パイプの香り

昔のことを思い出しながら、こんな人生もあったのだ、ということを書いてみたい。じじの「自分史」ブログです。

昔、昔、或る所に・・・/その七

2005-12-22 09:10:14 | 自分史

 昭和20年の、小六の夏休みに敗戦(終戦ではない)となり、軍国主義を排除して、教科書はここもここもと墨汁で消して、勉強するところが無くなってしまった。
 で、西11丁目通りに面していたホップ畑にホップ摘みに行ったり、学校の倉庫からB4のザラ紙をリヤカーに積んで、先生の自宅へ運んだり、敗戦処理もいろいろあった。

 山鼻小学校の体育館に、明治天皇が馬車で行幸になった時の大きな絵が掲げてあったが、それが校歌に歌われていた。
「思えば明治15年/教えの庭に駒止めて・・・」
学校の前に大きな柏の木があって、立て札に『明治天皇お声がかりの柏』とあった。馬車で学校に乗付けた時、大きな木を見て「あの木の名は?」とか言われたのだろう。
 でも、この歌詞は現在は削除されていると、卒業50年の同期会の時に分かった。現在は二番の「朝な夕なに仰ぎ見る藻岩の山のなかぞらに・・・」から歌っていると言う事である。

 そう言えば、敗戦直後の春、兵隊さんに飲ませると言う事で、山に入り、板谷楓の樹液を採取したものだ。何の事はないメイプルシロップの原液で、一寸嘗めたらたいへん旨かった。

 翌年(昭和21年)三月、市立中学を受験したが、和男さんと仲良く落ちた。で、二次志望の北中(現・北海高校中等部)を受けに行った。
控え室には暖房もなく、外套やマントを着て震えていた。(マントは母が海軍の放出毛布を黒く染め替えてくれたが、元が国防色なので紫になった。)
控え室では同級生のI垣君の兄さん(野球部で二番二塁手)が世話役で、理科の試験問題は『滑車』だと教えてくれた。そのお陰か試験に成功。
和男さんは札商を受けて入った。

「北中よいとこ健児の出どこ/裏の藪から猛者がでるよ」(応援歌NO.1)
「天地を包む雪の色/その寂寞の夜は明けて/緑の大野見るごとく/闇より明けし北海の/空、光明の訪れよ」(校歌。土井晩翠だったかと思うが、重厚で荘重で、なかなか良い)

 敗戦の翌年だから、予科錬の生き残りが七つボタンに半長靴、訓練帽で校内を闊歩していた。先生方は戦時中には鉄拳で教育してきたから、今は立場が逆転し、こそこそと逃げ回っているようにさえ見えた。何と言っても、予科錬帰りは、死ぬ気で行って生きて帰ってきたのだから、天下に怖いもの無しであったのだ。

 一年生の中でも、体の大きいものは運動部の先輩が来て入部を強要した。野球部、陸上部、篭球部、排球部、弓道部、柔道部、相撲部、蹴球部、卓球部、庭球部、ホッケー部などなど。
私は細くて小さかったから、全然見向きもされなかった。

 小さいと言えば、戦後五年くらいたった頃、子供達が父に「親が小さいから我々も大きくなれない」と文句を言ったら、父は「五尺三寸(159cm)無かったから兵隊検査を通らず、戦争に行かずに済んだのだ。行ってたらお前達は生まれていなかったのだ」と言われて一同ギャフンとなってしまった。

 アイヌ犬ラムの小屋に鶏を飼って、里帰りしたラムが怒って鶏をやっつけた事は前述したが、その網の鶏小屋をさらに半分にして、山羊を飼ったのも戦後直ぐの事。もちろん雌で、父はその種付けに私を連れて行った。雄山羊は倍以上のデカイ体だったから、私の方が怖気づいてしまった。
 で、妊娠して子山羊を生むと、乳絞りと小屋の掃除が私の分担となった。
だが牛乳代わりの乳は匂いがきつく、弟達は嫌がって飲まなくなり、最後は私しか飲まなくなってしまった。
そして三年目の冬、山羊は肺炎を起こして死んでしまった。
ああ・・・。



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