Yahoo!知恵袋あたりでは、例えば
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10203807315
戦争法の権威スペートはその陸戦法に関する名著「陸上における交戦権」で「捕虜」として収容した敵兵を殺害しても違法ではないと論じている
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13199453673
そもそも、日中戦争は宣戦布告なき戦闘であって国際法上の「戦争」ではなく、敵兵の保護を求めた「戦時国際法」は適用されない。
などの発言に代表されるように、国際法上の「戦争」ではないから
「ヒャッハー!(法的戦争じゃないから)やりたい放題皆殺しだー!」
などという世紀末のチンピラのような「国際法の(解釈)による事件の正当化を主張する人たちがいます。
そもそも、こんな「主張」は一般常識の範囲で退けられてしかるべきだと思うのですけど、それはともかく…
上記の引用BA回答にある「田岡良一『法律学全集57 国際法3(新版)』P346-348」という文章の出所は、おそらくこれです。
(以下、K-Kさん無断引用お許し乞う)
http://www.geocities.jp/kk_nanking/law/sensuu/hr_takemoto.htm
しからば第二説、すなわち戦数否定論を正しいとみなすべきか。この説は、上に引用した形においては、法規解釈論として論理的に間然するところがないように見える。しかしこの説を唱える学者がその著書論文において個々の戦争法規を解説する個所を読むときには、しばしば軍事的必要条項を含まない規範、すなわち彼らの説によれば絶対的命令と解されねばならないはずの規範を、軍事的必要によって破ることができると説いているのを発見する。
例えばハーグ陸戦条規第二三条(ニ)号「no quarter」を宣言することの禁止(投降者不助命を宣言することの禁止)、何人も知るように「軍事的必要条項」を含んでいない。
しかるにウェストレークの戦時国際法によれば、
「この規定が実行不能な場合として一般に承認されているのは、戦闘の継続中に起る場合である。このとき投降者を収容するために軍を停め、敵軍を切断し突撃することを中止すれば、勝利の達成は妨害せられ、時として危くされるであろう。のみならず戦闘の継続中には、捕虜をして再び敵軍に復帰せしめないように拘束することが実行不可能な場合が多い」。
この言葉は、戦争法に遵って行動しては勝利の獲得が困難な場合には、法を離れて行動することを許すものではあるまいか。戦争法が戦術的または戦略的目的の達成を妨げる障壁をなす場合には、法の障壁を乗り越えることを許すものではあるまいか。
またオッペンハイム国際法の戦時の部にも
「投降者の助命は、次の場合に拒否しても差支えない、第一は、白旗を掲げた後なお射撃を継続する軍隊の将兵に対して、第二は、敵の戦争法違反に対する報復として、第三は、緊急必要の場合において(in case of imperative necessity)すなわち捕虜を収容すれば、彼らのために軍の行動の自由が害せられて、軍自身の安全が危くされる場合においてである」という一句がある。但しオッペンハイムの死後の版(第四版)の校訂者マックネーアは、第三の緊急必要の場合云々を削り去り、その後の版もこれに倣っている。恐らく校訂者は、この一句が戦数についてオッペンハイムの論ずるところと両立しないと認めたからであろう。両立しないことは確かである。しかし陸戦条規第二三条(ニ)号の解釈としては、右のオッペンハイムおよびウェストレークの見解が正しいことは疑いを容れない。この見解は多数の戦争法研究者によって支持されるところであり、戦数を肯定する嫌いのあるドイツ学者の説の引用を避けて、ただイギリスの学者の説のみをたずねても、戦争法の権威スペートはその陸戦法に関する名著「陸上における交戦権」のなかに、投降者の助命が戦時の実際において行われ難く、かつその止むを得ない場合があることを論じ、また投降を許して収容した捕虜さえも、軍の行動の必要によって皆殺するの止むえぬ場合があることは、ローレンスが、一七九九年ナポレオン軍によるトルコ・ジャッファ守備隊四千人の皆殺の例を引いて説くところである。故にもしオッペンハイムの死後版の校訂者(マックネーア、ローターパクト)が考えるように、オッペンハイムの戦数論と陸戦条規第二三条の解釈とが両立しないものであるならば、後者を削除するよりも、寧ろ前者に向って反省を加える必要があるように思われる。
