奥浜名湖の歴史をちょっと考えて見た

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

津和野町旅行記

2023-02-10 18:44:51 | 旅行
数少ない友人だった人から島根県鹿足郡津和野町の話はよく聞かされていました。一度は訪ねてみたいと思っていましたが、このたび鳥取・出雲・松江の旅行のついでに立ち寄りました。
(1)「津和野城址」(三本松城)と乙女峠マリア堂
  太鼓谷稲荷神社の赤い鳥居の石段をくねくね折れ曲がりながら歩いて上り、上り切ったところに立派な社殿に¥がありました。そこから今来た階段とは違う車用の参詣道路を少し下ったところにリフトがあり、城のすぐ近くまでいくことができます。山頂に石垣だけ残っています。鎌倉時代に吉見氏による創建と伝えますが、実際には戦国時代ころに築かれたのでしょう。
 城主は吉見氏が戦国時代大内氏のち毛利氏に仕えましたが、江戸時代初め断絶します。その後坂崎出羽神直盛が城主となりますが、大阪夏の陣における徳川家康孫娘千姫に関わる事件で元和二年(1616)謀殺されやはり断絶します。この後元和三年因幡國鹿野(鳥取市)から亀井氏が転封となり城主となり、以下明治維新まで続きます。最後の城主亀井玆監は天保十年(1839)久留米藩主有馬頼徳六男で養子です。玆監自身も著名な神道学者でしたが、彼の開いた藩校養老館初代国学教師岡熊臣はじめ大国隆正やその弟子福原美静などは明治再興の神祇官を主導しました。こうした保守的な地盤が、明治になって浦上村民などキリスト教徒弾圧に与する要因となったのです。明治六年(1873)のキリスト教禁制の高札撤去まで津和野・萩・福山に流され拷問で殉死した浦上村民は3394名のうち552名に上ります。津和野でのその場所が現在の乙女峠で、鎮魂のためマリア堂が建っています。これは亀井氏の前の城主坂崎出羽守が豊臣秀吉の禁教令に背き続けたような熱心なキリスト教信者であったのと対照的です。
大工など城建設に携わった人々を殺し沈めたという、城建造につきものの伝説の千人池は城下と反対方向の山下にあります。またこの本丸には抜け穴があり、地元の中・高のクラブがよく探検を行ったと聞きます。現在は石を積んで入れなくしてあります。
 
(2)友人の思い出の中の津和野
 山陰の小京都ともいわれ落ち着いた城下町と思っていましたが、友人は津和野の思い出を語るときは、なぜか暗い面持ちをしていました。そう考えると小さな盆地に位置するこの町が、息が詰まるような狭苦しさとそれでいて懐かしさがこみ上げるような不思議なところだと感じました。
 森鴎外もこの町の出身ですが、死ぬ間際に石見國津和野の「森林太郎」として葬るように遺言したと伝えます。その墓は同町曹洞宗永明寺にあります。軍医としても作家としても時代を極めたと言って良い人物が、一介のヒトとして葬ってくれというのはどういう心境でしょうか。この町のもっている光と影に関係しているのでしょうか。

 帰りに山口線に乗って長いトンネルの向こうにある隣町の山口市徳佐の広い開放的な盆地を見ると、悠久の時代から一方は時間がゆっくり流れ続け、津和野は中世以来昭和まで怒涛のように流れすぎて、現在再び時の流れに取り残されていっているような気がします。津和野郷土資料館で徳佐の初期須恵器を見、津和野に比べてその時代の文化の卓越性がいつの間にか中世には逆転していったことの意味を感じた次第です。