奥浜名湖の歴史をちょっと考えて見た

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悲惨な営巣

2024-03-16 22:03:21 | 郷土史

この時期になるとキジバトが玄関先に巣をかけにきます。扉を開けて軒を見上げ
ると、つがいのハトがじっとこちらを見つめます。小枝が散らばっています。しかし御存知のようにフンは異臭を放ち、病原菌をまき散らします。それでほうきで集められた枝を落とすのですが、翌日にはまた素知らぬ顔で枝を軒にかけています。こうして数か月にわたる戦争が始まるのです。

遠江の後藤氏

2023-09-12 16:40:28 | 郷土史
【後藤氏】 
 太田亮『姓氏家系大辞典』には「遠江後藤氏」は、後藤氏嫡流とする。後藤氏は源頼義の家臣で坂戸判官・後藤内と号した則明を元祖とし、類代河内源氏の家人でした。則明六代の孫基清は、承久の乱で長男基成とともに京方に味方し、一方二男基綱は幕府軍に就き、結局敗れた父基清と兄基成を六条河原で自ら斬首した。基清は猶子で、実父は佐藤仲清、同腹の兄は義清すなわち西行法師です。こうした関係から、基綱の家系は鎌倉幕府の評定衆・引付頭を務める武とともに歌の家系でした。ただ遠江後藤氏の室町時代以前の系譜を正確にはたどることはできないでしょう。
 遠江の後藤氏は室町時代における文献上の初見は、文安年間(1444~49)成立した「文安年中御番帳」「二番 後藤能登入道」および同じ二番衆に「詰衆 後藤左京亮」が記載されています。「詰衆」は将軍足利義教(在位1429~1441)が将軍に近侍し非常時に備えるため、総番中から選んだのが始まりとされます。後藤能登入道と後藤左京亮は親子または親族でしょう。
また宝徳二年から享徳四年(1450~55)成立の「永享以来御番帳」(以上番帳成立年代は福田豊彦氏による)には「二番 後藤左京亮」があります。
「康正二年造内裏段銭幷国役引付」(1456)に「後藤能登入道」が、「二貫二百廿五文、遠州小税田宮口段銭」・「弐貫弐百五十文、遠州所々段銭」とあり、遠州所々および宮口(現浜北区宮口)などの幕府御料所を預け置かれ、段銭徴収し、京済していました。
『見聞諸家紋』(「東山殿御紋帳」応仁元年~文明二年<1467~70>成立)第二十二張に違い鷹の羽に宝結とする紋が図示され、「後藤左京亮」とあります。
その後「文明十二・三年比御相伴衆」(1480~81)の記録に、「走衆」「後藤佐渡守」、「慈照院義政公 東山江御移之已後御供衆」文明十五~延徳二年(1483~90)「走衆」「後藤佐渡守」、「東山殿祗候人数」(同上)に「後藤佐渡守」とあります。後藤佐渡が後藤能登入道あるいは後藤左京亮に代わり家督を継いだのです。
「二番 後藤左京亮」は浜松市北区三ヶ日町釣神明宮に「創立年度不詳ナレド文明九年(1477)願主左京亮藤原親綱二ヨリ作事サル」とあり、出典は不明ですが多分古棟札によったと思われるので、実名「親綱」でしょう。釣神明宮は地番釣ですが、後藤氏居城日比沢城側に位置します。日比沢は後藤氏の本拠となったところですので、さきの伝承はあながち嘘とは言えません。
「走衆」は将軍出御のとき徒歩で随行し警固・先駈けを務めたものです。あらかじめその役目のために集められた十数人の中から、六人組を選び、将軍出行の際左右に分かれ供奉するのです。文字通り走るため身体頑強なものおよび背格好の同じものを抽出したといいます。職制としては将軍足利義政(在位1449~1473)のころ、とくに寛正期(1460~1466)ころ確立したとされます。奉公衆は番頭のもとで六日間の小番に従事し、申次・近習詰番など御所内諸番役・将軍外出時の帯刀などの警固が任務でした。将軍足利義政(在位1449~1473)のころには、御所内勤番者も、御伴衆・御部屋衆・番頭・申次衆・近衆・小番・走衆・御末衆と勤務内容によって格付けされ、次第に格差を伴う身分となっていったといいます。(以上各事典参考)
「長享元年九月十二日常徳院殿様江州動座着到」(1487)に「二番 後藤九郎」が記載され、「走衆」の「後藤佐渡守」は記載されていません。しかし、『蔭涼軒日録』長享二年(1488)四月二十日条に「後藤佐渡守来云、一昨日自遠州入洛、昨日御成致御供(以下略)」とあり、また同書延徳二年(1490)二月二日条に「後藤佐渡守持遠江之唐納豆小箱一ケ来、乃試之則有二異味一、東山相公平生御嗜好之故、小土器一ケ、毎々進上之云々、勧以盃、」とあります。

