奥浜名湖の歴史をちょっと考えて見た

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雲岩寺(現龍泉寺)ー遠州最初の曹洞宗寺院

2023-03-18 10:42:00 | 郷土史
『浜名郡誌』によれば、現在の寺の名「龍泉寺」は慶長十九年(1614)徳川家康の命により改名したといいます。それ以前は洞巌山雲岩寺と号していたのです。明徳二年(1391)豊後国薦福寺(泉福寺)開山無著和尚の嫡子洞巌和尚が後ろの山に入り、石上に安座し、同四年近里の道俗協力して殿堂を建て、のち山を洞巌、寺を雲岩と称したのに始まったと伝えます。
 雲岩寺所在の赤佐は無文師の開いた方広寺の開基奥山氏の祖赤佐氏の本拠で、所領をのちに奥山氏が継いでいます。そうすると、雲岩寺開創には二つの要因が考えられます。直接的には九州探題今川了俊あるいは養子仲秋の招請、もう一つは間接的ですが無文師の影響ということになります。寺 伝では如仲・無範等がその門に倚るといいます。如仲天誾は森町大洞院開山で、曹洞宗大本山総持寺の住持を二度勤めています。遠州入りが応永年間(1394~1428)で両者峨山紹碩の法孫にあたるので関係はあるでしょうが、このとき如仲はすでに師梅山聞本の印可を受けているので悟後の修養のためだったのでしょうか、確認はできません。
  開山洞巌玄艦は豊後国泉福寺無着妙融に嗣法しました。泉福寺は永和元年(1375)田原氏能・南溟殊鵬母無伝仁公を開基として、豊後国国東郡に開いた寺です。無著妙融は日向国大慈寺剛中玄柔(臨済宗東福寺五十四世)によって得度し、のち紀伊興国寺孤峰覚明に参じます。孤峰覚明は臨済宗の僧ですが、曹洞宗能登永光寺峨山紹碩の信奉者で、南朝専一の人でした。帰郷のおり、曹洞宗本山総持寺無外円照に謁えて以来これに従い、ついに印信を得て無外の開いた皇徳寺を譲られます。肥前玉林寺・医王寺・豊後永泉寺・美作太平寺・筑前大聖寺等を開き開山初祖となります。明徳四年(1393)泉福寺に示寂します。寿六十一(六十とも)。遺骨は泉福・玉林二寺に分かったといいます。嗣法の者は洞巌玄艦を含め十六人、それぞれ両寺を一年ごとに輪住します。諸伝からは洞巌禅師は無著禅師三番目の弟子になると思います。
 洞巌禅師の伝は詳細には伝わっていません。また洞巌禅師の遠州入りの年も定かではありません。『遠江国風土記伝』は明徳四年(1393)といいます。一方『弘化系譜伝』は師無著妙融が至徳元年(1384)秋鑰尼信濃守季高室無礙本了大姉が開基となり、佐賀県春日山に開創された太陽山玉林寺に招かれ開山初祖となりそこに住し、明徳三年(1392)九月下旬泉福寺に帰ったその間のこととします。玉林寺開創は『日域洞上諸祖伝』ほかでも「至徳の初め」とあります。無著妙融逝去が明徳四年八月十二日、それ以前に「洞巌玄鑒侍者」が遠州に赴くのを送るという偈頌を作っているので、これ以前のことであることは間違いのない話です。また泉福寺・玉林寺は一年ごとの輪番制で、洞巌玄鑑は応永元年(1394)秋に泉福寺住持を勤めています。応永十六年(1409)七月六日寂と伝えます。
 嗣法の弟子は直伝玄賢・実庵融参二人のみ、あるいは大勢門慶三人とも、明江洪巌を加えて四人とも伝えます。ただ大勢門慶は玉応融堅の弟子です。いずれも法孫は存在しないといいます。また愛知県『豊田市史』は同市妙晶寺を開いた無染融了も洞巌禅師の法嗣の一人とします。
 直伝賢と実庵参二人を両哲といい、直伝賢のみが遠州に残り二俣(浜松市浜北区)に栄林寺を開きます。また両者ともに僧伝が伝わっています。直伝賢は「重續日域洞上諸祖伝」第三に「栄林寺直伝賢禅師傳」、実庵参は「日域洞上聯燈録」巻第五「日州福聚寺実庵融参禅師」です。
 それによると、直伝玄賢は勢州の人、由良興国寺で得度し、のち無著禅師が豊後泉福寺にて教化するを聞いて弟子となりました。しかし禅師が亡くなったため、その法嗣である洞巌禅師を雲岩寺に訪ね弟子となり、やがて印可を受けます。そして二俣村の静寂の地に庵(栄林寺)を構え、世間との交わりを絶ったと伝えます。ただ例外として親交のあったものは大洞院如仲と無範二人のみでした。応永二十年(1413)九月二十四日寂、寿九十八歳でした。
 実庵参は日向の人、皇徳寺無著禅師によって得度し、諸国偏参のおり、洞巌禅師に会い弟子となりついにその法を継ぎました。応永年間(1394~1428)国に帰り福聚寺を創建しました。永享三年(1431)十一月十日寂。
    (以上簡単にまとめましたが、詳しくは所載資料を参照してください)


