背寒日誌

2024年10月末より再開。日々感じたこと、観たこと、聴いたもの、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

『ミモザ館』(その2)

2015年01月20日 17時54分19秒 | フランス映画
 ルイーズ(ロゼー)は、パリで10年ぶりにピエール(ポール・ベルナール)に再会する。
 成人したピエールの登場のさせ方が観客の意表を突いて、うまいと思う。車が着くと、中に乗っていたピエールは怪我をして、顔に包帯をまき、意識朦朧の状態である。友達がホテルの彼の部屋へ担ぎ込む。ルイーズは、再会を喜ぶどころか、気が気でない。付き添っている親友のジョルジュに事情を聞くと、今さっき街の不良に殴られたのだという。もちろん手紙で病気というのは嘘だった。
 ここから現在のピエールの様子が分かってくる。ピエールは、まともな生活をしておらず、盗難車を売って稼いだり、かなり危ない商売をしている。それだけではない。ヤクザのボスの愛人ネリー(リーズ・ドラマール)と付き合っていて、実はそれが発覚して、手下にヤキを入れられたのだ。
 数日後、滞在していたルイーズの看護で、ピエールは怪我も治り、元気になる。
 ルイーズはピエールにまともな生活をさせようと考え、ミモザ館で暮らすように説得する。ピエールは愛しているネリーのことをルイーズに打ち明ける。この時点では、まだルイーズのピエールに対する愛情は母性愛的なものである。
 ルイーズがミモザ館へ帰って間もなく、ピエールがやって来る。ボスが愛人ネリーをロンドンへ連れて行ってしまったので、ほとぼりが冷めるまでミモザ館で暮らそうと決心したのだ。ピエールは養父だったガストンの紹介で、ニースの自動車販売会社に勤めることになる。営業成績も上々だった。
 そんな時、ネリーがロンドンから逃げてピエールのもとへ来たいという知らせが届く。ネリーを呼び寄せる費用が必要となったピエールは、ルイーズに借金を頼むが、承諾しない。そこで、ルイーズの目を盗んで、家の金を盗むのだが、ルイーズはそれを見つけて、ピエールに平手打ちを食わす。しかし、結局、ピエールの懇願に負けて、ルイーズは金を出してやり、ネリーをミモザ館へ呼んでやる。
 ネリーがやって来て、ここからルイーズとピエールとネリーの三角関係のドラマが始まるわけだが、徐々に深刻さが加わり、悲劇的な結末に向かっていく。



 『ミモザ館』という映画は、前半は喜劇的なタッチを交え、人間模様を明るく描いていたが、後半の途中から暗い影がさし始め、作者の強引とも言える悲劇的なドラマ作りに、見ている方は次第に違和感と抵抗感を覚えるようになる。
 母と息子の恋人との対立関係を描いた作品は日本では数多くあるように思うが(欧米では少ない)、『ミモザ館』はいわばそのフランス版である。しかし、母と息子の関係を、この映画では本当の親子にしていないため(これは作者の意図的な設定だが)、母性愛が異性愛に変じていくような面が目立ってくる。とくに、母親代わりのルイーズが成人したピエールを溺愛するにつれて、異性愛的な感情が強まってくる。そして、これが一方的なものだけに、ルイーズがピエールとネリーの関係を引き裂くように仕向ける言動が、中年女のある種の愚かしさと醜さを帯び始める。
 ピエールはネリーを熱愛しているが、ネリーはたいして愛していない。ネリーは、女の直感で、ルイーズの愛情が恋愛感情だとすぐに見抜くのである。このネリーという女は、『外人部隊』のフローランスと似たタイプだが、彼女より自立的で現代的なところがあったと思う。
 ピエール役のポール・ベルナールもネリー役のリーズ・ドラマールもなかなかの好演で、とくにポール・ベルナールは、この時36歳なのに22歳の若者役だった。彼は、難しい上に損な役をたくみに演じていたと思う。というのも、この映画を見た観客はピエールというこの若者にまったく共感が持てず、反感さえ感じた人もいたはずだからだ。しかし、これは映画の作者がそういう人物に作り上げているからで、俳優の責任ではない。『外人部隊』の男主人公も同じ名前のピエールで、派手な女に貢いで、見放され、絶望するところは同じなのだが、このピエールには共感が持てるし、同情さえ覚える。が、『ミモザ館』のピエールは、もっとずっとダメな男で、同情する気にもなれない。彼は犯罪者の血を引き、質(たち)が悪く、嘘は平気でつくし、詐欺はするはで、かなり屈折した心を持っている。美男子なので女にもてるが、お坊ちゃんぽいところがあり、女ったらしではない。ボスの愛人ネリーに惚れて、意外なほど純情なのだ。養母だったルイーズに対しては甘ったれで、お世辞を言ったり、髪型や服装に助言までしているが、ルイーズから金をもらおうという下心がちらちら見えるようなところもある。この腐ったようなダメな男を、作者は最後まで救いようのないように描いている。『外人部隊』のピエールに注いだような作者の愛情の眼差しがまったく感じられないのだ。だから、こういうピエールを愛するルイーズも愚かで救いようのないように見えてしまうのだ。
 同じフランソワーズ・ロゼーが演じた『外人部隊』のブランシュと『ミモザ館』のルイーズを比べてみると、見終わった時点で観客は、はたして前者に対するような共鳴と感動を、後者の方にも感じたかというと、疑問に思わざるをえない。ロゼーの演技の問題ではない。ロゼーは、タイプの違う人物を演じ分け、前者以上に後者を熱演している。これは脚本の問題、主要人物の設定とストーリーとドラマ作りの問題である。とくに後半の途中からラスト・シーンへ向かうまでの展開で、ルイーズへの共鳴は薄れていき(観客の一人である私の場合だが)、ラストは余韻のある感動ではなく、暗澹とした気分と後味の悪さが残る。『外人部隊』は素晴らしいラスト・シーンであったが、『ミモザ館』の最後、ネリーの名前を呼ぶピエールにルイーズが彼女の身代わりとなってキスをしてやり、部屋に吹き込む風に大枚の札束が舞うというラスト・シーンは、あざとさが目立ち、行き詰まったドラマを無理矢理終わらせただけではないかとさえ感じてしまう。個人的には『外人部隊』の方がずっと好きである。(了)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『ミモザ館』(その1)

