背寒日誌

2024年10月末より再開。日々感じたこと、観たこと、聴いたもの、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

チャーリー・パーカーに関する文献・資料(4)

2019年07月31日 14時34分21秒 | チャーリーパーカー
 先日アマゾンで注文したライズナー編著「チャーリー・パーカーの伝説」の原書”Bird: The Legend of Charlie Parker”(Edited by Robert Reisner, 1962) が手元に届いた。初版本は1962年にニューヨークの出版社から発行されたが、この本は、ダ・カーポ出版(Da Capo Press)という出版社が1975年に再版した本のペイパー・バック版である。現在あちこちを拾い読みしている。



 片岡義男が訳した日本語版と比較しながら読むと、日本語ではどうしても意味が伝わらなかった部分も分かって、納得が行く。原文を意訳している箇所、訳者がどうやら文意を読み取れなくて誤魔化して訳している箇所、明らかに誤訳だと思われる箇所も分かってくる。大して重要でない部分は良いのだが、パーカーの研究に関し貴重な発言だと思われる部分、伝記を書く上で重要な箇所は、正確さが問われる。不適切な和訳は、問題である。

 一例を挙げよう。ハイスクール時代のバンド・リーダーで、チャーリー・パーカーの10代の頃を知っているローレンス・キーズの談話の冒頭部分。原文はこうだ。

 Bird went to Crispus Attucks public school and then to the old Lincoln High School. We had a school band of which I was the leader. Alonzo Lewis was our music teacher, and it’s to his credit that he saw the promise in Charlie’s playing and said so. Bird played baritone horn in the band, but off the stand he was fascinated with the piano, and he used to bother me to show him the chords. I was three years older than him. I was a sophomore, and he was a freshman.

 片岡訳はこうだ。下線と(注の番号)は私が付けたもので、不適切だと思う訳文・訳語である。
 「バードはクリスパス・アトゥックス公立学校へいき、そのあと、昔からあるリンカーン・ハイスクールに入った。スクール・バンドがあり、私がリーダーだった。アロンゾ・ルイスが私たちの音楽の先生で、チャーリーの演奏のなかに可能性を見出してきみは見込みがあると言ったのは、この先生の手柄だ(1)。このスクール・バンドでは、バードはバリトン・サックス(2)を吹いていたが、スタンドをはなれたところではピアノにひかれていて、コードを教えてくれと私にうるさくつきまとっていた(3)。私は彼よりも三つ年上だった。私は三年生(4)で、彼は一年生だったのだ」

 (1)意訳だが、「きみは見込みがあると言った」と訳したのはやや疑問。原文では、ルイス先生がチャーリー本人に直接言ったかどうか分からない。「きみは」は不要だと思う。強調構文を直訳していて、to his credit を「この先生の手柄だ」と訳しているが、「手柄」という訳語はどうなのだろう。ルイス先生は「さすがに偉い、目が高い」といった意味だと思う。
 (2)「バリトン・サックス」は誤訳。「バリトン・ホーン」が正しい。サキソフォーンとホーン(ホルン)は違う楽器なのだ。私は以前この訳語を見て、おかしいなあと思っていた。これはチャーリー・パーカーが最初に演奏した楽器に関わる重大なミスである。
 (3)誤訳ではないが、適訳とはいえない。片岡訳は、全般的にひらがなが多すぎる。意識的にそうしているのだろう。また、英語をそのままカタカナにしていて、意味が分りにくいことばも多い。「スタンド」というのは、「バンド・スタンド」つまり「演奏壇」のことだが、off the stand は「演奏壇を離れると」「バンドで演奏していない時」といった意味だと思う。「うるさくつきまとっていた」という訳文は強すぎて、「邪魔くさい」イメージが加わってしまう。bother a person to do は「人に~してくれと言って困らせる、面倒をかける」といった意味だが、ちょっと厄介なことを頼むまれて面倒に思う程度にすぎない。
 (4)「3年生」は誤訳。なぜこんな簡単な英語の訳語を間違えたのか、まったく疑問だ。sophomoreは、4年制の学校で「2年生」のこと。freshman → sophomore → junior → senior という順に進級するのは常識ではないか!