「参考引用文献」
『浜名郡誌』
『佐賀県史料集成 古文書編』第五巻
『佐賀郡誌』
「日域洞上諸祖伝」(『大日本仏教全書』110)
「重續日域洞上諸祖伝(同上)蔵山良機編 享保二年(1717)成立
「日本洞上聯灯録」(同上)秀如編 寛保二年(1742)成立

井伊谷八幡宮

2023-03-05 10:16:27 | 郷土史
浜松市北区井伊谷所在の八幡宮は龍潭寺と渭伊神社との関係を抜きに語ることはできません。
 渭伊神社の由緒を記す案内板は『井伊谷村誌』を引き八幡宮の現在地への移遷が江戸時代の享保年間(1716~36)あるいは南北朝期と言います。後者は全く根拠のない憶説で、前者は間違ってはいますが史料の読み違いによるものです。
 辰巳和弘氏は平凡社版『日本の地名 静岡県』における「渭伊神社」の項の説明が誤りであって、事実は逆であると断言されました。簡単に説明しておくとこの項には、現龍潭寺の地にあった井伊氏の氏神である「八幡宮」が、享禄のころもともと現在地に鎮座していた「渭伊神社」の地に移遷してきて、同じ地に両社が祀られたため、のちに混同されて「渭伊八幡宮」と呼ばれるようになったというものです。これに引用されたのは、幕末明治に生きた山本金木の「井伊八幡宮御遷座記・龍潭寺建立記」で、それには「十二代将軍足利義晴代の享禄(1528~32)、天文初メ(1532)ころ八幡宮を殿村(現神宮寺)の薬師山に遷座成シ奉りぬ」と書き、さらにこれに関する頭注で「渭伊神社ハ此時遷座にアラズ。往古ヨリ今ノ社地ナルベシ」とし、確かに現在地に鎮座する「渭伊神社」の地に八幡宮が移ったと書いてあります。これを踏まえたうえで、遷座した八幡宮が「延喜年代已前に此井伊谷に勧請」されたと説明しますが、これは前後の文脈から明らかに遷座地にもともとあった式内渭伊神社のことを指していることは明らかです。神道家である金木が間違えるはずはないのです。
 この文の後註によれば、山本金木は文政九年(1826)雄踏宇布見の金山彦神社神主賀茂日向の長男として生まれ、十五歳で渭伊神社(八幡宮)神主家を相続しました。ただ父親はもともと井伊谷山本家が生家であり、渭伊神社三代前の筑前代に神道統率の大元京都吉田家から遠江国神祇示諭方に任じられ、豊前・大隅(金木)と歴代務めました。山本家そのものは以前から神宮寺村に住み、寛政年間(1789~1801)には既に渭伊八幡宮神主を務めるなど地元の旧家です。このことはあとに書くことと関係するので覚えておいてください。また渭伊神社と八幡宮に関しては井伊谷には中井家古文書群があり、古くは元和元年(1615)から貞享元年(1684)までの『中井家日記』から、幕末に古文書・古伝承の類をまとめた『礎石伝』など多数残っています。中井家は井伊氏庶流で初代田中直家は南北朝時代の人です。以下元禄十六年(1703)没の中井直閭まで十六代、以降も連綿と代を重ねて現在に至っています。さらに以上の二つの家系は神道家であり、延喜式神名帳に関しても当然知っており、両氏が「八幡宮」と言う場合、渭伊神社と八幡宮の二重の意味を持っています。
 享録・天文初め説については、『井伊氏・龍潭寺関連年表』(龍潭寺出版)が「龍潭寺文書」「平井家文書」を引いて、龍潭寺開山黙宗和尚招聘によりその前身龍泰寺造営が成ったのは天文元年(享禄五年)で、その前年享禄四年に八幡宮を殿村(神宮寺村)に移したとします。しかし同『年表』は明応年中(1492~1501)三ヶ日凌苔庵文叔瑞郁を井伊直平が自浄院に招き、そこに黙宗が参じたと書いていますが、文叔和尚は凌苔庵には来ていませんし、(このブログ「凌苔庵」参照)天文元年に龍泰寺開創というのも疑問です。というのも、『開山黙宗大和尚行実』によれば、師文叔が天文三年(1534)妙心寺に出世(奉勅)し、その後同年信州松源寺帰山にしたのに従い、翌年文叔逝去により遠州に戻り、佐久間浦川村(浜松市天竜区)に東福寺を開き、郷里奥山正法寺(方広寺末)に戻りました。そこで井伊直盛の請を受け自浄院に移り,のち万松山龍泰寺を建てて黙宗和尚を開山としたとあり、そうであれば龍泰寺造建と八幡宮移建がリンクするとすれば、享禄・天文初年説は成立しないことになります。
 また中井家文書の中には、八幡宮が八幡山と呼ばれていた現龍潭寺境内の地にあって、所伝に永正年中(1504~21)薬師山(現渭伊神社)遷宮について書かれてはいますが、渭伊神社がもともと現在地にあったかどうかについては触れていません。このことは井伊谷の古い家系では確かな記録は残っていなかったのですが、口伝として中井・山本家に伝わっており、両家の記憶の中に十六世紀前半に現龍潭寺の地にあった「八幡宮」が神宮寺村の現渭伊神社の地に移ったことが残っていたのだと思います。
 もうひとつよく知られた古文書には江戸時代中期の龍潭寺住職祖山和尚著『井伊家伝記』があります。祖山和尚自身は正徳元年(1714)「八幡宮只今の所へ引移候」とし、これが「神宮寺八幡宮」と書いているので、ことの成否は考える余地はありますが、少なくとも享保説は成立しません。たぶん享保十五庚戌(1730)正月井伊直惟の江戸屋敷の居間に八幡宮勧請、あるいは正徳四年(1718)松山(龍潭寺)八幡宮を初めて建立し八月十五日遷宮とあり、享保元年二年前ですので、どちらかの事実の取り違えではないかと思います。
ただ「渭伊神社」というとき考えておかなければならないのは、本当にこの名称が古代以来持続的に実在の神社として使用されていたかどうかです。その存在が江戸時代には不明で、論社であるわけですから中世に遡ればこの名の神社は存在せず、壊退したか、あるいは別の名称であった可能性は十分あります。ここでは便宜上「渭伊神社」と呼んでいます。
 