2015年01月17日 00時30分40秒 | フランス映画


1935年1月、フランス公開。1936年1月、日本公開。(製作年1934年)
白黒スタンダード 109分(DVD105分)

監督:ジャック・フェデール
脚本:ジャック・フェデール、シャルル・スパーク(台詞も)
撮影:ロジェ・ユベール
美術:ラザール・メールソン
音楽:アルマン・ベルナール
編集:ジャック・ブリルアン

 ジャック・フェデールが『外人部隊』でフランス映画界に復帰し、続いて作った映画が『ミモザ館』(1934年製作)である。『外人部隊』と同じく、フェデールとシャルル・スパークのオリジナル脚本で、この映画ではフランソワーズ・ロゼーが堂々と主役を張り、ミモザ館の女主人を演じている。
 前作『外人部隊』では、ドラマの中心人物が、ピエール、イルマ、ブランシュの三人のうち誰なのか分からず、ドラマ構成の上で一貫性がなく、焦点が定まらないところがあった。それでも、『外人部隊』を最後まで見ると、やはり、ロゼーのブランシュが最も印象深く、彼女が主役だったと思えてしまう。それは、この中年女の悲しみがいちばん良く描き出されていたからで、観客は、ブランシュの気持ちに共鳴し、感動したのである。一方、ピエールと二人の女のドラマの方は、場面を多くして描いたわりには、中途半端で感動的なものにはならなかった。ということは、つまり、映画の作者であるフェデールとスパークが最も思い入れを込めて描いた人物、あるいは描くことができた人物は、初めからロゼーが演じる予定のブランシュだったということになる。
 『外人部隊』は、スタンバーグの『モロッコ』の向こうを張って、マリー・ベルとピエール・リシャール=ウィルムというフランスの二大俳優を前面に出し、彼らの知名度に興行的な成功の期待も込めながら製作したのだと思うが、出来上がった映画は、助演者のはずのフランソワーズ・ロゼーの存在感が目立つ作品になってしまった。が、これは結果的には嬉しい誤算で、『外人部隊』が高く評価され(主にフランスと日本であるが)、また興行的にも成功した要因は、この映画で描かれたブランシュという女性の魅力とこの役を演じたロゼーという女優の素晴らしさだった。フェデールもスパークも(またロゼー自身も)、このことに気づき、今度は自信を持って、ロゼーを完全な主役にして『ミモザ館』を作ったのである。

 『ミモザ館』Pension Mimosasは、プロローグからロゼーが演じるルイーズという人物を中心にドラマが展開されていく。観客は、主役のルイーズの言葉を聞き、彼女の一挙手一投足を見守りながら、ドラマの進行を追っていくことになる。
 この映画のタイトルであるミモザ館は、南フランスのコート・ダジュールのリゾート地にあり、カジノの遊興客が長期滞在する食事付きのホテル(フランス語でパンスィオン)である。ただし二流のホテルで、富豪が泊まるところではない。一攫千金を夢見る遊び人や退屈しのぎに賭け事を楽しむ老未亡人たちが逗留していて、宿泊料の滞納者がいたりする。
 ルイーズ(フランソワーズ・ロゼー)は、ミモザ館を切り盛りする女主人である。亭主のガストン(アレルム)は、カジノのクルーピエ(ルーレットやカードの遊戯係)で、後輩を指導するベテランである。ミモザ館の所有者はガストンなのだが、元オペラ歌手だったルイーズと結婚してからは、ホテルの経営は全部、女房に任せている。ガストンは気丈な女房の尻にしかれている感じだ。
 この中年夫婦の間には子供が出来なかったため、二人は不幸な男の子を引き取って、育てている。ピエロ(ピエールの愛称。最初は子役が演じている)という名の小学生(6年生くらい)である。ルイーズもガストンもピエールを可愛がっている。しつけは厳しいようだが、やはり甘やかして育てている感じだ。この子は、環境の悪影響もあり、宿泊客からもらったおもちゃのルーレットで学校の友達から金を巻き上げたりしている。ポケットに26フラン50サンチーム持っていて、小学生にしては大金だということだが、当時の1フランは、現在の日本円にすると、150円前後だと推定されるから、4000円ほど賭けで稼いだわけだ。また、あとで分かるが、犯罪者の父親の血を引いているため、末恐ろしさを予感させるように描かれている。
 ピエールの聖体拝領(コミュニオン)のお祝い日、ミモザ館で招待客と会食中に突然、実の父親が5年の刑期を早めに終え出所して、ピエールを引き取りに訪ねて来る。ルイーズは泣く泣く、ピエールと別れることになる。