 私ならこう和訳したいと思う。
 「バードは、クリスパス・アタックス公立校から、古いリンカーン・ハイスクールに入った。このハイスクールには、私がリーダーをやっているスクール・バンドがあった。アロンゾ・ルイスが音楽の先生だった。先生はさすがに目が高く、チャーリーの演奏に将来性を見出し、有望であると言ったのだ。バードはこのバンドでバリトン・ホーンを演奏したが、バンドを離れると、ピアノに魅力を感じていた。だから私はいつも彼にせがまれ、コードを教えたものだ。私は3歳年上だった。私は2年生、彼は1年生だった」

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チャーリー・パーカーの半生(8)

2019年07月30日 16時25分42秒 | チャーリーパーカー

<アディ・パーカー 何歳の時かは不明>

 チャーリー・パーカーの母のアディという女性は、察するに、女傑というか、大変な肝っ玉かあさんだった。夫に逃げられ、息子がハイスクールに入ってから約2年間は、昼も夜も働きづめで、金を稼いだ。日中は白人の家で家政婦をやり、夜遅くから翌朝までは公営の電報電信局の大きなビル内の清掃をしていた。彼女と息子チャーリーが住んでいた家は、黒人居住区のオリーヴ通り1516番地に建っていた木造の二階屋で、借家だが二階を全部知り合いに又貸しして、家賃を取っていた。自分と息子は、一階に住んでいた。一階には居間と台所と寝室が2部屋あり(2LDK)、居間には夫が残していったピアノがあったという。
 で、アディは睡眠時間まで削って、いったい何のためにこんなに一生懸命働いていたかというと、息子を医者にするための教育費と、持ち家を買うための資金を蓄えていたのだ。
 しかし、第一の目的は果たせず、息子のチャーリーは学校をさぼりまくり、勉強どころではなくなって、彼女の夢は潰え去ってしまう。だが、第二の目的は10年後に果たすことができた。同じオリーヴ通りを少し下ったところの1535番地に、立派な2階建ての家を買ったのである。1943年のことだった。その時からずっと、いつかこの家で、息子チャーリーとその家族たちと一緒に暮らすことを思い描いていたのだという。だが、この希望もかなわずに終わってしまう。


<カンザス・シティ(ミズーリ州)・オリーヴ通り1516番地の現在>

 アディ・パーカーの前歴を調べてみたので、書いておこう。

 アディの旧姓は、ボクスリーBoxley が正しいようだ。チャーリー・パーカーの出生証明書にはベイリー Baileyと書いてあり、他の公式書類には、Bayley, Boyleyと書いたものもあるようだ。がこれは、筆記体で書いた文字の読み違い、転記ミスであろう。また、アディ Addie という名は、アデレイドAdelaide の略称らしい。けれども、一般にはAddieで通し、公式書類もすべてこの名で署名していたようだ。墓石にもAddie Parker と刻まれているので、まあ、この正式名らしき名前は、あってないようなものだろう。Charlie の正式名Charles とは訳が違うと思う。
 それと、アディの誕生地であるが、テキサス州のヘンプステッド Hempstead あるいはオクラホマ州のマッカレスター McAlester のどちらかのようだ。彼女の一族はオクラホマ州マスコギー Muskogee 出身で、アディはチョクトー族の血が4分の1混っていたと書いた本もあるようだが、これも真偽不明である。伝記作家がひねり出した根拠薄弱な推測かもしれない。チョクトー族Choctawというのは、北米の先住民(いわゆるアメリカ・インディアン)で、当時オクラホマ州に多くいたようで、アディがオクラホマ州出身で、顔つきや体形も少しインディアンに似ているところがあるので、そんな説を持ち出したのだろう。