 この頃までを見ていくと、奉公衆二番を家織とする後藤氏に能登入道および左京亮親綱が存在していたことになります。この二人の関係は不明ですが、おそらく親子でしょう。その左京亮が文明年間に死没し、後嗣に「走衆」を家織とする後藤佐渡守がなったのです。
同じ二番衆に佐久城主一族大屋氏がいるので、何らかの関係があってこの地に来たのか、あるいは本坂・日比沢が「康正二年造内裏段銭幷国役引付」の「遠州所々」に入るとも考えられ、御料所の可能性もあります。奉公衆自体は明応の政変1493)で事実上崩壊します。
 きます。この後「永禄六年諸役人帳」(1563)記載「二番後藤治部少輔広綱」が存在しますが、このころ日比沢後藤氏は今川氏に属し、城郭を構えていますので、多分真泰と同族で、真泰が奉公衆をやめた後、後を継いだのでしょう。
 後藤九郎真泰は幼名亀千代といいました。弘治三年(1557)六月十八日付「今川義元判物」で、池田庄(豊田郡)領家方検地増分知行を命じられ、さらに同年七月二十三日、義元により池田庄検地および日比沢・本坂堀廻知行を命じられます。この文書で、九郎は「真泰」と言われています。義元戦死の桶狭間の戦いの少し前、永禄三年1560)二月三日「今川氏真判物写」で、義元の発給文書とほぼ同じ内容で、日比沢・本坂堀廻知行についても書かれています。
真泰は同年五月十九日、桶狭間で戦死します。そのあと、十二月十一日付「今川氏真判物写」では、戦死した真泰に代わって、子の亀寿に父同様の知行地を安堵しています。さらに同年十二月十一日氏真は、「雖為浜名知行有由来」と断ったうえで、釣松葉崎を給与されています。松葉崎は日比沢東の段丘端で、猪鼻湖に接し津があり、本坂道も通っています。また浜名本宗家の地贄代(鵺代)から浜名所々に住む親族・被官のところへ行く唯一の道筋にあり、交通の要所でした。それを断ち切られたのです。浜名氏本宗家がすでに没落し力がなく、佐久城大屋(浜名)氏もそれほど勢力がなかったためです。
この文書まで宛所は後藤亀寿殿で、二年後の永禄五年(1562)十二月十一日の書状では、「後藤佐渡殿」となっています。そして翌年九月十四日書状では、彼の実名が「真正」であることがわかります。最後の史料は永禄七年正月四日「今川氏真判物」で、「常盤知行安間」を新知として与えられています。これは安間の常盤地行分を宛がうということで、実際に現地を支配したのではありません。宛所は「後藤佐渡守殿」です。安間は現浜松市東区の天竜川側です。能登入道(1444頃~1456)ー左京亮親綱(1450頃~1470頃)ー九郎真泰(1487~1560死)ー亀寿のち真正(1560~1562)<ー某ー実勝>(数字は史料記載年度、<>は「日比沢後藤氏系図」)と続きます。ただ近世の「日比沢後藤系図」では亀千代を先祖とします。そして今川氏真に仕えた浜名最後の日比沢城主は後藤佐渡守直正で、逸話では家康家来に射殺されたことになっています。その子弥次兵衛某は最初今川氏真に仕え、のち徳川氏に仕えています。これは幼少のころに氏真に仕え、のち父の死後家康に附属したということです。もう一つ言えるのは、今川氏真代に至るまで所領および知行高宛行等の文書はすべて今川氏から直接発給されており、浜名氏のものは現存する文書にはありません。したがって、後藤氏も浜名氏と並ぶ国人の一人であり、浜名氏被官ではなかったということです。ただ大屋系浜名氏の娘を娶るなど非常に近しい関係だったのは事実でしょう。

