続・笑う蜘蛛の糸

1969年生まれの私、
潮風太子が第2団塊世代特有の視点で書く
コッソリ系ブログです。

1枚の写真の記憶から

2017-07-14 00:43:24 | インポート
今日は野球ネタなどを・・・

パ・リーグの前半戦日程が終了。
いわゆるオールスター休みとなる。

我が敬愛する千葉ロッテマリーンズの順位は言わずもがな最下位。

一時、井口引退なんやらで、
イイ感じになりつつあったものの結局はいつもの通り、実力通り。

そんなヘタレな球団とて毎試合ファンは球場へと駆けつける・・・

そりゃいい時もありゃ悪いときもある。
どんな時もオレたちが付いてるぜ♪ だ。

先日、阪急、オリックス、日ハムで監督を務めた、
名将、上田利治氏死去のニュースがあった。

そして、この1枚の写真にピンと来たので、
今回あえて、この話題に触れたい。

そのために話をまず1999年に遡らせる・・・

1999年は我々マリーンズファン(古参組のハナシになってしまうが)には、
現在の応援スタイルが完成域に達した年だったと記憶している。

前年の1998年、近藤昭仁監督時代のマリーンズで、
かの18連敗(日本新記録)を達成した翌年であり、
2軍監督だった山本功児が誰もやりたがらなかった、
マリーンズの監督を2つ返事で受けてくれたという経緯からまず。

それこそポンコツチームにカツを入れるべく、
ファンたちによる「山本マリーンズ」キャンペーンが始まった。

そして勝利した日には、
試合後「○○(監督名)マリーンズ!」コールをするようになったのが、
この山本マリーンズ時代からである。

一勝百喜!とにかく、まず1勝を心から喜ぼう!
ということで始まったシーズン。
その雰囲気もあってか、ちょうどこの時期7月の七夕の頃。。。

マリーンズは快進撃の真っ只中にいた。

そして、ついに七夕の夜「東京ドーム」で首位に立つ!
という快挙をやってのけた。
この当時としては、まさしく奇跡が起きた瞬間だった。

このレフトスタンドに若き日の潮風太子がいたことは、
以前書いたが改めて補足。

翌日のスポーツ紙、各紙のトップを飾り、
千葉ロッテ首位の順位表を初めてみることとなった。
この首位奪取の引き立て役となってしまったのが、
上田利治監督率いる「上田ファイターズ」だった・・・・

名将、上田利治にとっては屈辱の夜になったであろうことは、
想像するに難くない。
日ハムファンたちも同様だったろう。

しかしながら、結局シーズンが終わってみると、
マリーンズは4位という結果に終わり、
優勝どころか、念願のAクラス入りもならなかった。

が、マリーンズファンには満足のシーズンであった。

とにかく毎試合が「お祭り」のような感じだったし、
前年までが前年までだっただけに、
やれば出来るかも?感が出てきたことが嬉しかった。
ファンたちの連帯感、結束感は試合ごとに強くなっていった。
「タオル振り」はその象徴だ。

この年、潮風太子は26試合に参戦した記録が残っている。

そして今回のネタとなる1999年10月2日を迎える。

この日はロッテVS日ハム戦の公式戦最終戦であり、
上田利治最後の采配という試合。
すでに成績不振の責任を取る形で監督退任が決まっていた。

潮風太子は翌日の地元最終戦にて、
園川一美の引退試合が行われることから、
「翌日」の場所取りと「引退試合」のときの段取り確認のため、
この前日である日ハム最終戦に参上していた。

「明日の花吹雪の新聞紙は手のひら大の大きさにカットするように・・・」
(終了後の清掃がスムーズなため)
等々応援団から試合中、翌日の段取り説明を受けながらの応援。

完全な消化試合という雰囲気で試合は進み、
天野の今シーズン第1号という万シューまで飛び出し、
ウォーレンが28S目をビシッと決めて4-2で試合終了。
マリーンズファンたちにとっては久しぶりのホームでの勝ち試合となった。

しかし上田利治監督としては最後の試合が、
負けというのは寂しい感じだったが、
そこはそれ勝負の世界、これもまた野球ナリである。

マリーンズのヒーローインタビューの最中、
上田監督と日ハムの選手、スタッフたちはレフトスタンドへ向かい、
ファイターズファンたちへ最後の挨拶を行っていた。
日ハムにとってはシーズン最終戦であり、
上田監督、最期のラストシーン。