 アディは、20代の時、オクラホマ州からカンザス州へ移って来て、チャールズ・パーカーと出会い、結婚した。その時、本当は25歳だったのだが、18歳だと偽った。そして、1898年8月21日生まれをその後もずっと通し、22歳でチャーリーを産んだことにしていた。チャーリー・パーカーは母の実年齢を知っていたらしく、1950年5月のインタビューでは、「彼女はとても活発で……62歳なんだけど、看護学校を卒業したばかりだ。老けてはいないし、動作もきびきびしている」と話している。1950年で62歳としたら、1888年生まれになって、10歳も年寄りになってしまうが、これはいったいどうしたわけなのだろう? アディは、働きながら看護学校へ通って、62歳(?)で、介護婦の資格を取り、カンザス・シティの大病院に就職する。その後、10年ほどここで勤めて引退したようだ。

 これは余談だが、アディは夫チャールズが家を出た後、愛人が出来て、彼を時々家へ招き入れていたという。ある日、チャーリーは、母がベッドでその男といっしょに寝ているのを目撃してしまう。その時、母は苦しまぎれに言い訳したそうだが、ショックだったにちがいない。チャーリーがハイスクールに通っていた頃で、その後、母がその男と寝室にいる時、チャーリーは居間で独りポツンとしていたという(レベッカの話)。そして、多分この愛人だと思うが、アディは1940年頃、その男と同棲するようになったらしい。新たに家を買ったのは彼と新居で暮らすためだったのかもしれない。
 そして、チャーリー・パーカーが死んだ後、アディはアウグストゥス・ダニエルという77歳の人(どうやら以前の愛人と同一人物らしい)と、1963年5月に正式に結婚している。しかし、結局彼とは離婚したようだ。
 アディが亡くなったのは、1967年4月21日である。彼女は最愛の息子の隣りに埋葬されたが、その墓石には、1891年8月21日という正しい生年月日が刻まれている。


<カンザス・シティ(ミズーリ州)のリンカーン墓地にある母子の墓>
 
 次回は、チャーリー・パーカーの初恋の女性で最初の妻になったレベッカ・ラフィンについて書きたいと思う。

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チャーリー・パーカーの半生(7)

2019年07月28日 23時13分20秒 | チャーリーパーカー
 お墓サイトの調査者トム・ネルソン氏は、チャールズがアディと再婚した時期を1916年頃だと推測しているが、これは確かなことではない。ネルソン氏は、1930年の国勢調査でチャールズ(当時41歳)の結婚した年齢が27歳と書いてあるのを見て、1930年から14年(41歳マイナス27歳)を引いて1916年と算定している。しかし、27歳というのはチャールズの初婚の年齢であり(PDFでアップしてある書類を見て確認した)、先妻のイーディスと結婚した時の年齢である。それと、チャールズの1930年当時の年齢の41歳というのが、それまでの書類を見ると、どうも疑問で、なぜか2歳ほど若く年齢を誤魔化しているようなのだ。したがって、チャールズがアディと結婚したのは1916年以降1920年以前であることは間違いないと思うが、正確な年月は分からない。
 同じ1930年の国勢調査で、アディ(当時32歳)の初婚の年齢は18歳と書いてある。これも不可解である。アディは墓石に1891年8月21日生まれと刻まれているし、1910年のオクラホマ州の住民調査では、アディ・ボクススリーBoxley(娘時代の旧姓)は18歳とある(これが正しい)。この時、彼女は白人の家で住み込みの家政婦をやっていた。20年前の調査で18歳だったならば、1930年時点では38歳になっていたはずだ。したがって1930年の国勢調査で32歳と申告したのは真っ赤なウソで、7歳もサバを読んでいる。誕生日の8月21日はそのままにして、生年を1891年ではなく、1898年にしてしまったのだ。
 まあ、女性が年齢を偽称するのはよくあることだし、自己申告の通り18歳(本当は25歳)で結婚したとすると、結婚年が1916年になり、ネルソン氏の推測とぴったり合うのだから面白い。しかし、これはチャールズとの結婚がアディにとって初婚だったとしての話である。
 
