「さとみ様……」冨美代はさとみに振り返る。その頬は涙で濡れていた。「わたくし……」
「おい! 無視すんのかよう!」葉亜富は立ち上がる。怒りで顔が真っ赤だ。「人にぶつかっておいて、詫びもしないのかよう!」
「あ……」
冨美代は葉亜富を見る。流れる涙をどこからか取り出した絹のハンカチーフで拭うと、両手で袴を摘まんで少し左右に拡げ腰を落とす仕草をする。
「これは失礼をいたしました。急いでいたものですから」
「何を気取っていやがるんだ!」葉亜富が怒鳴る。「それになんだい、そのへんちくりんな格好はよう!」
「へんちくりん……?」冨美代は意味が分からないと言う顔をする。「それって、どちらの方言ですの?」
「お前、ふざけてんのか!」
「ふざけているには、そちらではないのですか?」冨美代は眉間に皺を寄せ、嫌悪感を隠さない表情で続ける。「何ですの? その裸同然の格好は? 恥ずかしくないのですか? そのような姿を不特定多数の殿方の前に晒しているのですか? 何をお考えなのですか?」
「うるさい!」葉亜富はさらに怒鳴る。「お前こそ、何なんだよ!」
「わたくしは恋人の嵩彦様を取り戻しに参りました」
「冨美代さん!」さとみが喜びの顔になる。「良かったあ!」
「さとみ様……」冨美代はさとみに向き直る。「あれから皆様から言われましたことをずっと考えておりました。確かに、嵩彦様にも不甲斐ない所がございます。では、わたくしはどうなのかと、自分自身を見つめました。わたくしも我儘な女でございます。嵩彦様はこんな女に愛情を注いでくださいます。わたくしの申す事を快く受けて下さいます。……考えれば考えるほど、わたくしの中に嵩彦様が広がってまいりました。そうなりますと、居ても立ってもいられません。あちらこちらを探し回り、やっとここへと辿り着いたのでございます」
「立派だわ、冨美代さん……」さとみがすんすんと泣き出した。「やっぱり、愛って素敵だわ……」
「こらこらこらあ!」割って入ったのは葉亜富だ。「わたしはそう言うお涙物が嫌いだって言ったじゃないか! いつまで続けるつもりなんだ!」
「あら……」冨美代は葉亜富を見る。「貴女の様な破廉恥な格好の方にとやかく言われたくはございませんわ。それに、今はさとみ様とお話ししておりましてよ。横から口を挟むのはお慎み下さいな」
「なっ……」
葉亜富は絶句する。冨美代は冷ややかな一瞥を葉亜富にくれると、笑顔でさとみに向き直る。……さすが華族の令嬢ね。何だか貫禄が違うわ。さとみは思った。
「……嵩彦様は今は囚われていらっしゃいます。しかし、嵩彦様も日本男児。わたくしが呼びかけますれば、必ずやこちらへと戻ってまいるでしょう」
「そうだと良いんだけど……」さとみは心配そうな顔をする。「あの二人、かなりの力を持っているわ。その力で嵩彦さんだけじゃなくって、多くの人が囚われているのよ」
「それは存じ上げております」冨美代が言うと、すっと真顔になった。「もし、囚われの戒めが解けぬほどの軟弱ならば、その時こそ、わたくしは嵩彦様と別れます! 日本男児として恥ずべきことですので」
冨美代は言うと、個室の中に広がる二つの薄暗い空間の前に立って、すうっと息を吸い込んだ。
「嵩彦様!」冨美代は大きな声を出した。「わたくしは冨美代です! わたくしの声が聞こえておりましょう? 出て来てくださいまし!」
それぞれの空間にいる男女たちがざわめいた。一斉に冨美代の方を見ている。
「ちょっとぉ、流人! やめさせてよう!」葉亜富が言う。しかし、流人は笑ったまま動かない。葉亜富はむっとする。「何が可笑しいんだよ!」
