背寒日誌

2024年10月末より再開。日々感じたこと、観たこと、聴いたもの、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

映画女優、入江たか子(その11)~『雪子と夏代』

2012年07月25日 15時46分41秒 | 映画女優入江たか子
 7月9日に山田五十鈴が95歳で亡くなった。が、私が知っている現役の山田五十鈴はすでに50を過ぎたオバチャンで、映画女優というより舞台役者、テレビドラマのお茶の間女優だった。その凄さを知ったのはずっと後年で、戦前の代表作をまずビデオで、それから名画座やフィルムセンターなどで、見始めてからだ。山田五十鈴はほぼ私の母と同年代で、ファンになるとか好きになるとかいったことは決してなかった。戦前から昭和20年代後半までに活躍した日本人の映画俳優はみんなそうだ。それが、今になって昭和全体が遠い昔となり一定の距離を置いて眺められるようになると、明治生まれも大正生まれも昭和一ケタ生まれの俳優(主に女優)も横一線に並んで客観的な眼で評価できるし、主観的な趣味で好きだとか好きでないとか言えるようになった。不思議なものだ。
 入江たか子は私の伯母の世代である。今生きていれば101歳だ。最近は入江たか子の戦前の映画ばかり観ているが、違和感はない。もう戦前の女優も戦後の女優も、また私と同世代の女優も、その全盛期の映画を観ていると、大差ない見方で楽しめるようになった。

 何年か前に池袋の新文芸坐で、入江たか子の『滝の白糸』と山田五十鈴の『折鶴お千』の2本の無声映画を同じ日に観たことがある。どちらも泉鏡花原作、溝口健二の監督作品である。作品的には『滝の白糸』の方が良かったが、主役の入江たか子と山田五十鈴は甲乙つけがたいほど素晴らしいと思った。女優のタイプとしては全く違う。入江たか子はクラシックで古いタイプ、山田五十鈴はモダンで新しいタイプと言えるが、この2本の映画で、どちらも女の情念のすさまじさを演じていた。貞淑で身を犠牲にして男に尽くす禁欲型の女を演じたのが入江たか子、奔放で男を意のままに支配する享楽型の女を演じたのが山田五十鈴だった。


山田五十鈴(『折鶴お千』)

 さて昨日、『雪子と夏代』(1941年 東宝映画)をビデオで観た。入江たか子(雪子)と山田五十鈴(夏代)が初共演した映画である。期待して観たが、単に通俗的な女性映画でちょっと失望した。
 この時代の東宝の現代劇映画というのは、清涼飲料水、それも気の抜けたサイダーのような作品が多い。監督は青柳信雄だったが、監督の力量にも問題があったのだろう。明らかに二十代から三十代の一般女性を対象にした映画で、薄味で濃密度が足りなかった。
 原作は吉屋信子が主婦之友に連載した「未亡人」という小説だが、同じ吉屋信子原作でも『良人の貞操』の方がまだしも良かった。三十歳前後の二人の女性を主人公にその友情をテーマに描いた点では同工異曲で、女学校時代にいわゆるエス関係(今の言葉でいうとレズだが、戦前はsisterの頭文字をとってエスと言った)にあった女性二人がそれぞれ結婚し別々の人生を歩むが、数年後にまた近づいて親しくなり、互いに慰め合ったり助け合ったりする内容。今では古くて、はやらない話である。『良人の貞操』は、片方の女性が夫を亡くし、もう一方の女性の夫と不倫関係になりかけて悩む話で、女同士の波乱があったが、残念ながら描き方が甘くて凄絶なドラマになっていないと思った。
 『雪子と夏代』は、二人とも若くして未亡人となり(雪子の夫は戦死で夏代の夫は病死したようだ)、互いにその不幸を嘆き、それぞれが抱えた問題を解決しようと相手のために尽力する話である。二人の未亡人の悩みというのは、雪子の方は、亡夫から預かり同居している年頃の義妹(谷間小百合)とのぎくしゃくした関係であり、夏代の方は、最愛の一人息子を義兄夫婦に養子にして自活するかどうかである。
 息子を連れて夏代が実家を出て、洋裁店をやっている雪子の家に同居してからストーリーが展開するのだが、いろいろな出来事は起るにしても、結局最後まで二人は仲の良い親友同士だった。一人の男をめぐって二人の間に嫉妬も争いもない。高田稔と江川宇礼雄の二人の男優が出演するが、どちらも類型的な善人で、見合いの席で付き添いの夏代(山田五十鈴)に一目惚れしてしまう内海という紳士が高田稔、夏代の息子を養子にしたがる義兄が江川宇礼雄だった。


