聖書のことばから  デボーション

聖書のことばから気づかされたことをつづっています。

礼拝メッセージ「キリストはわたしたちの平和」

2024-06-13 13:35:55 | 日記

 聖書箇所 エフェソの信徒への手紙2章11-18節

 本日はエフェソの信徒への手紙2章より、「キリストはわたしたちの平和」と題してメッセージをさせていただきます。エフェソという町は古代ギリシャの商業都市で、使徒パウロが伝道旅行にて開拓した教会の一つです。この手紙は冒頭(1:1)で「エフェソにいる聖なるものたち」へと書かれていますが、続いて「キリスト・イエスを信じる人たちへ」とあるように、エフェソの町の教会だけでなく、その周辺の教会にも宛てて書かれた内容で、手紙は回覧されていたであろうと言われています。ですから、全ての教会に共通する問題に触れながら、キリストを頭とする「一つの教会」であることを述べている手紙です。先ほど使徒信条を読みましたが、その中の「公同の教会」とは時代や国、民族を超えた普遍的な性格を持つ、唯一の一つの教会であるという意味で、それを私たちは信じますと告白しています。
 
 「キリストがわたしたちの平和」という表現は意味深いものです。まず、平和とは何かと考えますと、例えば戦争や争いがない状態と思いつくのではないでしょうか。聖書でいう平和(シャローム、平安があるように、とイスラエルの国では挨拶の言葉)とは、元来何かが欠如したりそこなわれたりしていない充たされた状態を指し、無事、安否、平安、健康、繁栄、安心、和解など、人間の全ての領域にわたっての神様の意志に基づいた、真の望ましい状態を指しているそうです。この意味でのわたしたちの平和がキリストであると、今日の箇所が記しています。
 
 平和とは敵対していた関係が和解にいたる状態であります。ここでは二つの和解、2段階の和解について記されています。一つ目の和解は神様と人間の和解です。神様はそもそも人間を愛するために創造されたのですが、人間が罪ゆえにほんとうの神様の存在を否定し、自分の思うままに生き、神様に敵対し、人間同士でも敵対関係を作りだしてしまい、今の世の中に至っているといえます。神様は人間が争ったり、分断したりすることを望まれていませんし、そのような人の罪に対して怒りと悲しみを持たれます。しかし、神様はご自分の造った人間を愛し、かわいそうに思ってなんとか、人間を救おうとされました。そして神様から離れてしまった人間を救うために、イエス・キリストをこの世に送られました。その働きの目的は、キリストが仲介者となり、十字架によって神様と人々が和解することであります。
 
 使徒パウロはローマ信徒への手紙5:8-10にこのことを記しています。
 「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたので、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。」

 また コリント信徒への手紙Ⅱ5:17-20にもこう記しています。
 「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。 これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。 」
 
 神様が私たちを愛して下さっていることは、わたしたちの罪を赦すためにかわりにキリストが十字架で死なれ、よみがえられたことに示されています。この救いを信じた者は死から新しい命へと移されます。この肉体で生きている限り見た目はかわらないかもしれませんが、内側(魂、心)が新しく創造されているという意味です。イエス・キリストのゆえに、私たちはすべての罪が赦されて救いにあずかっています。そして、この神様からの和解の言葉、キリストの平和の良い知らせを、知らない人々へ伝える奉仕を信じた者たちに委ねておられます。
 
 二つ目の和解は、一つ目の神様と人間との和解を前提とした、人間同士の和解についてです。エフェソの信徒への手紙2:15に、「規則と戒律づくめの律法を廃棄」とあります。ここでの律法は特定的で厳格で外側のことを規定する律法、ユダヤ人と異邦人を区別されるためにあった規則で、例えば外国人との交際禁止の律法(使徒10:28参照)のことであり、神様がモーセに与えた律法ではなく人間が付け加えた様々な規則のことといえます。なぜなら、イエスは律法を廃棄するためにではなく成就するために、完成するために来られた(マタイによる福音書5:17)と言われていますし、使徒パウロはガラテヤ信徒への手紙3:24で「律法はわたしたちをキリストもとに導く養育係だ」と言っています。
 
 どんなに平和を人間が求めても、お互いの利害が一致しないため、伝統や文化が異なるため敵対してしまいます。和平交渉はキリスト抜きでは行き詰まり、希望を失います。しかし、信仰に生きる者はキリストの体に生き、聖霊の助けによって共同体の仲間(つまり神の家族、エフェソ2:19)を愛して生きようと導かれます。キリストによって神の家族となり、一つになることは、イエス様が十字架にかかる直前に、弟子たちの前で父なる神様に祈って、お願いしてくださっています。ヨハネ17:21に

 「父よ、あなたがわたしたちの内におられ、わたしがあなたがたの内におられるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。」
 
 このイエス様の祈りは聞かれ、かなえられているからこそ、キリストを信じる者が教会として、キリストの身体の一部として、一つにされています。一般に家族というのはメンバーとして参加する共同体ではなく、その家族に生まれて家族であるように、私たちは神の家族として新しく生まれさせていただいています。
 
 こうしてキリストご自身が私たちの平和であるからこそ、そのキリストに属している者もその平和にあずかれます。ですから私たちが一から平和を作り上げる必要はなく、イエス様がすでに来られて、全ての人に平和の福音を告げ知らせ(17節)、平和を打ち立てて下さったという御業を信じれば、キリスト者はこの世で良い業を行い(エフェソの信徒への手紙2:10)、平和に取り組むよう励まされます。互いにキリストを信じ、神の戒めである、神を愛し、自分を愛するように隣人を愛し、イエス様が弟子たちを愛されたように互いに愛し合おうとすれば、平和的な方向へ進んでいくでしょう。
 
 目の前におかれた敵意、人間関係の修復、長く続く戦争の終戦は簡単ではありません、不可能に見えるかもしれません。しかし、自分でなんとかしようとするから不可能なのであって、主イエスにつながっていること、この大きな恵と神様の力を信じて、平和を祈っていきたいと思います。教会という神の家族の一人一人が、キリストの平和の福音を運ぶものとして世へ派遣されています。聖霊に助けて頂き、まずは自分の周りの人間関係から平和に向けて歩みだしていきましょう。
   

(引用 新共同訳聖書)
 


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