江戸時代に浜名氏といえば佐久城主系を指すのが常識であったのに、全く無名の「浜名三郎元行」(三郎は浜名嫡流代々の仮名)が記載されているのか不思議です。
また、父後藤佐渡守直正が不敬の罪で家康に射殺されたのに、どのようにしてその家臣となったのか。遠州表案内云々は山家三方衆からの引き写しで虚偽だとしても、早くに家康方に就いた角兵衛よりも高い禄高を得たのか等々疑問がありますが、遠州における「後藤氏」を大雑把にまとめてみました。

<参考> 
「日比沢後藤氏系図」(意訳を含め略、正確な記述は原典を)
後藤九郎真泰
幼名亀千代、永禄三年五月十九日桶狭間にて今川義元と共に討ち死に。
後藤佐渡守直正
先祖亀千代以来直正迄代々遠州・三州の内を領し今川家に附属。
参考(「尾奈大矢氏(浜名氏)系図」大屋系浜名氏の佐久城主浜名頼広の妹は「一本日比沢村後藤佐渡守室 おはんぜう」)
後藤弥次兵衛某
今川氏真に仕え後東照公召て禄之。
後藤弥次兵衛実勝
南隆院(紀伊徳川頼宜)に附属、禄五百石賜ふ、大阪役に従ひ後元和五年国替節紀州御供、其後高千石に加増勘定奉行、承応元年(1652)十二月二十九日病死。

「本坂後藤氏系図」(略)
後藤角蔵実久(又角兵衛)
代々本坂に罷在、権現様岡崎御座の節御目見得云。永禄七年九月十三日御証文を賜ひ遠州表御案内。其後遠州日比沢城に差し置かる、追て江戸に屋敷を賜ひ、武州笠井川越にて三百石を食む。後遠州本坂に帰り、元和五年八月総領兵庫に従い紀州に移り住む。

後藤角兵衛某(初兵庫)
父実久家督相続、遠州本坂・大原新田知行三百石を食む。幼年より権現様に近侍、後遠州本坂御関所御用を勤む。追て南隆院様(南龍院、紀伊徳川氏初代徳川頼宣)に附けら れ、元和五年八月紀州御供仕、三百石下置かれ、同六年正月八日病死。


 説明はしませんが、上述系図及び註には多くの誤解が潜んでいます。寛政八年(1796)提出「先祖書(幷)親類書」には弥次兵衛実勝-甚太郎実俊ー甚太郎実賢等々と続きます。文化元年(1804)・文久三年(1863)補には、先祖角兵衛実久ー角兵衛ー角兵衛実綱ー角兵衛実英等々連綿繋いでいます。また分流を多数出しています。また紀州入国後初めての「(御入国之節姓名紀)元和五年紀伊徳川家分限帳」には「大番五番 後藤角兵衛 三百石」だけが見え、日比沢後藤氏は「寛永廿一年(1644)之御案紙」に「後藤弥次兵衛殿」とあります。禄高四百石、小十人頭が後文久頃の記録です。
 いずれにしても、確かな資料が抜け落ちていることもあって、断片的な系譜になってしまいました。








井伊氏系図ー野辺氏との比較

2023-06-11 08:22:37 | 郷土史
井伊氏の初代を含みそれ以前の系譜は神話伝説的でり、おそらく鎌倉以後とくに室町時代に形を整えたものと推定されます。室町時代の15世紀代には藤原北家に出自を求める系図の原型ができています。ところがこれが固定的なものでなく藤原南家に出自を求める系図も存在します。そこで同じ平安時代以来在庁かんじんであり、井伊氏のように「介」という官職をもち、ほぼ確実に南家の出である「野辺氏」を取り上げます。