 ここまでがプロローグの要約であるが、この約20分(回想形式はとらず、1924年時点の物語)で、登場人物やシチュエーションに、くどいくらいの説明を加えている。『外人部隊』もそうだったが、フェデールとスパークの脚本は、プロローグが長すぎるように感じる。ドラマを主体にした映画の構成から言えば、話の始まりを現在(1934年)からにして、単刀直入に、ミモザ館に、養子だったピエールから手紙が届く場面から始めるべきで、10年前のプロローグは不要だったような気がする。途中でピエールとの思い出を回想形式にして挿入するか、セリフで説明すれば十分だったのではないかと思う。
 それはともかく、映画の場面は10年後に飛ぶ。ミモザ館は前よりも立派なホテルになり、ガストンとルイーズの夫婦も健在である。ある日、ピエールから病気になったので金が入用だという手紙が来る。夫婦の会話で、二人はその間、ピエールと離れて暮らし、会うこともなかったが、手紙で連絡は取り合っていたことが分かる。ピエールは22歳、父親は死に、今はパリで車の販売をしながら、一人暮らしをしている。この3年ほどは毎年、二人の夫婦はピエールにかなりの大金を仕送りしていたことも分かる。ガストンは手帳にちゃんと金額をメモしていて、それを読み上げるところがあり、1932年8000フラン、33年6500フラン、34年9000フランという。毎年100万円~130万円送っていたのだ。
 この映画では、ほかにもいろいろな金額を登場人物に言わせるところが目立つが、それは作者の意図である。金では愛も幸福も買うことができないということを強調したかったようだ。
 ルイーズは、ミモザ館が改装中であるという機会に、意を決し、ピエールに会いにパリへ行く。コート・ダジュールからパリまでは1200キロ以上あるので、日本で言うと、福岡から東京へ汽車で行く感じだ。
 ミモザ館は、コート・ダジュールにあることは確かだが、映画の中では一度も所在地の都市名は出て来ない。コート・ダジュールの中心都市はニースであるが、映画の後半でミモザ館へ帰って来たピエールがニースの自動車販売会社に勤め始め、列車で通う不便を口に漏らしている。また、ラスト近くで、愛人のネリーがルイーズとそりが合わず、ピエールがミモザ館からもニースからも近いアンチーブに貸家を見つけたので引っ越すことにしたと言うところがある。アンチーブは、ニースとカンヌの間にある町なので、ミモザ館のある町はカンヌを想定しているようにも思える。
 ついでにミモザ館の名称だが、ミモザというのは黄色い小さな花が鈴なり咲く木である。ミモザ・サラダというは、ゆで卵の黄身を細かく砕いて、レタスの上にまぶしたサラダのことだが、ミモザの花をなぞったものだ。映画の中で、ミモザの花が出てきたかどうか、未確認である。入口のどこかにミモザがあったかもしれない。

 パリに着いたルイーズは、ピエールのいる住所でタクシーを降りる。後ろにセーヌ川が見えるが、下町のどこかであろう。建物を見て中に入ると、そこは、いかがわしそうなカフェ兼ホテルである。ルイーズは黒い毛皮のコートを着て、貴婦人のような格好をしている。カフェには与太者たちや娼婦がたむろしている。主人に来意を告げると、ピエールは留守だという。ルイーズは仕方なくこのホテルに部屋をとる。
 ここからこの映画は面白くなる。
 階上の部屋へ案内してくれたメイドに、ピエールのことを聞くと、大変評判が良く、美男子でやさしいらしく、女にもてることが分かる。メイドはピエールの住む部屋まで見せてくれる。
 このあたりのパリのカフェと安ホテルの描写は見事である。
 ルイーズが夕食を取りに、カフェのテーブルに付くと、そばに常連らしき一人の女(娼婦?)がいて、話しかけてくる。この役を演じたのは女優のアルレッティである。パーマをかけた頭に縞模様のネッカチーフを鉢巻のように巻いて、煙草をぷかぷか吸いながら、何をしに来たのかルイーズに探りを入れるのだが、お人好しらしく、逆に自分の話をしてしまう。彼女は、ピエールの親友ジョルジュの情婦で、愛称パラソルといい、スカイダーバーを仕事にしていると奇妙なことを言う。アルレッティの出番はこれだけだが、このキャフェの場面での彼女とフランソワーズ・ロゼーの共演も見ものである。



