背寒日誌

2024年10月末より再開。日々感じたこと、観たこと、聴いたもの、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

さだまさしの小説「アントキノイノチ」

2013年08月28日 05時18分06秒 | 


 先日、映画『アントキノイノチ』を観て興味を覚え、原作のさだまさしの小説を読んでみた。
 ラストで恋人の女の子が交通事故で死んでしまったことがどうしても気になったからだ。映画は死んだ女の子のアパートを遺品整理業の主人公が片付けるというシーンで終るのだが、交通事故も最後の片付けも、こんな終り方をしたら作品がぶち壊しではないかと感じたので、原作もそうなっているかを知りたいと思ったのだ。(映画の感想は8月9日に書いた)
 映画を観て、二週間も経たずに原作の小説を読んだので、その違いがよくつかめた。すると、やはり思った通り、恋人のゆきちゃん(小説では雪ちゃん)は交通事故で死なず、最後は主人公の杏平と手を携えて生きていこうというハッピーエンドであった。
 映画の脚本は田中幸子という人と監督の瀬々敬久であるが、主人公と恋人との最も重要な結末を180度変えてしまったのは一体どういうことのなのか、私にはどうしても納得がいかない。原作者のさだまさしがよくオーケーしたと、これも不思議に思っている。
 小説を映画化する場合には、細かい点で多くの変更があるものだが、それは読む小説と観る映画とでは表現方法が違うからである。映画にはもちろんセリフがあるが、セリフは簡略にしなければならず、また、映画は基本的に映像でストーリーを展開するので、小説のような叙述や心理描写はできない。しかし、重要な登場人物の性格や行動は、原作に忠実に描くべきだし、とくに原作者が表現したかったテーマは変えてはならないと思う。
 映画『アントキノイノチ』は、原作の小説とはまったく違うような作り変えをいくつか行なっていたが、許容範囲と思われるところもあるが、明らかに越権行為と感じる箇所もいくつかあった。ラストで恋人のゆきちゃんを交通事故で死なせたのは、意図的にドラマチックにしようという脚本家の浅はかさとしか思えない。低級なテレビドラマならいざ知らず、誰が見ても、あんな唐突な死なせ方はあり得ないと感じるにちがいない。監督も血迷ったとしか思えない。
 松木というタチの悪い高校生に非難され、激動した山木が松木をナイフで脅して仕返ししたあと、校舎から衝動的に飛び降り自殺するシーンも奇異に感じたが、ここも原作とは違っていた。原作では家で首吊り自殺するのだった。
 主人公の杏平の母親は、男と不倫して家出して、杏平と生き別れたことになっていたが、映画では入院中の母親と再会するシーンがあり、映画を見た時、テーマが違うように感じた。原作を読むと母親と再会するところなどない。
 ゆきちゃんは、映画では遺品整理会社の先輩社員で、新入りの杏平といっしょに仕事をしていくうちに恋人になっていくのだが、原作では居酒屋の看板娘である。しかし、ここは映画のように設定を変えた方が良かったと思う。
 さだまさしの小説は、文学的というより説話的であった。エピソードをいくつか省けばそのままシナリオになるような物語構成だと感じた。内容的には、テーマ小説に近い。主人公の杏平が遺品整理会社に入って、ベテランの佐相さんや吉田社長にこの仕事の大切さを教わり、生きることの意義を再発見していくのがメインストーリー。その過程で、居酒屋で働く雪ちゃんと恋人関係になって、愛を媒介に人間同士をつなぐコミュニケーションを回復していく。この現在の状況と同時進行しながら高校時代の回想が次々に挿入されるのだが、杏平が自己嫌悪から精神病になった原因が明らかにされる。それは、友人の松木の嫌がらせと邪悪な素行に、杏平が松木を殺そうと思い、実行寸前にまで至ったことだった。小説の後半からは、雪ちゃんの過去の告白と人生観の披瀝が始まり、高校1年の時に受けた痛手を克服して再起した雪ちゃんに勇気付けられ、杏平は生きがいを見つけ、遺品整理業に打ち込んでいくことになる。
 「アントキノイノチ」がテーマ小説に近いというのは、現代社会において人間同志のつながりの大切さを問いかけるというテーマのために、小説の題材も登場人物も集約されているからである。武者小路実篤の小説を現代的にしたような印象を受けた。これは、テーマ小説によくある欠点なのだが、この小説も登場人物がいささか単純で類型的すぎるように感じた。松木だけが悪魔的な邪悪な人物で、あとの人物は杏平の父親にしても、前科のある佐相さんにしても清廉な善人で、人間的な厚みがない。とくに杏平の父親は浮気をしたこともあり、妻の失踪にも責任があるような人なのに、悟りきっていて、話す言葉が寓意的で人間離れしていた。そして、恋人の雪ちゃんは聖女のようだった。この小説が主人公の杏平の独白という形式をとっているのは良いとして、いわゆるビルドゥングス・ロマン(自己形成小説、教養小説)の域にまで達していないのは、主人公の自意識が弱すぎることと、過去の回想を現在進行形で描写したことが人物の掘り下げ方を甘くしてしまったのではないかと思う。
 最後の数ページにある雪ちゃんの告白は作り物臭く、雪ちゃんが松木に犯されて妊娠したという設定がいかにも故意的に思えた。、また、ラストで杏平と雪ちゃんがディズニーランドへ行き、松木と彼の妻子を目撃して、「元気ですか」と言う場面は蛇足のように感じた。アントキノイノチが「アントニオ猪木」と発音が似ていて、猪木が「元気ですか」と言うことをこの小説は拝借してネタに使っているわけだ。小説中ではプロレスの人とだけ書いてアントニオ猪木の名前は伏せているが、タイトルのカタカナ書きにしても、「元気ですか」という問いかけにしても、私は面白いとは思わない。「あの時のイノチ」あるいは「あの時の生命(いのち)」で良かったのではなかろうか。
 最近の映画や小説を読んで感じることは、登場人物が病的だったり、狂気に取り付かれていたりして、それがかえって人間を脆弱にし矮小化していることと、ドラマのためのドラマを作ろうとして作者の作為が目立ちすぎることである。現代に生きる普通の人間を人間らしく淡々と描いて、感動と共鳴を覚えるような作品に出会いたいものである。