 『尊卑分脈』によれば、野辺氏は藤原南家乙麿流時理孫入江惟清弟入江権守清定の子太田権守宗清の子に野辺三郎宗直が出ます。これがおそらく野辺氏祖でしょう。生きた実年代は資料がなく確定できませんが、清定兄船越四郎太夫惟綱の孫岡部泰綱が『東鑑』文治三年(1187)三月条に記載され、ほか『平家物語』『曽我物語』にも出てきます。しかし他方入江氏祖惟清六代孫原三郎清益は『東鑑』によると、一の谷合戦(1184)に義経に従い、曽我兄弟仇討(1193)の時疵を負うといいます。年代的に幅はありますが、二人は平安末期から鎌倉時代にかけて生きた人物だと思います。だとすれば、野辺三郎家直も大体同じ時代でしょう。『尊卑分脈』には野辺「介」という肩書はついていませんが、建治元年(1275)五月日「六条八幡宮造営注文」に「野辺介跡」とあり、この「跡」が「寛元二年(1244)十二月幕府追加法<付父祖之跡知行>の意味」(海老名尚・福田豊彦)だとします。つまり鎌倉幕府成立期に遡って所領を対象として御家人役賦課を記したものです。したがって「野辺介」という名称は少なくとも鎌倉時代以前ということになります。
 十一世紀末から十二世紀初頭以降 の国衙には国司遙任化進行により、「知行国主ー受領国司(大介)ー目代という命令伝達経路が再編されていき、その受皿として一方で目代の統括する留守所が形成」されるのです。前代からの国衙諸機構である「所の上に、国内郡司豪族の結集した「官人」と「所」の事務機構を分掌する専門集団の地方官僚の「在庁」とに二区分」されます。「在庁官人は「所」の職務を分掌し、職(称号と在庁名)を相伝する。官人は国司の四等官制の介以下の任用国司になぞらえて、介・権守・権介などの称号を持つが、これは知行国主・受領国司の補任と職の相伝によって成り立ったもので、朝廷の除目(県召除目)とは直接に関係がない」(峰岸純夫)といいます。野辺氏が「介」を称した時期は特定できませんが、たとえば三浦の「介」が保元元年(1156)から平治元年(1159 )の間だという推定(高橋秀樹)があります。このことから野辺氏が平安末ころ「介」を名乗り、留守所のトップにいたことは間違いないでしょう。そしてそれは馬允・右馬允という武官であり、「入江」「船越」「蒲原」「岡部」「原」などの駿河地域に勢力を築き、「権守」を称するような力ある在庁官人一族がやがて遠江に地盤を築くのです。こうした流れの中で、平将門追討の功があり、工藤氏祖でもある藤原為憲が祖であることを誇るかのように為憲の官織「遠江権守」を名乗る惟清四代孫清仲が「遠江権守」を称します。そして同様に従兄弟の野辺家直も「介」となります。
 野辺介が遠江国衙留守所で最も勢力を持っていたことは、建治元年(1275)五月日「六条八幡宮造営注文」における御家人賦課額が所領規模を表すと推定されるので、遠江国で複数人と考えられる山名地頭等を除くと、最大の六貫を数え、以下赤佐左衛門跡・貫名左衛門入道跡・内田庄司跡各五貫文、平*太郎跡・左野中務丞跡各四貫文、井伊介跡・西郷入道跡・東西谷五郎跡各三貫文とあり、井伊介に比べると二倍の額=所領高となる。これからすると、井伊氏一族とする赤佐・貫名氏は所領高といい、国衙見附に近いという地理的優位性からも、井伊氏に先行した豪族あるいは軍事的存在であったと考えられ、井伊氏がむしろこの二者のあとに系図的には赤佐氏から派生したと考えたほうが合理的であろう。
 ついでに言っておくと、藤原南家相良氏系図や日蓮関係の諸系図における井伊氏の扱いは歴史的事実を考慮しない後世の偽作であることは論証してきました。





峰岸純夫『日本中世の社会構成・階級と身分』校倉書房 2010年
高橋秀樹『三浦一族の中世』吉川弘文館 2015年






 

岩水寺と甲府善光寺初代大勧進源瑜

2023-05-05 18:23:02 | 郷土史
岩水寺は寺伝によると延暦年間(782~806)創建、最初龍池院と称していましたが、のち般若院に名称が変わります。盛時三百六十坊の塔頭を数える大寺だったといいます。享徳三年(1454)根本中堂が再建され、現在の岩水寺となりました。直接寺の由緒に関係すると思われる遺跡に、寺東の勝栗山古墓群があり、久安二年(1146)七月廿七日・廿八日に新所(湖西古窯址群)で焼かれた陶製五輪塔が出土しています。結縁者銘があり、大中臣氏等伊勢神宮関係者が名を連ねています。また大門西には鎌倉・室町時代の蔵骨器が出土した泉墳墓群があります。つまり、このあたりは古くからの葬地でした。弔い・死体処理を行っていたのは聖でしょう。つまり岩水寺には受戒の僧のほかに大勢の聖また修験者(山伏)が住んでいたのです。これはおそらく近くに天竜川の渡りがあり、宿が近く市が開かれていたような人の活発な交流があった地だからでしょう。

