「……冨美代さん……」
そうつぶやいたのは、絶え絶えの息の嵩彦だった。両手を床に付き、震える腕を伸ばす。なんとか上半身を起き上がらせると、顔を冨美代に向けた。やつれた顔に笑みを浮かべる。しかし、その唇は震えている。
「……冨美代さん…… 無事だったのだね……」嵩彦は力ない声で言うと涙を流す。「良かった、良かった……」
「嵩彦様!」冨美代は嵩彦の前に座り込むと、見えない障壁に両手の平を押し当てる。頬を涙が伝う。「……殿方が泣いてはいけませんわ」
「はは…… 相変わらず、厳しいね」嵩彦は笑む。「でも、そんな冨美代さんが僕の支えだよ……」
「わたくしもあの時は言い過ぎました。嵩彦様はわたくしの事を慮っておっしゃって下さったのに、わたくしったら、嵩彦様を……」
「いや、僕は基本的に軟弱者だったよ。田舎では腕力のある者が上に立っていた。だから、僕はいつも底辺にあった。腕力に負けないものとして勉学にいそしんだ。ひとかどの学力は身に着けたつもりだった。でもね、いざ危険が迫ると、軟弱で臆病な所が出てしまうんだね……」
「いいえ、いいえ、嵩彦様! ご自分をお責めにならないでくださいまし! 全てはわたくしの我儘ゆえの事でございます!」
「僕と冨美代さんの間には、いつも障壁がある……」嵩彦は障壁越しに冨美代と手の平を重ねた。「……本当なら、心中などせず、最果ての地に堕ちたとしても、歯を食いしばってでも貴女を幸せにすべきだった。でも、僕は目の前の障壁をいつも避ける手段ばかりを取っていた」
「それはおっしゃらないで! 心中は二人で決めた事。すべての障壁を取り除く最良の手段と判断した故ですわ」
「そう、今のように、僕は何時も冨美代さんに励まされて歩んで来た。僕の中には確信なんてなかった。でも、励ましてくれた事で自信を持つことが出来たんだ」
「嵩彦様……」
と、葉亜富が冨美代の横に立ち、履いている黒のブーツの踵で障壁を蹴り出した。嵩彦はまるで自分が蹴られているかのように苦しそうな顔をする。
「あああ、下らない! 結局は、お前は自分じゃまともな判断が出来ないって事だろう?」障壁を蹴りながら葉亜富は嵩彦に言う。「だから、わたしの言葉にころっと騙されちまうんだよ! ははは、あの時のお前の顔ったらなかったね。『振られた~っ』ってわんわんガキのように泣いていたのがさ、女に会わせてやるって言ったら、にこにこ顔に大変身だったもんね。普通は知らないヤツが美味い話をしたら疑うってんだ」
「貴女!」冨美代が立ち上がり、葉亜富を睨み付ける。「好い加減になさい!」
冨美代は言うと、いつの間にか手にした扇子で、葉亜富の額を打った。扇子が折れた。葉亜富は悲鳴を上げ飛び退く。
「……この野郎!」葉亜富が額を押さえながら声を震わせる。「本気で怒ったからな!」
「野郎は男に使うものとお話ししたはず。それをすぐに忘れるとは、やはり、元々もおつむが弱いようですわね」冨美代はいつの間にか薙刀を手にしていた。「わたくしたち華族の子女の嗜みですの。……貴女の様な破廉恥な女はわたくしが成敗いたします!」
「なんだよ! 扇子だ薙刀だって勝手の取り出しやがってよう! 卑怯なのはお前じゃないか!」
「長く霊をやっている故に身に付いたものですわ」冨美代は言うと薙刀を構える。「香取神道流の腕前、披露いたしましょうや?」
「おい、葉亜富、この女、マジだぞ」流人が真顔で葉亜富に言う。「ここは下がっていた方が身のためだ……」
葉亜富は冨美代に向かってべえと舌を出すと、流人の隣に駈けた。冨美代の手から薙刀が消えた。
「……冨美代さん」
嵩彦の声に冨美代は振り返る。嵩彦は障壁に寄り掛かりながら立ち上がっていた。力の無い笑みを浮かべている。
「今、そちらへ行くよ……」
嵩彦は言うと、障壁を握った拳で手で叩き始めた。しかし、力の無い弱々しいものだった。葉亜富が馬鹿にしたようにくすくすと笑っている。しばらくすると、嵩彦は両腕をだらりと下げ、両肩を激しく上下させはじめた。葉亜富は大声で笑い出し、手を叩く。
「あははは! こりゃあ、永遠にこっちに来れそうもないね!」
「お黙り!」冨美代は葉亜富を一喝する。それから心配そうな顔を嵩彦に向ける。「……嵩彦様……」
嵩彦はふらふらと後ろへと下がって行った。葉亜富がまた笑う。
「ほら見ろよ! 諦めて仲間の下僕の所に戻るつもりのようだ! な~にが日本男児だよ! そこいらのヤツらよりも根性無しじゃないかよう!」
つづく