入江たか子と山田五十鈴(『雪子と夏代』)

 観ていて食い足らなさを感じる映画だったが、入江たか子と山田五十鈴が二人で演じるシーンがたくさんあり、そこだけは見どころだった。二人はずっと着物で通していたが、二人とも背丈があるので、引き立っていた。入江たか子は、話し方も物腰もゆったりしていて品のいい令嬢が奥様になった感じで、この時30歳だったが、美しかった。ただ、アイラインが気になった。夜、布団に入って寝るときも化粧を落さないのは許しておこう。山田五十鈴は、セリフが実に自然で、先輩の入江たか子に合わせたのか、いくぶんゆっくり話していた。動きは多く、身振り手振り、細かい所を見ていたが、巧みなものだと感心した。



『雪子と夏代』 1941年8月14日公開 85分 東宝映画 
製作:竹井諒 演出:青柳信雄 
原作:吉屋信子 主婦之友連載「未亡人」より
脚色:八住利雄、青柳信雄
製作主任:市川崑 撮影:伊藤武夫 録音:三上長七郎 美術:金須孝 照明:西川鶴三 現像:西川悦二 編輯:後藤敏男 音楽:竹岡信幸、栗原重一 演奏:P.C.L.管絃楽団
主題歌:コロムビアレコード 作詞:西条八十 作曲:竹岡信幸
「雪子と夏代の歌」 松原操 渡辺はま子
「若きマリヤ」 松原操 霧島昇
出演:入江たか子(雪子)、山田五十鈴(夏代)、高田稔(内海晶一)、江川宇禮雄(及川精一)、谷間小百合(田鶴子)、音羽久米子(女中きよ)、藤間房子(及川濱)、三條利喜江(及川光枝)、立花潤子(佐伯弓子)、清川玉枝(小田切ぎん)、下田猛(小田切喬吉)、山川クマヲ(及川博)、小島洋々(藤原正典)ほか


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映画女優、入江たか子(その10)~兄・東坊城恭長(2)

2012年07月18日 16時44分12秒 | 映画女優入江たか子
 「日活の社史と現勢」(昭和5年11月発行)は信頼のできる資料であるが、その「現代劇監督部」に東坊城恭長の紹介文が掲載されている。

東坊城恭長 (現代劇監督部)京都公家出、家門は子爵、慶大文科に学ぶ。小笠原を経て大正12年末入社、俳優として立ち二枚目を演ず。後脚本部を経て昭和2年監督に昇進し『旅藝人』以下新鮮な映画を続々表す27歳。
 
 文中、「慶大文科に学ぶ」とあるが、「慶大文科出」となっていない。他の人物の学歴の表記では卒業した場合にはほとんどが「出」となっている。これは、恭長が中退したからである。また、「小笠原」とあるのは「小笠原プロダクション」。

 「日本映画監督全集」(キネマ旬報社)の岸松雄による「東坊城恭長」には次のようにある。

 慶応義塾大学文科卒業後、小笠原プロに入社、『泥棒日記』『海賊船』に出演し、そののち23年12月日活俳優部に入社。『青春の歌』でデビュー。

「慶応義塾大学文科卒業後」とあるが、正しくは「慶応義塾大学予科(文科)中退後」である。また、映画タイトルの『海賊船』は『海賊島』が正しい。

 学歴が気になるが、恭長が慶応義塾大学予科の文科(当時、予科には文科と理科があった)に進学したのは1921年(大正10年)4月である。予科というのは今でいう教養課程で、1920年の大学令によって慶應義塾大学部は正式に私立大学となり、文学部、経済学部、法学部、医学部の4学部を設置し、3年制の予科を付設した。恭長がどこの小・中学校を卒業して慶應義塾大学予科に入ったかは不明である。小学6年、中学4年を経て16歳で大学予科に入るので、1904年9月生れの恭長は、1921年に慶應義塾大学予科に入学したことになる。
 入江たか子著「映画女優」によると1922年8月父徳長が死んだ時、「恭長は十九才で慶応の予科に行き、文学に進みたがって、本ばかり読んでいた」とある。年齢は数えで表しているので、数えで「十九才」は、満17歳(9月の誕生日に18歳)である。恭長は予科2年生で、あと一年予科にいて文学部へ進学するつもりだったと思われる。
 が、父の死後、東坊城家の家計は窮迫し、1923年9月に関東大震災に見舞われ財産を失ったために、恭長は自活の道を考え、慶応義塾大学予科を3年生の半ばで中退した。中退したことは、たか子の「映画女優」にもはっきり書いてある。