 確実な資料としては、まず間接的ですが「遠州渋川古跡事」記載「阿弥陀如来伝記」(東光禅院伝)から述べていきます。この阿弥陀如来は井伊氏祖共資の時代に、細江湖中で夜間光を放っていたのを拾いあげたものと伝えます。そして井伊八幡宮社中に安置されていたのを、応永年中(1394~1428)「井伊匠作藤原直秀」霊夢を感じ、渋川に一宇を建てて勧請したといいます。この話を証明するかのように、その八幡宮棟札に「応永三十一年(1414)霜月十三日 奉修造八幡宮 本地阿弥陀如来 藤原直貞法井道賢」とあり、さらに同所万福寺の応永三丙子年(1396)三月八日紀年銘棟札に「大檀那井伊之匠作藤原直秀」、応永三十二乙巳年(1425)紀年銘棟札に「大檀那井伊之次郎直貞法名宗有之孫修理亮直秀法名法井之子息五郎直幸同於寿丸」とあり、少なくともこの八幡宮が応永以前に勧請されたのは間違いありません。ただこの話の共資の時代云々というのは後世付け加えられたものでしょう。ということで、井伊八幡宮の勧請が南北朝・鎌倉時代に遡る可能性が高いと考えられます。ここに井伊共資代にすでに八幡宮があったかのように書かれていますが、これは応永年代以前、勧請の年が不明だけれども、はるか昔であるよと語るための手段にすぎません。ここで重要なのは、八幡宮の本地が阿弥陀如来とされていることです。
 一般的に言って、天応元年(781)朝廷より「八幡大菩薩」号を贈られて以来、中近世を通じてこの呼称が用いられています。阿弥陀如来を本地とする文献上の初見は、大江匡房が天永二年(1111)に完成させた『続本朝往生伝』です。往生者の多くが天台系、特に横川の関係者です。この著書により諸国八幡宮において念仏信仰が盛んになりました。また八幡太郎源義家祖父源頼信が石清水八幡宮を源氏の氏神としました。義家父源頼義が鎌倉の平直方の娘婿となり、所領を譲られたとき、石清水八幡宮を鎌倉に勧請しました。そののち源頼朝が鎌倉に幕府を開き、その由比郷にあった先の八幡宮を小林郷に移し「鶴岡八幡新宮若宮」としたのですが、建久二年(1192)社殿が焼失したのを機に、改めて石清水八幡大菩薩を勧請したのが現在の地です。朝廷の権威を背負い、所領・武門の守護神であり、寺院の仏法守護の鎮守であったこの神を、鎌倉御家人たちが自らの所領の氏神・鎮守として勧請し全国に広まっていったのです。
 井伊氏も鎌倉御家人でしたので、おそらくこの時代に井伊八幡宮は勧請されたのでしょう。