一勝百喜で歓喜のライトスタンドとは対照的に、
シンミリとしたエンディングのレフトスタンド。
それでいて相手チームへの配慮を心得た品格ある、
ファイターズファンの姿に敵ながらアッパレと内心唸っていた。

マリーンズ4位、ファイターズ5位。
大して変わらない順位なのだが、
とても対照的な光景だった・・・・

上田監督はじめファイターズの選手もグランドを後にし、
多くのファイターズファンたちも帰宅を始め、
レフトスタンドが閑散な状況になっていく・・・

マリーンズの2次会(試合後の応援ショー)は長い。

それでも公式応援団はじめ一部のファイターズファンが、
シーズン最終戦に行う恒例の「エール交換」のため、
残っていてくれていた。

ひとしきり2次会と、
翌日の園川一美引退試合の段取り説明が行われ、
あとはエール交換して明日の場所取りか…と思った、
その瞬間・・・

マリーンズ応援団から「う~え~だ~!」と上田コールの要請。
すぐさまライトスタンドを埋めていたマリーンズファンたちも、
「上田コール」で呼応。

「う~えだっ!う~え~だっ!」
上田コールが夕暮れの球場全体に鳴り響いた。

もちろん上田利治はじめファイターズの面々はすでにベンチにいない。
というか、もうバスに乗り込んでいるハズ。

それでも、しつこく上田コールを続けるライトスタンド。
それも、ず~っと繰り返す。
確実に20分以上、いや30分近く断続的に上田コールが続いた。

さすがに、もう帰ったんじゃね?と、ざわつき始めたその時。

まもなく日も暮れようかというタイミングで、
3塁側ダッグアウトからユニホーム姿の上田利治監督が、
グランドに一礼して登場すると球場のボルテージは一気にヒートアップ。

レフトスタンドに残っていた日ハムファンたちのもとへ、
まず向かい改めて丁寧に一礼。
少ないながらも残ったファンたちによる、
精一杯の感謝の声援がライトスタンドまでハッキリと聞こえてきた。

そして、ご丁寧に、そこからライトスタンドへと歩みを進めてくれた。
敵陣へ相手チームの将軍、
しかも歴史的名将が最後の挨拶にライトスタンドへ来るなんて、
初めて見た光景であり潮風太子はじめ多くのマリーンズファンは驚き、
さすがに、どよめきの声があがった。

一段と上田コールのボルテージは上がり、
明日の園川の引退試合、声でなくなるんじゃないか・・・
と思うほどの大声援をもってライトスタンドの住人たちは敬意を表した。

テレビ局はとっくに帰って編集作業に追われていたのだろうか、
すでにテレビカメラはなかった。

それでもスポーツ紙のカメラマンと、
記者数名が気づいて慌ててグランドに飛び出してきた。

夕暮れのマリンスタジアム全体に鳴り響く「上田コール」。
また谷保さんも、この場面で野暮なアナウンスなど一切しなかったところが、
今にして思えば実は最高の演出だった。

心から「お疲れ様でした」というファンたちの純粋なる気持ちの大声援だけが、
夕暮れの球場、上田利治という不出世の名将を包み込むラストシーンとなった。

そのシーンを撮ったのが例の「1枚の写真」である。

すっかり日は落ち、
ゆっくりと3塁側ダッグアウトへと88番の背番号が消えていった光景は、
なんとも神々しく思えた。
と同時に、また一つの時代の終焉をみた気がした。

そう、当時ここにいたみんな。
子供の頃(昭和50年代前半)には、
阪急の上田、近鉄の西本、南海の野村、日ハムの大沢、
そしてロッテのカネヤン(太平洋クラブについてはm(__)m)
あえて書くなら西武の広岡、
といった超個性的かつ重厚感タップリの名将が監督だった世代。