 恭長の日活入社の時期を、「日活の社史と現勢」では「大正12年末」、岸松雄は「23年12月」としているが、大正12年=1923年なので、両者はほぼ一致する。
 それが、入江たか子著「映画女優」によると、「兄恭長の日活入り」と題する章に、次の文がある。

 その後恭長は映画ファンで同じ華族仲間だというので小笠原長生子爵の御曹子、小笠原明峰氏主宰の小笠原プロに手つだっていたのがきっかけで日活に入ることになった。
「華胃界の新人 子爵東坊城政長氏の令弟 恭長君が映画俳優に」
 読売新聞にこんな意味の三面記事が出た。大正14年(?大正13年が正しい)10月12日のことであった。
 そして、その日の夜、10時頃には、恭長はもう東京駅の下り列車の待合室に来ていた。日活撮影所のある京都へ旅立つべく……。そして母と光長と私が見送りに行った。


 恭長の日活デビュー作『青春の歌』は大正13年(1924年)12月5日公開であったから、この映画がクランクインしたのは、その年の10月中だったと思われる。恭長の日活京都撮影所入りが大正13年の10月半ばだとすれば、時期がぴったり合うわけだ。
 しかし、恭長の日活入社の時期を大正12年12月とすると、京都へ行くまでの約10ヵ月間、何をしていたのかが分らない。入社の契約だけ結んで、俳優以外のほかの仕事をやっていたのであろうか。たとえば、小笠原プロの製作に携わっていたとか……。

 問題は、次の二点である。一つは、恭長が小笠原明峰の設立したプロダクションに、いつから関わり何を手伝っていたのかということ。恭長が小笠原プロ製作の『泥棒日記』と『海賊島』に出演したと岸松雄は書いているが、何を根拠にそうしたコメントを加えたのであろうか。もう一つは、何がきっかけで恭長が日活に入ることになったのかということである。この辺の事情がよく分からない。


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映画『椿姫』~岡田嘉子と竹内良一の失踪事件の前後

2012年07月17日 16時42分36秒 | 映画女優入江たか子
 1927年(昭和2年)3月27日、『椿姫』(村田実監督)の主役と相手役であった岡田嘉子と竹内良一の失踪事件が起る。この事件の経緯と真相についてはいろいろな本に書かれているが、ここでやや詳しく触れておこう。日活および映画界だけでなく日本中を騒がせた大事件でもあり、東坊城恭長と入江たか子を語る上でも、欠かせない関連事件だからである。
 当時、岡田嘉子は映画女優の人気ナーバーワンだった。1925年(大正14年)の「キネマ旬報」による東西スター人気投票は以下のようになっている。
日本女優 一、岡田嘉子  781(票数)
       二、英百合子  518
       三、砂田駒子  366
       四、マキノ智子 198
       五、栗島すみ子 105
(ちなみに日本男優は、一、阪東妻三郎 二、中野英治 三、鈴木伝明。日本女優にまだ田中絹代も入江たか子もなく、男優に岡田時彦もない頃である)

 
 岡田嘉子(1902~1992)       竹内良一(1903~1959)
 
 岡田嘉子は1902年(明治35年)広島に生まれ、子供の頃から日本各地を転々とし、16歳で舞台女優を志願、新芸術座を振り出しに、山田隆弥主宰の舞台協会に入り看板女優として公演活動を続ける。一時期日活向島と出演契約を結び劇団の資金繰りのため座員ともども映画出演を続けたが、震災で関東一円の劇場も日活向島も潰れ、活動の場を失う。劇団も借金が嵩み、日活の幹部根岸耕一のコネもあり、ついに嘉子は日活京都に入社、映画女優として再スタートを切る。これが1925年(大正14年)初春で、嘉子22歳の時だった。入社第一回作品が『街の手品師』(村田実監督)、続いて『大地は微笑む 後篇』によって、今の言葉でいう大ブレーク。一躍、日活の、いや日本のナンバーワン女優にのし上がった。翌27年も『京子と倭文子』(阿部豊監督)、『日輪』(村田実監督)、『狂恋の女師匠』(溝口健二監督)と順調にヒット作に出演し、28年、『彼をめぐる五人の女』(阿部豊監督、岡田時彦主演)の大ヒットの後、満を持して臨んだのが大作『椿姫』だったのである。


