天気の良い日に、数時間、教会の庭の草取りをしていて軽い熱中症にかかりました。そうならないように、たくさん水を飲みながら、帽子もかぶって作業をしていたのですが。しばらくの間、頭痛が生じ、身体が水分を欲している状態で、のどが渇いてしかたがありませんでした。
身体には水分補給が必須で、脱水状態は致命的です。同様に、下記の詩で、魂が渇くという表現があります。それはまるで、涸れた谷に鹿が、水を求めるようだと、詩編の作者は表現しています。生きるために動物も水を求めてさまよいます。人は、魂の渇きが満たされることを欲してさまよいます。どんなに裕福でも、家族が健康で生活が満ち足りていたとしても、何か心が満たされない、心にぽっかり穴が開いていて、それを埋めてくれるものを探し求めているのではないでしょうか。先日ある方が、「寂しくて、ついSNSをしてしまうんです」と言われていました。そしてそのSNSの言葉で自分が傷ついて、不安になってしまうという繰り返しだと。人の飢え渇きを満たせるのは、誰かの言葉ではなく、自分の才能でもなく、実は人間を創られた神様、命を与える神様であることを、聖書は記しています。
神の御子であるイエス様はこの世に来られた時、一人の女性と井戸端で話をされました。彼女が井戸に水を汲みにきていたところに、イエス様は水の話をされます。
「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネによる福音書4:13-14)
また、エルサレムでの祭りに集まっている人々に「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハネによる福音書7:37-38)と言われました。
心の、魂の飢え渇きを満たせるのは、救い主であるイエス様だけです。イエス様が与える水については「御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われた」(同7:39)と記されています。この霊は、聖霊といって、イエス様を救い主と信じる人に与えられ、この聖霊によって神様とイエス様と祈り、また導かれ、聖書の書いてあることを理解でき、また必要な時にみ言葉を思い出すことができるように、助け主として私たちの心の内側に住まれ、働いてくださる方です。
この詩編の作者のように、一時的に神様を見失いになるほど、神様はどこにおられるのかと、苦しみの中で追い詰められ、呻くことは信仰を持っていてもあり得ます。しかし、そんな苦難の中においても、「なぜ、うなだれるのか、私の魂よ、神を待ち望もう!」と自身が自分の魂に激励できるのです。なぜなら、今まで神様が自分をどれ程愛してくださったかを、イエス様の十字架を通して知り、心に喜びが溢れ、神様の愛で満たされた経験をしてきたからです。この神様の愛を受け取ることができ、信仰が与えられているからこそ、今すぐ神様の助けが得られなくとも、祈り続けても状況がなかなか変わらなくとも、希望を失わずに、きっと神様が助けて下さる、ふさがれている道を開いてくださる、閉ざされた扉を開けてくださると信じて、耐え忍ぶことができます。
一人でも多くの方が、イエス・キリストに出会い、神様の愛で心が満たされるよう、困難な状況にあっても神様の助けを得て日々歩めますよう、祈り求めたいと思います。
「涸れた谷に鹿が水を求めるように 神よ、わたしの魂はあなたを求める。
神に、命の神に、わたしの魂は渇く。
いつ御前に出て 神の御顔を仰ぐことができるのか。
昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。
人は絶え間なく言う 「お前の神はどこにいる」と。
5わたしは魂を注ぎ出し、思い起こす
喜び歌い感謝をささげる声の中を
祭りに集う人の群れと共に進み
神の家に入り、ひれ伏したことを。
6なぜうなだれるのか、わたしの魂よ なぜ呻くのか。
神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう
「御顔こそ、わたしの救い」と。」 詩編42編2-6節
(引用 新共同訳聖書)