界に変わったかのように、歌舞伎風に道行(みちゆき)を舞いながら忠兵衛と梅川が登場するのだ。この錦之助の美しいこと!するとまた現実に戻って、廓に連れ戻された梅川が頭に黒い布をかぶされて廊下を引きずられていく。部屋でかぶりを取った梅川の亡者のような顔。その顔に二人が捕まって無理矢理引き裂かれる残酷な記憶がよみがえる。我に返った梅川。庭の井戸に飛び込んで死のうとするが、近松に阻まれてしまう。死ぬことさえ許されないと泣き崩れる梅川。
 最後は、近松の真正面のバスト・ショットから、カメラが後ろへどんどん引いて行く。舞台を見ている満員の観客。ここからまた幻想的シーンで、梅川が一人美しく舞っている。それが人形に替わって、浄瑠璃の大詰めの場面が映し出される。劇中では忠兵衛が父親に会える結末になっている。この20分余りの、虚構と現実が交錯するラストは本当に素晴らしく、私は息をのんで見とれてしまった…。


『駅馬車』

2006年05月07日 07時22分05秒 | アメリカ映画

 ジョン・フォードの『駅馬車』を観た。25年ほど前にテレビで一度見たことがあったが、そのときビデオで録画してあったのを先日たまたま発見した。実を言うと、私は西部劇をずっと見ないで通してきた。最後に見たのがこの『駅馬車』だったのだから、25年近いブランクがあった。その間、アメリカ映画は恋愛映画とサスペンスしか見なかった。西部劇をなぜ見なかったかと言うと、埃っぽく乾燥している感じの画面を見たいと思わなかったから、そして、アメリカ的な粗暴な男たちが出て来る映画を、見る気が起こらなかったからだった。西部劇は概してストーリーも人間の描き方も単純だという固定観念があったのもいけなかった。ただ、ジョン・フォードの映画は特別だという印象だけは持っていた。それが、最近になって老化現象が始まったのか、昔の東映時代劇ばかり見始めて、勧善懲悪の単純明快なストーリーを好むようになってきた。老人が『水戸黄門』や『遠山の金さん』ようなものを好んで見るのと同じ傾向である。それで、きっとまた西部劇を見たくなったのかもしれない。
 しかし、『駅馬車』を今度また観て感じたのは、これは決して単純な西部劇ではないということだった。アパッチに襲撃され、疾走する馬車から銃撃するシーン、つまり西部劇らしいシーンはラストの15分くらいで、そこまでに至るほとんどは人間のドラマであり、恋愛のドラマではないか。今更ながら私はそのことに驚いた。確かに最後のちょっと前にある疾走シーンは迫力満点で、すごいなーと感じたが、私がむしろ面白いと思ったのは、馬車に乗り合わせた人々の凝縮された人間模様であった。保安官と御者はあまり個性的ではない。また、ジョン・ウェインも比較的分かりやすい素朴な男である。利己的な銀行家も類型的である。私の興味をそそったのは、男では小市民的な商人(ピーコック)と飲んだくれの医者と偽善的な賭博師の三人だった。この三人がなかなか人間的に奥行きがあって、いいなと感じた。女は二人乗っていて、淑女ぶった妊婦と酒場の売春婦であるが、私は後者の女に引き付けられた。ダラスという名前で、クレア・トレヴァーという女優が演じていたが、彼女がとても印象的に思えたのだった。彼女はもともと出発地の町の婦人たちから追い払われるようにして馬車に乗ったのだが、みんなから冷ややかな目を浴びて、また自分でもそれを意識して初めは小さくなっている。途中で馬車に乗り込んだジョン・ウェインがこの女に対しなぜか優しく接する。この女は彼の気持ちがよく分からなかったが(私も同じで分からなかったが…)、妊婦が出産する前後からジョン・ウェインがこの女のけなげさや優しさに心を打たれ、次第に好きになっていく。このあたりからのクレア・トレヴァーの心の動きを表した表情や振舞いが見ものだった。産後の女を看護している時や赤ん坊を抱いている時の彼女は大変母性的であり、人のために尽くしているという充実感に満ちていた。ジョン・ウェインから求愛された時、またその後の彼女の心理表現も卓抜だった。最後の疾走シーンの後、目的地にたどり着いて、ジョン・ウェインに自分の働いていた売春宿まがいの酒場を見せなければならなくなった時の彼女の身を切るような悲しさ、それでも結婚を望まれたときの彼女の天にも昇る喜び。私が『駅馬車』で何を見ていたかというと、明らかに途中から最後まで、クレア・トレヴァーの演じた女の心の動きであった。私は自分がまったく西部劇としてこの映画を観ていないことに気がつき、奇妙な気持ちになった。と同時に、ジョン・フォードのこの作品からこの上なくヒューマンな心暖まる感動を覚えたのだった。