要するにこれらの学者は、戦数を論ずる個所においては、戦数否定論を唱えながら、個々の戦争法規の解釈に当っては戦数を是認しているのである。何故にこういう矛盾が生じたか、その理由を探求することによって戦数論に対する解決の正しい鍵は得られると思う。
田岡良一『法律学全集57 国際法3(新版)』P346-348
ご存知の方もいらっしゃるかと思いますけど、こちらの元文章を掲載しているサイトの主であるK-Kさんは古くから「南京事件」の肯定論を主張するネット論客として知られている方で、あくまでもこの文章を含む国際法についての様々な引用は資料として掲載しているだけです。
詳しくは元サイト
http://www.geocities.jp/kk_nanking/
をご覧ください。
そうした方のサイトから自分の主張に都合のいい部分だけを切り取ってトンデモ理論を組み立てるような人間の神経は確かに疑いたくはなりますけど、それはともかく
知恵袋などで、このような「おかしな取り上げ方」をされる、いわゆる「戦数論」というのはどのようなものかというと
『国際法辞典』国際法学会編、鹿島出版会(昭和50年3月30日発行) P400
戦数 〔独〕Kriegsrason 〔英〕necessity of war,military necessity ドイツ語のクリーグスレゾンの訳語で、戦時非常事由または交戦条理ともいわれ、戦争中に交戦国が戦争法規を遵守すべき義務から解放される事由の一として主張されてきたものである。個人の場合に緊急状態の違法行為がその違法性を阻却されるのと同様に、戦争の場合に交戦国が戦争法規を守ることによって自国の重大利益が危険にさらされるような例外的な場合には、戦争法の拘束から解放される、すなわち、戦争の必要が戦争法に優先する、と主張される。この理論は、とくに第一次大戦前のドイツの国際法学者たちによって主張されたものであるが、イギリスやアメリカの学者たちはこぞって反対している。反対の論拠は、もともと戦争法は軍事的必要と人道的考慮とのバランスの上に成立しており、法規が作られるにあたってすでに軍事的必要が考慮されているのであるから、そのうえさらに軍事的必要を理由として戦争法規を破りうることを認めるのは、戦争法そのものの存在を無意味ならしめ否定することになる、という点にある。たとえば、1907年の「陸戦の法規慣習に関する条約」の前文は、「右条規ハ、軍事上ノ必要ヲ許ス限、努メテ戦争ノ惨害ヲ軽減スルノ希望ヲ以テ定メラレタルモノ」であると述べており、また1949年のジュネーブ諸条約1条は「すべての場合において」尊重されねばならない旨規定している。したがって、法規がとくに軍事的必要のためにそれから離れうることを明示している場合のほかは、一般的な形で軍事的必要をもちだしえない、というのである。
このように両説は、全く相反する主張をしているように見える。戦争法は、過去における経験から通常発生すると思われる事態を考慮し、その場合における人道的要請と軍事的必要の均衡の上に作られている。予測されなかったような重大な必要が生じ、戦争法規の尊守を不可能ならしめる場合もありうるのである。戦数を肯定する学者も、一般には戦争法が尊守しうるものとして作られていることを認める。ただ、きわめて例外的な場合にのみ戦数を主張しているにすぎない。他方、否定的立場をとる学者は、軍事的必要条項を含んでいない法規について、解釈上例外を認めている。すなわち、肯定説は、戦数を一般的理論として述べるのに対して、否定説は、個々の法規の解釈の中に例外を認めようとすのであって、その表面的対立にもかかわらず両説は実質的にはそれほど大きな差はないと思われる。(竹本正幸)
というものです。
知恵袋などのネットでは、いわゆる佐藤和男氏の論文などの引用により、あたかも「戦数論」を主張する論客であるかのように見られているオッペンハイムなども、実は
「独逸の法諺 Kriegsraeson geht vor Kriegsmanier は、戦争方法が未だ慣習法及び國際條約より成る戦争法規によつて規整せられずして、只戦争の習はし(Manier, Brauch)によつてのみ規整せられて居た時代に発生し、認められたものであり、其の言はんとする所は、戦時の必要は戦争の習はしを破る、と言ふことである。然るに今日戦争方法は最早や習はしによつてのみ規整せられずして、大部分は法規によつて--國際條約又は一般的慣習によつて承認せられたる確固たる規則によつて--規整せられる。此等の條約及び慣習上の規則は、自己保存の必要ある場含に適用なきが如く作られて居るものを除き、必要によつて破られ得ない。故に例へば毒を施せる武器及び毒物の使用を禁止し、又敵軍に属する個人を背信的に殺傷することを許さずとする規則は、たとへ之を破ることが重大なる危険を避け又は戦争の目的を達成する結果を齎す場含と難も、拘束力を失はない。海牙陸戦條規の第二十二條は明白に、交戦者が敵を害する手段を選擇する権利は無制限にあらず、と規定する。そして此の規則は必要の場含にも拘束力を失はない。軍事的【108】必要の場含に無視することが許されるのは、戦争法規ではなくして、たゞ戦争の習はしである。Kriegsraeson geht vor Kriegsmanier, but not vor Kriegsrecht!」(六九齣)。」