『街の手品師』のポスター

 以下、「日本映画俳優全集 女優編」(キネマ旬報増刊1980年12月31日号)の「岡田嘉子」の項から少し長いが引用する。(佐藤忠男と司馬叡三による記述。改行は筆者)

 相手役には竹内良一が起用された。竹内は陸軍大尉で男爵の外松亀太郎と声楽家の玉子の長男で築地小劇場の研究生となるが、同僚の女優・若宮美子との恋愛事件から退団をよぎなくされた、母のはからいで村田実の渡欧に同行、帰国して日活へ入社、『彼をめぐる五人の女』でデビューした新人である。
 嘉子は山田隆弥との仲が、いぜんとして従来の中途半端な関係のままで、私生活のうえで行きづまりを感じていただけに、森岩雄がデュマ・フィスの原作をもとに彼女のイメージを生かして翻案脚色したというこの『椿姫』に、日活入社いらいはじめてといっていいほどの意欲をおぼえ、ことに「新しくは装えども古き心をもてる女の悲劇」という副題に共感し、女優生命を賭けてみようとまで思い込む。
 3月14日、銚子ロケから撮影開始。江ノ島、浜名湖とロケ地を変え、24日は日蓄で宣伝用のレコード吹き込み、26日に京都へ帰る。翌27日は夕方から仮装舞踏会のシーンのセット撮影。しかし主役の山路マリ子(マルグリット)と水沢春雄(アルマン)をやる嘉子と竹内良一は定刻になっても現れない。
 翌27日(?28日)、日活は二人が失跡したと判断、捜索にかかる。
 30日の東京朝日新聞は「遂に駆落と判った 大津方面へ捜索隊を出す」の見出しで「情死をなす恐れもある」と報じた。
 二人は福岡県飯塚の伯母(母の姉)のもとに身を寄せ、嘉子は両親に連絡。4月6日、神戸港まで来た父に迎えられる。
 失跡の原因は、村田実監督の演技指導に対する根強い反発で、撮影開始前、すでに役づくりのうえで村田の指示と彼女の考えは大きく食い違い、嘉子は迷いながら撮影に入り、ロケで群集を前に罵倒に近い叱声をあびせられるにおよんで撮影を続ける気がなくなり、そうした気持ちと、彼女の山田隆弥との曖昧な内縁関係や日活からの借金といった私生活上の悩みを、京都へ帰った翌日、彼女に惚れていた竹内に打ちあけたところ、竹内に同情が加わって衝動的に逃避行になったといわれる。
 日活は二人を解約。『椿姫』は夏川静江と東坊城恭長を代役として完成、5月に封切られたが、不評だった。が、夏川静江は、岡田嘉子が去った後、日活の看板女優としてスターダムに昇っていく。


『椿姫』夏川静江と東坊城恭長

『椿姫』1927年(昭和2年)5月公開 12巻 日活京都
 監督:村田実 脚本:森岩雄 撮影:青島順一郎 出演:夏川静江(椿姫と呼ばれる女、山路マリ子)、東坊城恭長(水沢春男)、高木永二(春男の父)、滝花久子(召使君江)、南部章三(金持川島)、三桝豊(老子爵大脇)、島耕二(友人小野)、渡辺邦男(アパートメントの下男)

 さて、話題は東坊城恭長に戻る。結局、恭長は『椿姫』の出演を最後に俳優を辞め、二度と映画に出ることはなかった。もともと俳優より脚本家か監督を志望していたこともあり、前年の1926年秋に『都の西北』を撮り終えた後、恭長は俳優部から脚本部に転じていた。
 1927年春には映画『靴』のオリジナル脚本を書き始めている。『靴』は、日活で彼の名が初めて原作・脚本にクレジットされた作品で、内田吐夢監督、島耕二主演で製作され、3月半ばに完成し、3月26日に公開された翌日に、岡田嘉子と竹内良一の失踪事件が起ったのだった。会社から、そしておそらく村田実監督自身から『椿姫』の代役を懇願され、恭長は仕方なく引き受けたのだろう。
 その後、恭長は、27年(昭和2年)6月、監督に転じ、阿部豊と共同監督で『旅藝人』という作品を撮っている。22歳という若さでの異例の監督昇進である。同年『鉄路の狼』『喧嘩』の2本の作品でメガフォンを取る。
 妹の入江たか子が内田吐夢監督作品『けちんぼ長者』に出演するため日活京都撮影所にやって来たのは、ちょうどそんな頃だった。