「いや、面白いじゃないか。こんな素敵な女性に呼ばれて、どんな男が現われるんだろうね?」流人も空間を見つめる。「ここからだと、どいつもこいつも、同じように、葉亜富に虐げられた者としか見えないけどねぇ……」
「ふん! わたしに誑し込まれた男はみんなわたしのものさ。こんな気取った女なんかの言う事を聞くもんか!」
冨美代は流人と葉亜富の会話が耳に入らないようで「嵩彦様! 嵩彦様!」と連呼し続けている。葉亜富が次第にいらいらした表情に変わってくる。
「おい! 好い加減にしやがれ!」葉亜富は冨美代の肩に手をかけて乱暴に揺する。「お前の愛しい嵩彦ってのは、すでに居ないんだ! 全てがわたしの下僕、わたしの奴隷なんだよ!」
「自信がおありなら、そこで黙って見ていればよろしいんじゃなくて?」冨美代が葉亜富に振り返って言う。「それに、斯様な破廉恥な姿の力など、真の愛の前では無力。お下がりなさい!」
「……こいつぅ……」
葉亜富が怒りに震え、右手の平を冨美代に向けた。
「あら、力尽くで来るのですか?」冨美代は平然としている。「では貴女の負けですね。力で解決を図ろうとは、ご自分に自信が無いと言う事の証しですわね。情けない事……」
冨美代は鼻で笑う。葉亜富が怒りで顔を真っ赤にしている。傍から見ても、貫録の差は歴然だった。「……良いねぇ。欲しいねぇ……」と、流人がつぶやいている。
「……さん……」
遠くの方から弱々しい声がした。冨美代は空間に向きを変えた。聞こえた声に聞き覚えがあったからだ。
「嵩彦様!」冨美代が大きな声で呼び掛ける。「冨美代でございます! こちらへとお越しくださいませ! お顔をお見せくださいませ!」
「……冨美代さん……」
痩せこけて、今にも消え失せようと言う感じの霊体が、覚束ない足取りでこちらへと歩いて来る。
「嵩彦様!」
冨美代が駈け寄る。
つづく
「おい! 無視すんのかよう!」葉亜富は立ち上がる。怒りで顔が真っ赤だ。「人にぶつかっておいて、詫びもしないのかよう!」
「あ……」
冨美代は葉亜富を見る。流れる涙をどこからか取り出した絹のハンカチーフで拭うと、両手で袴を摘まんで少し左右に拡げ腰を落とす仕草をする。
「これは失礼をいたしました。急いでいたものですから」
「何を気取っていやがるんだ!」葉亜富が怒鳴る。「それになんだい、そのへんちくりんな格好はよう!」
「へんちくりん……?」冨美代は意味が分からないと言う顔をする。「それって、どちらの方言ですの?」
「お前、ふざけてんのか!」
「ふざけているには、そちらではないのですか?」冨美代は眉間に皺を寄せ、嫌悪感を隠さない表情で続ける。「何ですの? その裸同然の格好は? 恥ずかしくないのですか? そのような姿を不特定多数の殿方の前に晒しているのですか? 何をお考えなのですか?」
「うるさい!」葉亜富はさらに怒鳴る。「お前こそ、何なんだよ!」
「わたくしは恋人の嵩彦様を取り戻しに参りました」
「冨美代さん!」さとみが喜びの顔になる。「良かったあ!」
「さとみ様……」冨美代はさとみに向き直る。「あれから皆様から言われましたことをずっと考えておりました。確かに、嵩彦様にも不甲斐ない所がございます。では、わたくしはどうなのかと、自分自身を見つめました。わたくしも我儘な女でございます。嵩彦様はこんな女に愛情を注いでくださいます。わたくしの申す事を快く受けて下さいます。……考えれば考えるほど、わたくしの中に嵩彦様が広がってまいりました。そうなりますと、居ても立ってもいられません。あちらこちらを探し回り、やっとここへと辿り着いたのでございます」
「立派だわ、冨美代さん……」さとみがすんすんと泣き出した。「やっぱり、愛って素敵だわ……」