 八幡宮は中世、産神信仰と習合します。脇田晴子氏は神功皇后伝説が、蒙古襲来以来『八幡愚童訓』などにより、国粋主義的風潮のなかで注目され、応神天皇出産伝説にしたがい産神としても脚光を浴び、「各在地にある名もない産神が、神功皇后という皇室祖先神と習合するという現象が顕著になってくる」と述べています。『八幡愚童訓』は文永・弘安の役に関する叙述があり、したがってその成立はそれ以後となります。十四世紀初頭石清水八幡宮社僧により書かれたとも、室町時代吉田兼倶が書いたともいわれています。
 さらに、八幡本地が阿弥陀如来ということで、念仏および死者供養の聖が住んでいた可能性もあります。死者供養の仏が地蔵で、その地蔵は、渡浩一によれば、日本固有の童子観念や童子神信仰と習合した結果、子どもの姿で化現することもある菩薩です。また子どもは「霊託の媒介者とするシャーマニズム的観念は日本に古来根強い」とし、それゆえ、「他界と現世の両義的存在」であり、地蔵もそうです。この地蔵を本尊とする地蔵寺が、八幡宮の「御手洗の井」を管掌するのは、「井」もまた、この世とあの世を結ぶものだからです。つまり産神信仰と阿弥陀信仰による浄土への希求により、産神である八幡宮の井から、すなわち他界から子を、地蔵が現世に湧出させたのです。その祭りは「産粥神事」といわれますが、もともと「管粥神事」という稲の豊作・不作を占うもので、修験的色彩の濃い神事です。方広寺以前はこの地域は修験色の強い仏教が主力でした。
 
 ついでに言うと、井伊八幡神は境界神で、この地はムラの出口であり、それゆえ他界の入り口にあたり、もしかしたら中世後期には、子どもの亡霊の彷徨う賽の河原であったかもしれません。

 『井伊氏伝記』ですが、この本はかなり誤った箇所が多く、信用できない部分も多々あります。
 例えば「八幡宮」が延喜式に載っているという場合、これは「渭伊神社」のことではなくそのものを指しています。また醍醐帝の時代に全国六十四州の神々を京都吉田神社に祀ったとしますが、これは室町時代に唯一神道を創出した吉田兼倶が作った大元社のことで、延喜式とは無関係です。つまり祖山和尚は神祇にはあまり明るくなかったということです。

 さて「井伊谷八幡宮」はおそらく鎌倉時代、井伊氏が御家人となったころに勧請され、その後「八幡宮」の性格から「井伊共保出誕」伝承が創作されました。この八幡宮勧請のころにはすでに「渭伊神社」は所在不明となっていて、ただその本地薬師如来の名のみ残り、それゆえ鎌倉時代にも祭祀が行われていたのです。つまりこれが現正八幡宮の地であり、渭伊神社の地であったのです。いつのころか天伯神という流行神がその地に祀られましたが、この神は磐座に天下ったというイメージだったのでしょう。すなわち「渭伊神社」という名称はなかったのですが、その遺跡は存在し続けたのです。これがおそらく江戸時代に入って「神名帳」の重視により「渭伊神社」として復活したのです。したがって、たとえ享禄年間に現龍潭寺の地から移遷されたとしても、薬師山あるいは天白神社の地に移されたのであって、「渭伊神社」ではなかったのです。
 ただ言っておかなければならないのは龍潭寺移建のために、渭伊神社の地に勧請されていた八幡宮を殿村の現在地に移したという、八幡宮が龍潭寺の場所にあったという説です。八幡宮に十一世紀の共保の伝承が付属するのは、そもそも八幡宮以前にこの地に有力な神が存在しなかったからです。しかも「御手洗の井」は天皇・貴人にかかわる「御井」でなく「御手洗」にすぎず、あるいは周辺の田を潤すための井料が寄進されたのも戦国時代のことです。この「井」がそうした井伊氏祖先伝承に関わってくるのは比較的新しい時代だといえるでしょう。長い年月にわたる豊富な祭祀遺物を出した遺跡とわずかに奈良時代の陶馬が採集された遺跡のどちらが神祭りの場であるかは明白です。
 

