まず基礎知識としてですが、「対日理事会」( Allied Council for Japan、略称:ACJ)というのは、太平洋戦争に敗北した日本を連合国が占領するに当たり、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の諮問機関として東京に設置された日本占領管理機関です。
アメリカ合衆国、イギリス連邦、ソビエト連邦、中華民国の四か国の代表で形成され、議長は連合国軍最高司令官の代理であるアメリカ代表が務めています。
その目的は、占領下の日本に対する降伏条項や占領管理などのGHQの指令の実施について、連合国軍最高司令官と協議し補佐することとされていました。
この「対日理事会」にソ連代表として着任したのがクズマ・ニコラエヴィチ・デレビヤンコ中将でした。
さて、こちらのURLによると
https://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n75718?__ysp=44Oe44OD44Kr44O844K144O85YWD5bil44Gu44GZ44G544Gm
>ソ連(ロシア)は日本が昭和20年8月15日に降服したあとも9月2日の降伏文書調印式の後も北方領土の侵略を続け、更にヤルタ会談の合意に無かった北海道占領を要求。トルーマン大統領に拒否されたにも拘わらず上陸作戦の準備を続行。
それを知ったマッカーサーは米軍憲兵隊にソ連占領軍代表デレビヤンコ中将を拘束(専用車のスピード違反という言いがかりで)したり嫌がらせをした(笑)。そして、米陸軍部隊を北海道へ移動させ、精強な米軍戦闘部隊の存在を確立。
それでもグズグズ言うデレビヤンコ中将に、「ソ連の兵隊が一人でも日本に現れたらソ連代表団を全員刑務所にぶち込む。その時はデレビヤンコ中将、あんたが真っ先ですぞ!」と怒鳴りつけた。それでソ連はやっと諦めました。でなければ北日本民主主義人民共和国が出来ていたでしょうね。
→と、あたかもマッカーサーが米軍憲兵隊にソ連占領軍代表デレビヤンコ中将を「専用車のスピード違反という言いがかり」で拘束したからこそ(笑)、「ソ連の北海道占領」が防げたと言わんばかりの主張がなされていますが、結論から言うと、そんな事実はありません。
まず、このデレビヤンコ中将が「専用車のスピード違反という言いがかり」で拘束されたという公的な記録が存在しません。
次に『マッカーサー回想記』で8月30日~9月1日のいずれかの日に、マッカーサーがデレビヤンコ中将に対して
「もしソ連兵が私の許可なく日本にはいったら、デレビヤンコ将軍も含めてソ連代表部の全員を即座に投獄する」
出典:『マッカーサー大戦回顧録』(下)P191
と、デレビヤンコ中将を脅してようなことは書いてありますが
「デレビヤンコを拘束した」などとはどこにも書いてありません。
自分の耳が信じられないといった表情で、ア然として私を見つめ、こんどはどうやら穏やかな調子で「全くの話、君ならそれをやってのけるだろうね」
(同書P191)
と答えたデレビヤンコ中将の返答があるだけです。
ちなみにデレビヤンコ中将と米ソの北海道をめぐる動きはこうなっています。
8月25日
フィリピンマニラでマッカーサーと初の会談
8月30日
クレムリンより降伏式典のソ連の全権代表に任じられる
8月30日~9月1日のいずれかに、北海道占領についてマッカーサーとデレビヤンコが討論する。
(これはマッカーサー自身による『大戦回顧録』に降伏式典前の出来事とされています)
9月2日
デレビヤンコ中将、ミズーリ号の式典に参加
その同日10時にソ連軍は歯舞群島の攻略作戦を開始しています。
9月3日
ソ連軍歯舞群島攻略部隊出港
9月5日
ソ連軍歯舞群島ソ連軍占領
その9月5日あたりにデレビヤンコ中将は広島・長崎の視察に出発しています。
(何日滞在したかは不明)
9月27日
デレビヤンコ中将はソ連に一時帰国します。
10月4日
アメリカ陸軍第77師団1函館上陸、翌5日小樽上陸、北海道を占領(ちなみに、この時点まで北海道に米軍はいません)
12月27日 モスクワでの三相会議で、対日理事会設立が決定。同時にデレビヤンコが対日理事会ソ連代表として日本行きが決定。
ということで、デレビヤンコがマッカーサーと面談した当時、および、その直後には北海道に米軍自体がいません。
一体、いつマッカーサーはデレビヤンコ中将を「専用車のスピード違反という言いがかり」で拘束したのでしょうか?