田岡良一『戦争法の基本問題』P107-108
とあるように
あくまでも緊急、必要な場合を除き、戦時国際法における「例外的な措置」は基本的には認めるべきではないという立場です。
「戦数論」それ自体はリューダーなどのドイツの一部学者のみが主張するものであったとしても
戦争法は、過去における経験から通常発生すると思われる事態を考慮し、その場合における人道的要請と軍事的必要の均衡の上に作られている。予測されなかったような重大な必要が生じ、戦争法規の尊守を不可能ならしめる場合もありうるのである。戦数を肯定する学者も、一般には戦争法が尊守しうるものとして作られていることを認める。ただ、きわめて例外的な場合にのみ戦数を主張しているにすぎない。他方、否定的立場をとる学者は、軍事的必要条項を含んでいない法規について、解釈上例外を認めている。すなわち、肯定説は、戦数を一般的理論として述べるのに対して、否定説は、個々の法規の解釈の中に例外を認めようとすのであって、その表面的対立にもかかわらず両説は実質的にはそれほど大きな差はないと思われる。
という前提を元に
戦時国際法を論じる学者は「戦数論」についての「肯定」、「否定」を問わず「軍事的必要性からの緊急避難的な措置」を認めている
だから「南京事件」においても、行われたのはあくまでも「軍事的必要性からの緊急避難的な措置」であり、断じて「虐殺」ではない
というのが、(意識しているかどうかは別として)「南京事件」を国際法により正当化しようとする人たちの論理というわけです。
本当にそのような論理が通用するのか?
それは「南京事件」の具体的な内容を元に論じないと、空理空論にしかならないのではないかと、少なくとも私などは思いますけどね。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10203807315
戦争法の権威スペートはその陸戦法に関する名著「陸上における交戦権」で「捕虜」として収容した敵兵を殺害しても違法ではないと論じている
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13199453673
そもそも、日中戦争は宣戦布告なき戦闘であって国際法上の「戦争」ではなく、敵兵の保護を求めた「戦時国際法」は適用されない。
などの発言に代表されるように、国際法上の「戦争」ではないから
「ヒャッハー!(法的戦争じゃないから)やりたい放題皆殺しだー!」
などという世紀末のチンピラのような「国際法の(解釈)による事件の正当化を主張する人たちがいます。
そもそも、こんな「主張」は一般常識の範囲で退けられてしかるべきだと思うのですけど、それはともかく…
上記の引用BA回答にある「田岡良一『法律学全集57 国際法3(新版)』P346-348」という文章の出所は、おそらくこれです。
(以下、K-Kさん無断引用お許し乞う)
http://www.geocities.jp/kk_nanking/law/sensuu/hr_takemoto.htm
しからば第二説、すなわち戦数否定論を正しいとみなすべきか。この説は、上に引用した形においては、法規解釈論として論理的に間然するところがないように見える。しかしこの説を唱える学者がその著書論文において個々の戦争法規を解説する個所を読むときには、しばしば軍事的必要条項を含まない規範、すなわち彼らの説によれば絶対的命令と解されねばならないはずの規範を、軍事的必要によって破ることができると説いているのを発見する。
例えばハーグ陸戦条規第二三条(ニ)号「no quarter」を宣言することの禁止(投降者不助命を宣言することの禁止)、何人も知るように「軍事的必要条項」を含んでいない。
しかるにウェストレークの戦時国際法によれば、
「この規定が実行不能な場合として一般に承認されているのは、戦闘の継続中に起る場合である。このとき投降者を収容するために軍を停め、敵軍を切断し突撃することを中止すれば、勝利の達成は妨害せられ、時として危くされるであろう。のみならず戦闘の継続中には、捕虜をして再び敵軍に復帰せしめないように拘束することが実行不可能な場合が多い」。