 戻って、1925年のカンザス州の住民調査(3月初めか?)によると、戸主チャールズ・パーカー・シニアに関する記録は以下の通りである。
 誕生地=テネシー州、性別=男性、年齢=37歳、人種=黒人、配偶者=アディ・パーカー。職業=コック、勤務先=鉄道。住所=852番地(フリーマンFreeman通り)。同居家族=アディ・パーカー(28歳)、チャールズ・パーカー(4歳)。
 
 チャーリー・パーカーは、1920年8月29日に当地で生まれてから1925年春(4歳の頃)までずっとフリーマン通り852番地の家に住んでいた。父チャールズは、当時、鉄道会社のコックとして働いていた。同居家族に異母兄ジョン(10歳)はいない。この三つのことが明らかに分かる。
 母アディは、異母兄ジョンもいっしょに育てたといったニュアンスで話していたが(「チャーリー・パーカーの伝説」)、ジョンは、祖母エラ・パーカーの家でずっと育ったというのが事実だった。
 パーカーの伝記作家の多くは、ジョンは父チャールズが母と別居した時、父といっしょに連れて行かれたように書いていて、それまでジョンはチャーリーと同じ家で兄弟として育ったとしていた。が、これはアディの話を信じたために起きた誤解だった。
 パーカー一家は1925年~30年の間にカンザス州側のカンザス・シティ(ワイアンドット郡)からミズーリ州側のカンザス・シティ(ジャクソン郡)に転居した。チャーリー・パーカー本人は、7歳の時にミズーリ州側に引っ越したと言っている。とすると、転居したのは、1927年秋から1928年の夏前のことになるだろう。しかし、転居した理由は分からない。チャーリーの学校のためか、父チャールズの仕事のためなのか、そのどちらなのかもしれない。
 1930年の国勢調査についてチャールズ(シニア)とアディの年齢のことはすでに触れたが、パーカー一家は、この時点ですでにミズーリ州側のカンザス・シティに転居していた。住所は、西34番通り109番地である。(まず、ここに引っ越して、ミズーリ州側のカンザス・シティ内でまた引っ越すのだが、そこがオリーヴ通り1516番地である)
 また、これで新たに分かったのは、チャールズ(シニア)の職業がアパートの管理人(janitor)になっていて、鉄道会社のコックは辞めてしまったことだ。チャーリー・パーカーは9歳、誕生地がなぜかミズーリになっているのが解せない。同居家族にジョンはいない。

 お墓サイトにあるチャールズ・パーカー・シニアの追跡調査はここまでである。
 そして、ネルソン氏は、チャールズ・シニアの没年を、1939年末か40年と推定している。
 母アディが言うように、彼が死んだのは、チャーリーが17歳の時だったとすれば、1937年後半から1938年前半になるはずである。しかし、この推定は、何か別の根拠に基づいているようだ。「シカゴにいたチャーリーに連絡をとり、葬式に連れて帰った」というアディの別の発言を根拠にしているのかもしれない。チャーリー・パーカーが母と妻子を残し、家出同然にカンザス・シティを出て、初めてシカゴへ行くのは1938年秋で、その後カンザス・シティに帰ったり、またシカゴに行ったりを繰り返していたからである。1939年はニューヨークにしばらく居て、またシカゴに舞い戻ったようなので、父チャールズの死をその頃だと考えたのかもしれない。とすると、チャーリーが19歳の時になる。

 チャールズ・パーカー・シニアに関して、ほかに述べられていることを、ここに書いておこう。
 アディの話では、彼は酒飲みで、料理が得意で、学識があった(a good scholar)。
 チャーリー・パーカーは、「教養ある人だったことは確かだ。二、三の外国語を話すことができた」(”He sure was a well-tutored guy. He spoke two , three languages.”)と言っている。
 ラッセル著「バードは生きている」には、別居後は「シンジケートの手先の賭博師として日向を歩くことはない男になっていた」と書いてある(ただし、この記述の真偽は不明)。
 また、レベッカの話では、チャーリーと結婚した日(1936年7月25日)に、父チャールズとジョンがオリーヴ通り1516番地の家へお祝いに来て、一緒に食事したという。その時が、レベッカが義父に会った最初で最後だったようだ。「黄ばんだ顔にダーク・ブラウンの目が映える男の人で、髪は横分けにして撫でつけていた」(「セレブレイティング・バード」)というのは、レベッカが義父チャールズ・シニアを見た時の印象だろう。