夏目漱石の「彼岸過迄」

2013年06月09日 02時08分28秒 | 
 漱石の「彼岸過迄」は、非常に変わった小説である。短篇が四つほど繋がり合った長編で、ミステリーと探偵小説と心境小説と告白小説が団子の串刺しのように並んで、まとまりもなければ、話の結末もはっきりせず、読み終わって煙にまかれたような印象しか残らなかった。
 最初の主人公は田川敬太郎という就職活動をしている大学卒業者であるが、一番最初の短篇「風呂の後」では、同じ下宿にいる森本という怪人物が出て来て、かなり面白く読める。
 二番目の短篇「停留所」は、主人公の敬太郎が親友の須永の叔父に就職口を頼みに行って、小川町の停留所で下車するある中年男の様子を探る任務を与えられ、待ち伏せする話である。敬太郎は空想癖のある男で、その空想内容が偏執的なほど詳しく描かれているが、漱石の思わせぶりな記述にややうんざりする。同じ停留所で待っている若い女がその後重要な人物になるのだが、これが親友の須永の幼馴染の千代子である。
 三番目の「報告」という短篇は、二番目に付随するもので、敬太郎が待ち伏せした謎の中年男と若い女の種明かしである。
 四番目の「雨の降る日」は、文体も描写も異質な短篇で、千代子が可愛がっていた小さな女の子が急死した経緯と葬式を出す様子を客観描写したものである。漱石の実子で小さな頃に亡くなった娘がモデルになっている。この短篇から、最初の主人公だった敬太郎が消えて、須永の従妹で幼い頃から許婚のように言われて成長した千代子がクローズアップされ、次の章で須永と千代子との現在の関係に移行していく。
 五番目の「須永の話」が最も長い話で、ここまで来てようやく漱石は自分が書きたかったことがはっきりして、書き始めたという感じを受ける。ただし、内容は須永の独りよがりの告白で、あまり面白いものではない。須永という男は、インテリで自意識過剰、考えすぎる傾向があって、女性に対し精神的インポなのである。好きな相手の千代子に対し、結婚を申し込む自信がないため、彼女の前に男性が現れると、嫉妬心にさいなまれ、その苦しみがえんえんと描かれる。

作家の書いた作家論(その1)