 アルレッティは姐御肌の名女優で、この映画では端役だったが、助監督を務めたマルセル・カルネは、この時アルレッティの個性に惹かれたという。カルネは、監督になってから自分の映画でアルレッティに重要な役を何度も与えている。(『北ホテル』『日は昇る』『悪魔が夜来る』『天井桟敷の人々』『われら巴里つ子』。このなかでは『天井桟敷の人々』がアルレッティの代表作であるが、『北ホテル』で演じた年増の娼婦役が強烈な印象だった。)
 アルレッティは、後年インタビュー本の中で、『ミモザ館』に出た時に感じたフェデールとロゼーの印象ついて、こう語っている。(「女優アルレッティ 天井桟敷のミューズ」クリスチャン・ジル、訳:松浦まみ フィルム・アート社)
「フェデールは天性のプレイボーイなの。頼りがいがあってエレガントで、それはもう魅力いっぱいなわけ。魅力が容貌に滲み出ているのよ。今さら彼の才能について話すことは何もないでしょう。周知の通りよ。文句なく巨匠ですもの。完全主義者で厳格この上ないけれど、常にエレガンスをまとっている人。『ミモザ館』では、私はほんの脇役でしかなかったのに、彼は何度も何度も同じ場面を繰り返させたわ。始める前には、私の隣にやってきて腰をおろし、三十分ばかり役柄について説明してくれたの。普通は、監督は役者を思う場所に置くだけで、後は役者が勝手に台詞をしゃべるだけなのに、フェデールはあらゆる細部を説明するのにたっぷり時間を費やしたわ。信じられないほど忍耐強くて注意深かった。
(フランソワーズ・ロゼーは)優しい人で、いつも役者たちの面倒を見ていたわ。彼女といると笑いころげてばかりで、もし歯につめた鉛でも落ちようものなら彼女のおかげだわ!でも時にはこんなこともあった。「そんなに離れちゃだめよ」と、彼女が私を見ながら言ったわ。カメラに対して私の顔の向きが良くなかったのですって。そういう注意ができる女性ってそう多くないのよ。適切な助言を貰ったことにとても感謝したわ」
 アルレッティは、このインタヴュー本で、彼女が出演した映画や付き合った映画人についていろいろなことを率直に語っているので、興味深い。(つづく)



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジャック・フェデール(その2)、『モロッコ』と『外人部隊』

2015年01月15日 20時05分55秒 | フランス映画
 1930年、フェデールがガルボの『アンナ・クリスティ』のドイツ語版を作っていた頃、ジョセフ・フォン・スタンバーグがマレーネ・ディートリッヒ主演のドイツ映画『嘆きの天使』(1930年4月ドイツ公開)を作って成功し、ディートリッヒを連れてスタンバーグが再びハリウッドへ帰って、パラマウント映画で『モロッコ』(1930年12月米国公開、翌年2月日本公開)を作る。パラマウントがライバル会社のMGMの大スター・ガルボに対抗して、ドイツから呼んだディートリッヒを売り出そうという作戦であった。これが見事に的中して、『モロッコ』は大ヒットし、主演のゲーリー・クーパーもディートリッヒも以後国際的な大スターへの道を歩んでいく。



 『モロッコ』は、フランスの外人部隊の兵士トム・ブラウン(クーパー)とモロッコに流れ着いた女性歌手アミー・ジョリー(ディートリッヒ)との恋愛を描いたロマンチックな映画であるが、いかにもハリウッド調の娯楽作品で、エキゾチズムを漂わせるための借り物としてモロッコという背景と外人部隊を取り上げたにすぎなかった。カリフォルニアでの野外撮影とハリウッドのスタジオのセットで撮影された映画で、外人部隊もモロッコのアラブ人も偽物で、フランス人が見たら滑稽に思えるような代物だった。クーパーの色男の兵士も格好が良すぎて、あんなアメリカ人が外人部隊にいるはずもなく、一方のディートリッヒはフランス語と英語で歌い(彼女の母国語はドイツ語だが、フランス語も達者だった)、英語の台詞は少なめで、時々フランス語を話すが、この二人の登場人物の設定からして非現実的で、人物の背景も性格描写も浅薄であった。



 『モロッコ』は、アメリカだけでなく世界中でヒットした。日本でも大ヒットして、過大評価とも言えるほどの絶賛を博した。しかし、フランスでの評判は非常に悪かったそうだ。とくにラスト・シーンは酷評されたという。ディートリッヒが裸足になって、砂漠を行くクーパーを追いかけていく、あの最後の場面であるが、日中モロッコの砂の上など熱くて、裸足で歩けるはずがないというのである。
 ハリウッドで不遇をかこっていたフェデールもきっとカリフォルニアのどこかで『モロッコ』を見て、苦々しく感じたにちがいない。