 さて永禄元年(1558)武田信玄が上杉謙信との戦いにより聖地善光寺が荒廃するのを恐れ、甲府に善光寺を建て善光寺如来を移したと伝えます。その甲府善光寺本堂上棟棟札裏に「生国羽州宮遍照寺 源瑜 六十四歳」が仏事を修したとあり、「遠州厳水寺 法印」と記されています。甲斐善光寺文書によると、源瑜は四十歳ころから木食となり遠州雲厳寺村の岩水寺に住み、「真言無双の道人」であったといいます。
 「羽州宮」は現在の山形県長井市宮です。そこにある「遍照寺」の創建は不明ですが、永享八年(1436)宥日僧正によって再建されました。この宥日の師僧は最初兵部律師宥朝でした。宥日上人は能書家で火伏・水難除去の祈禱の名人だと伝えられています。その同じ長井庄下長井小松千州寺に小松寺宥尊が学頭として住むことがありました。宥尊は真言小野の一流三宝院流願行方を受け継いだ学僧で、甥に浄土宗西蓮社聖冏がいて、念仏にも天台・神道にも精通していました。浄瑠璃光寺(常陸国新治郡佐久山)上宥に学び、師亡き後高野山に上りその兄弟弟子宝性院宥快に師事しました。その宝性院では宥日上人が、応永二十四年ころから永享八年ころ(1417~1436)まで院主永遍から小野の法流を伝授されました。遍照寺は談林(学問所)に指定されていました。したがって宥尊と遍照寺とはおそらく関係があったでしょう。また高野山奥の院には当時木食と呼ばれる聖集団がいて、苦行的修行および堂舎の修造のための勧進を行っていました。天正元年(1573)高野山に上った木食応其はのちに宝性院に住し、門主から金剛峯寺検校に進みました。すなわち室町時代から近世にかけての宝性院には、奥の院聖集団に関係し苦行を行う山伏的・念仏と勧進の聖的さらに学僧的な性格を持つ僧たちが存在していました。ここに源瑜が木食となる原点があったと考えられます。
 源瑜は遍照寺第五世で優れた学僧でした。中興開山宥日上人が火伏・水難除去の祈禱の名人であったのでそれを受け継いだことによって暴れ天竜と呼ばれる大河による水害防止除去に験があったのでしょう。また高野山宝性院との関りから奥の院に入ったのでしょう。さらに長井庄堂森(米沢市郊外万世呂)に今善光寺があり、同じく岩水寺近くにも善光寺がありました。こうした環境から真言宗寺院として移転創建された甲斐善光寺の初代大勧進に招請されたものと思われます。
 
 ちなみに信濃善光寺は無宗派で、天台宗の大勧進(貫主)と浄土宗の大本願(善光寺上人・尼)とが住職しています。

参考文献;「遍照寺史」『山形県史 資料編古代・中世史料2』所収
『善光寺史研究』小林計一郎著

浜松市北区三ケ日町の中世墓

2023-04-05 20:29:48 | 郷土史
三ケ日町の中世の墓については、内山真龍著『遠江国風土記伝』が三ケ日町只木の「公家塚」を「橘逸勢」の墓と推定したのが、この地の古石塔に言及した最初でしょうか。その後1953年刊の『浜名史論』において、三ケ日の郷土史家高橋佑佶氏が同じ「公家塚」を「南朝方某公卿」の墓としましたが、のち「後醍醐天皇皇子尊良親王の一宮」の墓と訂正しました。他方小笠郡の郷土史家西郷藤八は公家塚周辺から採集された数枚の中国銭の年代から時代を室町中期、被葬者は従一位花山院長親であると推定し、高橋佑佶氏と争論しました。そして次に愛知県の古石塔の初期の研究家であり、考古学者でもあり、石造物製作者でもあった岡崎市の池上年氏が三ケ日町の宇志瓦塔遺跡のレプリカを造ったのですが、三ケ日町の石塔調査には及びませんでした。つまりこの段階まではほとんど根拠のない文献資料からの推測にすぎなかったのです。
 本格的な調査は本間岳人氏が摩訶耶寺・幡教寺跡(大福寺前身)の石塔を調査したのが、この地における石塔研究の始まりとなりました。研究は「遠江における石製塔婆の様相」(『立正考古』第37号、1998年)としてまとめられました。さらに遠江中世石塔研究会メンバー松井一明・木村弘之・溝口彰啓氏による「浜名湖北岸における中世石塔」(『浜松市博物館年報』第23号、2011年3月刊)が遠江全域における石塔および石材調査の過程の一環としてまとめられています。その結論としては三ケ日町内に13世紀から15世紀中葉の古式石塔は存在せず、15世紀後葉以降の小型で量産された新式のものだけということでした。
 