そうつぶやいたのは、絶え絶えの息の嵩彦だった。両手を床に付き、震える腕を伸ばす。なんとか上半身を起き上がらせると、顔を冨美代に向けた。やつれた顔に笑みを浮かべる。しかし、その唇は震えている。
「……冨美代さん…… 無事だったのだね……」嵩彦は力ない声で言うと涙を流す。「良かった、良かった……」
「嵩彦様!」冨美代は嵩彦の前に座り込むと、見えない障壁に両手の平を押し当てる。頬を涙が伝う。「……殿方が泣いてはいけませんわ」
「はは…… 相変わらず、厳しいね」嵩彦は笑む。「でも、そんな冨美代さんが僕の支えだよ……」
「わたくしもあの時は言い過ぎました。嵩彦様はわたくしの事を慮っておっしゃって下さったのに、わたくしったら、嵩彦様を……」
「いや、僕は基本的に軟弱者だったよ。田舎では腕力のある者が上に立っていた。だから、僕はいつも底辺にあった。腕力に負けないものとして勉学にいそしんだ。ひとかどの学力は身に着けたつもりだった。でもね、いざ危険が迫ると、軟弱で臆病な所が出てしまうんだね……」
「いいえ、いいえ、嵩彦様! ご自分をお責めにならないでくださいまし! 全てはわたくしの我儘ゆえの事でございます!」
「僕と冨美代さんの間には、いつも障壁がある……」嵩彦は障壁越しに冨美代と手の平を重ねた。「……本当なら、心中などせず、最果ての地に堕ちたとしても、歯を食いしばってでも貴女を幸せにすべきだった。でも、僕は目の前の障壁をいつも避ける手段ばかりを取っていた」
「それはおっしゃらないで! 心中は二人で決めた事。すべての障壁を取り除く最良の手段と判断した故ですわ」
「そう、今のように、僕は何時も冨美代さんに励まされて歩んで来た。僕の中には確信なんてなかった。でも、励ましてくれた事で自信を持つことが出来たんだ」
「嵩彦様……」
と、葉亜富が冨美代の横に立ち、履いている黒のブーツの踵で障壁を蹴り出した。嵩彦はまるで自分が蹴られているかのように苦しそうな顔をする。
「あああ、下らない! 結局は、お前は自分じゃまともな判断が出来ないって事だろう?」障壁を蹴りながら葉亜富は嵩彦に言う。「だから、わたしの言葉にころっと騙されちまうんだよ! ははは、あの時のお前の顔ったらなかったね。『振られた~っ』ってわんわんガキのように泣いていたのがさ、女に会わせてやるって言ったら、にこにこ顔に大変身だったもんね。普通は知らないヤツが美味い話をしたら疑うってんだ」
「貴女!」冨美代が立ち上がり、葉亜富を睨み付ける。「好い加減になさい!」
冨美代は言うと、いつの間にか手にした扇子で、葉亜富の額を打った。扇子が折れた。葉亜富は悲鳴を上げ飛び退く。
「……この野郎!」葉亜富が額を押さえながら声を震わせる。「本気で怒ったからな!」
「野郎は男に使うものとお話ししたはず。それをすぐに忘れるとは、やはり、元々もおつむが弱いようですわね」冨美代はいつの間にか薙刀を手にしていた。「わたくしたち華族の子女の嗜みですの。……貴女の様な破廉恥な女はわたくしが成敗いたします!」
「なんだよ! 扇子だ薙刀だって勝手の取り出しやがってよう! 卑怯なのはお前じゃないか!」
「長く霊をやっている故に身に付いたものですわ」冨美代は言うと薙刀を構える。「香取神道流の腕前、披露いたしましょうや?」
「おい、葉亜富、この女、マジだぞ」流人が真顔で葉亜富に言う。「ここは下がっていた方が身のためだ……」
葉亜富は冨美代に向かってべえと舌を出すと、流人の隣に駈けた。冨美代の手から薙刀が消えた。
「……冨美代さん」
嵩彦の声に冨美代は振り返る。嵩彦は障壁に寄り掛かりながら立ち上がっていた。力の無い笑みを浮かべている。
「今、そちらへ行くよ……」
嵩彦は言うと、障壁を握った拳で手で叩き始めた。しかし、力の無い弱々しいものだった。葉亜富が馬鹿にしたようにくすくすと笑っている。しばらくすると、嵩彦は両腕をだらりと下げ、両肩を激しく上下させはじめた。葉亜富は大声で笑い出し、手を叩く。
「あははは! こりゃあ、永遠にこっちに来れそうもないね!」
「お黙り!」冨美代は葉亜富を一喝する。それから心配そうな顔を嵩彦に向ける。「……嵩彦様……」
嵩彦はふらふらと後ろへと下がって行った。葉亜富がまた笑う。
「ほら見ろよ! 諦めて仲間の下僕の所に戻るつもりのようだ! な~にが日本男児だよ! そこいらのヤツらよりも根性無しじゃないかよう!」
つづく
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