 フェデールがフランスを離れているうちに、フランス映画もトーキーの時代に入り、後輩の若手監督たちが活躍を始めていた。クレールは、『巴里の屋根の下』(1930年)、『ル・ミリオン』(1931年)、『自由を我等に』(1931年)、『巴里祭』(1932年)を作り、デュヴィヴィエは『資本家ゴルダー』(1931年)、『にんじん』(1932年)などを作り、注目を浴びていた。少し遅れてルノワールが『素晴らしき放浪者』(1932年)を発表して頭角を現す。まさに1930年代、トーキー初期のフランス映画黄金期が幕開けしていた。フランスには演劇の長い伝統があり、舞台俳優たちがトーキー映画に出演し、その個性を存分に発揮し始めたのである。

 1933年2月、フェデールはおよそ5年ぶりにフランスへ帰ってきた。そして、脚本家のシャルル・スパークと再会し、二人でオリジナル脚本を練り、満を持して作った映画が『外人部隊』であった。これは、フェデールがフランスで初めて作ったトーキー映画だった。
 『外人部隊』は、フェデールが明らかに『モロッコ』を意識し、しかもそれを反面教師のようにして、リアリズムを貫いて作った映画である。現地でのロケ撮影を行い、ハリウッド的な甘美なロマンチズムとは反対に、人生の現実を見つめたドラマを作り上げた。

 『モロッコ』でディートリッヒが歌う場面と『外人部隊』でリーヌ・クレヴェールが歌う場面を比較して見ると、フェデールはキャバレーでフランス人のプロの歌手が唄うシャンソンは、本当はこういうものだと見せつけているような気がしてならない。『モロッコ』には、男装のディートリッヒが歌いながらリンゴを配り、色男のクーパーがリンゴを買う有名な場面があるが、スターを引き立てるあのような演出にフェデールは反感を覚えたにちがいない。
 また、『モロッコ』にも外人部隊が行進している様子を撮った画面が出てくるが、制服もバラバラの借り物でエキストラを使って適当に歩かせているだけだが、フェデールは『外人部隊』では兵隊の本式の行進をあえて長々と撮影し、小休止中や道路工事中の兵隊の様子、将校や隊長に対する下士官の態度などもきっちりと描いている。
 
 『外人部隊』は、1930年代フランス映画黄金期(トーキー初期)の数ある名作のなかでも傑作の一本になった。しかし、この映画は、フェデールの『モロッコ』に対する挑戦状であったにもかかわらず、米国では公開されず、フランスとヨーロッパの数国と日本でしか公開されなかったようである。それらの国々では大ヒットしたが、スタンバーグの『モロッコ』に比べれば、雲泥の差のある興行成績であった。フランス映画を愛好する日本では『モロッコ』に負けないほどヒットし、外人部隊という言葉が流行語になった。フランス国内では『モロッコ』よりはるかに好評で、フェデールが再評価され、彼はフランソワーズ・ロゼーとともに次の『ミモザ館』と『女だけの都』を作ることができたわけである。『外人部隊』という映画がなければ、ジャック・フェデールは忘れられた存在になっていたであろう。その意味で『外人部隊』は、彼の名を世界映画史上不朽なものにした記念碑的作品でもあった。


 フェデールとロゼー

 フェデールと共同でオリジナル脚本を書いたシャルル・スパークにとっても、後年フランス映画を代表する脚本家としての名声を得るきっかけとなった出世作となった。シャルル・スパークは、ベルギーの名門(父は詩人で劇作家)の出身で同郷のフェデールに呼ばれて、1920年代の終りにパリへ出て、最初フェデールの秘書をやっていたが、『俄成金紳士たち』でフェデールに協力して脚本を書き始めた。しかし、頼りにしていたフェデールが渡米してしまい、フランスに残って、ジャン・グレミヨンやジョルジュ・ラコンブといった監督たちの作品の脚本を書いて、脚本作りの腕を磨いていた。スパークは、『外人部隊』ののち、『ミモザ館』『女だけの都』のほかに、デュヴィヴィエと組んで『地の果てを行く』(1935年)『我等の仲間』(1936年)の脚本を書き、ジャン・ルノアールと組んで『どん底』(1936年)『大いなる幻想』(1937年)を書く。
 フランソワーズ・ロゼー(1891~1974)も、『外人部隊』で大女優としての存在感を印象付け、夫フェデールをフランス映画界にカムバックさせるために大きな貢献をした。まさに内助の功であった。そして、『ミモザ館』『女だけの都』で堂々と主役を演じ、続いて、フェデールの助監督だったマルセル・カルネの監督デビュー作『ジェニーの家』で主演し、カルネをバックアップし、その後も長いキャリアを維持していくのである。(了)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジャック・フェデール(その1)

2015年01月15日 19時32分59秒 | フランス映画
 ジャック・フェデール(1885~1948)は、1920年代のフランス無声映画時代から著名な監督だった。クレール、デュヴィヴィエ、ルノワールよりもずっと年長でキャリアも古い。監督の苗字のフェデールFeyderは、彼の俳優時代からの芸名であるが、日本語の表記が以前は「フェーデ」「フェデー」であった。現在はフェデールが多いようだ。フェデールの愛弟子だったマルセル・カルネのインタヴュー(『北ホテル』のDVDの付録にある映像)を聴くと、フェデールと後ろにアクセントを置き、末尾のRの音を発音しているので、「フェデール」という表記がふさわしいと思う。