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チャーリー・パーカーの半生(6)

2019年07月28日 12時01分13秒 | チャーリーパーカー
 父チャールズ・パーカー・シニアの墓は探索中で、まだ見つかっていない。したがって、生年月日と死亡年月日は不詳。また、母アディの話では、チャーリーが17歳の時、彼のお父さん(つまり自分の夫)はある女性に刺殺され、葬式も行ったというが、死亡記事も葬式の記事も見つかっていないようだ。公式書類で判明しているのは、以下のことだ。
 チャールズ・パーカー・シニア Charles Parker Sr.は、1886年か1887年に、カンザス州ショーニー郡トピカTopekaか、あるいはテネシー州のどこか(メンフィスかもしれない)で生まれた。黒人と記載(混血かどうかは不明)。(27歳の時)イ―ディス・ズルチャインEdith Zulchineという同い年の白人女性(出身地は不明、外国からの移民かもしれない)と結婚。1914年6月13日にイリノイ州のシカゴでジョン・アンソニー・パーカーJohn Anthony Parkerが誕生している(出生証明書あり)。

 母アディの話(「チャーリー・パーカーの伝説」)では、夫チャールズ(シニア)のことも腹違いの長男ジョンのことも分からないことだらけだった。ジョンはチャーリーより2歳年上だと言うので、不可解だと私は思っていたのだが、実は6歳年上だった。ジョンは、チャールズ(シニア)と先妻の間にできた子で、黒人と白人のハーフ(英語ではmulattoと言う)であった。

 ジョンが生まれて間もなくチャールズとイーディスの夫妻は、シカゴからカンザス州のカンザス・シティ(第3地区)に引っ越す。これは私の推測だが、カンザス・シティはチャールズ・パーカー・シニアの生地で、ここに実家があったのではなかろうか。
 1915年のカンザス州住民調査によると、カンザス・シティの住居(Washington Boulevard)には、チャールズ(28歳)、妻イーディス(28歳)、息子ジョン(生後9か月)のほかに、チャールズの祖母ジェイン・グッドロウ(75歳)、母エラ・パーカー(45歳)、妹ベッシー・パーカー(20歳)が同居していた。父はいない。この家の戸主は母エラ・パーカーである。チャールズは妻子とともに、母の住む実家に転がり込んだのだろう。

 しかし、妻イーディスはいったいその後どうなったのだろうか。ジョンを産んで間もなく、消えてしまったようなのだ。チャールズと別れて家を飛び出したのか、それとも死んでしまったのか? まだ人種差別が強かった時代に、白人女性が黒人と結婚し、ハーフの男の子まで産んで、しかも黒人家庭に同居するというのは、大変なことだったと思う。カンザス・シティは、とくに人種差別が激しく、白人女性とデートしている黒人が殺される事件もあったという。
 1920年時点でジョン(5歳)は、カンザス・シティの同じ家に残り、祖母エラ(父チャールズの母)と曾祖母ジェインのもとに預けられていた。父チャールズと母イーディスはもうこの家にはいない。
 1920年と言えば、チャーリー・パーカーが8月29日に生まれた年で、チャールズ(シニア)はすでにアディ・ボクスレイAddie Boxley(旧姓はベイリーBaileyほかの表記もある)と再婚していたはずである。アディの話では、チャーリーが生まれた家は、カンザス州のカンザス・シティの郊外で、フリーマン・ストリート852番地だったという。
 この住居と、チャールズ(シニア)の実家すなわち母エラが住んでいて長男ジョンのいる家は、同じカンザス州のカンザス・シティにあったのだが、近かったのだろうか。チャールズ(シニア)は実家を訪ねることがよくあったと思うが、アディとチャーリーも行ったのであろうか。異母兄ジョンは、しばしば父の家に来て、弟のチャーリーと遊んだのだろう。チャーリーは兄ジョンのことを「アイキー」Ikeyと呼び、ジョンも弟チャーリーを可愛がっていたらしい。ジョンと幼い頃のチャーリーの二人が写っている写真が残っているので、載せておこう。


