聖書箇所 ヨハネによる福音書16章4-15節 「弁護者:聖霊の働き」
来週は教会歴ではペンテコステ(聖霊降誕日)となります。それに先駆けて、本日はヨハネによる福音書より、聖霊の働きについて皆さまと分かち合わせていただきたいと思います。
イエス様は十字架にかかる直前に、弟子たちに最後の話をされます。その中で「私のいくところに今ついてくることはできない(13:36、以下ヨハネによる福音書)」「わたしは去っていくが、また戻って来る」(14:28)と話され、また弟子たちが今後イエス様のゆえに迫害にあうこと(15:18-27)を話されました。すると弟子たちは「先生はどこへ行ってしまうのか?」と心が騒ぎ、悲しみで満たされていました。
この前の箇所で、イエス様はイエス様が去るからこそ、父が別の弁護者つまり聖霊が送られ、永遠に彼らと一緒にいるようにしてくれることを説明しています(ヨハネ14:26)。ヨハネ14:16で、イエス様がいなくなっても、聖霊が弟子たちとともにおり、内にいるから、「私はあなたがたをみなしごにしておかない」と聖霊を与える約束を弟子たちに話しています。(14:18)
ヨハネによる福音書は聖霊を「弁護者」と紹介しています。他の訳では助け主、ヘルパー、協力者と訳されていますが、原語のギリシャ語の意味は「呼ばれたら傍にきてくれる者」「呼ばれてそこへ来た人」です。人が「助けてください」と呼ぶと、傍にきて助けてくれる人という意味で、弁護人・弁護士の意味を持つようになったそうです。また「慰める者」「励ます者」という意味もあり、「慰め主」と訳す聖書もあります。聖霊はイエス様が天に戻られた後、私たちの内に住み、そばにいて助けてくれる方だからです。聖霊は私たちの傍にいて、助け導き、慰めを与え、励ましてくれる方です。たとえ聖霊が目に見えなくとも、感じられなくとも、何か不思議な体験(例えば幻をみた、声が聞こえた)などがなくとも、聖霊が内に住んでおられ、働かれていることを信じることが大切です。
また聖霊は真理の霊として、私たちを教え、導きます。イエス様はヨハネ14:6「私は道であり、真理であり、命である」とご自身を真理と言われましたので、イエス様が真理であります。ですから聖霊が真理の霊であるかぎり、聖霊は自分からかたるのではなくイエス様から聞いたことを語り(16:13)、イエス様について証しをされます(15:26)。一方で、父がイエス様の「名によっておつかわしになる聖霊が、イエス様が話したことをことごとく思い起こさせる」(14:26)とありますので、父なる神様からも遣わされています。なぜなら父と子は一つだからです(10:30)。つまり父と子と聖霊の示すことには矛盾がありません。真理の霊はわたしたちをみちびき、真理をことごとく悟らせるとイエス様は言われています(16:13)
そして、聖霊の重要な役割は人々を救いに導くことです。聖霊は罪、義、裁きについて、この世の誤った理解・認識を明らかにするとあります(16:8-11)。それは人々に救いをもたらすためであり、これら3つ罪、義、裁きは十字架の御業について示しています。まず罪について、この世は罪というと、刑法上の罪・違反のことと思います。聖霊は罪とはイエスを信じないことであると示します。これが根本的な罪であり、そこからさまざまな罪が派生していきます。イエス様を信じないということは、神様が私たちに与えてくださった救いの方法、イエス様の十字架の御業を拒否するということです。
義については、義とは一般的に「正しいこと」と捉えますが、義の概念は人や国によって異なり、相対的です。だからお互い、自分たちの義が正しいと主張するところに争いが起こります。しかし、聖霊が明らかにする義とは、イエス様が召天されたことであると記しています。つまり「義とは、天の御国には入れるイエス様のような正しさ」という、絶対的な義を示しています。すると誰もイエス様のような正しさはないことになります。しかし、神様は、私たちに信仰によって義と認めて下さる道を私たちに与えてくださいました。イエス様が、私たちの代わりに罰を受けてくださることによって、私たちが正しいとされる、つまり義が私たちに着せられ、神様はキリストにあって私たちを正しいと見てくださり、天に迎えてくださります。