 磐田市見附中世墓を例にとると、塚慕・コの字形墓・土壙墓・集石墓など13世紀前半から17世紀初頭までそれぞれの時期に形を変えたり、継続的に造墓されています。三ケ日町での形態は破壊が著しくほとんど不明ですが、火葬されたものは蔵骨器に入れられるのでその陶器片が残ります。それを参考にして推定すると、中世墓地としては只木地区奥の巨岩が露出している場所周辺に最大の墓域が形成されていました。ここは大福寺所管の薬師堂のあった地であり、その前身といわれる幡教寺跡のある富幕山の登山口に当たります。墓地はここのほかにも登山道途中にもあり、伝幡教寺跡にも石塔が数基あるので、この山全体が少なくとも鎌倉時代以降天台系修験の聖地であったと考えられます。ただ鎌倉時代中期に過ぎには真言系の修験が優勢になったと思われます。中世墓地は12世紀末ころから始まり、戦国時代まで機能していました。しかし石塔はほとんど見受けられず、数群に分かれた広い中世墓地跡から、わずかに一基小型の宝篋印塔の笠と基礎の部分が存在するだけです。被葬者は伊勢神宮荘園の荘官層・名主層だと考えられます。日比沢・尾奈などにも鎌倉時代の墓域が確認できます。尾奈地区には多数の宝篋印塔・一石五輪塔を集積した円通寺があります。寺伝ではもとは西の弓張山系山中にあって、天台宗比叡山延暦寺第三代座主円仁開創になると伝えます。この寺のすぐ隣の龍谷寺も同人の開基という伝承を持っています。龍谷寺はもともとは尾奈駅北の丘陵上に位置し、そこは中世墓地の地でした。つまり両寺院ともに天台の念仏系でした。のち龍谷寺は臨済禅に変わり、やがて両寺院とも曹洞宗へと移っていきます。おそらく組織された葬儀の形式を確立していたことも曹洞宗への転衣の一因でしょう。

 大福寺など真言寺院は二十五三昧会やそれに関連する光明真言を唱え浄化された土砂加持による死者供養が両寺開創以前からおこなわれていましたが、これを踏襲していました。弓張山系の拠点的寺院である普門寺(愛知県豊橋市)の伝承中には、住持として良源の名も挙がっています。また鎌倉時代には東大寺大勧進重源流の高唱念仏も取り入られました。重源は法然の弟子でもありました。摩訶耶寺境内および周辺からも鎌倉時代以降の蔵骨器や中世後期の石塔が存在しています。

 なぜ三ケ日町に南北朝・鎌倉時代に遡る古石塔が存在しないのかは不明です。近世江戸時代に入ると、寛永から元禄年間(1624~1704)ころまでは村の上層百姓の石塔が存在しますが、多くはありません。普通の農民段階まで普及するのはおよそ享保(1716)前後ころです。墓塔のない層も存在します。埋め墓と詣で墓があります。寺院内でなく家に付属する墓もありますが、村の墓域に統合されてしまったものがほとんどで実態が不明です。

最近刊大竹晋著『悟りと葬式』(筑摩書房、2023年)は「平安時代においては、穢の思想が発生したことによって、血縁者ならざる者の葬式を行うことが避けられるようになっていた」し、皇族・貴族など有力者を除き、「在家者が出家者に布施を与えて在家者の葬式を行うことは出家者に三十日の忌み(蟄居)という負担を強いるものだった」が、鎌倉・室町時代「禅宗の出家者は忌みを守ら」ず、「聖者の力によってあらゆる穢をものともせずさまざまな在家者の葬式において亡者を引導するようになった」といいます。他宗の出家者は「当初そのことに驚きつつも、結局禅宗の出家者を模倣していった」ことをインド・中国・日本の出家者と在家者との関りの分析から説いています。
 被葬者についてほとんど触れませんでしたが、大福寺の古石塔集積地にある十五世紀後葉の最大の宝篋印塔は、ほぼ同サイズのものが宇志にありました。これはおそらくこの地の領主大屋氏のものであろうと考えられ、大福寺が浜名氏苗字の寺であったので、先の宝篋印塔は浜名氏のものであったと思われます。墓塔の規模が大体同じなので、同じ大屋系浜名氏のものでしょう。