<チャーリーは4歳ごろ、ジョンは10歳ごろか?>

これまで出版されたチャーリー・パーカーの伝記本では、父チャールズについての記述はほんの数行で、異母兄ジョンについても簡単に触れた程度だった。また、母アディの結婚前後についての記述もなかった。今後、パーカーの伝記を書く人は、ここに挙げた点に留意して、書き改める必要があると思う。
 ちなみに、ギディンス著「セレブレイティング・バード」にはこう書いてある。
 チャールズ・パーカーはミシシッピに生まれ、メンフィスで育った。黒人ヴォードヴィルの興行組織「T.O.B.A」(Theater Owners’ Booking Association、1911年結成)サーキットのダンサー兼シンガーとしてツアー中にカンザス・シティに流れついた。
「チャーリー・パーカーの伝説」にあるアディ・パーカーの話では、「チャールズ(ジュニア)のお父さんは、メンフィスの出身で、私がはじめて彼に会ったころには、カンザス・シティ周辺のヴォードヴィルのステージで、ピアノを弾き、歌をうたっていました」という。
 チャールズ(シニア)が1914年にシカゴで先妻と暮らしていた頃、ヴォードヴィリアンをしていたかどうかは不明である。また、巡業中にカンザス・シティに流れて来て、ここに住みついたという記述も疑問のようだ。1915年以降、アディが彼に会った時は、ヴォードヴィリアンをやっていたということだけは確かなのだが、20代の頃の彼の履歴はまったく分からない。

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チャーリー・パーカーに関する文献・資料(4)

2019年07月28日 09時36分20秒 | チャーリーパーカー


 先日、米国のウェッブサイトをいろいろ覗いていたら、”Find a Grave”(お墓はどこか)という著名人のお墓探しのサイトを見つけた。
 そこには勿論、チャーリー・パーカーの項目があり、お墓もあった。ページのトップに、生年月日、誕生地、没年月日、死去地、そして埋葬墓地が記載され、お墓の写真がアップされている。その下に、チャーリー・パーカーの業績を書いた文章が続き、このサイトを訪ねた人たちのメールによる献花がある。
https://www.findagrave.com/memorial/1426/charlie-parker


<ミズーリ州カンザス・シティのリンカーン墓地。チャーリー・パーカーの墓のそば>


<チャーリー・パーカーの墓石。左側は母アディ・パーカーの墓石>

 さらに、これが興味を引いたのだが、パーカーの親族の項目があって、母アディ、四人の妻レベッカ、ジェラルディーン、ドリス、チャン、実子のレオン、プリー、ベアドのページにつながっていた。
 それらをクリックして見ると、それぞれの人に関し、追跡調査した結果(2019年更新)が記載してあるではないか。また、母アディのページには父チャールズの項目があって、これを見るとチャールズだけでなく、異母兄ジョンについて調査した結果も載っている。
 トム・ネルソンという奇特な人が、役所に保存してある出生証明書、結婚証明書、国勢調査や各州の住民調査などの記録を閲覧し、調査したのである。しかも、重要ないくつかの書類はPDFの画像で見ることができる。本人あるいは親族が適当に申告したのだろう。誕生地(州だけ)などは書類によって記述の違いがあり、どれが正しいのか分からない。しかし、それでも、既刊のパーカーの本にはまったく触れていない事実がいくつも明らかにされていた。おかげでパーカーの幼少年時代に関する疑問点がかなり解決した。

 次回、チャーリー・パーカーの父母と幼少年時代のことで新たに分かった事柄を書きたいと思う。

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