#日曜日に礼拝を守るため、旅先で教会を探し、色々な形式の礼拝に行きました。
ヨーロッパでは、パリやスイス、ローカルなイギリス国教会の礼拝にも出たし、スコットランドの小さな島の教会に行ったこともあり、多様性を知りました。
私がプロテスタントなのは、学校がプロテスタントだったことと、その後導かれたのがプロテスタントの教会だったから。
五島列島の教会を訪れたことがあり、そこで初めて実物の懺悔室を見て、違和感を正直感じました。
人に聞いてもらうことの制限やプライバシーの問題も思いました。
また、案内をしてくれていたタクシーの運転手さんが言った言葉が悲しかった。
自分は日曜日ミサにでられないから、受け入れられていないダメな信者だと。
職業がら、仕方ないのに。
イエス様が十字架にかかられた時、幕屋の幕が破れて、神様と人間との隔たりがなくなり、直接、主(しゅ)にお祈りができる。それが、私が理解しているプロテスタントの考えかたです。
儀式は、プロテスタントでは、洗礼式と聖餐式。
シンプルでわかりやすく、何よりも、神様と直接と会話できる。
祈りは、霊の呼吸みたいなものでもあります。
カトリックとプロテスタントの教会堂の見分けかたは、
教会の十字架にキリスト像がついている、マリアの像がある等が、カトリックで、
シンプルに十字架だけなのが、プロテスタントの教会です。懺悔室は、プロテスタントにはありません。
*私はカトリックではありませんが、江戸時代の厳しい迫害を耐え忍んだキリシタンの人々や殉教者に対して、尊敬の気持ちを持っています。
映画沈黙や司馬遼太郎の書物にあるように、その拷問は、筆舌に尽くし難いです。
私にとって、信仰は、生き方そのものであって、神学論争には興味がありません。
大切なのは、主(しゅ)と私の関係です。
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