参考文献:『湖の雄 井伊氏』辰巳和弘・小和田哲男・ 鈴木和紀 著 公益法人 静岡県文化財団 二〇一四年
「出雲風土記について」『風土記と万葉集』所収 吉川弘文館 




奥山方広寺開山無文元選

2023-03-01 20:03:36 | 郷土史
至徳元年(1384)奥山六郎次郎朝藤が引佐郡奥山に方広寺を開創し、無文元選禅師を招請して開山始祖とします。
無文元選禅師については、多言を費やす必要はないでしょう。簡単に述べておくと、後醍醐天皇皇子で、母は昭慶門院と伝えますが、正確なことはわかっていません。康応二年(1343)中国(当時は元)に渡り、諸尊宿に参敲し、福州大覚寺古梅正友に嗣法しました。古梅正友は臨済宗破庵派の僧で、有名な無準師範の五代後となります。玉村竹二『臨済宗史』(春秋社)によると、この派は南宋(1127~1279)では非常に栄えたのですが、元(1271~1368)が起こると、松源派に取って代わられました。つまり無文禅師は、日本では依然として盛んであったのですが、当時の中国では衰退していた派に属したのです。しかし実はこの時代全盛であって、日本の禅僧の多くが参じた松源派古林清茂の法嗣了庵清欲の参徒でもありました。了庵清欲は日本に来ていませんが、来朝し足利尊氏・直義兄弟の帰依を受け、また南禅寺・建長寺などに歴住した竺仙梵僊とともに、古林門下の二大甘露門と言われていました。
 古林清茂は偈頌主義を唱えた文芸運動の創始者で、古林の別号金剛幢から、その会下を金剛幢下と呼びます。ここに参じた日本の禅僧はいろいろな宗派に属していましたが、文学活動についてのみ団結する集団を形成しました。初期の五山文学を形作ったのも彼らでした。金剛幢下であることは、日本では一種の結社の結成に至ったようです・たとえば、康応元年(1389)八月二〇日、方広寺において十三回忌が修された前建長広円明鑑禅師(大拙祖能)は、中峰明本法嗣千岩元長から法を嗣いだ幻住派の人です。たしかに無文禅師は、千岩元長に参じているので、その縁も考えられますが、了庵清欲に参じた金剛幢下の仲間であったことからも、執行されたものでしょう。というのも「師以レ有二旧盟一」とあるからで、旧盟とは金剛幢下のことでしょう。無論、大拙祖能は無文が両親のもとを去って、京都建仁寺に入った時の最初の師であったからだということは、いうまでもありません。また応安六年(1373)無文元選の画像賛を作った古剣智訥は、その師孤峰覚明が、古林清茂に学んだ金剛幢下の人という縁が関係しているのでしょう。当然、師弟共々南朝専一であったことも、無関係でないことは言うまでもないでしょう。
 また元・明の禅は、禅浄兼修でしたので、当然その感化は受けたと思います。たとえば無文の参じた中峰明本には『観念阿弥陀仏偈』などがあり禅浄一致を説き、同時に隠遁的生活を修行の核においている僧でした。ま中国士大層の葬儀を仏教的に組織もしました。無文禅師晩年の奥山への来住や井伊郷住人の葬儀への関りは、この僧の影響であったかもしれません。無文禅師は渡元の前に、博多聖福寺無隠元晦のもとに参じています。また雲州の人で京都大徳寺徹翁義享の俗弟で、禅師と同船で帰国した義南菩薩と鎌倉万寿寺にいた中巌円月とともに鎌倉を訪ね、円覚・建長寺に歴住した古先印元三者で、足利直義を訪れましたが、この無隠・義南・古先ともに中峰から嗣法しています。
 中国の教禅一致、禅浄一致の教養と仏教を引く、当時日本では盛んであった破庵派の禅と、主流であった金剛幢の文芸、これらを修めた無文禅師の名声は高く、雲水が群参したと伝えます。京都妙心寺日峰宗舜(1368~1448)なども参徒の一人と伝えます。(但し東三河嵩山正宗寺僧の説あり)
 禅師の化によって井伊郷およびその周辺の密教寺院や、禅密兼修の寺院の多くは、方広寺派へ変わったと思います。さらに、方広寺四派鼎立後は、一層の教線拡大が行われました。
 康応二年(1390)閏三月二十二日、本山寝室において示寂、六十八歳、法臘四十九年。
 京都岩蔵(右京区)に帰休庵、美濃にも帰休庵(武儀郡)、同国了義寺(現岐阜市)、三河広沢庵(額田郡)、宝泰寺(現静岡市)を開きました。嗣法の弟子に四哲といわれる僧が出て、それぞれ方広寺内に塔頭を創ります。臥雲院開基空谷建幢、三生院開基在徳建頴、蔵龍院開基仲翁建澄、東隠院開基悦翁建誾で、それぞれ方広寺住持に任命されました。

 方広寺が諸山に列したという資料がありますが、不確かなので割愛しました。
鈴木泰山『禅宗の地方発展』はこの地方に禅宗が定着し持続的な教線の拡大を見るのは応安四年(1371)無文元選が奥山(浜松市北区)に方広寺を開いて以来だといいます。『豊田市史』は無文禅師と浜北区赤佐雲岩寺(現龍泉寺)開山洞巌玄艦禅師は親交があったと伝え、無文師の元からの帰朝後、延文元年(1356)三河国西広瀬(豊田市)に広沢庵を結んだことをきっかけに、親交のあった洞巌玄艦の法嗣無染融了の妙晶寺、無文師の俗系の兄弟金竜兼柔の千鳥寺、遠く離れた同県新城市に豊田氏長興寺末が三ケ寺を数えるのも、直接間接に無文師の影響であったとします。
 
 龍泰寺(のち龍潭寺)の開創は、無文禅師の弟子たちによるものかどうかはまだわかりません。ただ井伊谷円通寺などは、無文禅師が仏事を修したころには方広寺末になっていましたが、その後黙宗瑞淵により、妙心寺派龍泰寺末に変わりました。

以上は一度このブログで取り上げたのですが、煩雑であったため書き直しました。

参考文献:『無文禅師物語 奥山方広寺御開山無文元選禅師行状』 新野徳宗著 1996年刊 「出版」 方広寺
『臨済宗史』 玉村竹二著 1991刊 春秋社
『位牌の成立』菊池章太著 2018年刊 丸善出版