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映画女優、入江たか子(その9)~兄・東坊城恭長

2012年07月16日 21時48分18秒 | 映画女優入江たか子
 入江たか子は、小さい頃から三番目の兄・恭長(やすなが)とは大変仲が良く、また恭長も妹たか子を大変可愛がっていた。恭長は1904年(明治37年)9月生まれで、たか子より六歳半年上であるが、東坊城家の三男坊ということで、自由気ままに成長したようだ。少年の頃から大の映画狂で、学業そっちのけで映画ばかり観ていた。当時発刊された映画雑誌「活動倶楽部」(1918年創刊)なども読みふけり、18歳の頃にはその投書欄に東翠光のペンネームで「マーシャル・ニーラン論」を寄せたりしている。マーシャル・ニーラン(1891~1958)は1920年代にアメリカで活躍した才能豊かな映画監督で作家である。若き日の恭長は、洋画とくにアメリカ映画を好んで観ていたらしく、マーシャル・ニーランは彼が最も大きな影響を受け憧れた映画作家だったようだ。また恭長は、同好の愛活家(活動写真を愛する人、昔映画ファンはこう呼ばれていた)仲間と交遊し、謄写版刷りの映画誌を出版するほどだった。恭長は慶應義塾大学予科の文科に進み、映画とともに文学や演劇も愛好し、自ら戯曲も書いたりしている。


東坊城恭長(1904~1944)

 「日本映画監督全集」(昭和51年12月キネマ旬報増刊号)の「東坊城恭長」の項は映画評論家で脚本家の岸松雄の記述によるものだが、若い頃の坊城(ぼうじょう、仲間の愛称)とは全然付き合いはなかったが、と断った上で、多分親しい誰かからの聞き書きだろう、当時の彼の様子をこう書いている。

 貧乏華族というほどではないが、あまり富裕とも思われない四谷のお屋敷に仲間の愛活家が押しかけたりすると、そこは昔ながらの格式を重んじてか、いかめしい老女中が玄関先にあらわれて、「若様はいま学校からお戻り遊ばしたばかり。お召し換えのすむまでしばらくお待ち下さいませ」と、一室に通し、やがて高杯(たかつき)に干菓子を盛ったものを持ってくる。お茶の接待。待つ間ほどなく坊城(仲間の愛称)が着がえをすましてあらわれると、「よう、キミ、見たかい? 『わが恋せし乙女』、教会の鐘が鳴ってさ、砂時計のアップが出て、チャールズ・レイが涙をためてさ。それより何よりパッシー・ルスミラーの乙女がすげえシャンと来てやがる……」、すぐにセンティメンタルな映画の話が始まる。まことにもって子爵家として困った若様である。そのあと揃って映画見物に行くことは言うまでもない。

 さらに続けて、岸松雄は恭長の経歴を次のように書いているが訂正すべき箇所がある。(?)の中は私が記したもの。

 慶応義塾大学文科卒業後(?実は中退した)、小笠原プロに入社、『泥棒日記』『海賊船』(?『海賊島』が正しい)に出演し、そののち23年12月日活俳優部に入社(?日活京都撮影所へ実際に入所するのは24年10月)。『青春の歌』でデビュー。以来『浪荒き日』『栄光の丘』(?『波荒き日』『栄光の丘へ』)『お雪とお京』『娘の行商』『人間』『日輪』『死の宝庫』『神田の下宿』などに出演、気品のある二枚目として売り出す。

 これでは恭長が日活俳優部に入るまでの経緯がさっぱり分らない。(小笠原プロに関しては次回に詳しく書くつもりである)
 それに日活デビュー作『青春の歌』以降の出演作も重要な作品が何本か抜けている。作品の公開年月と監督と主な出演者などを付記しておく。(インターネットの「日本映画データベース」を参照したが、このデータは主に「キネマ旬報」などの映画誌に準拠したもので、不完全で記載ミスも多い。ただし、現在観られない作品ばかりなので、信頼できる他の文献も参照して補足訂正していく必要がある)

<データ>  *注
『青春の歌』1924年(大正13年)12月公開 6巻 日活京都
 監督:村田実 原作:田中総一郎 出演:鈴木伝明、南光明、御子柴杜雄、高島愛子、東坊城恭長、近藤伊与吉
 *東坊城恭長は弟秀哉の役。(高島愛子の弟の役であろう)

『君國の為めに』 1925年(大正14年)1月公開 7巻 日活京都
 監督:若山治 出演:中村吉次、市川春衛、木藤茂、東坊城恭長、三島洋子、酒井米子、佐藤円治
 *恭長出演第2作。農夫の倅(せがれ)の役だった。そして、この年(大正14年)だけで10本の作品に出演する。無論以下すべて無声映画である。

