おはようございます。
十七c それはなぜかというと、スブーティよ、<如来>というのは、これは、真如の異名なのだ。
〔スブーティよ、如来というのは、これは、生ずるということはないという存在の本質の異名なのだ。スブーティよ、如来というのは、これは、存在の断絶の異名なのだ。スブーティよ、如来というのは、これは、究極的に不生であるということの異名なのだ。それはなぜかというと、スブーティよ、生ずることがないというのが最高の真理だからだ。〕
〔スブーティよ、如来というのは、これは、生ずるということはないという存在の本質の異名なのだ。スブーティよ、如来というのは、これは、存在の断絶の異名なのだ。スブーティよ、如来というのは、これは、究極的に不生であるということの異名なのだ。それはなぜかというと、スブーティよ、生ずることがないというのが最高の真理だからだ。〕
(中村元 紀野一義 訳 岩波文庫)
頌43-a-b のちに(さとりを得る、というように)予言が与えられたのであるから、ディーパンカラ如来のもとでの、(如来の)行は、最高なるものではなかった。(だから、"「菩薩の道に歩みを進めた」と言われるようなものは、何も存在しない<十七節a>。")
頌43-a-b のちに(さとりを得る、というように)予言が与えられたのであるから、ディーパンカラ如来のもとでの、(如来の)行は、最高なるものではなかった。(だから、"「菩薩の道に歩みを進めた」と言われるようなものは、何も存在しない<十七節a>。")
(無著造 世親釈 長尾雅人訳注 中公文庫)