山羊は、吹雪の吹き込むボロ小屋で肺炎を起こして死んでしまった。
悲しくて、食事も喉を通らなかった。他の兄弟には分からなかっただろう。これは手塩にかけて育てた者でなければ分からないのだ。夜、布団の中で、気付かれないように泣いた。
そして、詩を書いた。『山羊の死』と言う題名だったと思う。
・・・死んだ山羊はどこへ行ったのか・・・。天へ上って星に成ったのだろう・・・。夜空を見上げている私に、瞬いて教えておくれ・・・。
といったような内容だったと思うが、中学生の書いたものだから、とても人様には見せられない。
とは思ったが、何しろ、その当時から自己顕示欲が強かったらしく、その詩を北中文芸に投稿したと記憶していた。だが、同級生だった故大竹不二夫くんが、札商高校の校長だった時、見せてくれた札商文芸にそれが載っていたのだ。つまり、北海から札商に編入して、作品を募集した時に、中学時代の作品を提出したと言う事である。
山羊といえば、忘れられない事件がある。それはまさに事件と呼ぶにふさわしい出来事だった。
朝、学校に行く前に、山羊を小屋から連れ出して、首輪に長い5mほどの鎖をつけて、川ぶちの草の生えているところへ、1mくらいの鉄棒を打ち込んで、鎖の先をつける。その半径内の草を食べられるわけだが、鉄棒の打ち込みが浅ければ、山羊の力であっちこっち引っ張っているうちに抜けてしまって、よその畑の作物を頂戴している事もあった。畑にニラなどがあったら、その乳はニラ臭くてとても飲めなかった。
夕方、学校から帰ってくる私の姿を見つけて、山羊君・・・じゃない山羊嬢はめえーめえーと鳴くのであった。全く泣かせる話だねえ・・・。
それまでに急に雨が降ったりすると、母が家へ連れて帰ってくれたが、山羊も急いで帰りたいらしく、凄い勢いで走り出すのだと、母が話していた。
で、その頃、母のすぐ下のナミコ叔母の一家が海外から引き上げてきて(叔父さんは砲兵隊の大尉だったが、戦死したので)、中島公園に臨時に作られた引き上げ者用の住宅に越してきていた。すぐ側に我が家があったので、従兄弟達が遊びにきた時に、その事件は起こった。
従兄弟達は、一番上の久男ちゃんが私と同い年で、その下に男、女、女、女と続いて、さらにその下にも二人できてしまって、女一人でそんなには育てられないという事で、下の二人は叔母のすぐ下の妹の寿天子叔母に貰われていった。
五人の従兄弟達が来た時、ちょうど山羊を小屋へ入れる時刻であったので、一同がぞろぞろと山羊を放牧?じゃなくて、繋いだ所へ行ったと思いねえ。
その時、その瞬間、二番目の演夫ちゃんが叫んだのだ!
『チンポ通せ!』
と。
いかに戦後すべての価値が変わったと言っても、雌の山羊にチンポがあるわけがないのだ!
で、この事件を翻訳すると・・・。
山羊は鎖を跨いでいた。だから、鎖が乳房に触れていた。で、勘違いした彼がいみじくも『チンポ通せ!』と叫んだのだ。
つまり、山羊が鎖をまたいでいて、鎖が乳房に触っているから、ちゃんと鎖を直せと、彼は言いたかったのである。乳房を陰茎と勘違いしたという事であります。
まあ言ってみれば知らないという事は往々にして、こんな結果を招くものだと言う、お粗末の一席でありました。
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