本当に
バカも休み休み言えよ!
と言いたくなるような与太話です。
アメリカ合衆国、イギリス連邦、ソビエト連邦、中華民国の四か国の代表で形成され、議長は連合国軍最高司令官の代理であるアメリカ代表が務めています。
その目的は、占領下の日本に対する降伏条項や占領管理などのGHQの指令の実施について、連合国軍最高司令官と協議し補佐することとされていました。
この「対日理事会」にソ連代表として着任したのがクズマ・ニコラエヴィチ・デレビヤンコ中将でした。
さて、こちらのURLによると
https://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n75718?__ysp=44Oe44OD44Kr44O844K144O85YWD5bil44Gu44GZ44G544Gm
>ソ連(ロシア)は日本が昭和20年8月15日に降服したあとも9月2日の降伏文書調印式の後も北方領土の侵略を続け、更にヤルタ会談の合意に無かった北海道占領を要求。トルーマン大統領に拒否されたにも拘わらず上陸作戦の準備を続行。
それを知ったマッカーサーは米軍憲兵隊にソ連占領軍代表デレビヤンコ中将を拘束(専用車のスピード違反という言いがかりで)したり嫌がらせをした(笑)。そして、米陸軍部隊を北海道へ移動させ、精強な米軍戦闘部隊の存在を確立。
それでもグズグズ言うデレビヤンコ中将に、「ソ連の兵隊が一人でも日本に現れたらソ連代表団を全員刑務所にぶち込む。その時はデレビヤンコ中将、あんたが真っ先ですぞ!」と怒鳴りつけた。それでソ連はやっと諦めました。でなければ北日本民主主義人民共和国が出来ていたでしょうね。
→と、あたかもマッカーサーが米軍憲兵隊にソ連占領軍代表デレビヤンコ中将を「専用車のスピード違反という言いがかり」で拘束したからこそ(笑)、「ソ連の北海道占領」が防げたと言わんばかりの主張がなされていますが、結論から言うと、そんな事実はありません。
まず、このデレビヤンコ中将が「専用車のスピード違反という言いがかり」で拘束されたという公的な記録が存在しません。
次に『マッカーサー回想記』で8月30日~9月1日のいずれかの日に、マッカーサーがデレビヤンコ中将に対して
「もしソ連兵が私の許可なく日本にはいったら、デレビヤンコ将軍も含めてソ連代表部の全員を即座に投獄する」
出典:『マッカーサー大戦回顧録』(下)P191
と、デレビヤンコ中将を脅してようなことは書いてありますが
「デレビヤンコを拘束した」などとはどこにも書いてありません。
自分の耳が信じられないといった表情で、ア然として私を見つめ、こんどはどうやら穏やかな調子で「全くの話、君ならそれをやってのけるだろうね」
(同書P191)
と答えたデレビヤンコ中将の返答があるだけです。
ちなみにデレビヤンコ中将と米ソの北海道をめぐる動きはこうなっています。
8月25日
フィリピンマニラでマッカーサーと初の会談
8月30日
クレムリンより降伏式典のソ連の全権代表に任じられる
8月30日~9月1日のいずれかに、北海道占領についてマッカーサーとデレビヤンコが討論する。
(これはマッカーサー自身による『大戦回顧録』に降伏式典前の出来事とされています)
9月2日
デレビヤンコ中将、ミズーリ号の式典に参加
その同日10時にソ連軍は歯舞群島の攻略作戦を開始しています。
9月3日
ソ連軍歯舞群島攻略部隊出港
9月5日
ソ連軍歯舞群島ソ連軍占領
その9月5日あたりにデレビヤンコ中将は広島・長崎の視察に出発しています。
(何日滞在したかは不明)
9月27日
デレビヤンコ中将はソ連に一時帰国します。
10月4日
アメリカ陸軍第77師団1函館上陸、翌5日小樽上陸、北海道を占領(ちなみに、この時点まで北海道に米軍はいません)
12月27日 モスクワでの三相会議で、対日理事会設立が決定。同時にデレビヤンコが対日理事会ソ連代表として日本行きが決定。
ということで、デレビヤンコがマッカーサーと面談した当時、および、その直後には北海道に米軍自体がいません。
一体、いつマッカーサーはデレビヤンコ中将を「専用車のスピード違反という言いがかり」で拘束したのでしょうか?
本当に
バカも休み休み言えよ!
と言いたくなるような与太話です。