おはようございます。
十・c「それだから、スブーティよ、求道者・すぐれた人々は、とらわれない心をおこさなければならない。何ものかにとらわれた心をおこしてはならない。形にとらわれた心をおこしてはならない。声や、香りや、味や、触れられるものや、心の対象にとらわれた心をおこしてはならない。
スブーティよ、たとえば、ここにひとりの人がいて、その体は整っていて大きく、山の王スメール山のようであったとするならば、スブーティよ、どう思うか、かれの体は大きいであろうか。」
スブーティは答えた―「師よ、それは大きいですとも、幸ある人よ、その体は大きいですとも。それはなぜかというと、師よ、如来は『体、体、というがそんなものはない』と仰せられたからです。それだからこそ、<体>といわれるのです。師よ、それは有でもなく、また無でもないのです。それだからこそ、<体>といわれるのです。」
(中村元 紀野一義 訳 岩波文庫)
※ 下線箇所が六祖慧能がその一文を聞いて覚ったと言われる「応無所住 而生其心(おうむしょじゅう にしょうごしん)」の属する段落です。今回使用しているテキストはサンスクリット語からの邦訳であるため、漢文での意味は取りにくいと思います。以下漢文からの意訳を致します。
「それだから、スブーティよ、諸々の菩薩、摩訶薩は、まさに、このように清浄な心を生じなければならない。物質的現象にとらわれた心を生じてはならない。声や、香りや、味や、触れられるものや、心の対象にとらわれた心を生じてはならない。まさに、とらわれることなくその(清浄な)心を生ずるべきなのである<応無処住而生其心(まさに、住するところ無くして、しかも、其の心を生ずべし)>。」
頌21 山の王であるスメール山には、(自らを巨大な山として)考えるようなことはない。それと同じく(仏の)受用身においても、(自らを法の王として)とらえることはない。それ(受用者)は、(煩悩が)漏れ出るような状態(有漏)にあるのでもなく、つくられたもの(有為)としてあるものでもないからである。
スブーティよ、たとえば、ここにひとりの人がいて、その体は整っていて大きく、山の王スメール山のようであったとするならば、スブーティよ、どう思うか、かれの体は大きいであろうか。」
スブーティは答えた―「師よ、それは大きいですとも、幸ある人よ、その体は大きいですとも。それはなぜかというと、師よ、如来は『体、体、というがそんなものはない』と仰せられたからです。それだからこそ、<体>といわれるのです。師よ、それは有でもなく、また無でもないのです。それだからこそ、<体>といわれるのです。」
(中村元 紀野一義 訳 岩波文庫)
※ 下線箇所が六祖慧能がその一文を聞いて覚ったと言われる「応無所住 而生其心(おうむしょじゅう にしょうごしん)」の属する段落です。今回使用しているテキストはサンスクリット語からの邦訳であるため、漢文での意味は取りにくいと思います。以下漢文からの意訳を致します。
「それだから、スブーティよ、諸々の菩薩、摩訶薩は、まさに、このように清浄な心を生じなければならない。物質的現象にとらわれた心を生じてはならない。声や、香りや、味や、触れられるものや、心の対象にとらわれた心を生じてはならない。まさに、とらわれることなくその(清浄な)心を生ずるべきなのである<応無処住而生其心(まさに、住するところ無くして、しかも、其の心を生ずべし)>。」
頌21 山の王であるスメール山には、(自らを巨大な山として)考えるようなことはない。それと同じく(仏の)受用身においても、(自らを法の王として)とらえることはない。それ(受用者)は、(煩悩が)漏れ出るような状態(有漏)にあるのでもなく、つくられたもの(有為)としてあるものでもないからである。
(無著造 世親釈 長尾雅人訳 中公文庫)