 以下、ジャック・フェデールの経歴を書いておく。
 参考資料は、フランス語版ウィキペディア、飯島正「フランス映画史」(白水社)、岡田晋・田村力哉「フランス映画史」(世界の映画作家29 キネマ旬報社)などである。



 ジャック・フェデールJacques Feyderは、本名ジャック・レオン・ルイ・フレデリックス(Jacques Léon Louis Frederix)といい、1885年7月21日、ベルギーのイクセル(Ixelles ブリュッセルの南にある自治区)に生まれた。フェデールによると、「私は朝の9時に101発の祝砲に迎えられて誕生した。その日はちょうどベルギーの建国記念日だった」という。また、家系については、「曽祖父は将軍、祖父は劇評家、父は寝台車の国際的な会社を経営していた」というから、ベルギーの名門出身である。父親は、ベルギーの芸術家クラブの会長も務めていたらしい。
 フェデールの少年時代については不明であるが、軍人志望だったようだ。20歳の時、士官学校を受験して失敗し、一時期リエージュにある造兵廠に勤めた。が、母の死後、一転して舞台俳優を目指すようになる。父は彼が俳優になることに反対し、本名を使うことを禁じる。それで、フェデールという芸名を名乗るようになった。
 25歳の頃、故国ベルギーを離れ、パリへ出る。パリでは、いろいろな劇団で端役をやっていた。映画にも出演するようになり、フランスの大手映画会社ゴーモン社に出入りしているうちに、俳優より演出に興味を覚え、1915年、監督ガストン・ラヴェルの助手になった。第一世界大戦の頃で、師匠のラヴェルがフランス軍に召集され、作りかけの映画をフェデーが完成させた。短篇映画『足と手』Des pieds et des mains(1915年)である。これが好評で、ゴーモン社の社長レオン・ゴーモンの目にとまり、1916年に映画監督として一本立ちした。デビュー作は"Têtes de femmes, Femme de tête"(「女たちの頭と頭の女」)で、フランソワーズ・ロゼーが主演している。ロゼーはすでにフランス演劇界では有名な女優で、フェデーはその2年ほど前、リオンでの舞台公演中に彼女と知り合い、恋仲になっていたらしい。フェデーは1916~17年に映画を十数本作っているが、すべて短編の喜劇作品だった。1917年フェデーはロゼーと結婚するが、ベルギー軍の要請で慰問劇団に入り戦地を回ることなる。しかし、間もなく帰還し、1918年、ゴーモン社へ戻り、短篇La Faute d'orthographe(「綴りの誤り」)を作るが、いざこざが起こり、社を辞めることになってしまう。
 
 その後、自ら映画製作に乗り出し、1921年、フェデール一世一代の大作『女郎蜘蛛』L'Atlantideを作る。原題は「アトランティス大陸」(ギリシャ神話で、大西洋に沈んだとされる失われた大陸)で、ピエール・ブノアの冒険小説を映画化した。サハラ砂漠にある某王国をフランスの一士官が訪れ、その国の女王に惑わされるというストーリーである。主役の女王役は有名なロシア生まれの舞踊家スタシア・ナビエルコウスカだった。フェデールは、野外撮影のため、現地ロケを敢行。原作に描かれたサハラ砂漠へ実際に赴き、8ヶ月に及ぶアフリカ・ロケで完成した。ロケ撮影が一般的ではなかった当時からすれば、まさに驚くべき決断であった。フェデールは、後の作品の特色となる自然環境の描写法を、この映画によってマスターしたと言われている。『女郎蜘蛛』(1926年日本公開)は製作費400万フラン(現在の日本円にすると3億か4億円くらいだろう)、上映時間3時間に及ぶ大作だったが、興行的にも成功を収めた。これでフェデールは一躍脚光を浴びた。



 1921年以降は、フランスだけでなく、ドイツ、スイス、オーストリアといった国々から出資者を探して、寡作ながら名作を発表した。『クランクビーユ』(1922年)、『雪崩』(1923年)、『面影』(1923年)、『カルメン』(1926年)、『テレーズ・ラカン』(1928年)などで、『雪崩』以下は日本でも公開され、高い評価を受けた。(『女郎蜘蛛』ほか上記4作品については、双葉十三郎の「ぼくの採点表 別巻・戦前篇」に内容解説がある。)
 1928年、フェデールは、フランスで『俄(にわか)成金紳士たち』Les Nouveaux messieurs(日本未公開)という無声映画を作るのだが、これが検閲にひっかかる問題作であった。この映画は同郷のベルギー人シャルル・スパークと初めて共同で書いた脚本で、主演はアルベール・プレジャン、ギャビー・モルレ、スタッフには美術にラザール・メールソン、撮影にジョルジュ・ペリナール、助監督にマルセル・カルネが加わっていた。政治的な風刺コメディで、議会の会議中に踊り子たちが乱入し、議場のあちこちで踊りまわるというシーンがあったらしい。議会を愚弄しているという理由で、検閲が通らず、大幅に削除された挙句、公開されたのは数ヶ月も経ってからだった(1929年4月フランス公開)。
 その時すでにフェデールはフランソワーズ・ロゼーとともに渡米し、ハリウッドの映画会社MGMと5年契約を結んでいた。彼がハリウッドへ渡ったのは、『俄成金紳士たち』の上映禁止問題もあったが、世界恐慌がフランス経済と映画界にも波及し、資本力の弱い映画会社が多いフランスでは作りたい映画が作れなくなったからだった。また、ベルギー人であったフェデールは、フランスに帰化したとはいえ、思想的にアウトサーダー的存在で、フランスの体制側とも映画会社とも折り合いがうまくつかなかったようでもある。

