沖縄の基地問題をめぐってこの間、強く感じているのは「条理を尽くして訴えても、人はなお自らの偏見に適合する虚偽の情報を探し求める」という、周囲の善良な人たちの一般的傾向だ。沖縄の問題について東京の人々が語る態度には、「沖縄の人たちが悪い」という結論に回帰したい、という潜在的な感情を感じる。多少、歪んだ情報の誤りを指摘したところで、潜在的にできあがっている選好を崩すことは困難で、すでに理屈でどうにかなることではない、という徒労感が常にある。私たちの家族や友人、職場の仲間の中にさえ「沖縄差別」が標準として存在している。普天間小学校への落下事件への「素直な」反応に、それは端的に表れている。そんな中で、重要な視点として引っ掛かり続けてきたのが池上知子さんの「差別・偏見研究の変遷と新たな展開-悲観論から楽観論へ-」だった。具体的にはまたさらに時間をおいて検討せざるを得ないのだが、検討に先だって私見の論点をのべておく。 . . . 本文を読む
映画『遺言〜原発さえなければ』と、映画『遺言〜原発さえなければ』を特別上映として『奪われた村〜避難5年目の飯舘村民』が破格の入場料で同時に見られる上映会が。6時間という長丁場だが、なかなかない機会では。 . . . 本文を読む
今年も「人権週間」最終日。しかし、依然として憂慮することは、「人権教育」が、質・量ともに微妙な「啓発」であり、結局、一般に流布されることは「思いやり」という「心の問題」に過ぎなくなっていることだ。そのことには、おそらく多くの人が気づいているのだと思う。これまで通り「人権が大切だ!」といい続けても、人権は死んでしまうのではないか?もう一歩、根源的な検討を加える必要があるだろう。今回、参照するのは石埼学・ 遠藤比呂通編『沈黙する人権』(法律文化社、2012年)、33ページ~第2章「人権教育再考」阿久澤麻里子である。 . . . 本文を読む
10月22日、また衆議院議員選挙がやってくる。「選挙が好きな人たち」の跳梁が始まる。僕は選挙に出たことがあるくせに、「選挙が好きな人たち」が嫌いだ。その人たちとの関わりは最小限にしながら、「国政」と現実の選挙の関係性の検討は始めなければならないと考えている。 . . . 本文を読む
しばらくネットを離れたり集会や会議に出なくなったり、を不審に思われている、知人・関係者のみなみなさんに言い訳をしよう、というのが、今回の趣旨です。何も深刻な病気で余命宣告されてる、とかいう話ではないので、その点は誤解なきように。 . . . 本文を読む