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障害者支援に「専門家」はいらない。障害児支援も同じじゃないのか?

2015年04月14日 22時50分41秒 | 障害者権利条約Vs障害福祉

障害児の放課後デイサービス・制度的には「放課後等デイサービス」に企業等も参入し、非常に数が増えている。そして、その放課後デイに車での送迎つき、というものも多くなっている。そのことが、今日の会合で余談的に話題となった。

問題は、その送迎をタクシー業者が請け負うことだという。論点がずれている、と僕は言った。でも、まったく噛み合わなかった。

僕が問題にしたかったのは以下の2点だ。

1.放課後等デイサービスがやたら増えている背景には着目されていない。

2.送迎を誰が請け負うか、ではなく、「送迎付きが手軽で人気だ」ということ自体に問題がある。

しかし、一貫して言われていたのは、「専門性のないタクシー業者が、障害児と障害者と老人の区別なく従事していること」だというのだ。

僕は、専門性が強調される場面に違和感を覚えている。

自分も「相談支援専門員」という名称の、「専門性」を売りにした職業にあるから、なおのこと危機意識を持っている。

障害児のケアは発達保障だから高い専門性が必要だ、とその人は主張する。

実際、そう考えている「専門家」たちは、この業界には少なくない。

障害福祉に専門家はいらない、と、僕は考えている。

もちろん、僕の携わる相談支援を含め、支援には一定の知識や技術や遵守事項が必要だ、という前提はある。また、おおよそ人の身体や生命にかかわる仕事には、どうしても事故や危険がついてまわるので、医療や看護、薬事などの免許制度で安全基準を担保するのは必要だとも思う。だが、それが「専門性」ということばで語られるような内容だとは考えない。

自動車の運転には運転免許が必要だが、それを自動車運転の専門性とは言わない。

専門性、といった場合、最低限必要な資格要件の外に、あいまいで恣意的なものを含んだ、拡張された優位性をまとっている。その優位性を根拠に、当事者に上から物を言い、ある時には強制する。

そして、障害福祉においては、専門家は当事者を支配し、実験台にしてきた。彼ら専門家がおこなってきたもの(手術、治療、訓練)の中には、後で有効性が否定されたものや有害であったことが明らかになったものも多い。そして、後で有効性が否定されたり有害が明らかになったからと言って、彼らは謝罪したりはしない。障害者は彼らにとって対象でしかなく、支配される弱者だったからだ。僕は、彼らにいいように扱われた当事者の怒りや無念さを見てきた。

時代が変遷して、障害者は当事者となり、専門家の支配は受けにくくなった。しかし、障害児はどうだろう。当事者たりえない障害児は、いまだに「専門家」たちにいじくり回されてはいないだろうか。指導や訓練の名のもとに虐待まがいの行為や抑制がおこなわれ、それが成長してからの重度化・二次障害の原因と疑われるような例は珍しくないように思う。

障害児支援に関わる人たちが、たとえ技術と経験の集積で発達保障をしているという自負を持っていたとしても(それ自体がすでに謙虚さに欠けるとは思うが)障害児支援は専門家の領域だ、などと考えるのはやめてもらいたいものだ。

最後に、僕の言いたかった1と2について。

1.放課後等デイサービスがやたら増えている背景には着目されていない。

僕が知っている、放課後等デイサービスの利用者は、学校の特別支援級から放課後デイサービスに移動して過ごすのだが、それは簡単にいえば、学校の普通級から押し出され、児童館の放課後児童クラブにも受け入れられなかった、という子どもたちだ。発達障害への専門的ケアの供給を理由に、体よく押し出され分けられた子どもたちが激増しているのだ。学校の普通級から、発達障害の子供が特別支援級に押し出された結果、特別支援級にいた子どもは特別支援学校に押し出され、押し出された子どもを受け入れる矢口の特別支援学校の中等部は拡大のために隣接していた高等部を廃止する、その分高等部の生徒は今後、矢口ではなく田園調布か港区か、という遠距離通学を強いられることになる、ということなのだ。

2.送迎を誰が請け負うか、ではなく、「送迎付きが手軽で人気だ」ということ自体に問題がある。

子どもたちは自分たちの意思にかかわりなく、学校という「はこ」から、放課後デイという「はこ」に運ばれる。それは、車で送迎された方が手間がかからないだろう。

だが、彼ら以外の子どもについては、日常的に車で送迎されることがよい、とは誰も主張しないだろう。放課後に歩くこと、友達とふざけること、多少は好きな所に寄り道すること、といったことを無意味なこととして禁止したりしたら、「子どもの教育によくない!」「社会性が身につかない!」とかいう人は多くいるだろう。

ならば、障害を持つ子どもはそうでない、という理由を明らかにしてほしい。障害を持つ子どもは学校が終わった後外を歩く、という経験も、社会との接点も必要ないのだ、と考えるのだろうか。いや、「はこ」の中で「子どもが生活能力の向上のために必要な訓練を行い、社会との交流を図ることができるよう、その置かれている環境に応じて適切かつ効果的な指導及び訓練を行う」から、必要ない、ということなのだろうか。僕は、そんなことはありえない、と考える。



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2 コメント

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Unknown (つるたまさひで)
2015-04-15 04:12:34
ぼくが読んだ少なくない茂野さんの文章の中でも一番の出来かも(いきなり上から目線(笑))。

とりわけ「自動車の運転には運転免許が必要だが、それを自動車運転の専門性とは言わない」という指摘は慧眼。

ただ、特別支援校の生徒が増えている背景については少し違う感覚を持っている。それは押し出されたというよりも、地域の学校でなんら配慮がないことに気づいた親が地域の学校を見捨てた結果、増えているという感じが強いのだが、どうだろう?
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専門性について (つるたまさひで)
2015-04-26 13:18:41
「自動車の運転には運転免許が必要だが、それを自動車運転の専門性とは言わない」というのは秀逸なたとえだと思いました。そう、普通自動車の運転については専門性とは言いません。そうなふうにカジュアルにできる支援は多いというか、それがほとんどかもしれません。しかし、自動車に特殊免許があるように障害者支援で専門性が必要な部分もあるでしょう。

じゃあ、障害者の就労支援施設に専門性は必要でしょうか? その答えもまた一律ではないように思います。
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