この言葉は、戦争法に遵って行動しては勝利の獲得が困難な場合には、法を離れて行動することを許すものではあるまいか。戦争法が戦術的または戦略的目的の達成を妨げる障壁をなす場合には、法の障壁を乗り越えることを許すものではあるまいか。
またオッペンハイム国際法の戦時の部にも
「投降者の助命は、次の場合に拒否しても差支えない、第一は、白旗を掲げた後なお射撃を継続する軍隊の将兵に対して、第二は、敵の戦争法違反に対する報復として、第三は、緊急必要の場合において(in case of imperative necessity)すなわち捕虜を収容すれば、彼らのために軍の行動の自由が害せられて、軍自身の安全が危くされる場合においてである」という一句がある。但しオッペンハイムの死後の版(第四版)の校訂者マックネーアは、第三の緊急必要の場合云々を削り去り、その後の版もこれに倣っている。恐らく校訂者は、この一句が戦数についてオッペンハイムの論ずるところと両立しないと認めたからであろう。両立しないことは確かである。しかし陸戦条規第二三条(ニ)号の解釈としては、右のオッペンハイムおよびウェストレークの見解が正しいことは疑いを容れない。この見解は多数の戦争法研究者によって支持されるところであり、戦数を肯定する嫌いのあるドイツ学者の説の引用を避けて、ただイギリスの学者の説のみをたずねても、戦争法の権威スペートはその陸戦法に関する名著「陸上における交戦権」のなかに、投降者の助命が戦時の実際において行われ難く、かつその止むを得ない場合があることを論じ、また投降を許して収容した捕虜さえも、軍の行動の必要によって皆殺するの止むえぬ場合があることは、ローレンスが、一七九九年ナポレオン軍によるトルコ・ジャッファ守備隊四千人の皆殺の例を引いて説くところである。故にもしオッペンハイムの死後版の校訂者(マックネーア、ローターパクト)が考えるように、オッペンハイムの戦数論と陸戦条規第二三条の解釈とが両立しないものであるならば、後者を削除するよりも、寧ろ前者に向って反省を加える必要があるように思われる。
要するにこれらの学者は、戦数を論ずる個所においては、戦数否定論を唱えながら、個々の戦争法規の解釈に当っては戦数を是認しているのである。何故にこういう矛盾が生じたか、その理由を探求することによって戦数論に対する解決の正しい鍵は得られると思う。
田岡良一『法律学全集57 国際法3(新版)』P346-348
ご存知の方もいらっしゃるかと思いますけど、こちらの元文章を掲載しているサイトの主であるK-Kさんは古くから「南京事件」の肯定論を主張するネット論客として知られている方で、あくまでもこの文章を含む国際法についての様々な引用は資料として掲載しているだけです。
詳しくは元サイト
http://www.geocities.jp/kk_nanking/
をご覧ください。
そうした方のサイトから自分の主張に都合のいい部分だけを切り取ってトンデモ理論を組み立てるような人間の神経は確かに疑いたくはなりますけど、それはともかく
知恵袋などで、このような「おかしな取り上げ方」をされる、いわゆる「戦数論」というのはどのようなものかというと
『国際法辞典』国際法学会編、鹿島出版会(昭和50年3月30日発行) P400
戦数 〔独〕Kriegsrason 〔英〕necessity of war,military necessity ドイツ語のクリーグスレゾンの訳語で、戦時非常事由または交戦条理ともいわれ、戦争中に交戦国が戦争法規を遵守すべき義務から解放される事由の一として主張されてきたものである。個人の場合に緊急状態の違法行為がその違法性を阻却されるのと同様に、戦争の場合に交戦国が戦争法規を守ることによって自国の重大利益が危険にさらされるような例外的な場合には、戦争法の拘束から解放される、すなわち、戦争の必要が戦争法に優先する、と主張される。この理論は、とくに第一次大戦前のドイツの国際法学者たちによって主張されたものであるが、イギリスやアメリカの学者たちはこぞって反対している。反対の論拠は、もともと戦争法は軍事的必要と人道的考慮とのバランスの上に成立しており、法規が作られるにあたってすでに軍事的必要が考慮されているのであるから、そのうえさらに軍事的必要を理由として戦争法規を破りうることを認めるのは、戦争法そのものの存在を無意味ならしめ否定することになる、という点にある。たとえば、1907年の「陸戦の法規慣習に関する条約」の前文は、「右条規ハ、軍事上ノ必要ヲ許ス限、努メテ戦争ノ惨害ヲ軽減スルノ希望ヲ以テ定メラレタルモノ」であると述べており、また1949年のジュネーブ諸条約1条は「すべての場合において」尊重されねばならない旨規定している。したがって、法規がとくに軍事的必要のためにそれから離れうることを明示している場合のほかは、一般的な形で軍事的必要をもちだしえない、というのである。