遠州安国寺金剛山貞永寺

2023-03-01 18:59:26 | 郷土史
【遠州安国寺金剛山貞永寺】
 夢窓疎石が後醍醐天皇や南北朝の戦いの戦没者の菩提を弔うために、一国一寺一塔を建てることを将軍足利尊氏提案し、十四世紀半ばには一部を除きほとんどの国で実現したもので、寺のほうを安国寺と名づけられました。そのひとつ遠州安国寺とされたのが掛川市大坂(旧小笠郡大東町)金剛山貞永寺です。
 このお寺の開山について詳しいことはよくわかっていません。
 寺伝ほかでは高峰顕日法嗣玉峰殊圭を開山とします。この僧に関する伝はほとんど伝わっていません。玉村竹二著『臨済宗史』は高峰顕日の弟子の多くは法諱の系字として「妙」を用い、玉峰も「妙圭」を諱とするとします。また『禅学大辞典』も玉峰妙圭をとります。『豊鐘善鳴録』に南溟殊鵬が「京都万寿寺玉峰殊圭に参じ大悟」とあり、これが数少ない情報のひとつですが、真実かどうかは不明です。『禅学大辞典』法系図は「無学祖元ー高峰顕日ー玉峰妙圭ー南溟殊鵬ー機叟圭璇ー堅中圭密」とあります。これも正しいか否かははっきりしません。最後の堅中圭密は京都天龍寺三十六世で、応永十年(1403)明に国書を送るための遣明使(正使)となり、翌年帰国の際明使同行し永楽帝が将軍義満を日本国王と認める印を持参したことにより、勘合貿易(日明貿易)が開始されました。
 もう一人開山説のある天祥源慶は三州の人、円爾の法嗣双峰宗源に法を継いだ人です。永和初年(1375)四月二十六日「遠之安国蘭若」において、辞世の偈を作って寂します。これは間違いのないことで遠州安国寺住は確かです。『東福寺誌』は「遠州安国開山」と注記します。ただ、『延宝伝統録』によると、「遠之安源寺」を開いているので、これと間違えているのかもしれません。「安国寺は建武五年(1338)から康永四年(1345)以前に設定され、とくに暦応二年(1339)が画期である」といいます。したがって永和初年時まで三十年以上住持を勤めたことになります。しかし、官寺の住持としては長すぎるのでおそらく中興でしょう。
 確実にこの寺の住持であった南溟殊鵬も開山とされています。それは先にあげた僧密雲(俗名河野彦契)が寛延三年(1750)完成させた『豊鐘善鳴録』に「遠州貞永寺南溟禅師、諱殊鵬、豊後田原府藤貞広子」で、幼にして宝陀寺悟庵和尚に投じて仏門に入り、のち京都万寿寺玉峰殊圭に参じて大悟し、故郷に帰り実際寺・宝陀寺などを視篆した。そして同国豊後国香賀地施恩寺・辻間掲諦寺を開き、晩年檀越某氏金剛山安国寺を建て開山に請じた」と書いています。さらには康安元年(1361)没とします。また「大友・田原系図」(『大分県史』中世編Ⅰ)には「遠州横須賀金剛山貞永寺開山、同国見付瑞雲山見性寺開山、豊後国辻間掲諦寺・同国香賀地施恩寺開山」とあります。またこれに続けて「南溟法叔可翁賀貞永寺頌」を載せます。
「南溟法叔可翁賀貞永寺頌」における「可翁」は、博多崇福寺や京都万寿寺との関りからは南浦紹明法嗣可翁宗然(康永四年没)がいます。諱に「賀」を用いたともされますが、時期的に合わず、玉峰殊(妙)圭の関係からいうと高峰顕日法嗣で鎌倉建長寺住持を勤めた可翁妙悦(永和三=天授三年/1377)の可能性がありますが、やはり事実はよくわからないのです。しかし、「遠州貞永寺」に住持したことの証明にはなります。
 内田旭「南溟禅師と槐安国語」(『郷友』第四号)は檀越某氏は今川貞世(了俊)であり、南溟禅師の康安元年没も正しいとします。しかし南溟禅師の実兄田原氏能が上京して九州南朝方討伐のため強い武将を送るよう要請したのち、応安三年(1370)今川了俊が九州探題に任命され、翌年九州下向して以来の間柄です。したがって、康安元年以前にに南溟禅師を招請するほどの関係ではなかったでしょうし、応安七年(1374)二月四日兄田原氏能が、南溟に寺地を与え、豊後国辻間に掲諦寺が開かれているので、明らかにこの説は誤りです。おそらく河野彦契が康応元年(1389)死没と書くところを間違えたのです。さらに同書は豊後国香賀地施恩寺・辻間掲諦寺を開いたあと「晩年檀越某氏金剛山安国寺を建て開山」に招請したとするので、開山はともかく遠州入りについて、これが正しければ少なくとも応安七年よりはあとのことになります。了俊の九州探題解任は応永二年(1395)閏七月大内義弘の讒言によるものですので、つまり内田旭のいう檀越某氏が今川了俊であるというのは、南溟禅師の没年の誤りさえなければ正しいでしょう。
 南溟禅師は、豊後大友一族の庶流田原氏の出で、実兄は今川了俊を九州に迎えた田原氏能で、当時本家大友氏を凌ぐ勢いを持っていました。正平六年(1351)ころ、南溟叔父田原直平が開いた豊後国国東の宝陀寺悟庵智徹に嗣法した可菴智悦を嗣いでいます。悟庵は貞治六年(1367)示寂しています。南溟は幼にして宝陀悟庵和尚に投じ、芟染受戒とあるので、本来は悟庵がその修行をみるはずであったが、亡くなったので、その法嗣である可庵智悦の弟子になり、その印可を得たと考えられ、それは貞治六年より後になるでしょう。むろんこの間、諸方に諸尊宿を尋ねたと思いますが。宝陀寺は正平年中(1346~1370)に田原氏能の叔父田原直平によって建立され、悟庵智徹を開山に招聘しました。悟庵智徹は東福円爾法嗣で豊後万寿寺開山、東福寺住持を歴任した直翁智侃の法嗣です。
 したがって、少なくとも貞治六年以降、さらに言えば天祥源慶死没の永和初年(1375)四月二十六日よりのちに遠州安国寺住持になったわけです。だとすると、南溟禅師も開山ではないことになります。つまり玉峰殊(妙)圭を開山とするのは正しいと思います。しかし、南溟殊鵬をその弟子で法を継いだというのは違うと思います。
 当初南溟は智鵬と名乗り宝陀寺住持を勤めています。また同じく師の悟庵智徹が開いた豊後国大分郡篠原村重之山慈航寺にも「宝陀南溟智鵬」とあり、この派の系字「智」を諱に付けています。宝陀寺・慈航寺ともに東福寺派の寺です。禅僧は例外はありますが、一師一証が原則です。また「宝陀寺末寺帳」(『東福寺誌』)に「寺基あるも檀縁なし。これによって住持相続き難し。派中より兼領するものや、又、他派に属し,或は廃壊するものあり」という五十八箇寺の中に「遠州見附 見性寺」が入っています。これが正しければ、東福寺派の僧「南溟智鵬」として遠州入りしているわけです。貞永寺にも同派の天祥源慶が先に住持していたとすれば、わざわざ玉峰の法を継ぐ必要がなく、玉峰の京都万寿寺住持というのも不明なのです。南溟禅師は仏照大光禅師と勅により諡号を贈られます。
 こうして、遠州安国寺としての貞永寺には、開山玉峰殊(妙)圭、二世天祥源慶,三世南溟智鵬が住持したと考えられます。
 貞永寺は諸山に列します。寛正年間(1460~66)までは公帖が発せられて住持が任命されていますが、その後どうなったのかは、明らかではありません。寺伝では大永四年(1524)四月中興と伝えますが詳しいことはわかりません。「黙宗大和尚行状」(龍潭寺文書)は、城東郡金剛山貞永寺が天文年中(1532~1555)寺運衰退し法幢も続かなくなったので、駿河大竜山臨済寺太原崇孚が、使いを黙宗のもとに送って、これを再興するように頼んだ、といいます。住山数年、修造終わって、貞永寺を退院します。そして嗣法の弟子梅霖に託したとします。梅霖は天文二十三年(1555)寿像に法語を需めています。年未詳の「臨済寺諸塔頭以下書立」は、今川義元の朱印が文書の継目部分に押してあり、永禄十二年(1569)正月十八日武田信玄が披見したものです。義元の時代に、貞永寺は既に駿河臨済寺末寺になっており、永禄十二年には確かに梅霖座元が住持となっています。つまりこのころには既に妙心寺派の禅寺となっていたのです。そして天正年間(1573~1592)雄踏宇布見安寧寺に入山した清庵宗徹により安寧寺末寺となりました。