裁きについては、人は裁きというと自分や他人が裁かれることと思います。しかし聖霊は「この世の支配者が」つまり悪魔が十字架のみわざにおいて、裁かれることを明らかにします。ヘブル人への手紙にこう書かれています。「それは死をつかさどる者、つまり悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために生涯、奴隷の状態にあった者達を解放なさるためでした。(2: 14-15)」とあります。聖霊はこのように十字架による救いをこの世の人々に示す役割をし、イエス・キリストを信じる信仰に導きます。
救われた後、聖霊は信徒のこの世で生活と教会において働いてくださいます。その働きはたくさんありますが、ここでは主要な働きをいくつか述べます。まず、父なる神様への祈りを可能にするために働いてくださいます。私たちは祈るとき「天の父なる神様」と呼びかけ、イエス・キリストのみ名によって祈りなさいと、イエス様が言われたように、祈るとき、そこに聖霊が働かれます。パウロはローマ8:16にて「この霊こそはわたしたちが神の子供であることをわたしたちの霊と一緒になって証してくれる」とし、神の子とする霊を受けて神様に「アバ 父よ」と親しく呼ぶことができます。あたかも子供がその信頼しているお父さんに話しかけるようにして父なる神様になんでも祈ることができます。
また聖霊は、わたしたちがどういのったらよいかわからない時も、代わりに父なる神様のみこころに従って、とりなしてくださるとローマ信徒への手紙8:26-27で記されているとおりです。私たちは意識していなくとも、祈りと礼拝、また黙想において、父なる神様、子なるキリスト、聖霊との交わりに自身も含めて頂いていることを実体験しています。
次に、聖霊は御霊の実を結ばせ、互いに愛し合えるようになれるよう信仰を成長させてくれます。パウロはガラテヤ信徒の手紙5章16-26節で、霊の導きに従って歩めば、肉の欲望を満足させるようなことはなく、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制とし、霊の導きに従って歩もうと励ましています。励ましているということは、これが書かれた時代のクリスチャンも御霊の実を結べていなかったから、パウロは彼らを励ましており、そして現代でも神の言葉は、変わらずに私たちを励ましているわけです。
最後に 聖霊はイエス・キリストを証する力を信徒に与えます。私たちは人の反応を恐れてしまうと、何も言えなくなってしまいます。しかし、聖霊の力が上から注がれると、ペトロが大胆に人々に十字架につけられたイエスがキリストであり、復活されたことを大胆に証しし、大勢の人が一度に信じたことは、まさに聖霊の力によります。このように、現代に生きる私たちにもペトロに注がれた同じ聖霊の力が、イエス様を証しようとするときに与えられます。
証しは、聖書の内容を全てしっていなくとも可能です。原始キリスト教会では、普通の人々が聖霊の力を受けて、周りの人々にキリストのことを口コミで伝え、福音が伝えられていきました。神様が私たちを愛して、キリストにおいて何をして下さったか、そして自分がどう変えられたかを、つまりイエス様の十字架によって、罪が赦され、神の子供とされるという大きな恵について、そしてそのキリストを信じることで自分の心に平和が与えられていることを具体的に人々に証しできるでしょう。証の機会は生活の中で様々な形で与えられるかもしれません、人間関係で悩んでいる人からの相談、平和を求めて、どうしたらよいのかと模索している人との会話など、その機会さえも、神様が与えてくださります。証した後は、その人に聖霊が働かれるよう祈り、その人の救いを祈っていくことが私たちのやるべきことです。救われるのは神様のなさる業で、私たちはキリストの福音を証しし、み言葉の種をまくことです。
教会は聖霊の働きによって集められた信徒の群れです。聖霊がイエス・キリストに対する信仰を創り、信じ続けることを可能にし、キリストを証しすることをも可能にしてくださります。聖霊の働きによって、イエス・キリストが今も共にいて下さることを私たちは体験し、聖書を通して神様をもっと知り、私たちの生活を通してキリストに栄光を帰せるよう導いて下さいます。このような聖霊の助けによって、私たちはキリストの身体:教会として一つの霊によって一つに結ばれ、神様と主イエス・キリストを礼拝し、互いにキリストの愛を示し、人々にキリストを証しする機会が与えられるよう祈っていきたいと願います。