 フェデールのアメリカでの第一回監督作品は、大スターのグレタ・ガルボ主演作『接吻』The Kiss(1929年11月米国公開)であった。これはガルボ最後の無声映画(サウンド版)で、フェデールが監督して作った『テレーズ・ラカン』(1928年ドイツで製作。エミール・ゾラ原作。弟子のマルセル・カルネが1953年にリメイクした。その邦題は『嘆きのテレーズ』)に似たような内容の作品であった。それで、MGMはフェデールに監督を任せたのだろうと思うが、『接吻』は、フランスのリオンが舞台で、ガルボ演じる人妻が嫉妬に狂った夫を射殺し、裁判にかけられるといったストーリーだった。


 『接吻』撮影中のフェデールとガルボ

 フェデールは続いて、ガルボ初のトーキー映画『アンナ・クリスティ』のドイツ語版を作り(アメリカの英語版はクラーレンス・ブラウンが監督し、1930年1月公開。フェデールのドイツ語版は同年12月公開)、そのほかにフランス向けの映画2本とMGMの男優スターであったレイモン・ナヴァロの主演作『あけぼの』(1931年)と『印度の寵児』(1931年)という娯楽映画を2本(どちらもトーキー)作った。(フェデールの『接吻』『あけぼの』とクラーレンス・ブラウンの『アンナ・クリスティ』については、双葉十三郎の前掲書に内容解説がある。)
 この頃、映画はサイレントからトーキーへの転換期で、フェデールは渡米前、フランスとドイツで無声映画だけを作ってきたが、ハリウッドでトーキー映画の最新技術を学んだ。しかし、フェデールは英語で書かれた脚本をもとに英語の台詞をしゃべる俳優を演出しなければならず(彼はフランドル語が母国語で、フランス語とドイツ語ができたが、英語も達者だったのかどうかは分からない)、また、フランスとはまったく違うハリウッドのマスプロ的な製作方式になじめなかったようだ。結局、フェデールは、ハリウッドでは本領を発揮できず、2年半ほどで、MGMの窓ぎわ監督となってしまった。1931年半ばから1933年初めまでフェデールは1本も映画を作っていない。(つづく)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『外人部隊』(その2)

2015年01月14日 22時09分42秒 | フランス映画
 細かいことだが、この映画を見て気づいたこと、見終わってから調べて興味深く感じことについて触れておこう。

 10分ほどのプロローグの終わりに外人部隊に入隊する人々を描いたシーンがある。場所はフランスのどこかの港町(マルセーユあたり)のカフェであろう。ここでピエールは、ロシア人移民のニコラに出会う。二人が互いに自己紹介をしたあと、向こうを見ると、ピアノの周りで同国人の入隊者が数人いて歌を唄っている。その歌は、フランス語ではなく、歌詞に「ハイマート」(故郷の意)という言葉があるので、ドイツ語かとも思ったが、ドイツ人がフランスの外人部隊に入るのも不自然であり、よく聞くとドイツ語でもないようだ。今のところ不確かであるが、監督のフェデールと脚本家のスパークの故郷ベルギーの言語のフラマン語なのではないかと思う。彼らが唄っているショットがかなり長い間写されるので気になるところだ。

 場面が変わると、荒涼としたモロッコになり、外人部隊が道端で小休止している。その様子が、トラック・バックの長回しで映し出される。野外ロケであるが、実際にモロッコで撮ったと思われる。兵士が100人以上いるから壮観である。小休止が終わって、隊長が笛を吹くと、兵士たちは立ち上がって隊列を組む。地面に寝そべっているピエールが、ニコラに促されてやっと重い腰を上げる。そして行進が始まる。
 次にモロッコの町に移って、歓楽街のキャバレーとキャフェ兼ホテルの主要舞台(これはルネ・クレールの『巴里の屋根の下』などのセットでも有名な美術デザイナーのラザール・メールソンのセット)が出て、物語がいよいよ本格的に始まるが、外人部隊が町へ帰ってくる時の行進の様子がまたもや長回しで映し出される。これも野外撮影で、今度は街の一角にキャメラを置き、ゆっくり引きながら、鼓笛隊を先頭に向こうからやって来る外人部隊を延々と撮る。
 この長い行進の様子と鼓笛隊の音楽は、ラスト・シーンに生かされる重要なショットである。兵隊を見に、子供たちが走り寄っていくが、彼らは現地の子供たちにちがいない。兵隊もエキストラではなく、本当の外人部隊なのかもしれない。その隊列の後ろの方に、ピエールとニコラもいて、二人が歩いている姿をバスト・ショットで捉える。ジャック・フェデールは、こういう情景描写を手抜きせず、きっちり撮っている。データを調べてみると、ロケ地はモロッコのアガディール(Agadir)という港町である。ピエール役のピエール・リシャール=ウィルムとニコラ役のジョルジュ・ピトエフはモロッコ・ロケに参加したのだと思う。
 
