はい、しげのですが?

匿名でないと困ることは書かない。最近は体調不良で投稿めっきり減ったが。

半年間のお休みの言い訳と、今後の再開についての思い

2017年03月26日 14時01分32秒 | Weblog

しばらくネットを離れたり集会や会議に出なくなったり、を不審に思われている、知人・関係者のみなみなさんに言い訳をしよう、というのが、今回の趣旨です。SNSとかでいいじゃないか、と思われるかもしれないが、そういうのをやっていない人を含めてご承知を、という気持ちです。何も深刻な病気で余命宣告されてる、とかいう話ではないので、その点は誤解なきように。

1年以上前の、やや古い話から始まる。昨年2016年は入院先の病院での年明けだった。

2014年に腸閉塞で救急搬送で入院した。まあそれはそれで終わったのだが、翌2015年は原因不明の足のむくみと膝の痛みに悩まされ、あまり体調がよいとは言えない状態が続いた。それでもだましだまし、各種の会議や集会準備等には可能な限り、参加していた。

2015年の年末、入院闘病中だった山城博治さんが多田瑤子反権力人権賞を受賞し、退院復帰直後に授賞式出席のため上京、しかも授賞式終了後、同じ会場での報告・交流会ということで、ここの手伝いだけはどうしてもしたくて働いた。無事山城氏をホテルに送り届けた翌日、足が膨れ上がり激痛で動けなくなり、再び救急搬送、ということになった。

搬送先は昨年の入院先と同じ病院だったが、レントゲンとCTでも原因はわからず、とりあえず血腫が心臓や脳に移動してゆくというような恐れはない、ということで、痛み止めの点滴のみ受け、休日明けに別の病院を受診するようにと紹介状を渡されて帰った。帰宅後翌日から発熱が始まり、翌々日の受診もできず、さらに翌日、職場に助けを求めて今度は紹介状を書いてもらった先の病院へ搬送され、即日の入院となった。発熱は40度に達し、エコー、CT、MRIと10数種類の血液検査を受けたが、原因は不明のまま。

それでも抗生物質のどれかが当たったのか、年末には発熱がやんだ。1月5日には退院か、というところまできたが、今度は全身に発疹、隔離に変わった。さらに血液検査が加えられたが、疑わしかった感染症はどれも陰性という結果で、隔離は解除され、さらに数日後、原因不明の寛解、という形での退院となった。

この時を境に足のむくみは解消し、膝の痛みも軽減していった。が、全体的に体が弱ってしまった感じで、異常に疲れやすくなってしまった。また、以前から時々あったのだが、首から後頭部、背中にかけて痺れることが頻発するようになった。、これが始まると体を起こしていること自体が困難になる。これも複数の病院で診察を受けたが、やや頸椎が変形してきていること、血圧が非常に高くなっていること以外にこれといった原因はわからず、また対処法もみつからなかった。

それでも2016年前半は何とかやってきた。幸いというか、わが職場は夜勤明けや待機中のガイドヘルパーが、始終ホールの床やソファーにごろごろ寝ている環境でもあったので、しんどくなるとそこに混じって横になる、という形でしのいできた。また、体調を整えるために、同居人と猫と24年間暮らした住まいを出て、職場の近くに一室を構えた。

7月には自身として初めて高江に行ったが、3泊4日沖縄に滞在したうち、現地に到達して支援に参加できたのはただ1日、車を運転できない人間が、高江の支援でいかに役立たずになってしまうか思い知った。この後、体調不良の頻発に拍車がかかってきたようで、本格的に仕事が回らなくなってきた。特に報告書や計画の作成ができず、日が暮れるころには集中力がなくなり、残業しても仕事にならなくなった。また、せっかくスケジュール調整して空けた作業日に動けなくてさらに追い込まれることもしばしばになった。こんな状態で本業に支障がでてきているので、夜の会議や休日の集会・デモ等への参加は原則なし、ということにした。また、業務以外のネット利用も中止し、SNSやブログ更新も休止状態となった。

そんな状況で、ネットから離れて半年ほど経過した。これからも、体調はおそらく、そんなには回復しないのだろうと予測している。現在の本業は徐々に人手に渡していくしかなかろうと思う。だが、だからこそ、もうこれ以上は、体調不良を理由に運動の現場から離れ、仕事以外の情報を遮断する状況を続けるわけにも行かないと思い直している。それは、福祉工場の業務や組合の責務を理由に運動の現場から離れた、あの15年間と同じ轍を踏むことになるからだ。そのことが間違いだった、との思いから現在の活動がある。それはすでに遅すぎ、今後はある意味余生に過ぎない、と思いつつ始めたことだ。また、これは余生の余生、おまけのおまけだ、と思いながら進んで(?)行こうと考えている。


最新の画像もっと見る