『街の手品師』 1925年(大正14年)2月公開 7巻 日活京都
 監督:村田実 原作・脚本:森岩雄 出演:近藤伊与吉(小泉譲次)、岡田嘉子(お絹)、東坊城恭長(山中)、砂田駒子(上月節子)、佐藤円治、斉藤達雄、渡辺邦男
 *村田実監督の名作と言われている。が、フイルムが残っていない。原作脚本は、後に東宝の大プロデューサーになる森岩雄。松竹へ移る前の斉藤達雄、監督になる前の渡辺邦男が出演している。恭長は、紳士の山中という、主役の恋敵で重要な役だった。(『街の手品師』に関しては、猪俣勝人著「日本映画名作全史 戦前編」(教養文庫)に作品解説がある)

『大地は微笑む』第一篇 1925年(大正14年)4月公開 7巻 日活京都
 監督:溝口健二 原作:吉田百助 脚色:畑本秋一 出演:中野英治(村田慶一)、梅村蓉子(川瀬満智子)、高木永二(村田博士)、東坊城恭長(大津進)、星野弘喜(園部男爵)、小村新一郎(園部保之)、三桝豊(岡本博士)
『大地は微笑む』第二篇 1925年(大正14年)4月公開 7巻 日活京都
 監督:若山治 原作:吉田百助 脚色:畑本秋一 出演:中野英治(村田慶一)、岡田嘉子(李秋蓮)、梅村蓉子(川瀬満智子)、高木永二(村田博士)、東坊城恭長(大津進)、川田弘道(李仁敬)、佐藤円治(王烈釣)、星野弘喜(園部男爵)、小村新一郎(園部保之)
『大地は微笑む』第三篇 1925年(大正14年)4月公開 6巻 日活京都
 監督:鈴木謙作 原作:吉田百助 脚色:畑本秋一 出演:中野英治(村田慶一)、岡田嘉子(李秋蓮)、梅村蓉子(川瀬満智子)、高木永二(村田博士)、近藤伊与吉、三桝豊(岡本博士)
 *『大地は微笑む』は、松竹、日活、東亜キネマの三社競作だった。原作は、朝日新聞が公募した懸賞映画小説の一等当選作品。松竹は、原作者の吉田百助が脚本を書き、牛原虚彦と島津保次郎が監督し、主役の村田慶一役には井上正夫をあてる。これに対し、日活は法政大学中退の新人中野英治で対抗した。(東亜は高田稔。)相手役の李秋蓮は、松竹が栗島すみ子、日活が岡田嘉子。恭長は、中野英治演じる主役村田慶一の親友で大津進という役だった。第二篇で死ぬので、第三篇には出演していないと思われる。ただし、第二篇と第三篇は、後篇として同時に公開されたようだ。(『大地は微笑む』に関しても、猪俣勝人著「日本映画名作全史 戦前編」に松竹版の作品解説がある)

以下、恭長の出演作のデータを挙げておく。(出演者ある恭長の名は略す)
『波荒き日』 1925年(大正14年)5月公開 7巻 日活京都
 監督:若山治 原作・脚本:大谷錦洋 出演:山本嘉一、酒井米子、高木永二
 *「日活の社史と現勢」(昭和5年11月発行)の巻末にある製作品総攬を見ると、『大地は微笑む』の前に製作されたようだ。

『お雪とお京』 1925年(大正14年)9月公開 7巻 日活京都
 監督・脚色:伊奈精一 原作:石川白鳥 出演:梅村蓉子、浦辺粂子、高木永二

『娘の行商』 1925年(大正14年)9月公開 7巻 日活京都
 監督・脚本:楠山律 出演:梅村蓉子、牧きみ子、徳川良子、森田芳江、森清、高木桝次郎、市川春衛、木藤茂、大崎史郎、金山欣次郎

『栄光の丘へ』 1925年(大正14年)10月公開  日活京都
 監督:若山治 原作:高林潤之助 脚色:宍戸南河 出演:高木永二、酒井米子、梅村蓉子、南光明、島耕二、浦辺粂子

『小品映画集 街のスケッチ』1925年(大正14年)11月公開 1巻 日活京都
 監督・脚本:溝口健二 出演:岡田嘉子、星野弘喜、高木永二、砂田駒子

『人間』前後篇 1925年(大正14年)12月公開 12巻 日活京都
 監督:溝口健二 原作:鈴木善太郎 脚色:畑本秋一 出演:中野英治、岡田嘉子、高木永二、市川春衛、坂東巴左衛門、星野弘喜、浦辺粂子、森清、酒井米子、徳川良子、御子柴杜雄、砂田駒子、三桝豊、梅村蓉子