2013年04月08日 00時47分14秒 | 
 最近読んだ岩波文庫で、広津和郎の「同時代の作家たち」が大変面白かった。作家の書いた作家論の中でも出色のものではないかと思った。作家論と言っても、その作家との思い出話を中心に書いているだけなのだが、それぞれの作家のイメージが彷彿として浮かび上がり、広津自身のその作家への愛着と愛惜が滲み出て、読んでいてとても心地が良く、文章も簡潔でうまいなと感服した。
 取り上げた作家との付き合いの長さや深さはまちまちで、宇野浩二のように若い頃から親友のような人もいれば、島村抱月のように早稲田大学の先生として何度か講義に出ただけで死んでしまった作家もいる。ほかに芥川龍之介、近松秋江、田山花袋、菊池寛、葛西善蔵、直木三十五、三上於菟吉、牧野信一、正宗白鳥、志賀直哉たち先輩、同輩、後輩さまざまである。
 相当深い入りした付き合いで、かなり凄惨なことを日常的な事件のようにさらりと書いているのは、宇野浩二との思い出である。宇野の頭がおかしくなり、広津が世話して精神病院に入れるまでの経緯なのだが、そこにもう一人の親友芥川龍之介が出て来て、芥川が自殺する前の様子も描いている。本書の中でも最も長い文章で90ページほどある力作である。
 宇野浩二との話はもう一編あり、これは宇野の文壇デビュー作「蔵の中」の成立事情を書いた小品である。昔私は宇野浩二の初期の作品を好んで読んでいた頃があり、「蔵の中」は大変面白かった記憶がある。それが、今頃になって、この小説のモデルが実は作家の近松秋江だったことを知った。この小説は、もともと広津が新潮社の編集者から聞いた話を宇野に書くよう薦めたことがきっかけだったというのだ。
 その近松秋江との思い出を書いた「手帳」という文章は、秋江という人の風変わりさをスケッチした佳作である。「手帳」という題名は、最後の話のオチでもあり、これがなかなか良い。
 「正宗白鳥と珈琲」もさりげない筆致で、白鳥の気難しさの中に潜む人なつっこさを描いた逸品だった。 もう一つ、「志賀直哉と古赤絵」も、骨董を介しての志賀との付き合いの中に志賀の人柄がよく描かれていて、好感を覚える。
 広津和郎のこれらの文章は、その作家と触れ合った当時からずいぶん時を経て、戦後になって書かれたものが多い。随想というより、広津自身は小説として書いたという。
 私は、広津和郎の書いた小説をまったく読んでいなかったので、先日、これも岩波文庫で「神経病時代」と「若き日」の二作が入っている本を買い、今「神経病時代」を読んでいる。この小説は、広津の文壇デビュー作であるが、独白小説でだらだらと当てもなく書いているので詰まらない。
 それと、ついでに宇野浩二の書いた作家論を読み始めたのだが、広津和郎の前掲書と比べると退屈で、宇野浩二は小説の方がずっと面白いのではないかと感じている。宇野の作家論は評論のように書いて、内容を詰まらなくしているように思う。それに対し、広津の作家論は小説のように書いて、作家を生き生きと描いているから、面白く感じるにちがいない。



片岡鉄兵の「生ける人形」

2012年08月02日 16時31分12秒 | 
 片岡鉄兵の小説「生ける人形」について触れておきたい。
 片岡鉄兵(1894~1944)は、横光利一、川端康成、岸田国士、今東光らと大正13年(1924年)に同人誌「文藝時代」を創刊し、いわゆる新感覚派の代表的小説家の一人であったが、プロレタリア文学に感化され、昭和3年(1928年)「生ける人形」を書いた頃にはすでに左傾化していた。
 改造社版「現代日本文學全集 新興文学集」(昭和4年)に「生ける人形」が収録されていたので読んでみた。
 あらすじを書いておく。

 主人公の瀬木大助は、出世の野心に燃えている三十代半ばの独身者。田舎で、ある政党の院外団員として活動後、同郷の青原代議士のツテで、東京に出て、丸の内のビルの7階にある興信所で勤め始める。男だけの所員四、五名の小さな事務所で、みんな仕事もなく、将棋を指したりしてぶらぶらしている。
そこへ女子社員が入社する。細川弘子という断髪洋装のモダンガールで、邦文タイピストとして雇われたのだった。田舎者の瀬木はそんな弘子に魅力を感じ、図々しくもデートに誘う。
この興信所の社長は繁本という中年男で、政界の裏を探って、代議士の選挙資金調達の不正などを調べ、金をゆすり取るようなことをしている。瀬木はその手腕を社長に見込まれ、青原代議士への、ある銀行の不正貸出しを調査し、財界の黒幕X伯爵が経営する大銀行との合併を画策する。
弘子とのデートの日、瀬木は新宿で偶然、昔の恋人梨枝子に出会う。梨枝子は年配の会社員と結婚したが、夫に先立たれ、未亡人になっていた。梨枝子との再会を約束して、瀬木は弘子と神宮球場で野球観戦をするが、弘子をホテルに誘って断られてしまう。弘子はモダンガールとはいえ、簡単に男に身をゆだねる女ではなかった。弘子に拒まれ、瀬木は再会した梨枝子とよりを戻し、同棲するようになる。が、若い頃のような関係は取り戻せず、亡夫への思いを残した梨枝子に不満をおぼえる。
その後、弘子は会社を辞め去って行き、梨枝子とも別れる。瀬木は同僚からも妬まれ、また社長の信任も失って、興信所から立ち去り、メーデーの群集を眺めながら思案に暮れるのだった。