このように両説は、全く相反する主張をしているように見える。戦争法は、過去における経験から通常発生すると思われる事態を考慮し、その場合における人道的要請と軍事的必要の均衡の上に作られている。予測されなかったような重大な必要が生じ、戦争法規の尊守を不可能ならしめる場合もありうるのである。戦数を肯定する学者も、一般には戦争法が尊守しうるものとして作られていることを認める。ただ、きわめて例外的な場合にのみ戦数を主張しているにすぎない。他方、否定的立場をとる学者は、軍事的必要条項を含んでいない法規について、解釈上例外を認めている。すなわち、肯定説は、戦数を一般的理論として述べるのに対して、否定説は、個々の法規の解釈の中に例外を認めようとすのであって、その表面的対立にもかかわらず両説は実質的にはそれほど大きな差はないと思われる。(竹本正幸)
というものです。
知恵袋などのネットでは、いわゆる佐藤和男氏の論文などの引用により、あたかも「戦数論」を主張する論客であるかのように見られているオッペンハイムなども、実は
「独逸の法諺 Kriegsraeson geht vor Kriegsmanier は、戦争方法が未だ慣習法及び國際條約より成る戦争法規によつて規整せられずして、只戦争の習はし(Manier, Brauch)によつてのみ規整せられて居た時代に発生し、認められたものであり、其の言はんとする所は、戦時の必要は戦争の習はしを破る、と言ふことである。然るに今日戦争方法は最早や習はしによつてのみ規整せられずして、大部分は法規によつて--國際條約又は一般的慣習によつて承認せられたる確固たる規則によつて--規整せられる。此等の條約及び慣習上の規則は、自己保存の必要ある場含に適用なきが如く作られて居るものを除き、必要によつて破られ得ない。故に例へば毒を施せる武器及び毒物の使用を禁止し、又敵軍に属する個人を背信的に殺傷することを許さずとする規則は、たとへ之を破ることが重大なる危険を避け又は戦争の目的を達成する結果を齎す場含と難も、拘束力を失はない。海牙陸戦條規の第二十二條は明白に、交戦者が敵を害する手段を選擇する権利は無制限にあらず、と規定する。そして此の規則は必要の場含にも拘束力を失はない。軍事的【108】必要の場含に無視することが許されるのは、戦争法規ではなくして、たゞ戦争の習はしである。Kriegsraeson geht vor Kriegsmanier, but not vor Kriegsrecht!」(六九齣)。」
田岡良一『戦争法の基本問題』P107-108
とあるように
あくまでも緊急、必要な場合を除き、戦時国際法における「例外的な措置」は基本的には認めるべきではないという立場です。
「戦数論」それ自体はリューダーなどのドイツの一部学者のみが主張するものであったとしても
戦争法は、過去における経験から通常発生すると思われる事態を考慮し、その場合における人道的要請と軍事的必要の均衡の上に作られている。予測されなかったような重大な必要が生じ、戦争法規の尊守を不可能ならしめる場合もありうるのである。戦数を肯定する学者も、一般には戦争法が尊守しうるものとして作られていることを認める。ただ、きわめて例外的な場合にのみ戦数を主張しているにすぎない。他方、否定的立場をとる学者は、軍事的必要条項を含んでいない法規について、解釈上例外を認めている。すなわち、肯定説は、戦数を一般的理論として述べるのに対して、否定説は、個々の法規の解釈の中に例外を認めようとすのであって、その表面的対立にもかかわらず両説は実質的にはそれほど大きな差はないと思われる。
という前提を元に
戦時国際法を論じる学者は「戦数論」についての「肯定」、「否定」を問わず「軍事的必要性からの緊急避難的な措置」を認めている
だから「南京事件」においても、行われたのはあくまでも「軍事的必要性からの緊急避難的な措置」であり、断じて「虐殺」ではない
というのが、(意識しているかどうかは別として)「南京事件」を国際法により正当化しようとする人たちの論理というわけです。
本当にそのような論理が通用するのか?
それは「南京事件」の具体的な内容を元に論じないと、空理空論にしかならないのではないかと、少なくとも私などは思いますけどね。