『日輪』後篇 1926年(大正15年)6月公開 7巻 日活京都
 監督・脚色:村田実 原作:三上於菟吉 出演:岡田嘉子、中野英治、山本嘉一、牧きみ子、高木永二、根岸東一郎、西條香代子、浦辺粂子

『故郷の水は懐し』 1926年(大正15年)6月公開 6巻 日活京都
 監督:若山治 原作:畑本秋一 脚色:田村虚舟 出演:衣川光子、川又賢太郎、高木桝次郎

『神田の下宿』 1926年(大正15年)7月公開 6巻 日活京都
 監督:伊奈精一 原作・脚色:木村恵吾 出演:根岸東一郎、佐藤円治、徳川良子

『死の寶庫』前・中篇 1926年(大正15年)9月公開 16巻 日活京都
 監督:田坂具隆、伊奈精一 原作:紀潮音 脚色:鈴木華香 出演:星野弘喜、島耕二、巽久子、西条香代子、三桝豊、小杉勇
『死の寶庫』後篇 1926年(大正15年)10月公開 8巻 日活京都
 同上

『都の西北』1926年(大正15年)11月公開 6巻 日活京都
 監督:伊奈精一 原作・脚色:木村恵吾 出演:中野英治、砂田駒子


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映画女優、入江たか子(その8)~伝記(2)映画デビューまで

2012年07月16日 05時38分01秒 | 映画女優入江たか子
 1923年(大正12年)3月、四ッ谷第三尋常小学校を卒業。たか子は洋画の勉強を望んで、4月、文化学院中学部に入学する。
 文化学院は、1921年(大正10年)、西村伊作により神田駿河台に開校。創立には、歌人の与謝野寛・晶子夫妻、画家の石井柏亭も携わる。学校令に縛られない自由な教育を目指し、あえて各種学校とし、また、4年制の中学部(旧制中学校に相当)では日本初の男女共学を実施した。たか子が入学した23年には木造4階建ての校舎を増築していた。
 たか子は文化学院中学部で講師をしていた画家の中川紀元(きげん)について油絵を習うことになる。中川紀元(1892~1972)は長野県出身、東京美術学校(現東京藝術大学)彫刻科中退後、洋画を勉強し、藤島武二、石井柏亭、正宗得三郎などに師事。1915年、第2回二科展に初入選。1919年にはフランスへ渡り、マティスに師事。帰国後滞欧作7点を出品し二科賞を受賞。古賀春江らと共に活躍中の新進洋画家であった。
 たか子在学中の文化学院の同窓生は34名。男女共学であったが、男子はわずか4名だった。同窓の女子に、すでに子供の頃から女優として有名だった夏川静江と、後年松竹蒲田の女優になる伊達里子がいた。夏川静江(1909年生まれ)は入江より2歳年長だが、東京女子音楽学校を中退し、同年4月文化学院中学部に転校してきた。伊達里子(1910年生まれ)は東京市赤坂の氷川小学校から23年文化学院中学部へ入学した。伊達は文化学院時代から映画女優志望だったという。
 
 同23年(大正12年)8月、長兄・政長がシカゴ大学留学を終えアメリカから帰国。父の死後、政長すでに子爵を継承していたが、定職にもつかず発明家を志し、特許をとる夢を追っていた。次兄・光長はすでに日本美術学校を中退し、独学で洋画の勉強を続け、三兄・恭長は、東坊城家を一人で支えている母・君子の相談に乗り、母と築地で料亭を開業しようとした。
 同年(大正12年)9月1日、関東大震災が襲う。たか子12歳、中学1年の時だった。千駄ヶ谷の東坊城家は半壊。一家は東京市外の高円寺の文化住宅に転居する。たか子の通う文化学院も増築校舎落成直後に大震災に遭い損壊。残された半地下室の煉瓦とコンクリートの基礎の上に再び木造2階建て校舎を建築し、授業を再開した。
 震災によって、母と恭長で料亭を開業する計画はついえる。
 恭長は慶應義塾大学予科を中退し、作家として身を立てる夢をあきらめ、自活の道を探っていた。その頃、同じ華族で知人の小笠原明峰(めいほう)が小笠原プロダクションを設立し、本格的に映画製作に乗り出していた。もともと大の映画ファンであった恭長も小笠原プロに出入りしているうちに、製作の手伝いや映画出演もするようになった。たか子も兄に誘われて撮影現場などに見学に行ったようだ。恭長は、それがきっかけで、映画会社の日活から俳優として誘われ、契約を結ぶ。
 翌1924年(大正13年)10月、恭長は単身京都へ旅立つ。日活京都大将軍撮影所に入所するためだった。東坊城恭長(本名のまま)の日活デビュー作は『青春の歌』(村田実監督、鈴木伝明主演)で、当時、子爵の令息が映画俳優になったと話題を呼んだという。
 同年(大正13年)12月、『青春の歌』公開。
 1925年(大正14年)たか子14歳、4月より中学3年に。恭長は日活の二枚目スターとして売り出し、この年11本の作品に出演。話題作『大地に微笑む』にも重要な脇役で出演した。
 1926年(大正15年)春、京都市北野神社の前に住居を構えた恭長が、母・君子と弟・元長を引き取る。この年、恭長は6本の作品に出演したが、俳優から脚本家・映画監督への道を目指す。一方、15歳のたか子は宮内省の官舎に住む長姉・敏子のもとへ移り、そこから文化学院へ通うことになる。