 ところで、フランスの外人部隊というのは、その名の通り、外国人の入隊者を募って編成された部隊である。1831年創設というから、長い歴史がある。フランスは徴兵制であるが、人口が増加せず、また何度もの戦争で成人男子が不足して、外国人に兵力を頼った。この映画は、当時の現代劇であるから1930年頃の話で、第一大戦が終わって10年以上経ってからのことである。この頃の外人部隊にはイタリア人とロシア人が多かったというが、日本人も数十人いたそうだ。外人部隊は主に北アフリカのフランス植民地の統治のために利用されたが、現地人の反乱を鎮圧するだけでなく、道路建設などの労務にも携わった。この映画を見ると、その辺のところがきっちり描かれている。外人部隊を統率する将校は軍人出身のフランス人だったが、自ら志願し外人部隊に入隊するフランス人もいたという。ごく少数だったらしいが、その場合、国籍を変え、名前も変えたという。この映画のピエールは、フランス人であるから、苗字をマルテルからミュラーに変えていた。初めは伍長だったが、軍曹に昇格している。

 ニコラ役のジョルジュ・ピトエフ(1884~1939)は、当時のフランス演劇界では著名な俳優、舞台装置家、演出家、翻訳家であった。彼はアルメニア人で、若い頃モスクワ留学中に演劇に魅せられ、スタニスラフスキーと知り合い、ペテルスベルクで舞台を踏み、ロシア各地を巡業したというから、ロシアとも深い縁があった。『外人部隊』でロシア人の兵士を演じたのも適任だった。第一次大戦中はスイスのジュネーヴを拠点に演劇活動を続け、大戦後、パリに出て、自らピトエフ劇団を主宰して、フランスでも活躍したという。映画出演は2作だけらしく、そのうちの一本が『外人部隊』だった。


 ジョルジュ・ピトエフ
 
 途中でキャバレー「フォリー・パリジェンヌ」のショーの場面があり、前座で歌ったイルマ(歌詞を忘れるなど、歌は下手だったが、これも吹き替えなのだろう)に続いて、ドーヴィルという名前(役名)の女性歌手が登場するが、彼女はリーヌ・クレヴェール(1909~1991)と言って、パリ生まれの本物のシャンソン歌手である。1930年代から40年代にヒット曲も多く、女優としても数本の映画出演。フェデールの『女だけの都』にも魚屋の女房の役で出て、彼女の地を出して、コミカルな面白いキャラクターを熱演じている。『外人部隊』では、ワン・シーンだけの登場だったが、ニコラの恋人役で、陽気でいかにも下町のパリのおねえちゃんといった感じが出ていた。彼女が舞台衣装を身にまとい、身振り手振りを交えてシャンソンを歌う場面は、当時ミュージック・ホールに出演していた脂の乗った人気歌手の実態を伝える記録としても一見に値するものだと言えるだろう。聴衆も本当に喝采しているのがうかがわれる。


 リーヌ・クレヴェール

 歌人の塚本邦雄は、第二次大戦前からシャンソンをこよなく愛した人であったが、その著書にもリーヌ・クレヴェールのことが紹介されている。まず、「くりくりっとした眼の、はちきれるような肥り肉(じし)、下町女風のよくあるタイプ」と言い、「ミスタンゲットにはない胸の透くような爽やかさ、そこへ山椒と丁子を混ぜたような辛みこそ彼女の身上だろう。発散するエロティシズムも乾性(セック)で、巽(たつみ)上りの奇声も戦後のアニー・コルディあたりより遥かに洗練されている」と褒めている(塚本邦雄「薔薇色のゴリラ」)。

 

 主役のピエール・リシャール=ウィルム(1895~1983)は、演劇出身で、1930年代から40年代にかけて映画にも出演し、フランスで大変人気のあった二枚目俳優であったが、1947年を最後に映画界から引退し、以後は人民劇団の幹部俳優として演劇に専念した人である。
 
 マリー・ベル(1900~1985)も似たような経歴で、演劇から映画、そしてまた舞台に戻って演劇に専念した女優である。ベルはパリのコンセルヴァトワールを首席で卒業後、コメディー・フランセーズに入り舞台に立っていたが、1920年代終わりから30年代にかけて映画出演して人気を博し、「最高級のフランス女性」と呼ばれた。日本では、この『外人部隊』とデュヴィヴィエの『舞踏会の手帖』の2本の主演作で多くのファンを得て、憧れの対象となったフランス女優だった。『舞踏会の手帖』で、マリー・ベルが雪山に訪ねて行った山男の青年がピエール・リシャール=ウィルムで、まったく違う二人の共演がこの作品でも見られる。(つづく)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする