奥浜名湖の歴史をちょっと考えて見た

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都田御厨(1)

2022-06-07 21:56:14 | 郷土史
「都田御厨」は『兵範記』裏文書仁安二年(1167)八月「大中臣公宣申状」によれば「先祖三代の領地」であり、永保(1081)以前の成立と言われます。この時は在庁官人の濫訴により廃退したが、伊勢斎宮寮中院を造進するのは、神祇大副が受領を募って行うことが慣例であるとして、復活したといいます。公宣は父親が祭主大副従五位で、保延四年(1138)薨去ですが、実は系図上の公宣子伊勢守公隆の嫡子です。その公隆は公宣祖父公定弟大宮司公義二男といわれるように複雑な家系です。公宣は少副従五位下で、仁安(1166~69)造内宮使、建久(1190=99)造外宮使を務め文治四年(1188)に卒去しました。その三代前は祖祖父公兼で、第六十九代大宮司従五位下です。公兼は万寿元年(1024)十二月九日任翌年着任し、在任六ケ年でした。つまり、任期前は京に住んでいたわけです。祖祖父は大神宮司茂生、祖父は祭主で蓮台寺本願安頼、父祭主永頼養子宮司千枝です。つまり、公宣は伊勢神宮最上位の祭主・大宮司一族でした。

『神宮雑例集』巻一によれば「都田御厨為便補所」とあります。勝山清次氏によれば、この十一世紀中の便補保は初期段階のものです。白河院政下別名制の成立、荘園の拡大・増加により国 司は増大した負担を担いきれず、濟物未進・未済が顕著になり、寛治年間(1087~93)以降恒常化します。この時代の便補保は、「濟物を受ける権門や諸司側の私領が何らかの形で存在するばあい」に立保されると言います。都田が便補保となった理由は不明ですが、考えられるのは遠江国主源基俊が尾奈御厨収公と本神戸田を苅加えたのが二年前ですので、是と関係する可能性があります。神事過怠を理由に国守に便補保を要求したのかもしれません。そのばあい、都田の隣地刑部にも御厨があることを考えると、浜名神戸をテコに祭主一族が進出してきていたのでしょう。これにより、最初に都田は便補保として成立し、それを契機として、国免荘になったのだと思います。ところが国司交替などにより、荘園整理令を理由に一度は収公されたのでしょう。そして復活するわけですが、その年代は史料がなく特定できません。そこで一応の目安として、斎宮中院造成について考えてみます。
 「大中臣公宣申状」どおりであれば、三代前の公兼代に都田御厨は成立したことになります。公兼は万寿元年(1024)十二月九日六十九代大宮司に任じられ、同二年二月十日着任しています。在任六年、度会郡野依に邸宅を構え、野依前司と呼ばれています。公宣申状には、伊勢斎宮寮中院を造進するのは、神祇大副が受領を募って行うことが慣例と記されています。しかし、公兼は「造内宮司」を努めたことはありますが、「斎宮中院」には関わった形跡が見られません。三男の第七十六代大宮司公義は治暦四年(1068)二月任、在任十二年とあり、また永保元年(1081)重任となっています。そして、寛治八年(1094)卒していますが、この間「造内宮司」、さらに斎宮助を努めているので、三代前云々はこの公義の可能性があります。この人物は公宣祖父公定の弟です。ただやはり、斎宮中院造成に関する記録はありません。確実な記録によれば、「造斎宮中院功」により仁平四年(1154)正月五日従四位下に叙された四十代祭主・従三位・神祇伯親章があります。この代は公宣実父で、系図上は公宣子となっている公隆です。父は公義で、公隆に「家司」という肩書があるので、おそらく祭主親章家司ではなかったかと思われます。そうしますと、これが収公の危機にあったのち、御厨復活の時期でしょう。ただ、棚橋光男氏によると、「建久三年神領注文」は嘉祥三年(1108)七月二十九日二宮禰宜注文と永久三年(1115)六月十七日宣旨に記載の旨を記し、その写しを調進するのみで官の認可を得られる種類に往古神領が分類されるといいます。都田御厨はこれに該当しています。すなわち、十二世紀初めころまでには立荘されていたわけです。ちょうど伊勢神宮において、宮司・禰宜を包摂する祭主権力が確立する時期に当たります。そこでこのころ成立した御厨御園の給主に大中臣氏が就任するのです。ところが先に述べたように、この後国司により一端収公されたのですが、先に述べた理由で再び御厨として蘇ったのです。だとすれば、さきの想定は意味を持たなくなり、結局不明ということになります。

 「建久三年神領注文」には都田御厨は内宮(皇大神宮)所管になっています。南北朝期編纂『神鳳抄』には「都田御厨」は内宮所管、上分田見作八十九丁で段別一斗の賦課となっています。したがって、供祭上分は八十九石です。延元四年/暦応元年(1339)十月日「給人引付諸神領注文」には刑部・祝田御厨は記載されていますが、都田御厨は未記載です。
 同じ鎌倉時代の寿永三年(1184)三月十四日源頼朝より、「如元従神宮使、可致沙汰」と所領安堵がなされていますが、詳細は不明です。その後南北朝時代の北朝延文二年(1357)五月二十七日「後光厳天皇綸旨」において、洞院大納言(実夏)知行の旨安堵されています。祖父実泰が後継とした実夏叔父実守が南朝に参候したため実夏が後継者になったのです。これは領家職で、本家は伊勢神宮内宮庁です。延文五年/正平十五年(1360)父公賢が死没後、実守が後継を主張します。後光厳天皇は同年六月二十八日家領分割を命じました。したがって、都田御厨領家職も分割されたはずです。しかし、貞治元年/正平十七年(1362)実守の南朝方回帰に伴い、実夏一円所領となりました。ったのです。実夏は貞治六年/正平二十二年(1367)父が死没した際、一度は廃嫡されました。しかし、応安三、四年(1370)には洞院家を継承しています。都田御厨は応安七年/文中三年(1374)五月二日には都田御厨の税の減少を述べています。
 永和三年/天授(1377)二月二十八日神宮が新義の課役をかけたと百姓等に訴えられ、祭主大中臣忠直に問うと述べています。この後至徳元年/元中元年(1384)都田御厨半分を洞院大納言家に返付するよう遠江守護今川貞世に命じられています。
 十五世紀初め遠江守護に斯波氏が任じられると、被官が大挙押し寄せ、荘園代官を請け負い、年貢横領・対捍が常態化します。康正元年(1455)五月二十六日の「伊勢大宮司書状写」によれば、都田御厨(上方)は地頭は洞院殿代官に池嶋氏が務め、下方はもとは井伊氏が地頭だったのですが、この時には斯波氏被官堀江氏が務めています。しかし、堀江氏により神税減少し対捍したため大宮司が三か月後催促しています。
 
 やがて今川氏親が遠州を平定するころには遠州全体が今川氏の所領となり、都田御厨は今川氏によって井伊氏に給与されます。この時代実質的には神宮領は収公されています。

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