たか子16歳(満15歳)の頃(「日本映画スター全集4」より)
 
 1927年(昭和2年)3月、たか子16歳。4年間通学した文化学院中学部を卒業するとすぐ兄・恭長に連れられて、京都へ。母と兄と弟との幸福な四人暮らしを始める。
 同じ3月、日活の大作『椿姫』に主演する岡田嘉子と竹内良一の失踪事件が起き、夏川静江(同年1月に日活入社)と恭長がそれぞれの役を代演。『椿姫』は5月に公開されたが、評判はかんばしくなかった。それ以前すでに恭長は日活俳優部から脚本部へ転じ、『靴』(内田吐夢監督)のオリジナル脚本を書き上げていたが、『椿姫』を最後に俳優を辞め、監督に転向する。
 同じ頃、恭長は、客演していた京都の新劇団エラン・ヴィタールの主宰者野淵昶(あきら)にたか子を紹介。たか子は同劇団の美術衣裳の手伝いをするようになる。
 1927年(昭和2年)5月、公演予定の「伯父ワーニャ」のソーニャ役の女優が急病になり、その代役にたか子を抜擢。わずか3日の稽古で、京都YMCAの初舞台に立つ。この時から芸名・入江たか子を名乗る。この名は、兄・恭長の命名で、武者小路実篤の戯曲「若き人々」の登場人物の名を繋ぎ合わせたものだった。
 つづいて、6月に「商船テナシチイ号」出演。
 同1927年(昭和2年)9月、劇団創立十周年記念公演「生ける屍」に出演。
 「生ける屍」の終演後、兄・恭長から新進映画監督・内田吐夢(当時29歳)を紹介される。吐夢はたか子の舞台を3度観ていて、自分の監督する映画に彼女の出演を勧める。それは『けちんぼ長者』という映画だった。母が、日活京都撮影所長の池永浩久と旧知の間柄だったので、たちまち話がまとまり、たか子は日活に入ることになる。
 
 同1927年(昭和2年)10月、『けちんぼ長者』がクランク・イン、たか子は16歳で日活京都大将軍撮影所で映画女優としてスタートを切る。『けちんぼ長者』は内田吐夢監督の異色ミステリーで、たか子の役は、貧困児童を救済してまわる洋装の音楽家で、実は金持ちをゆする謎の義賊団の女団長だった。山本嘉一、島耕二、築地浪子、菅井一郎が共演した。


『けちんぼ長者』の宣伝用ポートレート

 当時、華族の姫君が初めて映画に出演するということで、新聞・雑誌で大騒ぎになった。
 『けちんぼ長者』は同年11月封切り予定だったが、検閲保留になり、公開延期(封切りは結局翌昭和3年10月になった)。その埋め合わせに急遽五巻物の中篇を作ることになる。伊奈精一監督の『松竹梅』である。共演は、見明凡太郎、戸田春子。


『松竹梅』

 1928年(昭和3年)1月、日活現代劇部の専属女優として正式に契約。その間『激情』に出演。この作品は兄・恭長が監督。(『椿姫』の後、兄は6月に監督に昇進していた)主演は、売り出し中のスター中野英治。
 同1928年(昭和3年)2月1日、『松竹梅』が浅草の富士館、神田の日活館など日活系映画館で公開される。これが映画女優入江たか子のスクリーン初登場の作品になった。2月7日、たか子は満17歳になった。
 
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