とにかく、この時代の監督は皆一応に「威厳」があり「風格」があった。
そして「パ・リーグの暗黒期」を支えた最大の功労者たちでもあった。

ならば、それに相応しい最期というのが、あるじゃないか!
ということで当時の応援団長はじめ、
応援団たちはサプライズを試みたのだろう。

結果としては上田利治監督最期にして、
最高のラストシーンで完結させることができた。
と思う。

これがパ・リーグファンの「粋」である。

その後のファイターズファンとの、
エールの交換シーンは感動的ですらあった。
シーズン終われば同じ熱狂的なパ・リーグ信者。
パ・リーグを思う気持ちは皆同じ。

また来シーズンな・・・ようやく散会となった。

皆、あまりに上田コールで絶叫し過ぎて、
「どっちのファンだかわかんなくなっちゃったな・・・」と、
外野スタンドゲート前、
翌日の順番取りでバミリのガムテープを張りながら、
みんなで笑ったことが懐かしい。

しかしその日の夜も、また翌日も、
この出来事を報じたテレビのスポーツニュースはなかった。
また今回の訃報に際しても、
この「地味」ながら「粋」なエピソードを、
どこの新聞社も書いてくれなかったので、
改めてここで書き残しておこうと思った次第。

まぁ、ロッテファンごときに・・・というところになってしまうが、
上田利治という名将の最期の伝説を、
あの現場にいた生き証人の一人の記憶として一筆候。

最後に改めて上田利治氏のご冥福をお祈り申し上げます。
m(__)m

また明日。


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2 コメント

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Unknown (潮風太子)
2017-07-16 07:56:10
Re:だいすけ様

あのマリンでオールスターしかも超々満員のスタンド。
1週間前にチケットを入手しようと思ったら、
すでに完売とは驚きました。
おかげで久々試合開始からテレビの前で観戦、
昔ながらの野球オヤジ気分になりました(^^)

しばしマリーンズが最下位だということを、
忘れさせてくれた今年のオールスターでしたね(笑)
最近は交流戦がある「おかげ」でガチ勝負の興味が
薄れたなどと「昔ながらの野球評論家」たちは、
酷評しておりますが、
そこはそれ今どきのプロ野球選手たち。
ちゃ~んと今どきの客のニーズをキャッチしていて、
地上波全国ネット、ゴールデンタイム中継も意識した、
ペナントレース中ではみられない、
いってみれば「プロレス風」エンターテーメントベースボールを、
プロ選手ならではという高度な技術をもって、
観させてくれました。
あ~いうのを見せられるとプロの一流選手の凄さが、
改めてよくわかります。

あの「1枚の写真」が1塁側から撮られている写真であること、
入場者数が当時でいう「8000人」(実数6000人もいたかどうか)
という発表からも分かる通り、
当時のパ・リーグの扱いの様子がよくわかるかと思い、
あえて、この時期無理矢理押し込んで書かせていただきました。
相手チームのファンあっての「好ゲーム」、
それを嫌と言うほど思い知っているパ・リーグの、
昔ながらのファンからの伝統というか、
ある種のアイデンティティー。
巨人中心に発展してきたセ・リーグと違い、
今年のオールスター戦をみても、
パ選手の応援曲の認知度、チャンテにしても、
みんなよく知ってますよねぇ。
がっつり歌ってますし。
そして最後のWe areパ・リーグと、
これぞパ・リーグ魂ってなのを全国に見せつけられた一戦でした。
が、どうせ清宮1面なんでしょう(哀)
そこもまたパ・リーグってカンジで・・・・
返信する
Unknown (だいすけ)
2017-07-15 22:31:14
 上田監督、80年代の広岡、森の無敵ライオンズに
仰木さんと、立ち向かった知将。選手権での
大杉の大飛球の大立ち回りがクローズアップ
されるけれど、基本は地味で、「ええで」と選手を
持ち上げるのが持ち味。
晩年のファイターズ監督時代に小笠原をバントを
しない二番打者で世に出したのも、もう昔の話ですね。
 今日千葉で行われたNPBオールスター第二戦。
パリーグが勝利すると、フランチャイズの鈴木大地の
先導で、パリーグの選手がライトスタンドと一緒に
マリーンズの勝利の儀式である「We are」を模して
「we areパリーグ」を行ったとのこと。
今では当たり前になったシーズン最終戦の
相手チームとのエール交換など、まさにパリーグ
ファミリーという意識。
その原型が90年代のマリンでの上田コールであり、
05年の合併、球団消滅の激震だったのでしょう。
 明日からはしのぎを削る敵同士も、今日はパシフィック
という一艘の船に乗る仲間と、肩を組み「We are!」
そんなパリーグが大好きですよ。
!
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