「こらこらこらあ!」割って入ったのは葉亜富だ。「わたしはそう言うお涙物が嫌いだって言ったじゃないか! いつまで続けるつもりなんだ!」
「あら……」冨美代は葉亜富を見る。「貴女の様な破廉恥な格好の方にとやかく言われたくはございませんわ。それに、今はさとみ様とお話ししておりましてよ。横から口を挟むのはお慎み下さいな」
「なっ……」
葉亜富は絶句する。冨美代は冷ややかな一瞥を葉亜富にくれると、笑顔でさとみに向き直る。……さすが華族の令嬢ね。何だか貫禄が違うわ。さとみは思った。
「……嵩彦様は今は囚われていらっしゃいます。しかし、嵩彦様も日本男児。わたくしが呼びかけますれば、必ずやこちらへと戻ってまいるでしょう」
「そうだと良いんだけど……」さとみは心配そうな顔をする。「あの二人、かなりの力を持っているわ。その力で嵩彦さんだけじゃなくって、多くの人が囚われているのよ」
「それは存じ上げております」冨美代が言うと、すっと真顔になった。「もし、囚われの戒めが解けぬほどの軟弱ならば、その時こそ、わたくしは嵩彦様と別れます! 日本男児として恥ずべきことですので」
冨美代は言うと、個室の中に広がる二つの薄暗い空間の前に立って、すうっと息を吸い込んだ。
「嵩彦様!」冨美代は大きな声を出した。「わたくしは冨美代です! わたくしの声が聞こえておりましょう? 出て来てくださいまし!」
それぞれの空間にいる男女たちがざわめいた。一斉に冨美代の方を見ている。
「ちょっとぉ、流人! やめさせてよう!」葉亜富が言う。しかし、流人は笑ったまま動かない。葉亜富はむっとする。「何が可笑しいんだよ!」
「いや、面白いじゃないか。こんな素敵な女性に呼ばれて、どんな男が現われるんだろうね?」流人も空間を見つめる。「ここからだと、どいつもこいつも、同じように、葉亜富に虐げられた者としか見えないけどねぇ……」
「ふん! わたしに誑し込まれた男はみんなわたしのものさ。こんな気取った女なんかの言う事を聞くもんか!」
冨美代は流人と葉亜富の会話が耳に入らないようで「嵩彦様! 嵩彦様!」と連呼し続けている。葉亜富が次第にいらいらした表情に変わってくる。
「おい! 好い加減にしやがれ!」葉亜富は冨美代の肩に手をかけて乱暴に揺する。「お前の愛しい嵩彦ってのは、すでに居ないんだ! 全てがわたしの下僕、わたしの奴隷なんだよ!」
「自信がおありなら、そこで黙って見ていればよろしいんじゃなくて?」冨美代が葉亜富に振り返って言う。「それに、斯様な破廉恥な姿の力など、真の愛の前では無力。お下がりなさい!」
「……こいつぅ……」
葉亜富が怒りに震え、右手の平を冨美代に向けた。
「あら、力尽くで来るのですか?」冨美代は平然としている。「では貴女の負けですね。力で解決を図ろうとは、ご自分に自信が無いと言う事の証しですわね。情けない事……」
冨美代は鼻で笑う。葉亜富が怒りで顔を真っ赤にしている。傍から見ても、貫録の差は歴然だった。「……良いねぇ。欲しいねぇ……」と、流人がつぶやいている。
「……さん……」
遠くの方から弱々しい声がした。冨美代は空間に向きを変えた。聞こえた声に聞き覚えがあったからだ。
「嵩彦様!」冨美代が大きな声で呼び掛ける。「冨美代でございます! こちらへとお越しくださいませ! お顔をお見せくださいませ!」
「……冨美代さん……」
痩せこけて、今にも消え失せようと言う感じの霊体が、覚束ない足取りでこちらへと歩いて来る。
「嵩彦様!」
冨美代が駈け寄る。
つづく
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