 不思議なのは磐田市万勝寺・同市大蔵寺という見性寺(現臨済宗妙心寺派)末寺が前者が文永五年(1268)二月、後者が健治三年(1277)九月両寺ともに南溟創建としていることです。見性寺については『磐田郡誌』もほとんど伝を記載していません。ただこうした鎌倉時代に南溟禅師が関わったという寺院はほかにもあります。同じ東福寺派の円爾の弟子無為昭元に嗣法した鉄山継(景)印が中興した伊予観念寺(現西条市)の住持を、鉄山以前に南溟が勤めたと伝えます。現に開山堂に鉄牛とともに南溟の座像があると言います。「豫章記」にも建武三年(1336)ころ、「道前(伊予国東部)ニハ南溟和尚。垂二鐵牛之乳一施二舐犢之慈一。」とありますが、鉄山の中興が元弘二年(1332)であり、南溟禅師が生まれているかどうかもわからない年代ですので、住持を勤めるのは不可能です。ただ伊予には師悟庵智徹開創の寺が存在します。ともかく、如上の「南溟」は智鵬ではないでしょうし、磐田の二寺は伝の誤りでしょう。

 曹洞宗雲岩寺(浜松市浜北区)を開いた洞巌玄鑑は、南溟の母無伝公尼発願で兄氏能が永和元年(1375)国東郡横手に建立した泉福寺開山始祖無著妙融の法嗣です。次はこの僧について書きます。


凌苔庵ー浜松市北区三ヶ日町

2023-02-20 23:31:50 | 郷土史
浜松市北区三ヶ日町平山に中世存在した「凌苔庵」は悟渓宗頓禅師が開いたと伝承されています。しかしこれは全くの早とちりで、「悟渓」という道号であれば「宗頓」という諱が対応するという思い込みによるものです。『禅学大辞典』の法系図などをみると、「悟渓」という道号の僧はたとえば京都東福寺三聖門派だけで三人います。このうち悟渓宗頓と同時代なのは悟渓一鳳(別号悟栖)でしょうか。三ヶ日町は東福寺住持を勤めた仏海禅師一峰明一が同町大谷虎洞山高栖寺を開いたと伝え、一峰明一は三河吉良実相寺五世です。浜松荘は中世吉良氏の所領であり、吉良氏開基実相寺の弟子が住持する寺もあって、そうした関係で東福寺とも関係があり、むしろこの悟渓一鳳が平山悟渓の可能性が高いでしょう。
 また現在の凌苔庵跡といわれる字「リョウテ」の遺跡の位置にも疑問があります。「加藤寅三覚書」(静岡県史別編民俗)によると、「リョウテ」の遺跡の地には戦国時代ころの陶器片が散乱していたとのことですが、現在地には何もなかったという古老の談を聞いています。三ヶ日の著名な郷土史家高橋祐吉によれば、禅僧は水を好み(遺跡は山中の湧水点付近)、そのうえここを凌苔庵と特定する決め手は仏花であり栽培品種であるシュウメイギクの存在であるといいます。しかし隣の愛知県新城市では石灰岩質土壌で自生するものが見つけられています。決定的なものではありません。むしろ現在地の谷を挟んだ西の段丘上のほうが可能性が高いと思います。その段丘下の谷は中世大福寺末寺万福寺があったところですが、この周辺一帯は鎌倉時代から戦国時代の陶器片が散乱しています。日当たりからも陰気な場所より陽気なこの丘陵のほうがふさわしいと思いますが、確定するまでには至っていません。

 悟渓宗頓は応永二十三年(1416)尾張国丹羽郡南山名村に生まれました。同国瑞泉寺(犬山市)日峰宗舜に師事し、のち日峰法嗣美濃国愚渓寺義天玄詔・同国汾陽寺雲谷玄祥・伊勢国大樹寺桃隠玄朔に参禅、京都龍安寺雪江宗深により印可を受け「悟渓」と命名されます。大徳寺五十二世・妙心寺十一世住持となり、妙心寺東海庵の開祖となります。応仁元年(1467)の乱を避け瑞泉寺に戻り、同二年美濃斎藤妙椿に招請され、守護土岐成頼菩提寺として瑞龍寺の開山となります。晩年は瑞泉寺・瑞龍寺で過ごし、明応九年(1500)済北院寂。勅賜大興心宗禅師。ちなみに引佐郡井伊谷龍潭寺開山黙宗瑞淵は悟渓禅師の法嗣玉浦宗珉から嗣法した文叔瑞郁の法を嗣いでいます。

 平山凌苔庵の文献上の初出は寛正三年(1462)十二月十二日「大福寺不動堂造立勧化帳」です。これが悟渓宗頓であれば四十八歳の時です。雪江による印別付与は二年後の寛正四年です。まだ修行途中で三ヶ日に来る余裕はなかったでしょう。凌苔庵平山「悟渓」自身の初見は文明十六年(1484)六月十二日「悟渓寄進状」に浜名神戸刀禰名を「悟渓老僧為慈母亡魂見蘭禅尼菩提」として大福寺に寄進しています。この年の四月十五日悟渓宗頓は、景川宗隆の後任として妙心寺に十一世として出世しています。これは雪江宗深の定めた二夏三年の入院ですので、当然三ヶ日にはいないことになりまっす。また彼の法語を収録した『虎穴録』に「慈父真叟道詮禅門二十五年忌拈香」を自ら執り行ったときの法語がありますが、母についても塔銘「慈母梅蘂妙清大姉塔婆銘」に関する法語が記載されています。そうしますと、母親の法名が異なります。さらに先の平山悟渓の寄進状には花押がありますが、悟渓宗頓の残っている晩年の書状には印章が使用され、花押は稀有なものでそこに署名された文字は少し似ていますが筆跡は異なります。
 以上から平山「悟渓」が「悟渓宗頓」である可能性は非常に低いと言わざるを得ません。