 新聞連載を意識して書いたためか、かなり通俗的な小説で、文体・内容ともに新感覚派と言えるような新しさがなく、またプロレタリア文学と呼べるような小説でもなかった。社会問題の意識が甘く、無産階級の労働者の立場から資本主義社会に対する痛烈な批判が込められているわけでもない。登場人物の個性も類型的で、たぶん片岡自身の現代人としての生活経験の浅さと無産・有産階級双方の人物観察の不足から来るのであろうが、政財界のからくりも、資本家や代議士の人間像も描けていない。また、丸の内の興信所に勤める所員たちもただ暇をもてあましているだけで、勤労者としての存在感がない。それに、この興信所というのが怪しげで、仕事の中身がまったく見えないのだ。
 この小説は、むしろ、大都会の現代風俗の一面を皮相的に描くことに終始し、作者は、中流市民のモダニズムに共鳴しているといった印象を受ける。今読むと凡庸な中編小説であるが、震災後に復興した昭和初期の都心の様子を知る上では興味深いと感じる箇所も多々あった。



「ひとりっ子の深層心理がわかる本」(4月24日)

2012年04月24日 20時59分34秒 | 
 香山リカ「親子という病」読了。最終章はやや尻切れとんぼ。
 
 田村正晨「ひとりっ子の深層心理がわかる本」も読了。
 ひとりっ子の画一化されたマイナスイメージは、以下のごとく。
 社会性(協調性)に乏しい、わがままで自分勝手、依存心が強い、ひ弱、自立心が弱い。
 著者はこうした先入観をことごとく打ち消し、新たな「ひとりっ子観」を提示している。
それによると、ひとりっ子は、「達成動機」が高い。つまり、高い目標を設定して、そこにたどり着くために最大限の努力をしようとする。この特質は、親にほめられて育ったためと、ひとりで空想する時間が多かったためだと言う。したがって、ひとりっ子は、自己信頼感が強く、完璧主義者でもある。
 しかし、挫折すると落ち込みが激しく、立ち直りに時間がかかる。自己嫌悪に陥りやすい傾向がある。
 また、敏感で、感性が豊かなのが、ひとりっ子の特質である。兄弟のいる子より、気持ちが「温かく」、思いやりの気持ちが強い。人の痛みを敏感にキャッチする。が、人への対応はぎこちない。
 ひとりっ子が多い職種は、芸術家や研究者である。ほかに、オーケストラの指揮者、音楽家、作家、ボランティア活動家、コンピューターのソフト制作者など。
 自分の趣味の延長、自分の好きなことを生かせる職業を選択しやすい。
 作家の村松友視、池田満寿夫はひとりっ子だとのこと。ふたりは、自分の作品が掲載されている雑誌が出版社から送られてくると、他人の書いた小説は絶対に読まない。自分の小説だけを四回も五回も読み、そして「おれの書いた小説はすばらしい。おれは天才ではないか」と、頭の中でくり返すのだそうだ。
 自分以外の作品には興味がない。ひとりっ子の興味の対象は常に「自分」だからである。自分を天才と思いこんで悦に入るといったことも、自己信頼感の表れで、ひとりっ子の芸術家は楽天的でおおらかである。
 画家の岡本太郎も典型的なひとりっ子だそうだ。
 現代の日本は少子化で子供の数は一家平均1.42。(この本が書かれたのは1996年なので、その頃のデータである。)日本は徐々に「ひとりっ子型社会」に移行してきたという。価値観の多様化、個人尊重の社会ということがよく言われるのもその徴候のようだ。
 それに対し、集団や社会のルールに従い、現実的な妥協を志向するのは、「兄弟っ子型社会」で、従来の社会のパターンだった。つまり、高度成長期の競争社会はそうだったと思う。
 最近、電車に乗っていると気づくことだが、若い乗客はみんなケイタイをいじって、自分ひとりの世界に埋没している。一昔前は、オタクとか言って、家にこもっていたが、今はオタクが街に溢れていると思えてならない。これも、ひとりっ子型の社会が進行している表れなのだろう。